第20話 赤く腫れた目が灰の中で独り
「目的がないわけでもない。治る見込みのない化石病や、フィーンド化する前に使う――要するに自殺用だ」
錆びついた橋の欄干に腰掛けながらルシウムが言った。
橋の下には水ではなく、入り組んだ構造の下層にあるレンガ造りの歩道が通っている。言ってみれば高架橋のようなものだ。
どういうわけか俺はまたルシウムと行動を共にしている。そう望んだわけじゃないが、どうすればいいのかわからなくなると知っている人間の後についていくのはよくも悪くも俺の習性だ。
「でも自殺なら他にも方法はあるんじゃないスか。それに自殺用だとしても、効果を馬で試すっておかしいでしょ。しかもあんなに沢山」
「もちろん。黒幕は効果を知った上で使っている。問題なのは手段ではなく目的だ」
「目的?」
「馬を皆殺しにするためだ」
全身の筋肉に緊張が走った。『馬を皆殺し』という言葉は俺にとっては強い意味を持つ。なにしろウロコ馬の世話は俺の命を支えるものだったんだ。ペットロスどころの話じゃない。
「……君の馬も?」
「決まってるでしょう、そんなこと。言わせないでくださいよ」
「そうか、すまない。護法軍も被害が甚大でね。隠しても仕方がないから言うが、今は移動手段が全くない」
知るかそんなこと、と俺は内心苛立った。護法軍の補給線なんて気にしている余裕はない。
そりゃあ俺だって、軍が戦力を維持できなくなればまわり回って自分の生活を脅かすことになることくらいわかる。灰賊やフィーンドが退治されずに野放しになれば、一時間あたりの死傷者数は一段階上がるはずだ。
でも今は、護法軍の内情なんて聞きたくもなかった。
カネに釣られた俺が悪いとはいえ、護法軍の荷物を旧アベリー市にまで運ぶことになったのはルシウムのせいだ。当初依頼されていた宿場町で荷物を引き渡すだけだったら、少なくともウロコ馬を死なせずに済んだはずだ。
俺は押し黙って、橋の下を通る薄汚れた住民たちの姿を眺めた。
どこから来てどこに行くんだろうか。
みんな一様に顔色が悪く、目の下が落ち窪んでいて、重い足をむりやり急かして歩いているように見える。強制収容所に押し込まれた囚人の群れみたいだ。
この街は他に行き場のない難民が集まってできた場所だ。治安は最低だが、そこで生活する人たちからは、衰えた肉体に包まれた何としてでも生き残ろうとする意志がギラついて見える。
俺は早々にいろいろなものを諦めてしまったが、彼らはそうではないらしい。
どうしても生きようというならそうすればいい。非難する理由なんてどこにもない。その必要もないし、俺が口を挟むことじゃない。
その意志を、権利を毒殺なんていう方法で踏みにじる人間というのはいったい何者だ?
この街と他の場所を結ぶ交通手段を潰すことに何の意味がある?
虐殺で快楽を得るような真性の狂人でなければ、何かの企みがないとおかしい。それが何なのか俺には知りようもないが、意味も理由もなく取る行動ではありえない。
ということは――クズを実行犯にしてウロコ馬たちを殺すことが、何らかの利益になる人間がいる……?
何かが頭のなかで結びつきそうだった。
馬車は大事な交通手段だ。それを狙って殺すというのは、単なる動物殺しというよりバスや電車を狙ったテロみたいなものだ。
テロ。テロリストか。
空から毒の降ってくる世界では、誰も彼もどこかしらおかしくなっても不思議じゃない。
その最たるものが灰賊で、奴らは自分が1分後に死んでいても構わないというくらい狂ってる破滅主義者だ。
そんな風にイカれた誰かが、とにかく他人に少しでも迷惑をかけて道連れにしようと毒を使ったというのはどうだろう?
でもわざわざ毒薬を三ヶ所に渡して回って実行犯を仕立てているのだから、完全に支離滅裂な狂人の行動というのとは違う気がする。
正気があって、その上でテロを起こす理由があるとすれば?
この世界はもう国家という枠組みがなくなっている。名目が残っているだけだ。統治者が死滅したか、生き残った統治者に統治できる状況ではないか、どちらかだ。だからテロを起こして自分の要求を無理やり通す相手がいない。日本にいた頃は『反体制組織によるテロ』なんて言葉をニュースで聞いたが、反体制も何も楯突く体制がないんだ。
そう考えると、無茶な方法で何かを要求できる相手はふたつしかない。
護法軍と、トゥルーメイジを始めとした魔法使いたちだ。
実質的にはトゥルーメイジがその対象だろう。
護法軍に暴力で訴えても、彼らは秩序を乱す全てに容赦はしない。どうしても必要が有る場合を除き、逮捕もしない。犯罪者の社会復帰をまっていられないからだ。だから要求を飲むこともない。たとえ人質を取られてもだ。
だから必然的に魔法使いへ要求を飲ませるというのが目的になるはずだ。
この世の中でカネを要求したり政治的意図を主張したって意味はない。
一番価値のあるものが何かというと、安全だ。
生き残りたい、自分だけ、自分たちだけはどうしても生き残りたい――魔法使いの頂点に、自分たちの命と生活の保証を約束させる。この世界で最も死ににくい場所は魔法の塔の中でトゥルーメイジの保護下に置かれることだからだ。
そんなやり口で快適に生きていけるかどうかは別として、動機としてはありえそうな気がした。
「なるほど。確かに筋は通っている。鈍いのか鋭いのかわからない男だな君は」
ついうっかり自分の考えを喋ってしまい、俺は後悔した。こんな推理なんて俺の仕事じゃない。
「トゥルーメイジへの要求を通そうとする、というのも最終的な目的ではあるのかもしれない。だが今のところは、護法軍を標的にしたのか、この街そのものに対する破壊工作なのか。そのいずれかのために馬の毒殺を行ったのだろうと我々は見ている」
「軍が標的だったなんてことになったら、街の住人に襲撃されるんじゃないスか? あの詰め所」
「笑い事ではないだろう」
俺が皮肉っぽく言うと、ルシウムは珍しくむっとして俺の方を睨んだ。本気で睨まれたらたぶんその場で動けなくなるだろうが、まだ人間の女がする表情の範疇だった。
「それはさておき、1週間もあれば他の駐屯地から物資が届く予定になっている。一部の輸送隊はそのまま魔法の塔まで向かうから、そのつもりがあれば君も同乗して構わない」
一瞬あっけにとられ、俺は断ろうとした。負い目を作りたくない。
が、すぐに引っ込めた。
冷静に考えればルシウムの話に従うのが一番安全で確実だ。俺は別に自殺志願者じゃない。なるべく死なないで済む楽な道があるならそちらを選ぶ。
「でも、なんでそこまで……」
「責任は感じているんだよ、イリエ。私自身の行動に間違いがあったとは思っていないが、めぐり合わせはよくなかった。埋め合わせはさせてもらうよ」
ずいぶん上から目線のお詫びだけど背に腹は代えられないというやつで、俺は一応の感謝を示した。彼女のことは苦手だが、少なくとも悪人じゃないことぐらいはわかる。
それからしばらく沈黙が続いて、俺は自分の宿に戻ろうとした。
そのことを伝えようとした直前に、通行人を押しのけて誰かが猛然と走ってきた。ルシウムの名前を叫んでいて、腕章を付けているから護法軍の人間なのだろう。
その男は荒い息をつきながら、深刻な表情でルシウムの前で立ち止まった。
「き……緊急事態です大姉ルシウム、魔法の塔が……」
「……兄弟ラルコ」
あからさまに大慌てという様子の男に対し、ルシウムはきつい言い方でたしなめた。
「街中で騒いで回るな。護法軍の士官が取る態度ではないぞ」
「しかっ……しかし緊急事態で」
「見ればわかる。だが我々が緊急事態と市民に触れて回ることの意味を考えろ」
ラルコと呼ばれたまだ若い男はひたすら恐縮し、冷たい目つきのルシウムに大声で謝罪した。その声も周りに聞いてくれと言っているようなもので、傍で見ていた俺は軽く吹き出してしまった。
まあ、緊張するのも仕方ないと思うが。
何とか場を収め、ラルコがルシウムに早口でその緊急事態とやらをささやき始める。
俺は無言で立ち去るのも気が引けて、去り時を逃してしまった。
――緊急事態、か。
どうせまたロクな話じゃないことはわかる。そんなことに首を突っ込むのは絶対に嫌だ。
とはいえ、気になる。
さっきラルコは魔法の塔がどうとか言いかけていた。
魔法の塔で緊急事態? もし本当にそうなら、人体でいえば冠状動脈瘤とかクモ膜下出血とか、そういう命にかかわるレベルの話になる。人類最後の砦だからだ。
俺はその魔法の塔方面に帰らないと行けないわけで……。
「……そうか。わかった」
唐突に話が途切れ、ルシウムは硬い表情で了解を伝えた。
おそらくルシウムを探して走り回っていたのであろうラルコの額からは汗が伝っている。
会話しかしていないはずのルシウムの首筋にも、汗の一滴が流れ落ちていた。
俺は近くにいるだけでその張り詰めた空気の余波を受け、無関係のはずなのに金縛り状態になってしまった。
雑踏の音は少しも変わっていないはずなのに、音量が極端に下がったような気がした。護法軍のふたりの間の空気は、周りの空間からは切り離されているみたいだった。
「……イリエ。すまないが先ほどの約束は守れない」
ルシウムが俺に静かに切り出して、俺はできれば今すぐ耳をふさぎたかったがそれもできない。
「大姉、民間人にその話は……」
ラルコは慌てて制止しようとしたがルシウムは聞き入れない。
「最後の魔法の塔と、その麓の街に灰賊の襲撃があったそうだ。しばらくは護法軍以外の通行を許可できない」
「襲撃、って……そんなのすぐ返り討ちできるでしょう? 塔の周りはこの世で一番守りが堅いんだし、灰賊の5、6人が襲ってきたところで……」
「普通の襲撃ならばその通りだ。だが普通ではない」
「普通じゃない? 灰賊がいっぺんに5、60人襲いかかってきたとか?」
俺はありえないことのたとえとして言ったつもりだった。灰賊は毒の灰の積もる野外で暮らす賊で、社会から離れて灰の中に埋もれるうちに人間性も何も失ってしまった連中だ。
まともな人間はひとりもいないと言っていい。せいぜい数人単位で旅人や村を殺したり奪ったり食ったりするのが関の山だ。わかるだろう? 徒党を組んで大規模な襲撃をかけるほどの分別や先見性があるなら、そもそも灰賊になんてなるもんか。
だから、ルシウムとラルコにきわめて真面目な顔で同時に見つめられた俺は、首の後ろが汗でじわりと湿るのを感じた。
「……ほぼ正解だ。灰賊が通常ありえない集団で襲撃を仕掛けているらしい。ただ……」
「ただ……?」
「人数が予想外だ。灰賊どもは、少なくとも300人ほど確認されている」
300人。
俺はバカみたいに口を半開きにさせた。みんな大変なんだ。明日死ぬかもしれない。そんな状況で、まともにものを考えられる人間をそれだけ集めるのも決して簡単じゃない。
それなのに、すでに激減している人口のさらに一部、救いようのない狂気の灰賊たちを、だ。
気が触れていて、サッカーチームほどの集団を作るのもままならない灰賊たちを、300人。
「もはや野党の群れではなく『軍勢』だ。あるいはこの街も巻き込まれる可能性がある」
「それじゃあ、まるで戦争……」
「戦争だ」
ルシウムは左の義手で橋の欄干を強く握りながら、どこか遠くを睨みつけた。
「誰がそうしているのかわからないが、灰賊を率いて最後の魔法の塔に侵攻した。戦争だよこれは。もう起きないと思っていた『人間同士の戦争』だ」
俺は何も言えなかった。
遠のいた街の雑音は、まだ耳に戻ってこない。
ルシウムが握りしめた金属製の欄干には、彼女の手形がくっきりと刻まれていた。
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