第2話 みゃあ

真美が生田のことを知ったのは、中学に入って最初の理科の授業の時だ。

ボサボサで切りそろえてもいない髪に、ビンの底みたいな大きいメガネ。着ている白衣は、汚れてもはや白と言えない部分も見えた。

およそ見目麗しいとは言いづらいその外見は、異性として決定的に魅力を欠いていると言えた。

授業もつまらなかった。ボソボソと呟くような生田の声は、教室の後ろの方には決して届かなかったし、聞こえたとしてもその内容は教科書を読み上げているだけの単純なもの。

そうして付属のテキストを印刷して問題を出す、面白みというものからかけ離れた、無味乾燥な授業だった。

そういった無愛想で無機質な態度を見せる生田が、学生時代に生物を選考していたのだと知った時に真美が持った感想は、"どうせ生き物のことを実験動物としか思ってないんだ"という、極めて偏見に満ちたものに寄った。

動物の命を軽んじる、悪逆非道な人非人。それが、真美が生田に対して抱いた第一印象だった。

真美が生物の授業を毛嫌いし、憂鬱に思ってしまうのも無理はなかった。

そんな最悪とも言える生田の印象が変わったのは、その年の夏のこと……今から時間にして、ちょうど一年前のことだった。





*





中学に上がってから、真美の通学距離は大きく伸びた。学校と自宅の間に大きくはないながらも川があり、その川を渡る橋が、ちょうど都合の悪いところにかかっていたからだ。

大きく遠回りをして橋を渡り、そこから戻って学校へと通う必要があった。

真美の通学時間は30分を越える。だというのに、直線距離にして20分に満たないその距離は、真美から自転車通学の選択肢を奪った。

最初はただただ面倒だなと思っていた真美だが、通学を始めてひと月が経った頃に意識が変わった。

5月に入って、春には見られなかった河川敷の草木が、鮮やかに生い茂り始めたからだ。

あんなところに草が生えるものなのか。あの右の奥の方の茂みは、あんなに大きく青かっただろうか。

それに気づいてから、真美は毎日橋の上を通るのが楽しみになった。

左手に見えるなんだかの木は、いつ頃花をつけるのだろう。川原で犬の散歩をしているらしいおばさんは、今日も犬を抱いて歩いている。あれでは自分の散歩にしかならないじゃないか。

景色の変遷を楽しむという情緒を覚えた真美は、登校時間がさらに長くなるのも厭わずに、毎朝橋の上で数分を過ごすようになった。

そんな日々を過ごしていた真美だから、きっと気づけたのだろう。

5月の終わり。ひまわりが花をつけようと首をもたげ始めていた、そんな頃だ。

いつものように橋の上で穏やかなひと時をすごしていた真美の耳に、か細く弱弱しい泣き声が届いてきたのは。


「ん……?」


真美は始め気のせいかと思った。橋の上には通学や通勤の往来がある。

その喧騒に紛れてしまうほどの小さな声は、しかし断続的に何度か聞こえてきた。


「どこからだろ、これ」


真美は音の出所を探して、橋の上を行ったり来たりした。

橋を進むと声が聞こえなくなったので、真美は引き返して、家に近い側の河原にあたりをつける。

幸い垣根のようなものはなく、河原に降りるのは難しくなかった。

きつめの傾斜を踏み外さないように注意しながら、真美はゆっくりと降りていく。

蚊の鳴くような声は、だいぶ大きくなってきている。

どうやら橋の下から聞こえてきているようだ。

そう大きくもない橋だが、橋の下には、橋げたから円柱が三つ生えて、向こう側が見えるような簡素な橋脚が一つあった。

真美は河原に降りると、橋の下へと歩み寄った。そこには日光を遮られた、薄暗い空間が広がるばかりだった。

光が届かないせいだろう、橋の下の草は元気がなく、土の上にはごろごろと野放図なままに石が転がっている。

整備されていない河原は歩きづらい。自分の足元に気を遣いながら、真美は聞こえてくる鳴き声に耳を傾けた。

河原に降りて一層大きくなった鳴き声は、どうやら子猫のようだ。高く細く、縋るものを探すように悲しげな響きは、真美の胸に哀愁を抱かせる。

早く見つけてあげなければと、焦りを覚えた真美は、自分の足元への注意がおろそかになってしまった。


「わっ!」


その時ちょうど折り悪く、真美のつま先が大きめの石をとらえた。想定外の障害に対処できず、真美の上体がつんのめる。

必死に手をばたつかせてバランスをとろうとするが、筋肉で空気を弾くようなことができるはずもなく、真美の体は地面に倒れ込んだ。


「ったー……」


とっさに手をついて顔をかばったのはいいものの、地面から突き出る石にまともな用意もなくぶつかってしまった。

ついた手に力を込め、上体を起こす。それだけのことで手に痛みが走った。

顔をしかめながら、真美は立ち上がった。手を払い、膝を払う。ところどころ血が出ていた。


「やっちゃったぁ」


真美は左手で制服についた土を払いながら、右手をスカートのポケットに突っ込み、ハンカチを取り出した。

ハンカチで手についた血を拭う。幸い大きな怪我ではないようで、血はすぐに止まった。

同じようにして膝も拭い、真美はハンカチを内側に畳み込んでからポケットにしまい直した。

学校にも行かずにこんなところで転んで、なんだかカッコ悪いなと考えてから、自分が何をしにこんなところに来たのか、その目的を思い出す。


「そうだ、猫!」


鳴き声はまだ聞こえていた。しかしなんだか先ほどより細く、弱くなっている気がする。

きょろきょろと真美が周囲に目を配ると、橋の付け根の草影に、もぞもぞと動くものが見えた。

つい走り出しそうになって膝が痛み、真美は足取りを緩める。逸る気持ちを抑えながら、その動くものに近づいていった。

橋の付け根を目の前にして、真美はようやくそこに何か黒い生き物がいるのを目にした。

背を伸ばし始めた草影に隠れながら、その体をちらほらと見せている。真美はしゃがんで草をかきわけた。

小さな体に似合わず大きな声で鳴くその生き物は、真美の推測した通り子猫のようだった。

子猫はぷるぷると震えながら、何かを探すように首をあちらこちらへ動かしている。

その様子が見ていられなくて、真美は手を伸ばした。伸ばしてから触っても大丈夫なものかと判断に困り、少し中空をさまよわせる。

しかし手の先で声を上げて震える生き物に、真美の迷いは押し流された。壊してしまわないようにそっと伸ばした指先が、子猫の目に留まったようだ。

子猫は鳴き声を上げるのをやめ、差し出された真美の指先をちゅぱちゅぱと吸った。

それがとどめだった。

その日真美は、中学に上がって初めて学校に遅刻した。

仮病を使ってまで一度家に帰り、子猫のためにミルクの作り方を調べ、子猫のために家にある段ボールとタオルを漁って家を作り、両親が仕事で家を空けると橋の下に足を運んで子猫の世話をした。

子猫にミルクをあげるのに、真美はとても苦労した。はじめはお盆にミルクを出して子猫に差し出したが、子猫はミルクに顔をつけて飲もうとするので、鼻からも吸い込んでしまってしょっちゅうケンケンと咳をした。

真美は何度か子猫の顔を拭いてあげると、子猫の自主性に任せるをの諦めて、念のために用意したスポイトにミルクを吸い上げ、子猫を抱き上げて直接ミルクを飲ませた。

ようやくミルクにありついた子猫は何度かゲップをして、ぷるぷると震えて肛門から排泄しようとする。

しかしそれも上手にできないようで、真美はティッシュを湿らせてお尻を拭いてやって、子猫の排泄を手伝った。

ようやく子猫が眠って、真美が後ろ髪を引かれながら学校へと歩き出したのは、お昼も近づいた頃のことであった。





*





真美が子猫を見つけて、橋の下に通い詰めるようになって、真美の登校時間は著しく伸長された。

真美が朝、家を出る時間が30分早くなった。

放課後は門限があるので、あまり遅くは帰れない。子猫と触れ合う時間は短ければ5分を切った。

しかしその分、真美が夕飯の後、ランニングと称して外出することが増えた。ほぼ毎日と言っていい。

真美は子猫に「みゃあ」と名付けた。鳴き声の音をそのままに付けた、とても安直な名前だったが、真美は気に入っていた。

真美は自分のおやつを我慢してみゃあのミルク代を工面した。友達から「最近付き合い悪くね?」と言われるようになった。

「男か~?」とからかってくる友達に、「そんなんじゃないよ」と笑って返したが、猫の世話をしているとは言い出せなかった。

不思議と親猫を見かけることは一度もなかった。子猫を産み落とし、捨ててしまったのだろうか。一匹だけそこにいたというのは、この子だけを選んで捨てたということなのだろうか。

そうではないかもしれない。ひょっとしたら親猫がどこかに出かけている最中、事故にでも遭って死んでしまったのかもしれない。

事実は分からない。真美に分かったのは、この子猫が自分を頼りにしないと生きていけない、小さな小さな生き物なのだということだけだった。

みゃあは真美が世話を始めてから一週間ほどで歩き始めた。

初めてみゃあが自分の足で立った時の感動は言葉では言い表せない。自分の手の中でただ震えるしかなかったみゃあが、四本の脚で立ち、歩く姿は、真美の涙腺を強く刺激した。

しかし次の日、真美が橋の下を訪れた際、みゃあが小屋にいなかった時には、真美はとても肝を冷やした。

幸いさほど遠くないところで背の高い草にじゃれついていたが、誰かに連れ去られたのかとか、大きい動物に襲われたのではとか、真美はとにかく悪い方向にばかり想像を巡らせていた。

だから、友達に話せなかったのは、友達を信用していないわけではなく……ただ、この子を独占したかっただけなんだと言うのは、橋の下に姿を見かけない日が増えたあたりで、初めて気づいた。

真美がそろそろみゃあの引き取り先について真面目に考えなければいけないと、そう考え始めた頃だ。

真美にとって運命の分かれ目となったその日。真美が橋の下に通い詰めるようになって、一か月が過ぎていた。

河原の草花はすっかり夏の様相を見せ、人の足を遠ざけた。真美のように目的がなければ、誰も足を踏み入れないだろう。

それでも真美は、毎日のようにその河原に通い続けていた。放課後のほんの5分10分だったが、子猫の様子を見る時間が何よりの楽しみだった。

梅雨時になり、雨が降る日が増えていた。その日もしとしとと雨が降る、じめじめした一日だった。


「みゃあ~、今日はいいご飯買ってきたよ~」


真美は腰ほどの高さもある草をかき分けながら、橋の下へと足を運んだ。露に濡れた草に触れて、制服に水跡がつく。

お手製の猫小屋は雨風に晒され、痛み始めている。横にした段ボールの小屋には、撥水のためビニール袋を被せてホチキスで留めてあるが、段ボールそのものが痛んで来ているので、いずれ針の刺さったところから崩れてしまうだろう。

そろそろ限界だなと感じながら段ボール小屋の口を開けて小屋を覗くと、そこにみゃあの姿はなかった。


「あ、またいない」


ここのところは毎日だった。好奇心旺盛な時分に、この小屋は狭すぎるのだろう。

最近になって走ることを覚えたみゃあは、その活動圏も広がった。今日もどこか楽しいところへ、楽しいことをしにいっているのだろう。


「しょうがないなぁ、もう」


真美は肩をすくめて微笑むと、傘を首元に挟んで、持参したちょっとお高い猫缶の蓋を開けた。小屋に置いた餌皿に、逆さまにして中身を出す。

美味しそうな香りがふわっと立ち込め、風に乗って飛んでいく。近くにいれば、これですぐに飛んでくるはずだ。

真美は小屋の前で少し待ったが、みゃあが来る様子はない。近くにいるかと思い、お皿を持って辺りを探してみたが、どこにも見当たらなかった。

今日は少し遠出をしているようだ。

名残惜しさを覚えながら、真美は餌を小屋に戻して帰途に就いた。夜にまた来れば、その時にはきっといてくれるだろう。

そう思ってこの時探さなかったことを、真美はこの先一年中悔いることになる。

家に帰り、部屋に戻って、まず親にみゃあのことを話すべきかどうか、真美は考えた。

話すべきか話さないべきかで問われれば、当然話すべきだろう。引き取り手を探すのに親の知り合いを当たりたい。

しかしなによりも、まず家で引き取れないものかどうか、それを一度交渉しておきたい気持ちが真美にはあった。

まず間違いなく、拒絶されるだろうとは思っている。けれども、しつこく食い下がれば、なんとか許してくれるかもしれない。

ここに来て真美は、最初に親に内緒にしてしまったことを少し後悔していた。最初、みゃあに自分の手が必要な時に親に話していれば、親も捨ててこいとは言えなかったはずだ。

しばらく迷った末、真美は話そうと決めた。ご飯の時に切り出そうか迷い、実物を見せた方が良いと考え、ここ一か月ですっかり恒例となったランニングの時間に、真美はみゃあを連れて帰ろうと思い立った。

夕食を終え、真美はジャージに着替えた。部屋を出る前にちらりと外を見ると、夕方よりずいぶん雨脚が強くなっていた。

真美は雨合羽を着込んで橋の下へと急いだ。ざあざあと降る雨が、雨合羽を叩いてうるさい。

走る先からランニングシューズには水がしみ込んでいった。

橋に着くと、真美は駆け足で斜面を降りた。露に濡れた斜面の草はつるつると滑り、水を吸った河原の土は深くぬかるむ。真美はバランスを崩しそうになったが、なんとかこらえた。

雨合羽に包まれていない足先に水滴が飛んできて、真美のむこうずねを濡らした。じっとりと肌に張り付く湿気た空気とは違い、水滴は冷たく真美に爽快感を与える。

真美は少し心配していたが、猫小屋のビニールはまだ風で飛んだりしていなかった。

風の気まぐれで時折橋の下まで吹き込む雨を、ビニール袋はぱたぱたと音を出して弾く。段ボールの口の部分が風に煽られて少し開いた。

すると、真美の鼻腔に美味しそうな香りが届いた。昼間置いた、ちょっとお高い猫缶の香りだ。

真美はしゃがみ込んで小屋の口を開けた。みゃあがいない。


「うそ……」


ただいないのではない。昼間に真美が置いた猫缶の中身が、まったく減っていなかった。

みゃあは美味しいものなら無理してでも食べる子だ。お腹いっぱいだったからということは、考えにくい。

あの子は、一度もここに戻ってきていないと、考えるべきだ。

真美は駆け出した。立ち上がりながら足を前に出した時、ぬかるんだ地面に足をとられて、転びそうになって地面に手をつく。

地面を弾くようにして無理やりバランスをとり、そのまま走り出す。

濡れた草をかき分けるのももどかしく、土に靴を吸われるのに苛立ちながら、一息に斜面を駆け上る。

駆け上った道路の上で、真美は左右に伸びる道路のどちらに進んでいいものか、一瞬判断に迷う。


「……こっち!」


左。なんの根拠もなくそう決めて、真美は走り出した。


「みゃあ! どこにいるの!? みゃあ!!」


走りながら叫ぶが、合羽にばちばちと当たる雨がうるさい。どこまで自分の声が届いているのか、それも分からなかった。

それでも声が届くのを信じて、真美は声を上げる。

走りながら、みゃあの名前を呼びながら、真美はみゃあの行方について思案を巡らせる。

どこだろう。みゃあはどこにいったのだろう。どこか遠くへ行って帰る道が分からなくなったのだろうか。

私が探さないと。親猫はいない。みゃあを知っている人も、きっと他には誰もいない。

河川敷の車道が丁字路に突き当たる。左の橋を渡るか、右の住宅街に入るか、真美はほとんど考えずに住宅街へと曲がった。

とにかく見つけないと。見つけたら叱ってやるんだ。こんなに心配させて、ほんとに手のかかる子だって叱ってやる。

そして家に連れて帰って、お母さんにとにかく頼み込んで、私が飼うんだ。

もう二度と目を離したりしないでいいように。

住宅街の路地は入り組んでいる。真美は塀の一つ一つに、そこにみゃあがいないかと目を配りながら走った。

視界の悪さと余所見のせいで、何度も電信柱にぶつかりそうになる。その度に足を止め、滑って止まり切れずに電信柱に手をついて、真美はすっかり手を痛めてしまった。

靴が重い。長靴を履いてくれば良かった。泥をまき散らし、吸いきれない雨で飛沫を上げて、真美は走る。

碁盤の目のようになった街並みを、真美はでたらめに曲がった。何度角を折れたか分からない。

自分が今どこにいるのか、それも分からなくなる。

真美の呼吸が荒くなってから、もうどれだけ経っただろう。

上手に息ができず、真美は何度もむせた。口に入る雨を何度も飲んだ。淡を吐き、息を吸って、また吐いた。

みゃあの名を呼ぶ声も力を失い、足がもつれて転んでしまいそうになった、その時だった。

――甲高い金属音が響き渡った。

真美はたたらを踏んで立ち止まり、左右に首を振った。どこから聞こえてきたものか、一瞬分からなくて、すぐに駆け出す。

交差点をすぐ左に曲がる。薄暗い雨を貫くように、放射状の光が見える。

すぐ隣が大通りなんだと、そこで分かった。目の前を車が横切っていく。

大通りに出て、車の過ぎ去った方を見る。過ぎていってしまった車の後姿が辛うじて見える。

反対側を振り返る。嫌な予感がした。ざあざあと振る雨の向こう、車道に何かうずくまる人影が見える。

真美は安堵した。人ならば、猫ではない。しかしすぐに安堵した自分を恥じた。猫でなくても、何もいいことはない。

うずくまる人影が身じろぎ、真美は地面を蹴った。大丈夫ですか、そう声をかけるつもりだった。

うずくまっていた人影が、フラつく様子もなく、立ち上がってこちらを向く。

胸元に、真っ赤な子猫を抱いていた。

頭に血が上った。

真美は人影に殴りかかった。


「っに……んだよ!!!!」


口にしようとした言葉は、息がつまって、まともな意味を持たなかった。

振り上げたはずの拳が、相手の腕の辺りに伸びていく。

全力で走り続けた真美に、まともな体力は残っていなかった。真美の拳は相手の腕をとらえたが、それが何のダメージを与えていないことが自分でもわかった。


「……蒲原さん?」


そう声をかけられて、真美は初めて相手の顔を見る。

極悪非道の人非人が、生田がそこにいた。


「あんた……ッ!!」


真美は考える間もなく、生田の腕からみゃあを奪う。胸元に優しく抱き上げると、まだ温かい。

みゃあは頭から血を流していた。


「ひどい……! なんでこんなことを!! この子が何をしたって言うのよ!!!」

「え……」


真美は生田をなじった。生田は目を丸くした。


「みゃあはまだ子供なのに!! やっと走れるようになったのに!!! こんな小さな子をいじめて何が楽しいの!!?」

「ち、違います。僕は……」

「何が違うってのよ!!! この人殺し!! あんたみたいなやつがいるから戦争がなくならないのよ!!」

「違います! 僕はやってない!! その子は轢かれたんです! 今ここで!」


生田は大声を上げた。真美はもっとなじってやろうと開いた口を、閉じることもできずに視線を落とす。

足元の血だまりが、雨に攫われていくのが分かった。


「車はもう行ってしまいました……ナンバーを見ようとしましたが、この雨では……」


生田の声が上から聞こえる。真美はぴくりとも動かないみゃあに視線を送った。

どこを見ているともつかない濁った瞳に、ひどい顔をした自分が映っている。


「頭から突っ込んだんでしょう……おそらく、ほぼ即死です。幸い、痛みも感じなかったでしょう」


即死。

幸い。

こいつは、何を言っているのだろう。

まだ温かい。まだ間に合う。


「お医者さん……」

「え?」

「お医者さんに連れてかないと……」


真美は歩き出した。しかし一歩踏み出したところで、膝が折れる。

大きな水音と共に、膝が地面を打った。

足に力が入らなかった。

荒い息遣いを、真美は聞いていた。はあ、はあ、と短く浅く、喘ぐようにして呼吸をしている。

どっどっと内側から胸を叩く心臓が、うるさい。大丈夫だから。大丈夫なんだから、そんなに慌てなくてもいいんだから。


「だ、大丈夫ですか?」


生田は真美の肩に手を置いた。


「触んないでよ!」


真美は強く生田の手を弾いた。自分でもどこにそんな力が残っているのか分からなかった。

言うことを聞かない足を空いた左手で叩く。何度かそうしていると、辛うじて片膝を立てることができた。

真美は同じようにして右足も叩いた。


「お医者さんに連れて行っても、もうダメですよ。言ったでしょう、ほぼ即死です。

 ……もう死んでいます」


後背から生田がそう言っているのが聞こえた。

聞こえないフリをした。

腕の中の温もりが、どんどん失われていくのが分かっていた。

右足がようやく動いてくれた。真美は倒れそうになりながらゆっくりと立ち上がり、歩き方を忘れてしまったように不格好な体重移動をする。

真美の両足は力不足だった。自分の体重も支えきれずにがくがくと震えた。

何歩か歩いて、真美の足はまた頽れてしまう。

真美は足を叩いた。

視界が滲む。


「なんでよ……動け、動いてよ……」


水たまりに拳を打ち付ける音が響く。足を叩いていた真美の拳は、いつしか地面を打ち据えていた。

腕の中の小さな命が、冷たいものになっていく。

真美は、襲い掛かってくる現実への対抗手段を、拳でしか表現できなかった。


「……よしなさい。あなたが怪我をしてしまう」


振り上げた左手を、生田が掴んで止めてしまう。

真美は振りほどこうと身をよじった。しかしすべてを使い果たした真美では、生田の拘束から逃れられない。

真美は声ともつかない呻きを漏らした。こんなに体は冷えているのに、目の奥だけが痛いほど熱い。


「僕の家が、すぐそこです。とにかく、上がっていきなさい」


ゆっくりと、子供を諭すような生田の声が、耳に届く。

生田の腕が両脇から差し込まれ、真美の体はやすやすと持ち上げられてしまう。

重力に従って伸びた足が、ふわりと地面につけられ、がくりと折れそうになって、生田の体にもたれかかる。

生田は左腕を脇に回したまま、真美の体を半ば引きずるようにして歩き始めた。

雨脚は強くなるばかりで、地面を打ち付ける水音が激しい。

さっきまで赤かった水たまりは、今はもう街灯の映り込むただの水たまりになっていた。

そういった一連のすべてを、真美はどこか遠いところで感じていた。

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