第2話甲突川

 菊草さんと別れ長六橋から帰り、翌日、蚊取り和尚とタクシードライバーに橋のたもとでの出来事を話した。

 「菊草と言う娘であることは間違いありません。日本の歴史史上、巨大な偉人と呼ぶに相応しい西郷隆盛とアイカナと言う島の女性の間にできた子供です」

 和尚は先刻、そんなことは承知していると無視して、主観をのべた。

 「西郷が成仏できない理由も不明なままか」

 「彼女にも解らなかったのです」

 「言い訳など聞きたくない。とにかくこれでは解決したことにはならない」

 蚊取り和尚は、なおも責め続けた。  

 「中途半端すぎる。勉強不足だ。予備知識を持たないから、菊草さんがさまよう理由を探求できなかったのだ」と和尚は声高にやじった。

 屈辱に唇をかみしめた。

 タクシードライバーは厨房(ちゅうぼう)で仕事を続けていた。

 「中途半端のままで放置しておけば、どのような悪霊と結びつくかも知れない。あの河原は江戸時代の処刑場であったと言うのではないか。菊草さんの霊が悪霊に取り付いたら困ったことになる」

 それから数日後に黒衣の僧衣をまとった僧侶が橋の周辺を徘徊(はいかい)する姿を見掛けると言う噂を耳にした。蚊取り和尚ではないかと思ったが、近づかないことにした。

 それから二ヶ月ほどがすぎたころである。

 電話が鳴り響いた。

 「まあ和尚様。いつも主人がお世話になっています」

 受話器を取った妻が叫んだ。

 愚かな妻は姿の見えない和尚に二度三度と深々と頭を下げた。彼女の丁寧な態度を苦々しく思いながら眺めていた。

 蚊取り和尚ほど極端な二重人格者はこの世に存在しない。私以外の他人に対しては常識人を演じているが、正体は非常識な変人奇人である。過去に数度、彼女の蚊取り和尚に対する評価を変えようとしたが、不可能であった。

 哀れな妻がこれ以上、洗脳をされるのを防ぐには、受話器を取り上げるしかない。

 私の声を聞き付けると、和尚の声が急に荒々しく変わった。

 「サンチョ・パンサー。すぐに店に来い」

 彼はそれだけ言うと電話を切った。

  サンチョ・パンサーとは横柄な和尚が私に付けたあだ名である。彼は私をそのあだ名で呼んだ。

 実は、何を隠そう、私は奇妙な振る舞いが目立つ彼をドンキホーテのようだと思った。その直後に彼は私のことをサンチョ・パンサーと呼ぶようになった。以心伝心というべき現象であろう。 

 仕様がないので店に駆け付けた。

 「危ういところだったぞ」

 開口一番に彼は私は責めた。

 「悪霊たちが彼女の心に取り入りかけていた。悪霊の囲いの中から彼女を呼び戻すために二ヶ月もかかった。やっと昨夜、菊草に会えた」

 厳しい視線が私を突き刺した。

 「彼女の霊を慰めるに西郷に会わねばならない。君の不徹底が原因で、師匠の拙僧が尻ぬぐいするはめになったが、明日、鹿児島に行かねばならない」

 「どうしてですか」

 理由も分からなかった。

 「分からぬのか。菊草殿によれば西郷星が現れる日に父の魂も、この世によみがえるやも知れぬと言うのだ。もし、そうなれば大騒ぎになることは間違いない」

 「西郷星とは何ですか」

 「夏海先生も、ご存じなかったのですか。西郷星とは火星のことです。実は百三十年ほど前に田原坂で政府軍と西郷軍が激烈な戦いが繰り返していたころにも火星が赤々と輝いていたらしいのですよ。西郷の死を悼んだ人々が西郷は火星に行ったと言い、火星を西郷星と呼ぶようになったらしいのですよ」

 店奥の方からと和尚の配偶者になった女将が声を掛けてきて、丁寧に教えてくれた。

 「西郷隆盛だけではない。大久保利通も姿を現すやかもと菊草殿は語っていた」

 二人は竹馬の友であり、明治維新と言う大事業を成し遂げた盟友でもあった。ところが明治六年に遺韓論で袂を分けて西郷は鹿児島に戻り、明治十年の西南戦争で破れ自刃したのである。その二入が故郷の鹿児島で再会すると言うのである。これは歴史的な出来事である。

 「すべてお主が二ヶ月前に救い損ねた菊草殿が教えてくれた」と和尚は私を責めることを忘れなかった。何かを要求しようとする時の彼の常とう手段である。

 「あの時は、和尚も君が適任であると言った。それを今ころ私一人のせいにするとは卑怯ではないか」と彼を責めたが、この都合の悪い言葉は彼の耳に届かなかったようである。

 「サンチョ・パンサーが中途半端なことをしたせいだ。危うく菊草殿もめい界の化け物殿にかどわされかけ、み仏の救いを受けることもできず、永遠に地獄の苦しみを味わうことになるところだった」

 と言い彼は両手を合わせ合掌した。

 「拙僧が鹿児島まで行けば、西郷が成仏できずにいる理由を聞き出すことができるやも知れない。歴史的な偉人西郷をも救い出すことが出来るかも知れぬ。父上のことを心配し迷い続ける不憫な菊草さんの霊魂をも救うことになる。だが日帰りでは済むまい。経費も掛かる。困ったものだ。誰かが中途半端なことをするから、こんな始末の悪いことになってしまったのだ」

 彼は私に対する長い責めセリフをよどまずスラスラと流ちょうに喋った。

 小説の種になる面白い場面に出会えるかも知れないと思い損得勘定をするが出費の方がかさみそうである。

 「夏海君。君の作品は、世間で評判を上げているらしいな」

 敏感に他人の心を見抜く和尚は心の変化に気付いたようである。今度は小説の話題で攻めようと言う作戦に出たようである。

 「松本某と言う有名な推理小説家は西南戦争で西郷軍が発行した西郷札と言う軍票を扱った作品で注目を集めたはずだ。その後の彼は一気に才能を開花し世間に認められた。熊本から鹿児島までの汽車賃と一泊の旅館代だけでよい。たいした金額ではあるまい」

 今度は悪魔のように誘惑する作戦に出た。

 松本某と言う大作家の名前にあらがうことは出来ない。意を決した。

 「行きましょう」

 決して彼の浅はかな扇動に乗った訳ではない。深い熟慮の末である。

 「よし決まった。出発準備だ」と和尚は厨房に向かい叫んだ。声を掛けられたタクシードライバーは和尚の言葉が意味することが理解できずに、驚いてしまった。

 「お前が行かねば、錦江湾の鯛の仕入れの商談を取りまとめることができない」

 事情を理解できずぼう然としていた。

 「私まで夏海先生の御好意に甘えることは出来ません」

 タクシードライバーは遠慮がちに意見を述べた。

 和尚は私に旅費を負担させた上に、鹿児島で鯛の仕入れの仕事までさせようとしているらしい。ずうずうしいにもほどがある。縁のない遠い世界の出来事のようにぼう然と二人のやり取りを聞いていた。

 だが、ずうずうしい和尚と二人だけで旅に出掛けた時には、どのような目に遭うかも知れぬ。和尚との二人旅は生命をさえ危機にさらしかねない。彼との緩衝役として常識人のタクシードライバーには私の方が頭を下げてでも同行を依頼すべきではないか。それに気付くと私は和尚以上に熱心にタクシードライバーに同行を頼み始めた。

 慎み深いタクシードライバーも、最初は固持し続けたが、やっと同意してくれた。

 「明朝八時二十分の熊本駅発、西鹿児島駅到着予定時刻十時五十三分のつばめ一号で出掛けることにする」と和尚は宣言した。

 「事前研究は大事だ。予備知識があれば霊との交信に雲泥の差ができる。初対面でも相手に接するより、事前に相手に対する正確な情報があれば互いの相互理解も容易になる。とにかく明日は朝が早い。それに大人物に会うのだ。寝不足でそそうでも起こしたら大変だ」と言い、いつものように女将に肩に頭をあずけ、軽いいびきをかき始めた。

 つばめ一号の旅は快適であった。

 「西郷が成仏出来ぬのは、彼の晩年に原因があったのでしょうか」とタクシードライバーは私の同意を求めてきた。

 彼が言う西郷の晩年とは西南戦争のことである。西郷は望まないまま賊軍の長についた。

 「可能性は高いでしょう」

 「夏海先生は、色々、勉強しているから頼もしい」

 和尚の好ましくない性格を分析するのは骨が折れる仕事であるが、タクシードライバーの好ましい性格を表現するのも容易である。

 まず彼は正直で素直な人物である。しかも人を見る目も公平で正確である。

 彼に同行を求めたのは正しい判断だった。

 もし蚊取り和尚が同行していなければ、東海道膝栗毛の弥次さんと喜多さんのような絶妙な連れになっていたにちがいない。

 私は西郷隆盛について知ることをタクシードライバーに伝えた。

 「夏海先生から西郷隆盛の話を聞くと、彼が実在した人物でなかったように思います。。彼は実在せずに当時の人や後世の人々が作り上げた偶像ではなかったのでしょうか」

 タクシードライバーも私と同じ疑問を感じ始めたようである。

 蚊取り和尚が、突然、口を開いた。

 「サンチョ・パンサー、西郷隆盛は靖国神社に祭られていたかな」と和尚が突然、奇妙なことを聞いてきた。

 靖国神社は戊辰戦争で犠牲になった者たちの霊を弔うために明治天皇が創立した。それ以外のことは多くは知らない。

 タクシードライバーが助け船を出してくれた。

「西南の役で西郷は賊軍の長になったのですから祭られていないはずです」

 「彼が靖国神社に祭られていないことを恨み、成仏出来ぬとでも言いたいのですか。西郷の威徳をしのぶ神社は全国各地にあります」

 「成仏が出来ぬ理由は身近な者への情愛や愛憎に原因している例が多い」

 彼は勝手に幕引きをした、

 十時五十三分の定刻どおり西鹿児島駅に到着した。観光コースを参考にした経路を歩くことにした。最初に彼の生家跡を訪ねた。大木が光を遮る空き地がある。西郷隆盛の生誕地である。大久保が成長した土地も、すぐ南にある。二人は幼いころから無二の親友であった。

 幕末の島津家藩主の銅像が建ち並ぶ照国神社、西郷が自刃した城山の西郷洞くつ周辺、西郷と西南の役の従軍者を祭る南洲神社、石橋公園周辺を巡り、西郷の恩人である斉彬が最後の閲兵を行った天保山公園まで足を伸ばした。

 天保山公園で不思議な銅像を見た。松の幹の間にかみしも姿の老人の銅像が立っていた。調所広郷(笑左衛門)と言う人物の銅像である。無表情な銅像を見て、和尚は笑っているのか泣いているのかと分からぬとつぶやいた。タクシードライバーも和尚の感想に同意した。歩きながら二人が漏らした唯一の感想であった。銅像の建立台に刻まれた碑文のせいだ思った。


 歩き回った末に西郷が姿を現すのは鍛冶屋町にある彼の生誕地だろうと結論に達した。

夕やみが迫っていた。甲突川沿いの道をさかのぼり、西郷の生誕地に向かった。ビルの窓に明かりがともり、川面にも原色の影が漂い始めていた。和尚は数回、立ち止まり、後ろを振り返った。

 「誰かがつけてきているように感じたが」と小首を傾げた。

 高麗橋を渡った。

 川面を秋風がソヨソヨとなでていた。月は桜島の真上にさしかかり、赤い火星が月を追うように山陰から姿を現した。

 高麗橋も江戸時代に肥後の石工岩永光五郎らが建設したものである。彼を招いた鹿児島に招いたのは、天保山で銅像を見た調所笑左衛門と言う人物である。石橋は平成五年に鹿児島を襲った大水害で流され、今はコンクリートの橋に建て替えられている。

 「西郷星が出てきた。今夜は絶好の日だ」

 和尚が明るい空を見上げてつぶやいた。

心の中で念じ続けた。

 思いを込めて念じることで西郷が姿を現してくれると信じた。彼や幕末について調べたつもりである。

 彼が持ち合わせる求心力に薩摩藩士だけではなく土佐の坂本龍馬や幕臣の勝海舟が引き寄せられた。彼らの的確な助言は西郷を動かし、歴史的な事業を完成させた。

 「大きく叩けば大きく響き、小さく叩けば小さく響く。まるで鐘のような男だった」と坂本龍馬は西郷を評している。西郷の人間を的確に捉えた言葉であろう。

 「遺韓論に破れ西南戦争で自害することになったせいで成仏できず、さまよっているのか」

 征韓は韓国を征伐すると言う意味の言葉で、遺韓とは韓国に使者を送ると言う意味である。西郷が大久保と争い下野した明治六年の出来事を広くは明治六年の政変と言う。この政変の原因は維新政府と国交を開こうとしない韓国に西郷自らが使者として行き、韓国を開国させようと言うのである。一度は閣議決定もなされ、西郷を韓国に使者として派遣し韓国に国交再会を促すことに天皇も了解していた。ところが岩倉具視や大久保利通たち洋行組が帰国するとすべてが反故に帰された。西郷は韓国で死ぬつもりだ。韓国と戦端を開くために行くのだと言う話に飛躍してしまったのである。

 ところが最近では事実は異なっていたのではないかと言われ始めている。

 せめて彼の韓国行きを正確な言葉で表現しようと言うことで遺韓論と言うようになった。

 明治六年の政変の結果、岩倉具視、木戸孝允、大久保利通たちが西欧視察に出かけた二年ちかい月日を西郷とともに守った者たちが政府を去った。

 征韓論が国内で議論され始めたのは明治三年の頃であったらしい。明治新政府は韓国に国交を求める使者を派遣したが、韓国は拒絶した。

 表向きの理由は、その書状に使われた天皇と言う文字の「皇」と言う一文字のせいだと言われている。「皇」と言う文字が清の「皇帝」の「皇」と同じ文字だと言う理由である。韓国は清を中心とする冊封体制下にあった。冊封体制とは中国皇帝を頂点とする東アジアの支配体制であり、東アジアの国際秩序でもあった。

 韓国は日本を清と同等に扱うことが出来ないと言う理由で明治新政府との外交再会を断った。

 だが異なる見方もある。韓国の支配層は保守的であり、西欧化を進める明治新政府を軽蔑し、国交を拒絶したと言う説もある。

 日本は一八五三年の黒船来航がきっかけとなり尊皇攘夷運動が燃えさかる幕末を迎えた。そして国を挙げて西欧化を目指す明治政府を樹立した。西欧と対等に話をするためには西欧並みの軍事力と技術力を身につける必要があると信じたのである。

 東アジア全体の国々、すべてが、そうしなければ西欧諸国の東アジアへの進出を止めることができないと信じていたのである。

 それが明治維新の目的だった。人々の生活を豊かにするための革命でも、王侯貴族の手から国の主権を奪うための革命でもなかったのである。

 東アジアの大国、中国はすでに英国など西欧列国の国々の手で半植民地化をされている。まだ、西郷は外国の侵略を受けずに独立を守る韓国にも日本と同じ道を歩むように納得させることができると信じていたのである。

 私は闇の中で、自分に問い、そして自分に答えていた。

 明瞭な答えが返ってきた。

 「インドや東南アジアの国々は西洋列国の植民地となっている。一八四十年には、東アジアの大国も清もイギリスにアヘン戦争に破れ、主権を失いつつあった。韓国は中国と袂を分かち、日本と同じ近代化への道を道を歩むように説得するつもりだった」

 まるで隆盛がよみがえったように思えた。

 西郷が韓国へ使者として行くことを希望した理由は自らの命と引き替えに戦争の大義名分を得るためだと後世の人は言った。その根拠として引き合いに出されるのが西郷と大久保の会話のやりとりである。

 「おはんが韓国に出掛け命を落とすようなことになれば戦争になる」と大久保が西郷を詰め寄った。

 西郷は「命を捨てることも覚悟の上だ」と答えた。

 留守政府を預かった西郷は、現在で例えれば実質的な総理大臣の立場であった。維新がなったとは言え不安定である。彼が居なければ、いつ転覆してもおかしくない危うさが続いていた。

 大久保の不安は西郷に万が一のことがあれば、維新政府の危機を感じてのことでもあったろう。

 時が経つつれ、大久保と西郷の親友同士の間の個人的やり取りと思われる会話が一人歩きしてしまった。背景も忘れ去られてしまい、国のためなら命も惜しまない言う悪意のない美談として広く伝えられ時代の人々に使われ、時代が変わると、この美談が韓国征伐を西郷が企てたと言う悪意のあるものと変わった。

 不平士族の不満のはけ口としての韓国征伐を位置づけようとする考えもあるが。これは戦国時代の豊臣秀吉と同じ無謀すぎる考えでなかったか。薩摩藩の歴史の中で秀吉の朝鮮征伐は長く語り継がれている。西郷が頭角を現すきっかけになった子息訓育の場であるニセ組と言う青年団組織も秀吉の朝鮮征伐の時の体験から始められている。亭主が出兵し留守になった家の女房に夜這いをしかける不届き若者が現れたと言う理由から始まった。

 西欧に対抗するために新国家を成立させた。体制も定まらない日本が韓国と戦いを始め、長く拘束されることが、どれだけ危険なことか思慮深い西郷に解からぬはずはない。

 西郷も人の子である。迷いや苦悩もあった。特に薩摩藩主忠義の父である久光との間の亀裂を深刻であった。留守政府を守る間、彼が目にしたのは長州閥のおごりと腐敗だった。腐敗や不正義は西郷がもっとも嫌うことだった。だが彼は許すしかなかった。すべてを投げ出したくなったこともあったろう。それが大久保の激論の場で噴出した場面を想像できる。

 西郷は自らが使者として韓国に行けば、交渉を成功させる自信があった。修羅場は幾多も体験したが、交渉で乗り切ってきた。

 だが西郷が韓国に出掛けることに反対する大久保らは西郷の過信だと判断し、信じることができない。西郷が行けば必ず殺されると信じて疑わない。

 議論の相異はこの一点に絞られる。

 大久保の判断が正しいかったのか、西郷の判断が正しかったのかは、当時の韓国の情勢から判断するしかあるまい。

 西郷が韓国に行き交渉が成功し、韓国、日本が歩調を合わせ近代化を進め、それに中国を加わわり、西欧列国と対等な軍事力と技術力を手にし、東アジアの秩序を回復する。歴史は変わっていたかも知れない。アジア全土を巻き込んで不幸な戦争も起きなかったかも知れない。

 これは夢物語であろうか。

 私が、この点にこだわり始めたのには理由がある。

 横山安武と言う西郷より十四才も年下の人物の存在である。彼は後に文部大臣を務める森有礼の実兄である。中央政府に諫言を残し、集議院の正門に残し割腹自殺したのであるが、彼の諫言がやがて明治四年に西郷に中央政界へ復帰を決心させた。彼はもちろん薩摩藩の藩士でもある。彼は中央政府への諫言は残して自刃したのである。

 諫言の内容は大きく二つである。

 一つは中央政府に勤める者の腐敗と堕落に対する批判である。もう一つは明治三年頃に日本を騒がせた征韓論に対する批判である。 征韓論に対する批判は国書受け取りを拒否する韓国を兵を挙げて叩こうとする征韓論者への激烈に批判するものである。明治三年のころから征韓論はあったのである。概要は次のとおりである。

 「韓国を征伐しようと言う議論が世間が巻き起こっているが、このような議論が世間で起きることを嘆かわしい。兵を動かすには大義名分が必要である。特に外国への兵の派兵は、大義名分なしでは大勝利を得たとしても、天下や後世から非難をされることは免れない。韓国は、本当に我が日本に非礼なことを行ったか。韓国を小国と侮り、大義名分のない戦争を起こそうとしているのではないのか。北海道開拓でさえアイヌ人の恨みを多く買っている」

 横山は集議院の門前で割腹自殺を遂げた。西郷は彼の死を斉彬を失った時と同じように嘆き悲しんだという。


 「西郷は大久保とのことを気にしているのだろうか」

 タクシードライバーの声で私は妄想の世界から引きずりされた。

 「それもあるでしょう。大久保も明治六年の征韓論に始まる政争が西南戦争を招き、西郷の命を奪うことになるとは予想もしなかったはずです」と私は答えた。

 突然、蚊取り和尚が言葉をはさんだ。

 「笑左衛門と言う男が後をつけて来たような気がする。お主には笑左衛門が招いた肥後の石工岩永光五郎が取り憑いているような気がする」と私に和尚は言った。

 笑左衛門と言う人物は天保山の松林の中で見た銅像の主である。

 和尚の言葉に思わず身震いした。

 「それは悪霊ですか」

 「悪霊になるいか守護神になるか、お主しだいだ」

 「心当たりがあるのですか。夏海先生」

 タクシードライバーも気になるらしい。

 私は頭を縦に振った。

 「歴史と無縁と言えない。自己の歴史、家族の歴史、職場の歴史、国の歴史。有機的に絡み会い個人を束縛するものだ。歴史のうねりと無縁に生きることはできない」

 そう言うと和尚は無言に戻った。


 深夜をなると街の真ん中とは言え、周囲を走る車も少なくなり、騒音も途絶えがちになった。

 川面を照らすネオンのあかりもポツリポツリと消えて闇の間隙が広がり始める。

 川面をなでるように錦江湾から優しい一陣の風が吹き込んで来る。

 水面に無数の小さな三角波が立った。

 屋敷跡の木の葉が風に揺れたように見えた。和尚が三名の真ん中に座るタクシードライバーのわき腹を突いた。

 やみの中に現れたのは、期待に反し小さな子供の姿である。粗末なかすりの着物を身にまとっている。彼はうつむいて地面を見回し、捜し物をしているようである。

 「どこに埋めたか思い出せない」

 幕府のおん密から藩の秘密を守るために頑固に守られ続けた薩摩方言である。

 「早う捜さんと、正助が来る」と言いながら、庭中を探し回っている。

 「正助とは大久保利通の幼名です」と私は小声で二人に知らせた。

 「彼は誰だ」

 和尚が聞いた。

 「吉之助ではないか」と思います。

 吉之助とは西郷隆盛の幼名である。

 差し込む月明かりに身をさらけ出すと、彼の姿は大人の姿に変じた。上野の銅像や鹿児島の美術館前の銅像の姿になる。

 子供の頃の姿で現れた姿を見て、和尚が言った。

 「一番、印象に残った時期だからであろう」

 「従道が、こんなぜい沢な岩をよこすものだから、ますます分からん」と言いながら、吉之助は庭中を探し回っている。

 従道とは西郷の弟である。兄思いの従道が東京の屋敷の庭石にしようと全国から名石を集めたが、使う機会はないまま今は生家の一角に置いてある。

 和尚が私に西郷の生まれた西暦年を尋ねた。

 「一八二七年(文政十年)の生まれです」と答えた。

 「み仏が教えた計算方法では西郷は何歳になる」と和尚は、今度は隣のタクシードライバーに尋ねた。

 「今年は西暦二千四年です。一七二八年に彼は0才でした。生きていれば一八八七年に六十才の還暦を迎えた。それから毎年若返り、一九四七年に0才に戻り、ふたたび生まれ変わり、二千四年後の今年には五十八才になっているはずです」

 とタクシードライバーは奇妙な計算をして和尚に答えた。

 「五十八歳か彼も老いを感じる時期だ。それに彼が逝った一八七七年からは百数年の年月も経過している」

 生命の輪廻(りんね)を教えた釈迦(しゃか)は六十歳の還暦を節目にして魂は若返り、やがて子供に戻ると教えた。これは他界しても永遠に繰り返されると二人は信じているようである。

 不思議であるが、生命は経過年数は時間と同じく六十進法で数えるものらしい。

 「月光に当たると、西郷の姿が大人に変化します」と質問を投げ掛けた。

 「自分には大人の姿にしか見えない。先入観のせいだ。それこそ色即是空だ」

 「見つからない。もうすぐ来る。謝るしかないか」

 タクシードライバーが私のそでを引き視線を川下の方に誘った。

 「吉之助兄さんを待たしたらいかん。約束の時間を過ぎてしまった」と叫びながら目の前の子供より一回り小さい男の子が高麗橋を渡り、駆けつけて来た。

 彼は吉之助より小さくやせている。

 「正助がやって来た」

 小声でささいていた。

 正助は捜し物をする吉之助の背後に立った。

 「吉之助兄さん」

 背後から声を掛けられて吉之助は慌てて背を伸ばし振り返った。

 「役者がそろったようだな。菊草さんの話したとおりだ」と和尚は満足した。

 「お主に渡し損ねた物があった。それを捜している」

 「何を渡すつもりだったのですか」

 「今日のために用意していたものだが、思い出せない。庭に埋めていたような気もするし、そうでもなかったかも知れない。思い出せない」

 吉之助は困り果てている。

 「兄さんからこれ以上は頂く物はないはずだ」

 「とにかく気に掛かる。渡し損ねたものを思い出さないうちは落ち着かぬ。しばらく時間をくれ」

 「このような時は、順番に時を追い、思い出していけば思い出せるでしょう」

 吉之助は正助の助言に従った。

 「お主と自分は兄弟以上の関係だった」

 正助は相づちを打った。

 「川向こうの高麗町から河を渡り、引っ越して来て以来、甲突川で魚を捕り河原で相撲を取り大きくなった」

 大久保は甲突川を隔てた高麗町の生まれだった。幼いころに吉之助の家と軒を一軒隔てた所に引っ越して来たのである。彼は吉之助より城下から遠い土地の生まれである。なにしろ身分や家柄、出身地に強いこだわり持つ封建時代のことである。城から遠いと言うことで加治屋町に引っ越しても、正助は周囲の少年からさげすまれる日々が続いた。大成した後も大久保は自らの雅号を「甲東(こうとう)」と称した。この雅号は彼は吉之助らと同じ甲突川の東に位置する加冶屋町で育ったことを主張するために用いたと伝えられている。

 「いつも自分をかばってくれた」

 「お互い様だ」と吉之助が言葉を返した。

 一八四九年(嘉永二年)、西郷が二十三歳になり、大久保が十九歳になった時に、お由羅騒動という藩を揺るがす騒動が起きた。二七代藩主斉興の側室であるお由羅が自らの子久光に跡を継がせるために斉彬を亡き者にしようと呪詛していると言ううわさが広がったのである。このうわさが切っ掛けになり、お由羅一派の者を暗殺してしまおうと、斉彬を藩主にと望む者たちが企てたのである。この計画が事前に発覚し、斉興は斉彬を支持する者たちを粛正したのである。大久保の父も騒動に連座し島に流された。息子の大久保も職を謹慎処分となり、家族は収入の道を断たれてしまった。西郷の父が仕えていた赤松と言う男も切腹し、若い西郷も赤松が身につけていた血染めの白装束を父から見せられ、衝撃を受けた。この苦難の時代を西郷家と大久保家は互いに支え合い生き抜いてきたのである。

 「騒動から四年間、餓死せず生き延びることが出来たのは兄さん家族のお陰だ」

 「あの頃のことではない。忘れ物をした時期でも思い出すことが出来れば」

 斉彬派の彼らが待ち望んだ斉彬が藩主になったのは一八五一年のことである。彼が藩主になり、四年後の二十八才になった時に西郷は御庭番という斉彬の側近に抜てきされた。御庭番とは藩主斉彬とじかに話ができる立場であった。斉彬が没する一八五八年までの四年間、西郷は斉彬から薫陶を受けることになるのである。

 当時、斉彬は一橋慶喜を十三代将軍家定の後の将軍にするため越前藩主の松平春嶽や宇和島藩主の伊達宗城、土佐藩主の山内容堂らとともに活発な工作を行っている。西郷は斉彬の手足となり、彼らの間を奔走するのである。そして各藩の開明的な藩士との交流を深めるのである。この人脈が彼を歴史の表舞台に引き戻すことになった。

 ところが西郷が三十二才になった時に斉彬が急死してしまう。

 その二ヶ月後の九月には十三代将軍家定の後を継いだのは斉彬らが望んだ一橋慶喜ではなく、紀州藩主の十三才になったばかりの幼い家茂であった。井伊直弼は安政の大獄を起こし、将軍継嗣に慶喜を推した人物たちに迫害を加えることになるのである。越前藩主松平春嶽は隠居・謹慎を命じられ、慶喜の実父であった水戸斉昭も水戸に永ちっ居を幕府から命じられた。

 斉彬の突然の死には暗殺説は流れた。

 現在では天保山で閲兵中に飲んだ水のせいだと伝えられている。彼の死は薩摩藩にとっては都合の良い出来事だったとも言える。

 西郷は安政の大獄の迫害を逃れるために奄美大島に身を隠すことになる。そこで三年間を幕府の目を逃れ隠れ住むことになったのである。

 ちっ居生活の間に、アイカナと言う娘との間に長男の菊次郎と長女の菊草を授かっているのである。

 一八六二年に公武合体を実現しようと藩主忠義の父久光が京都に上る時に斉彬時代に江戸や京都で活躍した西郷が必要であると言うことで西郷は島から鹿児島へ帰るのを許されたのである。西郷は三十五才になっていた。この働きかけを久光にしたのは大久保利通であった。

 大久保は久光に近付くために碁を覚えるなど手段を尽くし、この機会を待っていたのである。

 久光は藩主ではない。彼は斉彬の跡を継いだ二十九代藩主忠義の父である。二十八代藩主斉彬の弟でもある。斉彬には子供がいなかった。当然、彼が斉彬の跡を継ぎ藩主の地位に就くこともありえたが、数年前にはお由良騒動もあり、息子を藩主にし、藩主の父親であるから自らを国父と呼ばせた。

 久光の目的は公武合体を進め、幕府を助けることであったが、彼が尊皇攘夷のために入京すると誤解した過激な志士たちが続々と京都に集まり、京都は争乱状態に陥った。

 薩摩藩の中でも過激な藩士たちも久光の京都到着を前に決起しようと計画をした。

 西郷は過激な藩士を鎮めるために下関で待てと言う久光の指示を無視して、京都まで足を延ばし、彼らの動きを鎮撫(ちんぶ)しようとしたのであるが、失敗し 久光の指示で多く同志が寺田屋で粛正された。彼らを鎮撫しようとした西郷も、逆に彼らを扇動したとざん言され、今度は罪人として沖永良部に流され、今度は獄舎に繋がれてしまうのである。

 「あの時は危なかった。久光殿は真剣に吉之助兄さんを亡き者にしようとした」

 正助が漏らした。

 西郷を島から呼び戻すために奔走した大久保も弱気になり二人で死のうと申し出たと伝えられている。

 西郷が許されるのは一年半後の一八六四年(元治元年)の一月のことである。今度は京都の政局が彼を必要とした。一八六三年に会津藩と共同し尊皇攘夷の急先鋒を走る長州藩を京都から追い出したが、京都の治安は回復せず、薩摩藩の評判も地に落ちてしまった。同時期に薩摩藩は薩英戦争と呼ばれる英国との戦争で大損害を受け、猫の手を借りたいほど忙しい時期であった。

 久光は保守的な男だった。西郷とは本質的に合わない気性である。久光は渋々、西郷が二度薩摩に帰るのを許した。

 西郷は沖永良部の獄舎から解放されて半年後の七月には薩摩兵を率い京にいた。そして会津藩とともに蛤御門から御所になだれ込み天皇に近づこうとする長州兵を京都から追い出した。その直後に第一次長州征伐で参謀として従軍している。彼の運命を変えたのは、その最中に幕臣である勝海舟との出会いであった。幕臣である勝は西郷に外国の勢力が目前に迫っている今、国内で戦を避けるべきだと意見を述べている。西郷は勝の意見に耳を傾け、長州藩の家老を首をはねると言う処置だけで兵を引き揚げてしまった。

 この一八六四年と言う年は長州藩には危機的な年であった。七月に禁門の変に破れ、八月にはフランスなど西欧四カ国の砲撃を受け、藩領に上陸を許している。そして第一次長州征伐を受けているのである。

 西郷のあっ旋で家老数名の命を差し出すことで全面的な戦争は回避でき、藩の滅亡は免れた。

 ところが長州藩領では征長軍が撤退するのを待っていたように高杉晋作らが挙兵し、翌年の一八六五年二月に過激な尊皇攘夷派が藩の主導権を取り戻してしまうのである。それに激怒した幕府は再び長州征伐を布告するが、薩摩藩は参加を拒否した。そればかりではない。坂本龍馬の仲介で翌年の一月にひそかに薩長同盟を締結し倒幕の準備を始めるのである。

 薩摩藩は長崎の政商グラバーから長州藩に鉄砲のあっ旋をしている。

 結局、幕府の呼びかけで行われた一八六六年の第二次長州征伐も失敗し、幕府側の権威は失墜する。

 一八六七年(慶応三年)十月、慶喜は大政を天皇に返した。これで討幕運動は治まるはずだと公武合体派は目論んだ。ところが翌年、一月には西郷や大久保は王政復古の大号令を画策し、錦の御旗を掲げて江戸に攻め上るのである。戊辰戦争の開始である。西郷は四十一才になっていた。三月には江戸城の無血開城。

 翌年一八六九年(明治二年)五月に函館の五稜郭が落ち、戊辰戦争は終わる。戊辰戦争が終わると、西郷は兵を率いて薩摩に帰ってしまったのである。

 彼が再び歴史に登場するのは、三年後の一八七一年(明治四年)の二月のことである。

 彼は薩摩兵を率いて上京し廃藩置県に立ち会うのである。

 一九七一年(明治四年)、七月には廃藩置県を公布され封建制度は事実上、崩壊し、天皇を中心とする中央主権国家が誕生した。

 各地方の県知事に中央から派遣された人物が就任し、旧藩主は華族となり東京に住むことになるのである。この時、実質的な革命が完了したことになる。流血を伴う革命を経て絶対王政から近代国家へと脱皮した西欧列国の人々には奇跡的な出来事に映ったらしい。

 明治新政府には統一された軍隊も整備をされておらず、頼りの軍事力は薩摩藩、長州藩、土佐藩の三藩から差し出された寄せ集めだった。西郷はそれらの軍隊を束ねていたのである。


 西郷や大久保の行動が藩主忠義や久光の意向に添うものであるか疑問点が残る。

 久光は明治政府にも不満を抱き続けた。

 西郷が東京に率い行った薩摩兵の保護のもと新政府が明治四年に廃藩置県を公布した夜、彼は磯の別邸で一晩中花火を打ち上げさせ憂さを晴らした。そして生涯、久光は西郷や大久保にだまされたと言い続けた。

 廃藩置県後からの明治六年まで約二年間、西郷はの留守政府の首班として国内政治を預かるのである。この留守政府は日本の近代化を予想させる多くのことを成し遂げている。

 警視庁の前身になる東京府邏卒の採用。藩を潰して出来た各県に府県裁判所の設置。国立銀行の設立準備。学制の発布。田畑永代売買解禁。散髪廃刀の自由。切り捨て・仇討ちの禁止。キリスト教の解禁。人身売買禁止令の発布。華士族と平民の結婚許可。太陽暦の採用。徴兵令の布告。地租改正の布告などである。

 廃藩置県後の具体的な近代化への一歩がこの留守政府により始められた。

 征韓論争の発端は西郷隆盛の朝鮮使節派遣問題であると云われているが、真実とは言い難い一面を持っている。この政変は司法卿江藤新平の厳しい腐敗追及で窮地に追い詰められた長州閥の起死回生を画した伊藤博文が画策したものと云われている。彼は大久保利通を抱き込み、見事、成功したと言われている。伊藤博文の狙いは江藤の追放であった。 洋行組は西郷たちの西郷たち留守政府の仕事に嫉妬し、彼らを追放するために征韓論争を利用した。

 

 「その頃のことか」

 正助の声は暗い。彼も、その時のことは思い出したくないのである。

 吉之助は頭を横に振り違うと答えた。

 明治六年の政変に破れ鹿児島に帰った西郷は私学校を設立し若い藩士の育成に力を入れるとともに、山野を歩き猟を楽しむ日々を過ごした。

 「自分が鹿児島にいる間は久光公も戊辰戦争でともに働いた兵たちも落ち着いてくれると信じていた。彼らの怒りも不満も収まる日も来ようと信じていた」

 「思慮深い兄さんのことだ。信じるべきだった」

 正助は吉之助の言葉に応えた。

 最近、文人画家の平野五岳と言う人物が描いたと西郷隆盛の肖像画が発見された。彼はじかに西郷に会い肖像画を書いたと云われている。紋付き羽織姿で深いしわが刻まれた西郷の風貌は勇ましく荒々しくもない。思慮深く冷静な政治家の風貌である。

 一九七七年(明治十年)二月、西南戦争が起きた。切っ掛けは政府軍が火薬庫から弾薬を運び出そうとしたせいだとも言われる。

 猟の途中の山奥で耳にした西郷は、「しもうた」と発したと伝えられている。

 「政府に問い質したいことがある」と言う大義を掲げ、兵を率いて鹿児島を発ったのは、二月の雪の降る日だった。

 「青年たちの血気を無理に押さえつければみずからの求心力を失う。暴れ馬の手綱を取るために暴れ馬にまたがるしかなかった。自ら腹を切ることも考えた。これも天下に火を放つことになる。考えは浮かばず、政府に問いただしたいことがあると大義を掲げ鹿児島を発ったのだ」

 西郷の脳裏をよぎったのは彼を育てた恩人斉彬のことである。斉彬は二十年前の一八五八年(安政五年)に安政の大獄で一橋慶喜を将軍に推した者たちに弾圧を加える井伊直弼に抗議するために五千名の兵を率いて江戸に上ろうとした。西郷は斉彬と同じことを繰り返そうとしていた。

 西郷の死を知った大久保の部屋には一晩中、灯りがついていた。

 大久保も西郷が自刃した八ヶ月後の明治十一年五月に東京の紀尾井坂で暗殺された。四十九歳だった。

 「自分が西郷と袂を分けたことで語ることはない。争ったこともない。彼は使者として自分を韓国へ派遣せよと繰り返すばかりで、なら勝手にしろ言うような物別れであった。もともと西郷は自分の尊敬する友であり、信ずることが出来る友だった。個人的な気持ちでは彼と相争いたくなかった。西郷と崖の上で格闘し、ともに崖の下に落下して自らの脳髄が破裂する夢を見た」と語っている。

 大久保が見た夢は正夢だった。

 夢の暗示とおり、彼は西郷を敬慕する暗殺者の刃で頭蓋骨を割られて死んだ。


 「すべて終わったことだ」

 正助の顔も曇った。

 二人の脳裏に不吉な思いが走った。

 「ヒエモントリ」

 下級藩士の間で続けられていたゲームである。ヒエモンとは人間の肝臓であろう。処刑されたばかりの人の内蔵からつかみ出し、奪い合うのである。青年たちに蛮勇を育てるためのゲームである。人間の生命の無意味さを教えるゲームであった。

相反する感情を伝える場所もある。

 鹿児島市内を走る路面電車に涙橋と言う停車場がある。橋の名前の由来は、処刑をされるために刑場に向かう犯罪者と家族が最後の別れに涙を流した場所と伝えられている。

 「あの最後の戦もヒエモントリのように無意味なゲームだったのではないか」

 「もうよい。昔に戻ろう。甲突川のほとりで水遊びをしたころに戻ろう」

 西郷とのいさかいが元で大久保は長く故郷に帰ることを許されなかった。この言葉が吉之助の正助への贈り物だった。

 一陣の風が吹き、空をおおう楠の木を青葉をかき分けた。月明かりが屋敷跡の空き地に降りそそぐ瞬間に二人は姿は屋敷跡から消えていた。遠くで鶏がときの声を上げた。始発の路面電車が音を響かせ走り抜けた。

 線路を見下ろすように立つ大久保利通の銅像は冷たく空虚な造形物に過ぎなかった。一夜明けたと彼の像はフロックコートを風の中になびかせ朝日の中に立つ生きた姿に変わっていた。

 橋の欄干を飾る水遊びをする子供たちの彫像も、彼らを見守る優しい母親の彫像もみずみずしく輝いていた。

 昨夜のうちに、それらの像にも魂が戻ったようである。

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