第四百三十九話
近づいてくる古の幻獣を前に理香の全身が大きく震える。
その理由はただ一つ、純粋なる恐怖という感情。
理香や仁を心配し、助けたいと思っている他の兄弟子たちが動かないのもそのシンプルで抗えない感情に支配されてしまっているため。
だが彼等を責めるのは酷というもの。理香自身、食われそうになっているのが仁だったからこそ割って入ることができたのであってもしも他の兄弟弟子たちが襲われたとして今と同じように行動できたかはわからない。
それくらい圧倒的なまでの力の差がある。
割り込んだところで足止めさえできず、虫けらの如く蹴散らされて殺されてしまうほどの力の差が。
けれども理香には退けない理由がある。退けば死ぬまで消えることのない心の傷が残ると確信できる理由が。
だから彼女は震える体を盾にする。
その行為にどれだけの意味があるのかは定かではないが、他にできることがないのならば一瞬でも長く足止めをするのみ。
そんな彼女の無謀な行いを仁は止めようとするが、先程まで正常に呼吸ができていなかった影響か、上手く声を発することができず、呻き声に近い音を発するも、誰の耳にも届かない。
尤も、届いたところで理香が退くはずもなく、弄ぶように――少なくとも理香たちにはそう見える――近づいてくる古の幻獣も前進を続ける。
もはやどうすることもできない。覚悟を決め、己の体に齧り付いた瞬間に眼球くらいは貫いてやろうと理香は己の左腕を差し出す。
時間を掛けて食すのか、一瞬で食い千切るのかはわからないが、数秒だろうと一瞬だろうと食事中という隙を晒す瞬間に全力の一撃を叩き込む。
そのために右腕に全ての力を集中させた彼女の横を何かが通り過ぎる。
「――えっ?」
驚きの声を上げた彼女の反応を見た古の幻獣は立ち止まり、自身の目に命中した銀色のフォークを見て首を傾げる。
魔を退ける力を持つとされる純銀製のフォークは、けれども古の幻獣の眼球に掠り傷一つ負わせることは叶わず。
が、そんなことよりも重要なのは今、誰がフォークを投げたのかということ。
古の幻獣から視線を外すなどという、あまりにもバカげた真似はできない理香では確認しようがないが、それでも背後に仁以外の誰かの気配を感じることはない。
かといって仁がそのような真似をできるとは考え難く、理香からは見えないが仁も古の幻獣にフォークが当たったことに驚きの表情を見せている。
そして古の幻獣もまた純銀製のフォークが何処から飛んできたのか、誰が投げたのかわからない様子で辺りを見回す。
そのまま数秒の時が流れ、古の幻獣は思い出したように再び理香たちを襲おうと歩みを再開し――刹那、古の幻獣が居た地点の砂浜に爆発が起きる。
否、それは爆発ではなく何かが着弾したことによる衝撃によって巻き起こった砂嵐。
視界を塞ぎ、巻き起こった突風によって何もかもが吹き飛ばされそうになるほどの暴風に吹き飛ばされそうになった仁と理香を誰かが抱えて庇う。
「無事か? いや、無事じゃないな。すまん。遅くなった」
「し、師範代!? どうしてここに!?」
「匿名の連絡があってな。信用できるかどうか怪しいところだったが、師範が直感的に信じられると判断して、ここまで連れて来てもらった」
「義父さんが? じゃああの砂嵐はもしかして――」
渦巻いていた砂の埃の壁が時間経過によって大地に落ち、現れた長大な人影が古の幻獣と対峙する。
不意の一撃を直撃したはずの古の幻獣は当たり前のように無傷。
現れたその存在も古の幻獣が無傷であることに驚いた様子も見せず、挑発するが如く手招きをする。
「と、義父さん! 待って、ソイツは!」
「言われなくてもわかっている。だが安心しろ。援軍は他にもいる。師範一人で戦おうだなんて考えるほど、自惚れてはいないさ」
「援軍って――」
「まっ。バカ息子がどうなっても私はそれほど構わないんだけど。ちょっとは頑張ったみたいだから、今回は助けてあげましょう」
砂塵を巻き起こすことなく、まるで最初からそこにいたかのように現れたのは仁の母親。
放任主義で普段は何処にいるかもわからず、たまに帰ってくるものの基本的に連絡を取る手段がない彼女が何故この場所に現れたのか。
理由を問い質す暇もなく、古の幻獣が動き出す。
仁たちと遊んでいた時とはまったく異なる、目に映らない速さでの攻防。
二対一でも付いて行くのがやっとな状況であったが、それでも戦えているだけで仁たちは義父や母親との次元の違いを改めて思い知らされる。
「……凄い」
「同意だが、今は巻き込まれる前にこの場を離れるぞ。ちなみに源さんや仁の父親ももうすぐ駆けつけるそうだ。取り敢えず、倒すことが目的ではないから四人も集まれば古の幻獣を追い払うことくらいはできるだろう」
「できるの?」
「……途中で飽きて帰るだろう。古の幻獣は非常に気まぐれだからな」
次元の違う、化け物と呼んで良いレベルの達人たち四人掛かりで飽きさせるまで戦いを継続させるのが精一杯。
古の幻獣を打ち倒すにはどれほどの戦力を掻き集めればいいのかと、途方もないかつどうでもいいことを思案できたのは理香の心に余裕が生まれた証か。
とはいえ、師範代の言う通り、巻き込まれる前にこの場を離れなければ何のために義父たちがここに来たのかわからなくなる。
恐怖と同等の安堵を得た彼女は自らの足で動き出し、大怪我を負っている仁の体を支えながら兄弟子たちと合流、彼の手当てを頼む。
「仁、大丈夫よね? アンタのしぶとさはゴキブリ並みなんだから、この程度じゃ死んだりしないわよね?」
「……ある種、尊敬している存在だから別に悪口と受け止めるつもりもないんだが、その言い方は少しばかり気になってしまうぞ、理香ちゃんよ」
「食われた腕の傷以外は比較的軽傷だな。だが数が多い。止血を優先して、本格的な治療は病院でやった方が良さそうだ」
「悪いな、師範代。世話になる」
「気にするな。元が付くとはいえ門下生に世話を焼くのは師範代の務めだ。まあお前が犯罪とかをやっていたら――いや、うん。自首を勧めるべきか?」
「うむ。信頼されていないのか、信頼されているからこその発言なのか、微妙に悩む言い方ではあるが、取り敢えず、俺は無実だと言っておこう」
「本当に?」
「……世の中、犯罪を犯していない奴の方が珍しいと思うんだ」
「否定できない事実だが、まあそこは置いておこう。もっと離れないと本当に巻き込まれかねない――」
師範代の言葉を肯定するように、爆風が彼等の居る場所まで届く。
本当に爆発が起きているわけではないのだが、言い換えればそれだけの衝撃を素手の攻防によって発生させているということであり、加えて彼等がまだまだ本気を出していないことはある程度の付き合いがあれば簡単にわかってしまうこと。
つまりはこれから更に攻防が激しくなっていくことの証明であり、応急処置を終わらせた門下生たちは仁を担いで全力で撤退する。
「走っていくのか?」
「車で行くことも考えたが、道路の状況次第では走った方が早い可能性もある。それにもしも追いつかれるとしたら、走りも車も大差ない」
「どれだけ速度を上げても、車程度じゃ簡単に追いつかれてしまうってことか」
「アンタが改造したバイクとかでも追いつかれるのかしら?」
「おいおい理香ちゃんよ。俺の改造バイクを見縊っちゃいかんぜよ。俺の改造バイクは仮面を着けたヒーローたちが乗るモンスターマシンを超えるために改造したものなんだZE! その速度は並大抵の生物じゃ乗りこなせないほどの速さなんだZE!」
「違法改造した物は公共の道路を走れないんじゃないのか?」
「…………バレなきゃワンチャン?」
「警察をあまり侮らない方が良い。まあこんな話ができるくらいには回復したか。応急処置が良かったのか、お前自身の生命力のおかげか」
「強いて言えば理香のおかげだな。あの時、理香が庇ってくれなかったら師範が来る前に食い殺されていた。ありがとう」
「お礼なんていいわよ。私ができたことなんてたかが知れているもの。感謝ならアンタの両親や源さん、それに義父さんにして」
「さっきも言ったが、理香が庇ってくれたからこそ、時間を稼いでくれたからこそ師範たちは間に合ったんだ。そういう意味じゃ理香は命の恩人だ。それとあの時、フォークを投げてくれた誰かもな」
「……そういえばあの時のフォークって誰が投げたのかしら? 義父さんが来る前だし、あの様子だとおばさんが来たのは義父さんの後みたいだったから、他の誰かが投げたはずなんだけど」
師範代を含め、兄弟子たちの方を見て確認するも全員が首を横に振って否定の意思を示す。
義父に連れて来られた師範代は当然として、兄弟子たちも動きたくても動けない状態だったため、その答えはある程度、予測できたものであったが、だからこそ回答を得ることができなくなり理香の胸中に言いようのないモヤモヤした感情が宿る。
助けてもらったことは紛れもない真実。
そこに感謝以外の感情を覚えることはなく、直接、礼を言いたいという気持ちが強く生まれる。
だからこそ誰が投げたのか知りたかったのだが、兄弟子たちの表情を見れば彼等が答えを持っていないことは明白。
悩む理香を尻目に仁は動かせる範囲で首を動かし、辺りの様子を確認してから大きく息を吸い込んで声を吐き出す。
「誰だかわからないがありがとう! お前のおかげで俺たちは助かった! 心から感謝しているぞ!」
唐突な感謝の言葉に理香が驚きの表情を見せたのは一瞬。
すぐに彼の意図を察し、聞いているのかわからない相手に向けて彼女もまた大きな声で感謝の言葉を口にする。
「ありがとう! 貴方のおかげで助かったわ! 顔を見せてくれないのは本当に残念だけど、この気持ちは紛れもなく本物だから、そのことだけは覚えておいて!」
「お前等、急にどうしたんだ?」
「無論、俺たちを助けてくれた誰かに感謝を伝えているんだ。むしろそれ以外の何に見えるというのだ?」
「いや、誰かがお前たちを助けてくれたというのはわかったが、どうして今、ここでそんなことをしたのかが気になったんだが」
「さっきも言ったが誰だかわからないからこそ、聞こえていると信じて声を大にして言っただけだ。何か変か?」
「そうよね。助けてもらったんだからお礼を言わないと。まっ、届いてなかったら意味はないかもしれないけど、誰かはわからないからこういう形でってことで」
「……まっ、そういうお礼の言い方も有りか。後日、現れたのならその時に改めて礼を言えばいいだけだし。ああ、そうだ。それならお前たちの窮地を師範たちに伝えた相手にも礼を言った方が良いのか?」
「連絡手段があるのか? というか誰からの連絡だったんだ? さっきは確か匿名とか言っていたが」
「ああ。専門知識とかがあれば何処から発信されたのか、特定できるかもしれないが、生憎と俺たちにそんな知識は無くてな。そうだ、仁、お前なら発信元の特定とかができるんじゃないのか?」
「できるとは思うが、たぶん無駄だぞ」
「無駄?」
「俺たちの窮地を知っている。つまりは俺たちのことを見ていた、あるいは何らかの形で俺たちの窮地を知った。なら当然、俺のこともある程度は知っていると考えるべきだろう。なら、俺が発信元の特定くらい簡単にできるってことは容易に想像できるはず。その上でわざわざ匿名で連絡を入れて来た以上、特定されない自信があるということだ」
「成る程、な。ちなみに連絡を入れて来た人物に心当たりは?」
「あると言えばあるし、無いと言えば無い。俺ってば無駄に知名度があるし、知人や友人も結構いるからな。だがまあ、匿名で掛けて来たっていうのがやっぱり少し気になるところだ。その声に聞き覚えは?」
「変声機を使っていたし、それに内容が内容だったからな。実際に連絡を入れて来た相手のことを気にしていたら間に合わなかっただろう」
「ふむ。となると連絡を入れた相手にも感謝するべきか? いや、あの状況を知っていたということはさっきのフォークを投げた存在が師範たちに連絡を入れた相手だと考えるのが自然か?」
「それ、私も思った。でもだとすると誰が助けてくれたのかしら?」
「結局はそこに行き着くわけか。うーむ」
考え込む仁と理香の背後、離れた場所より轟く衝撃と振動音。
先程までのものよりも更に強大で、背筋が凍り付きそうになるほどの威圧感に再び湧き上がってくる恐怖が肉体を覆い尽くす前に逃げるべきと、師範代たちは気力を振り絞って懸命に両足を動かした。
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