第18話 予兆としての毒殺事件について

 頭のイカれた男が馬屋の餌に毒を盛って、俺のウロコ馬を含めた多くの命が奪われた。


 最悪の気分ならこれまでもいろんな種類を体験してきた。水や空気が人間を拒絶する世界ではそういうこともある。


 でもこんな最低の気分になったのは久しぶりだ。


 俺は三年近く御者をやってきた。要するにこの世界に来たのとほぼ同じ期間ということになる。


 成り行きとはいえ、その仕事が俺の生活、俺の命を支えてきた。


 異世界から突然現れた人間を、何もせず生かしてくれるほどの余裕は残されていない世の中だ。ウロコ馬とたまたま相性が良くなければ、どこか全然知らない場所で死体の仲間入りをしていたかもしれない。


 そのウロコ馬はもういない。


 俺はいま御者ではなく、単なるむき出しの異世界人に逆戻りしていた。


 気付いてみると、馬がいなければ俺はどうすればいいのか、穴が開いたようにわからなくなった。御者の仕事経験以外に積み上げたものは多くない。それさえも運任せで、自分から動いてそうなったとは言えない。


 相棒を失ってこれからどうすればいいのか。


 虚無感を外に追いやって、いまは自分の頭で考えないといけない。


 とは言うものの、結論はすでに出ている。魔法の塔、その麓の街まで戻るのだ。それ以外に俺が行く場所はないし、行きたいと思える場所もない。


 俺は早く誰かに謝りたくて仕方なかった。


 相棒のウロコ馬は看取ることもできず冗談みたいにあっさり死んでいたし、復讐しようにも犯人はもういない。射殺され、ゴミ以下の扱いを受けてどこかに捨てられた。


 怒りや憎しみをぶつける先はもうない。やり場の無さが胸を締め付ける。でもどうにもならない。俺は到底飲み込めないものを飲み込んで、諦めた。何をやってももう遅い。どうにもならない。


 それでもなお、この……言いようのない感情は我慢できなくて、俺の中の特別な喪失を誰かに打ち明け、詫びないとおかしくなりそうだった。


 俺はいろいろな考えを巡らせ、我慢して、諦めて、ようやく平静を保てるようになった。


 こんな時、人は何で『自分は平気だ』って顔を装うとするんだろうな?


 そんなこと誰にも強要されてなんかいないのに。


     *


 事件は終わりではなかった。


 旧アベリー市内には、普段のざわめきとは違う何かが渦巻いていた。


 目を血走らせ、何かに急かされるようにして淀んだ熱をかき混ぜている住民たちが噂している。


 馬屋に繋がれていたウロコ馬たちが毒殺されたこと。


 そして――その毒殺事件は、街に三ヶ所ある馬屋の『全て』で起こったというのだ。


 ――なんだそれは?


 俺は背骨を引っこ抜かれたみたいな気分になった。


 他の馬も毒殺された?


 意味がわからない。自分の目で見るまでは信じられるか。俺は北側の馬屋まで急いだ。


 実際に自分の目で見た。


 信じられなかった。


 俺の馬が死んでいたのと同じように、そこでも繋がれていた馬が横倒しになったり伏せったままの状態で動かなくなっていて、生きているやつも口から血の泡を吹いて余命わずかという状況だった。


 何頭のウロコ馬がいたんだろう。帳簿でも見ればわかるだろけど、そうする意味があるとは思えない。


 湿った毛布みたいに絶望感が体にまきついて、俺はさらに絶望するのを承知のうえで、もう一か所の東側の馬屋へ向かった。


 噂は正しかった。


 本当に三ヶ所の馬屋全部で大量死が起こっていた。


 全部の場所で、毒を盛られて殺されていた。


     *


 俺が馬車を停めていた西側の馬屋で事件を起こした男と同じように、犯人は意外なほどあっさりと捕まった。


 そのふたりも、俺のウロコ馬を毒殺したクソ野郎とだいたい同じような人間だった。


 幻覚系霊薬の売人兼常習者、街の浮浪児に死体剥ぎをさせていた元締め気取りの女、化石病で片目を閉じられなくなった強盗殺人の前科のある男……。


 共通点は、完全にどうにもならないどん詰まりのクズで、どちらかと言えば死んでいた方が世の中にとってはプラスになるような人間だということくらいだ。


 三人が顔見知りであるという可能性は早々に否定された。


 旧アベリー市は完全に真っ黒な暗黒街か、それよりは多少マシな暗黒街か、治安が良くない程度のグレーゾーンか、だいたいこの三種類で半分近くが占められている。


 おおまかに人口の半分が犯罪者か、何らかの形で犯罪行為に関わっていることになる。そういう環境では犯罪者やクズ同士のネットワークがあり、行き過ぎた抗争で街が火の海にならないようマフィアとかヤクザみたいな縦社会の組織もあるらしい。


 そういう連中は、割ってはいけないラインを下回ったクソ以下のクズへの制裁を躊躇しない。


 いくら殺人や強盗がはびこっていたとしても、数少ない移動手段を片っ端から潰されることは全く誰の得にもならない。犯罪グループも交易は格好の儲けにつながるからだ。


 だから毒殺実行犯の人物像や背後関係は誰の擁護も受けず、裏のネットワークで調べ上げられ、それほど時間を置かずに束になるほどのタレコミがあった。


 三人のつながりは全く浮かんでこなかったらしい。


 顔見知りですらなかったという。


「どういうことなんだ、じゃあいったい何で三ヶ所同じように毒を入れる? しかも馬相手に?」


「魔法使いを連れてきて成分を調査させましょう。これじゃ埒が明かない」


 犯人の即時死刑執行も辞さない自警団の男たちが怒鳴り合う声が響いて、俺は少し離れた石段に腰掛けたまま何も考えられずぼんやりするしかない。


 おそらく――というか、ほぼ確実に使えるウロコ馬はなくなった。


 無事な個体も完全にゼロではないだろうけど、カネのある交易商あたりが何としてでも抑えようとするだろう。街道を比較的安全に行き来できるのはウロコ馬の引く馬車くらいしかないのだから、商品の行き来が滞るのは避けたいはずだ。


 では、俺はどうすればいいのかというと……。


 全く見当がつかない。


 馬車を引く動物がいきなり死んで呆然としている俺以外の御者連中と同じく、皆目見当がつかなかった。


 どうすることもできない俺の目の前を、細かいチリが横切っていった。


 降灰が始まったらしい。


 街の上空にはドーム状の見えない防毒隔壁が広がっていて、そこを通り過ぎて降ってくる灰は無毒化されている。


 見上げると、降り注ぐ灰は粉雪のようで、何も知らなければ綺麗な光景に思える。


 もし防毒隔壁が今この瞬間消えてしまったら、俺はたぶん10分ほどで死ぬだろう。マスクを付けずにいたら、まあだいたいそのくらいが限界だ。


 灰を吸い込むだけで人は死ぬ。動物も死ぬ。草木も根から腐る。


 なのにどうして毒を盛ってまで家畜を殺す必要がある? 俺がこの世界に来る以前に、もう十分に死んだはずじゃないのか。


 人間同士なら、追い詰められて略奪や強盗殺人で死人が出るのはわかる。自分だけは生き残ろうという生存本能とか利己心とか、そういうものが引き金になって。珍しいことではない。旧アベリー市ではもっと頻繁だろう。それこそ、埋葬も火葬もせずに死体を野ざらしにしているくらいに。


 でも家畜を殺す意味はそれとはぜんぜん違う。


 トゥルーメイジに近いほんの一部のVIPは純粋馬車とか断続的瞬間移動駕籠フラッシュカーゴみたいな魔法文明の遺産を使えても、生き残りの人類のうち9割は長距離の移動には徒歩か馬車を使うしかない。


 馬泥棒して食料にするとかならまだ理解できる。


 そうではなく毒殺、しかも大量殺害だ。


 そして三ヶ所の馬屋の全てで同じような手口。これはただの頭のイカれた奴のイカれた行動じゃない。言ってみれば公共交通手段に対するテロみたいなもんだ。わかるだろう? こんなの誰かが意図的にやらせたに決まっている。


「誰かって、誰だよ……」


 俺は思わず口に出して言った。


 何で殺す。どうせ放っておいてもみんな死ぬんだ。何でわざわざ殺す。何でわざわざ動物を殺す。


 懐にあるカネと護身用の銃のことがふとよぎった。


 なあ、護身用の拳銃っていうけど、本当にこれで身が守れるのか?


 こんな安物じゃなくて、もっといいものを買ったほうがいいんじゃないか?


 本当に相手を殺せるものを手に入れるべきじゃないのか?


 手に入れて――殺すべきじゃないのか?


    *


 後から思えば、さすがにこの時の俺はちょっとどうかしていたと思う。


 でも、本心だった。


 正体の分からない、いるかどうかもわからない『黒幕』への殺意と、そのための具体的な手段のことで頭がいっぱいになってた。


 そんな時だけ俺は積極的になる。


 実行犯を処刑するだけじゃだめだ――そう思って俺は自警団の連中の輪に加わり、捜査に口を出そうとした。


 同時に、怒りの矛先を向けるべき相手がわかった時に何が必要かを考えた。確実に殺せる手段のことだ。


 プロに頼るのがいい。銃器のプロといえばこの世界では護法軍だ。軍隊と呼べるのはもう護法軍しか存在しない。


 すでに人殺しみたいな顔色になっていた俺が思い浮かべたのは、自然の成り行きとしてルシウムのいかにも女軍人といった姿だった。


 もう縁が切れて二度と顔を合わせることもないと思っていたし、会う気もなかったけど、こうなったら仕方がない。あとで護法軍の詰所に出向いて、何か力を貸してもらおう……。


 その前に、犯人の取り調べに参加しなければいけない。何だったら積極的な取り調べ方法を買って出てやってもいい。


 そう思って、俺は人垣をかき分けて馬屋の敷地に入った。ウロコ馬の死体が転がり、自警団によって取り押さえられた犯人の姿があり、そして悲鳴が上がった。


 悲鳴を上げたのは、犯人の汚らしい中年女だった。街の外にある死体の山から、子供に金目の物をはぎ取らせて上前をはねていたという女。俺が学校指定の革靴を奪って突き飛ばした羅生門ババアと似たようなものだろう。


 その醜い顔は、さらに化け物じみた形相になっていた。


 無理もない。


 汚いババアは前腕を掴まれて、完全に握りつぶされていた。肘と手首の中間で骨が粉砕されて、ぶらぶらとありえない方向に揺れている。


 ――ああ、そういうことか。


 エスカレートする一方だった怒りが三歩ほど身を引いて、俺はむしろ汚いババアを気の毒にさえ思った。


 泣き喚くババアの腕を潰したのは戦闘仕様の義手だ。会いに行く手間が省けたというかなんというか、とにかくそういうことだ。


 ババアを『尋問』していたのはルシウムだった。


 冷たいナイフみたいな表情だ。いけ好かない女だと思って見ていた時の顔がチャーミングに思える。訓練したことを訓練したままに実行する機械。


 想像はつく。おそらく護法軍に関わる馬に手を出したのだろう。その原因を突き止めるために彼女が直接やってきたというところか。


 俺みたいな安い運び屋まで使って物資を運んでいるくらい護法軍の補給線は弱り切っていて――そこに輸送の要である馬の大量死だ。


 何かが起ころうとしている。


 何かはわからないがもちろん悪いことだ。


 俺はどうやらそれに巻き込まれていくらしい。

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