第十二話
紙のように細い腕で小柄とはいえ高校生一人を持ち上げてみせるのっぺらぼうに仁と次光は感心の吐息と拍手を送る。
その一方で首を絞め上げられ、呼吸することが困難になっている神凪は普段と変わらぬ無表情ながら何処となく苦しそうな雰囲気を醸し出す。
もちろん、のっぺらぼうに彼を気遣う理由などなく、苦しむ彼を持ち上げたまま水平に逃走開始。
アイススケートの如くコンクリート製の地面を滑るように移動し、拍手を送り続けている彼等から離れていく。
「おー、あのほっそい足でどうやって移動するつもりなのか気になっていたが、まさか滑って移動するとは。この影月仁の目を持ってしても見抜けなかったわ」
「節穴の目で見抜けることなんて少ないだろ。にしても神凪の奴、どうして抵抗しないんだ? やはりあの腕に抱えている大量のきゅうり汁の缶を庇っているのか?」
「それもあるだろうけど、頭の皿が微妙に乾いていたから、本来の力を発揮することが難しくなっているんじゃなイカ? ほら、何処かの顔がアンパンなヒーローだって顔に異変が生じると役立たずに成り下がるし」
「周りの助力で必ずと言っていいほど逆転するがな。で、どうするんだ? 子供と勘違いしたのかは知らないが、このままだと神凪の奴が連れ去られるぞ」
「んー。まあ神凪君も高校生だからな。一人で出歩いている以上、覚悟はしているだろうから、何かあったとしても文句は言わないだろうが――」
「友人を見捨てる理由にはならない、だろう?」
不敵な微笑みと共に放たれた、見透かしたような次光の言葉に応えず、八つ当たりとして彼の膝に軽い蹴りを入れる。
などと二人がじゃれ合っている内にのっぺらぼうとの距離が開いていき、その姿が完全に闇の中に消え去る直前でようやく追跡を始める。
少しでも離されれば確実に見失ってしまう程度の距離。
街灯のない暗闇の中を迷いなく進む無貌の怪人を追跡する行為に燃え上がる仁に呆れの感情を抱きながら次光は翼を広げて大空に舞い上がる。
「この夜の中で上空から見えるのか?」
「無理だ。が、走るより飛ぶ方が速い。先回りするから、挟み撃ちの形にするぞ」
「ヘイヘーイ」
風を切り、仁とのっぺらぼうを追い越すまでに掛かった時間は数秒未満。
若輩者だがカラス天狗として他種族を圧倒する速さを見せつけた次光は高速で移動しているのっぺらぼうの行く手を塞ぐ。
「止まれ! 止まらなければその何もない顔を刺し貫く!」
警告は一度だけ。
止まる気配を見せないのっぺらぼうの無貌を警告通り錫杖の先で突く。
如何に無貌といえと顔がないだけで中身はあるため、貫かれれば致命傷は避けられない――と、紙のような薄過ぎる頭は錫杖の先端を避け、彼の隣を素通りする。
「ッ!? こ、の!」
自身の存在を障害と見做すこともなく、闇夜を駆け抜けるのっぺらぼうに怒りを覚え、咄嗟に手を伸ばして神凪を抱えている紙の腕を掴む。
動きを止められたのはほんの一瞬。体勢の悪さも手伝って瞬く間に振り解かれ、のっぺらぼうは何事もなかったように走り去る。
一見すると無意味な行い。足止めと言えるほどの時間も稼げず、のっぺらぼうの体を傷付けることさえできなかった。
だが最後にのっぺらぼうの腕を掴んだ事実は幸か不幸か事態に変化をもたらす。
「あっ」
最初にその変化に気付いたのは彼等の攻防に関与せず、少し離れた場所を走っていた第三者たる仁その人。
彼の瞳に映っていたのは次光とのっぺらぼうの攻防。ではなく彼等の戦いによって大きく揺れた神凪の腕から落ちた複数のきゅうり汁の缶。
内一缶が地面に落ちた衝撃で破損。地面にきゅうり色の液体を撒き散らし、微かだがきゅうりの臭いを大気中に散布する。
次いで事態の変化に気付いたのは次光。
己の行いがどのような事態を招いたのか、察した彼はのっぺらぼうへの追撃を停止し、逃げるように大空へ舞い上がる。
無貌たるのっぺらぼうが事態の変化に気付けたのかは定かではない。
しかし如何に感情が見えずとも腕の中からいきなり神凪の姿が消えたため、戸惑うような態度を見せながも後方を振り返り、立ち尽くしている神凪を見つける。
「…………」
破損したきゅうり汁の缶の前に立つ彼の表情を窺い知れる者は誰もいない。
所詮は自動販売機で売られている量産品。
味に期待など持てず、その味が好きな味だとしても破損した缶はたかだが一缶だけで他に地面に落ちた缶は汚れこそすれど無傷と言える。
だからそれほど気に掛けるようなことはない。少し残念がったとしてもそれだけで終わるはずの出来事。
と、説得するべきだったのかもしれないと後悔しながら仁は逃げ遅れてしまった我が身を呪いながら一人だけ天空へ離脱した次光に恨みの念を送る。
動かない、動けない二人を尻目に自身には関係ないことと言わんばかりに堂々と動き回り、神凪を再び捕らえるのっぺらぼうの腕が千切れ飛ぶ。
ふやけて宙に霧散する紙のような腕。
理解する前にのっぺらぼうの全身を淡水が覆い尽し、その体を濡らす。
「……フフ」
小さな笑い声には何の感情も内包されていない。
あるいは笑い声を漏らした神凪だけが理解可能な、何かしらの感情が含まれていたのかもしれないが、少なくともこの場に彼の想いを察せる者はいない。
「諸行。無常」
つぶやきに呼応するように天候が変化。
突如として豪雨が降り注ぎ、散弾銃のように激しく降り注ぐ水にのっぺらぼうは立つことができず、倒れ込む。
うつ伏せになるのっぺらぼうを見下ろす神凪の目はやはり無感情。
虫けらを踏み殺す子供のように好奇心が働くこともなく、嫌悪の対象とすら見られずに豪雨の中で紙のような体を散らせ、残ったタキシードさえも水の刃に切り裂かれ、雨に流されて下水道行き。
だがしかし、きゅうり汁の缶を破損させた元凶を打ち倒しても彼の中に渦巻く感情は収まらず、十分ほど局地的豪雨が周囲を覆い尽す。
範囲が狭かったことと時間が短かったことで、排水処理が正常に行われたため、必要以上に民家を浸水するようなことはなかったのが、立つことさえままならない豪雨に十分間晒された仁は倒れ伏していた。
「無事?」
「……神凪君よ。君は俺に何か恨みでもあるのですかな?」
「無論。感謝。恨み。たっぷり」
「それは良かった。恨みもなしにこんな仕打ちを受けたとあっては俺も神凪君のことを恨まなければならなかったところだ。そして次光、奴はこの手で殺す」
「……逃げたことは謝るが、こんなことで殺されたくはない」
空から舞い降りる友人の――友人だったカラス天狗の姿を視認直後にけたたましい奇声を発しながら襲い掛かる仁の顔に錫杖を叩きつける。
豪雨で弱っていた彼の体にいつもの速さはなく、錫杖の直撃を受けたことで鼻血を出しながら顔を押さえる仁に片手で祈るような仕草を取り、心の中で謝罪しながらきゅうり汁の缶を拾う。
「好物を壊されて怒る気持ちはわからなくもないが、これくらいのことで暴走しているとまた族長に怒られるんじゃないのか?」
「暴走。否定。十分。短い」
「短時間でも暴走は暴走だろう。まあ俺たちが証言すれば正当防衛が成り立つだろうし、逃げ遅れたバカ一人以外に目立った被害はないからそれほど咎められることもないとは思うがな」
「バカを置き去りにして逃げ出したクソ野郎に鉄槌を下すべきだと思います」
「俺はお前の保護者じゃない。逃げ遅れたバカに付き合って自分も逃げ遅れるなんて真っ平御免だ」
「クソ野郎が余計なことをしたせいで神凪君の暴走を招いたという一件は?」
「……貸し一つということで手を打ってくれないか?」
「まあいいだろう。ただしそれなりに大きな貸しだぞ?」
「わかっている。余程無茶なことを言われない限りは全力を尽くすつもりだ」
「自害せよ、次光」
「構わないが、自分の心臓を貫いた後にお前の心臓を刺し貫くぞ?」
「根性。生き汚い?」
「それ以前に糸でどうやって心臓を刺し貫くのかが気になるが。それとも素手でこの俺の心臓を貫く気なのか?」
「糸も束ねれば強固な矛に――後ろだ!」
無音の中、闇に紛れて現れる紙のように薄い体を持ったタキシード姿の男。
無貌なるその頭部は何もないからこそ見覚えのあるもの。
確かに引き裂いたはずののっぺらぼうの出現に神凪は僅かばかり動揺を見せる。
「始末。確実。同一。個体?」
「顔がないから何とも言えないねー。もしかしたら同じ服を着ているだけの同種族かもしれないしー」
標的を神凪から仁に変更し、薄い両手で彼の首を絞める。
誘拐などもはや微塵も考えていない、絞殺するための束縛。
紙の如き薄い腕を引き裂くべく、次光が糸で絡め取るが、数本の糸を束ねた程度では紙のような腕を裂くことができない。
「想像よりも硬い! 神凪!」
「任務。了解」
見た目通りの紙なのかは不明であるものの、先程ののっぺらぼうは濡れたことで簡単に引き裂かれた。
ならばこののっぺらぼうも同じはずと空気中の水分を凝縮、水の塊を構築してのっぺらぼうにぶつける。
大量の水の直撃を受けたのっぺらぼうの全身に水が掛かる。が、今度ののっぺらぼうは耐水性の紙でできているのか、濡れても破れる気配はない。
「水。不足?」
「厄介な。仁! どうにかして自力で抜け出すことはできないのか!?」
呼びかけへの応答は苦しそうな呻き声と立てられた親指。
大丈夫だから親指を立てたのか、はたまたその場のノリで親指を立てたのか。
判別ができなかった次光は彼との対話を諦め、糸を束ねて細い槍を作り、のっぺらぼうの腹部を刺し貫く。
「手応えはある、だが――」
貫かれた腹部から体液が流れることはなく、緩やかな夜風に揺れるその体に苦痛の色が浮かぶこともない。
物理的な攻撃で苦痛を与えることはできない。しかし物理的な攻撃でのっぺらぼうの体に干渉することは可能。
確認を終えた次光は糸の槍を複数構築。
仁の首を絞めているのっぺらぼうの両腕に突き刺し、切断を試みる。
無数の槍が突き刺さり、千切れ掛けた両腕に込められる力は変わらず。
されど完全に切り離された状態では力を加えることは不可能らしく、切断された両腕は力なく地面に落ちる。
「ケホッ、ゲホッ、ゴホッ!」
「無事か?」
「ぶ、無事に、ケホッ、見える、ガホッ、か?」
「後れ。取る。らしく。ない」
「ふ、フッ。物事は常に優雅でなくてはならないのだよ。事は全てエレガントに進めるべし。故に俺は慢心し、油断し、時に呆気なく敵に捕らわれるのだ」
「その悪癖、いい加減に直しておかないといずれ後悔することになるぞ」
「何をバカなことを。俺から油断や慢心を取り除いたら何が残るというのだね!?」
「変態さは残るだろう。後は科学技術か。逃がすと思っているのか?」
張り巡らされた糸の結界。
透明で細い糸の存在に気付くのが遅れてしまったのっぺらぼうは全身に絡みつく糸を解くことができず、身動きが取れなくなる。
「処分。方法?」
「のっぺらぼうが不死身などという話は聞いたこともないから、このまま引き裂けば恐らく始末できるだろうが、他に仲間がいないかと確認しておきたい」
「どうやって?」
「どうにかならないのか?」
「そんな便利な道具は持ってきてない。まあ臭いや気配でわかる限り、他にのっぺらぼうっぽい奴はいなそうだけど、コイツの気配も感じられなかったから単に気付けないだけで近くに潜んでいるかもしれない」
「興味。皆無。話。転換。明日。学校。早く。睡眠」
「まだそんなに遅い時間じゃないんだが。でもまあ、用事もないのにこれ以上、外を出歩いていると補導されるかもな。特に無貌の男と緊縛プレイなんてしている次光は明日からそういう趣味の天狗として学校中の噂に」
「今、コイツを解放したらお前に襲い掛かるだろうか?」
「今の俺は油断も慢心もしていないし、不意打ちにもならなそうだから解放されてもコイツが八つ裂きになるだけだぞ」
「それもそうだな。まあ変態共とはいえ俺の友人たちを誘拐、そして絞殺しようとしたんだ。――バラバラにされようと文句は言わせない」
開かれていた五指を閉じると同時、のっぺらぼうを拘束していた糸がその五体を解体し、破片を地面に散らばらせる。
落ちた紙片は神凪が水で流し、下水道行き。
流されたのっぺらぼうの体が再生するような気配はない。
が、のっぺらぼうの襲来がこれで終わりとしても他の問題が生じないという保証もないため、高校生三人組は神凪と協力して散らばってしまったきゅうり汁の缶を拾い、それぞれの自宅に向かって夜の街を突き進んだ。
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