脳内グラフィティ〜青を切り取る〜

 それは確か小学四年生。スケッチの授業。

 田んぼと山しかない青々しい中、私はバス停のベンチにいた。画板に乗せた紙の上で鉛筆を走らせ、田んぼを描く。泥に植わった苗の葉、それも一枚一枚丁寧に。

 すると、景色の中に混ざり込むものがあった。

 画板の紐を首に掛け、うろうろと畦道を歩く、もしゃもしゃの髪。同じクラスの男子。キョロキョロと辺りを見回している。田んぼに落ちてしまいそうで危なっかしい。でも、彼とは気軽に話すほど仲がいいわけではない。

 結果、私は彼を抜いた景色だけをそのまま紙に写した。

 綺麗に描けたと満足したのは、それから数十分後のこと。そろそろ集合場所へ戻らないと。

 鉛筆や消しゴムを片付けていると、目に止まったのはあの男の子。彼はまだ畦道に立っている。

 怪訝に思った私は、ようやく彼に近づいてみた。


「ねぇ、ずっとそこで何してるの。もうすぐ終わっちゃうよ」


 多分、そんな風に訊いた。

 私の声に反応した彼は、もしゃもしゃの癖っ毛に鉛筆のお尻で頭を掻く。


「――見えなくて」


 ぽつりとそれだけしか言わない。当然、意味が分からない私は訊く。


「何が?」

「えーっと……」


 彼は大きな眼鏡をくいっと上げて、指先をすっと山の方へ向けた。


「この先が見えなくて」

「先……田んぼがあるじゃない」


 広がるパノラマの風景はのどかで単純なものしかない。

 私の横で彼は「うーん」と唸って小首を傾げていた。何が言いたいのか分からない。もどかしくて次第に苛立っていく。

 私は彼の画板を取り上げた。白くざらついた紙に、小さな鳥居が一つだけ中央にちょこんとある。


「え、何描いてるの……」


 まったく意図が分からないので、私は呆気にとられる。

 すると彼は、またも指を山に向けた。その先をなぞって……


 ***


 何故、今。

 大学生にもなった今に、そんな昔を思い出したのか。

 目の前でもしゃもしゃ頭の眼鏡男子が、自転車ごと田んぼに突っ込んで泥にまみれているからか。


「あぁ……またやってしまった。もう……」


 ぶつぶつとぼやく彼は、痩せた長身、もしゃもしゃ頭、大きな丸眼鏡、冴えない男。


「あの、五月原さつきばらさん。助けてください」


 切なさと虚しさを浮かべた声が向けられる。

 泥に飲まれている自転車を引っ張り出そうとしている現場に、たまたま私が居合わせたところだった。


はかるがボーッとしてるからじゃない。もう自転車に乗るのやめたら?」

「いや、でも、そんな、僕の唯一の交通手段ですし」

「なら、ボーッとするのをやめなさいよ」


 人よりも鈍感なくせに、危機感がまったくない。田んぼに自転車ごと突っ込むのも何度目か。階段を踏み外すことも多く、ドジを通り越して間抜けだと思う。


「ちょっとあの画の先を見ようとしていたら、いつの間にか……あれ? うわぁ、スニーカーが泥まみれ……」


 計は足元を見下ろして悲しげな声を漏らした。自業自得。

 私は腕を組み、やはり手は貸さなかった。こちらまで泥まみれになるなどもってのほか。それに今日は、スニーカーじゃなく高いヒールであることも理由に含む。


「はぁ……代償が大きすぎますよね、これは」

「だから自転車に乗らなきゃいいのよ」


 のみならず車にも一生乗るな。絶対に事故を起こす。そんなニュアンスを含めた言葉に、計は釈然としない様子で苦笑を返した。


「でもね、こうして自転車を走らせると空を駆けているような気が」

「そして田んぼに墜落するんでしょ。もういい加減にしなさい。脇見運転は事故のもと!」


 ここまで想定して言っておかないと彼はきかない。「はい……」と頷いてくれるが渋々だ。


「とにかく、自転車を洗わないとね。スニーカーも」

 ようやく引き上げた自転車は、ぬったりと黒に染まっていた。

 体勢が整った計は、泥だらけのハンドルを行き先へと向ける。


「五月原さん。良かったら、うちに寄りますか?」


 その誘いに迷うことなどない。むしろ結果オーライ。彼にジュースをおごらせる気でいたので。

 このささやかな企みを彼は知る由もない。



 気がつけば彼はトラブルを起こしている。以前、町で見かけた時は犬に怒られていた。ペコペコと慌てながら謝るその光景は友人として恥ずかしいような、可笑しいような。

 彼を変人だと言えば、十人中十人が頷いてくれるに違いない。


「あ、ねぇ、五月原さん」


 畦道を二人で並ぶ。平坦な遠く先を見つめ、計は思いついたように私を呼んだ。


「あそこに赤い鳥居が見えるんですけど」

「どこよ」


 彼の指す方向をじっと目を凝らして見てみる。ぐるりと青々しい山――私の視界からは右端に位置する場所。確かに赤い点が見えるような。しかし、よくあんなに遠くのものが見えるものだ。


「僕、あの神社には行ったことないんですよ。でも、この道を通ると必ず探してしまって」

「え、行ったことないの?」


 それじゃあ、どうしてあんな遠くに神社があるなんて分かるのか。

「小学生の頃、図工の時間にスケッチをしていて、その時に見つけたのが始まり……この田んぼと山の先が気になってしまって、探したら見つけて」


 いつの間にか、彼の言葉一つ一つが頭の中で描かれていく。ふわりと浮かぶ情景は今の景色と何も変わらないのに、色が褪せていてどこか懐かしい。


「その時に確か、女の子と話をしたんです。で、僕の絵を笑うもんだから、ちょっと悲しくなって」


 突然、記憶の画にズレが生じる。彼の言葉が聞き捨てならなかった私は慌てて口を開いた。


「そんなことしたっけ?」

「ん? その時のこと、知ってるんですか?」


 計はキョトンと私を見つめた。カラカラ鳴るタイヤの回転が止まる。

 この口ぶり。まさか覚えていないのか。計らしいと言えばそうだが……私はがくりと肩を落とした。


「知ってるも何も、その女の子って私だからね」


 一時の間。それから、「えぇーっ!」と驚く声が空高くこだました。



 計は私の名前など覚えていなかったのか、眼中になかったのか。


「いやぁ、あの頃の僕は、クラスの子と話が合わなくて仲間外れにされてて」

「そんなことを、さらっと言わないでよ」


 私は頭を抱えた。

 そうだ。計もあの頃は一人でいることが多かったんだ。だから、あの時も一人で神社の鳥居を見つけていたのか。

 まぁ、変わった子だったし、今もそうだし、友達がいないのは頷ける。

「笑った記憶はないんだけどなぁ……確かに、変なのって思ったけども」

「いや、笑いましたよ。なんかこう『はぁ? なにこれ、意味わかんなーい』って」


 ご丁寧に声色まで変えて真似しないで欲しい。いや、そんな風に言ったのかも。私はどんどん遠ざかっていく過去に恐れを抱いた。


「その後に確か、僕は言ったんですよ」


 ――あのの先に何があるのか知りたい。


 子供だったから流暢に言えたわけではないが、そう説明したという。


「画の先って気になりません?」

「なりません」


 容赦のない即答に、彼は悲しげな表情で項垂れた。気持ちを共有したいのは分かるが、私にはどうしても難しい。


「あのさ、計。その画の先が気になり始めたのはいつなの?」


 今の彼を創り上げるに至った経緯が必ずあるはずだ。

 常に先を見る計と、遠のく過去を振り返る私。性格も感情も感性も別物。相対する人物のその成り立ちが気になる。常日頃から思ってたけど、今日は無性に解消させたかった。

 彼はぽやっと小さく笑む。そして、ゆっくりと思案しながら空を見上げた。


「そうですね……ええと、五月原さんはうちの風呂屋に何度も来てますよね」

「うん」


 彼の家は、この地域では一軒しかない銭湯を営んでいる。

「浴場に大きなペンキ絵があるじゃないですか。あれを掃除の時に眺めていたんです」


 ペンキ絵――

 壁一面の青空と立派な富士山。とても古い絵なので、ところどころペンキが消えかけているけれど、確かにあの青は端から見ても優美で綺麗だと思う。


「そのペンキ絵を見て思ったの?」

「はい。まだ小学校にも上がってない頃、かな。じっと眺めていると、ふと青の向こうが気になったんです」


 青の向こう。そこには何があるのか。

 言われて私もぼんやりと思案する。青々とした空を眺めた。白い雲がのんびりと動く。それと同じくらい、私たちもゆっくり歩く。

 向こう側……しかし、想像力に乏しい私はすぐに「空の向こうは宇宙だ」と答えてしまうのだ。そこで考えるのをやめる。でも、彼はその宇宙の先をも見ようとする。更にその先も。彼の知りたい欲には果てがない。


「だから確かめてみたんです。その絵を叩いてみたり、鉛筆で穴を開けようともしました」


 私は、幼少の彼がしでかした粗相に苦笑を浮かべた。意外にもやんちゃなことをする。


「思えば、当時はまだ道理が分からないから酷かったです。親にもよく怒られてましたし。でも、どうしても画の先が見てみたくて。気づけばいつの間にか探してるんですよ」

「ふうん……」

 畦道がそろそろ広くなる。遠くにあった家屋が、もう目の前まで迫っていた。計の家はここから右に曲がって三軒先をまっすぐ行けばある。


「ん? それじゃあさ、いつものあの妄想は?」


 ルーツは分かった。でも、まだ足りない。

 計の想像は唐突に始まるもので、先ほども空を眺めて自転車を走らせていたら空を駆けるようだ、と言っていた。それだけではない。

 例えば、「電信柱の上に立って町を見た」とか「海と空を逆さまにしたい」とか。

 これを小さな子供が言うなら微笑ましいが、成人男性が屈託なく笑って言うと不安を抱く。また、ふわふわした想像ばかりと思いきや、たまに爆弾が飛び出すので油断ならない。

「影の中に引きずり込まれそう」とか。なにその発想。

 私の問いに、計は「んー」と唸りながら答えを探していた。その目がどんどん上へと昇っていく。


「あぁ」


 程なくして彼は思考を止めた。同時に両手をハンドルから離す。私が止める間もなく、自転車は大きな音を立てて地面に伏してしまった。

 それでも構わずに、嬉々とした様子で両手のひらをこちらに向ける。


「これです」


 手のひらを握り、でも人差し指と親指はそのままに、両方の指でLを作る。そのLとLがきちんと四角になるよう重ね合わせるとフレームに様変わりした。私の顔に合わせて、ぽやっと笑む。

「こうして構図を決めるのだと、絵を描く人に教えてもらってから僕も真似するようになったんです。すると、切り取られた景色とその先に情景が浮かんでくるんです。それからですよ、想像が日常になったのは」


 これは大発見だ、と彼は嬉しそうに笑いかける。しかし、ピントを合わせて覗かせているうちに、彼の目が段々ゆっくりと伏せられてしまった。まるでコマ送りの映像のように。

 そして、両腕を下ろして黙り込んだまま自転車を起こしにかかった。


「どうしたの?」

「いえ……」


 あまりに激しい感情の起伏についていけない。私は彼の顔を覗き込んでみた。ふいっと目を逸らされる。

 なんだろう、はっきりしない。


 ***


 カラカラと回る自転車のタイヤまでもが寂しい音に変わる頃、平べったく古めかしい銭湯・湯都ゆと屋に辿り着いた。「湯」と大きな筆文字で書かれた暖簾をくぐるとすぐに、小さな番台がある。


「五月原さん」

「はい」


 彼はてきぱきと番台の中に入って板鍵を寄越してきた。


「ゆっくりしてきて下さい」

「はぁ……」


 ひとっ風呂浴びてこいという意味か。

 しかし、ここは私よりも泥だらけの計が入るべきだと思う。それに、お風呂の予定なんてなかったから何の用意もしていない。ジュースを奢らせるつもりが、何故こうなったのか。

 なんとも腑に落ちないが、とにかく言われるまま私はその鍵を受け取ると、女湯の暖簾をくぐった。

 扇風機が回りっぱなしの、無人の脱衣所が目の前に広がる。

 古めかしい木のロッカーへ移動する。鍵と同じ番号のロッカーを探し当て、大きな鍵を差し込む。それを取っ手にして引けば、扉が音を立てて開かれた。

 さっさと服を脱ぎ、素っ裸で浴場へ。入り口に貸出のタオルがあったけれど、上がった後に使えばいいだろう。引き戸を開けると、ふわりと漂う白い湯気と熱気に包まれた。


「わお、貸切だ」


 誰もいない浴場に降り立つと、私の気分は少しだけ浮ついた。大きな浴槽が二つきりだが、随分と広く見える。

 なだらかな湯船に足を差し入れると、波紋が広がっていく。ゆるゆると全身を浸けていき、じんわりと肌を包む熱に思わず息を漏らした。

 あ、そうだ。ペンキ絵――浴槽の壁に描かれた立派な富士山の青。あの話の後で見てみると、堂々とした彩色に改めて感心してしまう。

 計はこの青の先が気になると言っていた。その青の向こう側に何があるのか。


「うーん……」


 両手で二つのLを作り、それを目の前で掲げて重ね合わせる。すると青が切り取られ、私はその中をじっと見つめた。

 先を……画の先を想像する。この画の先に何があるのか。

 それは――もしかすると私の先なのだろうか。私が思い描いていた未来なのか。この画の先に見えるか……この、先――


「……なんにも見えないじゃん」


 未来も何もない。


 ***


「ただいま」

「お帰りなさい」


 外で待っていた計が、私の顔を見てぎこちなく笑う。私もつられて、へらっと口元を緩ませる。でも、上手く笑えないのは、瞼が腫れ上がっているせいだ。鼻の奥もツンと張っているようで、なんだか痛い。


「――ねぇ、計」


 私は濡れたままの髪を枝垂れさせて言った。その声はあまりにも枯れている。


「私には『画の先』なんて見えなかったよ」


 見えなかった。なんにも。

 ただただ一色がそこにあるだけで、何も思い描けなかった。


「なんにもないの。ただの青。それだけ」

「そんなことは……」


 計の言葉を遮るように、私は濡れたタオルを挙げる。瞬間、彼の手がそれを止めた。勢いが収縮し、ぱしん、と小さな音が後を追って耳元へ。


「……ごめん、計」


 なんとも言えず、ただ口をついて出てきたのはその言葉。


「何を、謝るんですか」


 彼の静かさに私は声を殺した。上手く言葉を作れず、ただ気まずい。情けない。勝手に八つ当たりして怒って、挙句に計のことまで否定して、私はとことん最低だ。


「五月原さん」


 それでも、計は優しく言う。


「画の先なんて、見たい時に見た方がいいに決まってるじゃないですか。でなきゃ、ちっとも楽しくないです。君は、その方法を知らない」


 本当だ。知らないのだから、失敗するのは当然だ。

 顔を上げると、ぼやける視界に計の顔があった。困ったようにも、泣き出しそうにもとれる表情で私を見ている。

 破裂しそうだった鬱屈が空気を抜いた風船のようにしぼんだ。鈍感な計にさえ見透かされるくらい、私はもろかったのか。


「――私ね……彼氏にふられちゃったんだ」


 涙を飲むように堪えて、ゆっくりと言った。


「なんか、ね。私は元々、二番手でさ。それでも……ずっと、好きだった。あいつとの先ってやつをずっと探してた。でも、失敗した」


 知らず知らずのうちに、私は誰かに慰めて欲しかったのだろう。ふらふらと歩いていると見つけてしまった。わざと立ち止まって会話をしながら、気休めの消毒を傷口に撒き散らして自分を慰めていた。そんなずるい私だから、計にも幻滅されて当然。

 彼の目を見るのが怖くもあったけど、ちらりと窺う。

 ばっちり目が合った。計はじっと私から目を離さない。それに何故かキョトンとした目を向けている。計は小首を傾げて口を開いた。


「……あの、画の先に元彼さんとの未来を探しても見えるはずないですよ?」

「いや、分かってるし! そうじゃなくてね」

 さり気なく「元彼」って言うな。いや、間違ってはないけど、ふられたばかりにそのワードを聞くのは嫌だ。


「あーもう! だから! あんたのその画の先ってやつから、そういう方向に連想したの。そして八つ当たりまでしちゃって、それなのに……」


 全部言わせるなよ。いや、私が何をしているんだろう。全部、空回っている。


「なるほど。そういうことでしたか」

「そういうことですよ。まったくもう……なんなの」

「いえ、まぁ、何かあったんだろうなぁとは思いましたよ」


 計にはどうやら見えたらしい。私の寂しさを。


「泣きたいのに泣けない、みたいな。君の笑顔の先に隠れた寂しい色があって」

「……それでお風呂に入れって? で、あんたは私が入ってる間、ただぼーっとつっ立って、泥だらけのままでいたわけ」

「はい」


 それほど心配していてくれたんだろうな。

 私はゆるゆると溜息を吐き出し、がっくり項垂れた。


「僕は人よりも少しだけ想像力が働いてしまうから慰めるつもりでいたんです……でも、どうやら余計なことをしてしまったみたいですね」


 苦笑する彼に、私はまだ上手く笑えない。

 首を横に思い切り振って、髪を滴る雫を思い切り彼の眼鏡に向かって飛ばす。計は飛び退いて回避したが残念ながら遅い。

 私はいじけた様子をふんだんに見せつけようと、唇を尖らせた。

「ねぇ」

「はい?」

「計には見えるんでしょ。あの青の先に何があるのか」


 田んぼと山を見ていたら、その先に鳥居が見えた。そんな計だから、あの青の先も見えたはず。

 答えをじっと待つ。彼は、宙を眺めて「うーん」と唸った。やがて、飛沫がついたままの眼鏡の奥から伏し目がちに私を見た。


「――実は、まだ分かってないんです」

「えっ」

「まさか、そう訊かれるなんて思わず……不甲斐ないです」


 脱力。私は、崩れ落ちてその場にしゃがみこんだ。


「あー……また失敗しちゃいましたか、僕」

「ううん、あんたに期待した私が悪いのよ」


 拗ねた私の言葉は辛辣。それを受けた計は情けなく唸る。私は顔を埋めた。

 あぁ、もう。この気持ちをどうしたら払拭できるのか。心の穴を埋めるにはどうしたらいいか。


「あの、五月原さん」


 計の声がぼんやりと声が聴こえてくるけれど、忙しない脳内では処理がおぼつかない。


「五月原さん」


 うるさい。黙って。

 文句を言おうと口を開きかけると、真っ暗な視界に柔らかな声がふわりと浮いて聴こえた。



 ――頭の中に、青を。

 ***


 一面の青の中で蹲っている、そんな感覚が押し寄せる。

 すると私の頭の中で、バケツをひっくり返したようにざぶんと青が流れ込んでくる。一面が青の色で埋まってしまった。


 ――いろんな青を置きましょう。


 いろんな……

 青の中に、ぷくぷくと溢れる丸い水泡が見えた。透き通った瓶を覗けば、そこは境界のない空と海。波に身を任せて漂う。

 私は、今、青の中を潜っている。


 ――その先に、何がありますか。


 その問に、息が詰まった。優しかった空間が圧をかけて真空へ変わってしまい、苦しい。

 目の前の青は、水彩画に水を垂らしたかのように色が滲んでふやけていった。

 思い浮かんでしまったのは、好きだった人。でも、彼は私の方には振り向いてくれなくて、背中を見せたまま……泡になって弾けていく。

 誰もいない。私、一人だけ。

 でも、この青を独り占めしているのも私だけ。

 綺麗で、澄み切っていて、ぷくぷくと光の粒のような泡が踊る、この青の世界を――



 ゆっくりと顔を上げた。青の残像が徐々に引いていき、元の景色が戻ってくる。

 傍らに立つ計を見上げると、その明るさに眩んだ。


「――計」


 目を瞬かせて、私は無意識に呼ぶ。彼は驚いたように目を丸くさせてこちらを向いた。


「もういいんですか?」

「うん。もう、いいや」


 詭弁だけど。いくら「寂しい」の上に青を塗っても、そのうちまたじわじわと滲み出していくだろう。ただ、心に空いた穴にぽとぽとと垂れる青が浸透して、今だけはじんわり優しい。

 計はぽやっと笑いかけてくれた。

 いつも、あの方法で脳内に描いているのだろうか。自分の世界を。

 私は両手でフレームを作り、計に向けてみた。もしゃもしゃの髪の毛が風に晒されてふわりと浮く。


「――ねぇ、はか、る……」


 言いかけて止まる。彼は空を眺めていた。穏やかに、楽しげな表情を浮かべて想像の世界へ旅立っていく。

 どうせ、すぐに帰ってくる。それなら、少しの間待てばいい。

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