第19話 こころ

  

 新幹線での帰り道、彰の頭の中では満ちるの言葉がわんわんと鳴っていた。

 話を終えて、どこかまで送ろうか、と申し出た彰に、彼女は先刻のお寺の前まで送ってほしい、と言った。向かいに和菓子屋があったのだが、実はそこは彼女の幼馴染みの家で、いま自転車を置かせてもらっているから、と。

「御堂さんのメールを見て、お墓参りに来るかもしれない、と思って彼女に頼んだんです。よそから来た人を見かけたら、すぐ連絡して、て」

 地元の檀家で保っているその寺には、お盆や年末年始、お葬式や法事以外に別の地方からやって来る人は殆どいないのだと言う。レンタカーだからぴんと来たみたいですぐに呼んでくれた、彼女はそう言った。

「住職さんにも彼女にも口止めはしてますけど、でもせっかく来てくださったのにほんとに申し訳ないですけど、もうこちらに来られるのはこれきりにしてください」

 別れ際、どこか切羽詰まった表情で彼女は言う。

「姉に……家族に、知られるの、怖いんです。だからもし何か判って、ご連絡くださるなら、わたしのメールにお願いできますか」

 そう頼まれて、彰はすっかり怯え切っている相手に何もできない自分を歯がゆく思いながら、せめてアドレスだけでも、とそれを教えた。

 ――兄は家族に、殺されたのではないかと。

 満ちるの震える声をまた思い出し、彰は窓にもたせかけた目を閉じる。

 そんな風には思いたくないけど、でも他のどの可能性に比べて、それが一番、有り得るように思える、そう彼女は言った。

 自分で自分に高額保険を掛けて自殺する、というのには期間が短すぎた。借金自体は前からあったが、英一がそれを知ったのは二年の春なのだ。

 義兄の遺産の話も、やはり信じ難かった。彼の実家はそう遠くなく、両親はよくこちらに遊びに来ていたが、その時の態度を見てもそれだけの金を出した人の親だとはとても思えない。義兄は次男なのだが、口を開けば「いいひとに貰ってもらえたおかげで、ぱっとしない子だと思ってたのにこんな立派な旅館の主人になれて」と感謝しきりなのだ。

 また自分達の両親や姉の方も、それ程に世話になった相手に対してする態度としては些かぞんざいなように思えた。出した額を考えれば、それこそ最高級の部屋で最高級の食事をふるまうべきだろうと思えるのだが、そういう様子でもない。

 姉の話した事故の件も、やはり信じられなかった。そもそもそれが真実なのなら、祖母が自分に打ち明けた話も同じ内容になる筈だ。

 事故を黙っている代わりに金を受け取ったことを自分に隠しているのかもしれない、彼女はそうも考えたけれど、やはりそれでも、人ひとり死んで、それも遺体が見られないような激しい事故を起こして誰にも何にも情報が漏れない、ということは到底考えられない、そう思った。

「そうやって、ひとつひとつ可能性をつぶしていったら……これしか、残らなくて」

 そんな風に考えちゃいけない、彰はそう言いたかったけれど、彼女の蒼白な顔色はそれをはっきり、拒んでいた。

「姉の結婚は、決まってましたから。兄の服喪の為に延期されましたけど……婿を迎えて自分が跡を継けば兄はいなくても問題ない、そう考えたんじゃ、ないかと」

 その口ぶりから、彼女がその計画の主犯を姉だと思っていることがうかがえて、彰はますます暗い気持ちになる。

「兄に内緒で、こっそり高い保険をかけて……それで」

 最後まで言えずに、満ちるは絶句して。

「君の意見は判った」

 それ以上言わなくていい、そういうつもりで彰は声をかけた。

「君はお兄さんが、とても好きなんだね」

 少しでも相手をリラックスさせたくてそう言ったのに、満ちるの顔はみるみるくしゃくしゃと歪んだ。

「……はい。とても」

 涙声でそう言うのに、失敗した、と彰は内心で天を仰ぐ。

「わたしと兄は八つ違いで、年が離れていたこともあって、ほんとによくかわいがってもらいました。父は旅館の仕事より外で遊ぶ方が好きな人で、母は体があまり丈夫でないのにひとりで旅館を切り回さないといけなくて、とてもわたしと遊ぶ時間なんてありませんでした。だから遊び相手は、いつも兄だったんです」

 目に一杯に涙をためながら、それでも彼女の唇がふっと笑みを含んで。

「兄は子供の頃から背が高くて、中学の頃にはもう百八十センチを超えていて、小さいわたしをよく肩車してくれました。兄の肩に乗せてもらうと、馴染んだ家の近所がもう全くの別世界に思えたものです」

 ふふ、と本当にかすかな笑いをもらして、彼女は懐かしげなまなざしを遠くに向けた。

「兄はわたしを乗せている時、よく突然、全速力で走るんです。いつも不意打ちで、わたしはバランスを崩して落ちないように、兄の大きな耳を掴んで……あれきっと痛かったと思うんですけど、兄は楽しそうに笑って『満ちる、何が見える? そこから何が見える、それは全部、満ちるのものだよ』、そう言っていました」

 彼女の語る英一の姿がありありと目の前に浮かび上がって、彰はひどく痛ましい気分になった。明るく笑って、小さな妹を肩に乗せて飛ぶように走る彼の細い体。

「まるで世界の果ての果てまで見渡せるようで、自分はその世界の王様だ、そんな気分になったものです。兄がいてくれなかったら、わたしの子供時代はもっとずっと、陰鬱なものになっていただろうと思います」

 それから唇を湿らせて、彼女は今度は打って変わって話しにくそうに、ぽつりぽつりと姉について語った。

 姉と彼女とは十四歳違いで、だからものごころついた頃には姉の方が家族といるより友達と遊ぶ方が楽しい年になっていて、殆ど遊んでもらったことがないこと。昔から性格がきつくてよく怒鳴られていたこと。

「勿論、わたしの為を思って、てことだったんでしょうし、今はもう昔とは全然違うんです。きついことはきついですけど、でも家族のことや旅館のことを一番に考えてるのはよく判るし……でも子供の頃は、自分の機嫌でわたしに当たり散らすことも多くありました」

 その姉に彼氏ができた、と母から聞かされた時にはずいぶん驚いたそうだ。あんな気のきつい人と一緒にいられるなんて一体どんな人なんだろう、と。

 初めて家に遊びに来たその相手、後の義兄が、思っていたのとは全然違う、とても温厚で何事もゆったりしたテンポで動く人だったのにまた彼女は驚いた。こんなゆっくりした人じゃ、あの姉はすぐにかんしゃくを起こして怒鳴りつけてるんだろう、多分きっと、それを気にしない程の懐の広い仏様みたいな人なんだ、そう思ったという。

 けれど、義兄が懐が広いことは事実だったが、姉の様子は彼女が思っていたのとは違って、自分や兄だったらすぐにイライラしそうなテンポの遅さも、相手が彼ならどうやら許せるらしかった。そして一緒にいることで、姉のせっかちさや気性の荒さが少しずつ緩和されてきたように、彼女には感じられた。

「恋ってすごいな、て感心しました」

 ほんのり苦笑いを浮かべて、満ちるはそう言った。

「もともと交流が多い姉妹ではなかったですし、子供時代の記憶もあって、わたしは正直、姉にはそんなに親しい感情を持ってはいません。でもあの義兄のおかげで、わたしは姉とひとつ屋根の下で暮らすのが苦ではなくなりました」

 病気がちな母親と外で遊んでばかりの父親との間で、家のこと、旅館のことを切り回すのはもともと姉が中心だったのだと満ちるは話した。けれどもそれはあくまで英一が大学卒業して真の跡取りになるまでの「中継ぎ」で、そうであることは家族は勿論、従業員達も暗黙の了解だった、と。

「姉がそのことをどう思っていたのか、わたしには判りません」

 そう呟くように言う彼女の顔は、本心をごまかしているのではなく、本当に判らなかったのだと彰には感じられた。

「ただ、兄が亡くなって、姉が結婚し、完全に『跡取り』となってから……何て言うか、俄然、今まで表に出なかった姉の良さ、が出てきたように思います。気がきついとか短気だとか、ぱっと見は短所だと思われるものが、てきぱきさだったり決断力の早さだったり、人が難しいと思って手を出すのをためらうようなことでも引かずに成し遂げる、みたいな……それまではどこか姉自身も『自分は中継ぎだから』て手控えていたのが、自分が大黒柱だ、という意識に変わった、ような」

 彼女はそれを、「兄が亡くなったことで姉が旅館を一身に背負って気丈にふるまっている結果」だとずっと思ってきたのだという。

 父親の借金のことを知るまでは。

「もしか、したら……今の状態が、姉の本当の、望みだったのかも、しれないと……いえ、そうではないとしても、元から邪魔だったからとか、そんな風に考えてやったことではなかったとしても、兄がいなくなったことが、姉にとっては、結果的に自分がすべてを手に入れられた、幸運だと……そんな、風に」

 切れ切れに言いながら、それ以上続けられずに彼女は絶句した。

 ――可哀想に。

 目の前で肩を震わせる彼女の姿を見ながら、彰は心底、そう思った。

 いくらそれ程親しみがないとは言え、二十年近くをずっとひとつ屋根の下で暮らしてきた実の姉妹のことを、内心でそんな風に見ながら毎日をすごさなければならない、それはどれ程、厳しく辛いことか。

 けれど自分に、何がしてあげられる訳でもない。

 彰は流れていく風景を見るともなしに眺めながら、大きな息をついた。

 自分は探偵でもないし記者でもない。肝心の英一とはたった二度会ったきり、それも実験中の、仮想都市の中でだ。彼が家族のこと、姉のこと、そして旅館のことをどう考えていたのか、そんなことは全然知らない。

 ……仮想都市の、中。

 外に向けながらも、何も見ていなかったうつろな彰の目に、ちかっと光が走った。

 彼が亡くなったのは、三月の終わりだ。

 彰は窓によりかかるように傾いていた体を起こして、座り直した。

 一月にはもう殆ど大学に来なくなっていて、二月には退学。そして亡くなったのは三月の終わりで……でも彼は実家には戻っていなかった。

 それは、あのバイトを完遂する為ではないのか?

 もともと大学に通いながら働いて仕送りすらしていたレベルのひとだ。普段の自分の生活費なんて楽々稼げただろうし、それなら一月や二月の時点で実家に帰るよりも、数ヶ月滞在してバイトを終わらせて報酬をもらった方がトータル金額で考えたらずっと良い。

 勿論、旅館を取られるかどうか、というレベルの借金に対しては焼け石の水だろうけど、もし実際に取られてしまっても多少のまとまった金が手元にあるのと無いのとでは雲泥の差だ。

 きっと彼は、三月末までは実験に通い続けた筈で……だとすると。

 彰は長い実験の最終日のことを思い出した。

 あの時目の前にいた「自分自身」、あれは仮想都市内に構築された「仮想人格」としての自分だった。そして最後の頃、時々休んでいた間に、実はその仮想人格が「本人自身」として実験に参加していた、と言うのだ。

 それは彰だけでなく、他のすべての参加者達も同様で……当然、その日に本人が「休み」でいないことを知っているもの同士――彰の場合皐月だ――や、同じ会場での参加者とは課題で同グループにならないようにした上での結果ではあるが、人工人格を最後まで全員が見破れたのと違い、仮想人格を「あれは本当の参加者自身ではない」と見破れた被験者は殆どいなかったのだという。

 あれは、あそこまで長い、そして継続した実験を経た上で得られた結果だ。金も時間もたっぷりとかかっている。

 例えば忠行のような初期の段階での脱落組については、仮想人格などつくりようもないだろう。仮想都市に入った後でも、最初の頃にやめてしまえば、人格が完成できないだろうから削除されている可能性は大だし、万一残っていたとしてもその人の完全な再現とは到底言えない出来だろう。

 でも、三月末頃まで通い続けた参加者ならば、仮想人格はもうほぼ完成されているだろうし、終了前に本人が亡くなったからと言って、わざわざそれだけ金と時間を掛けたものを削除したりはしないのではないか?

 つまりは彼は、いや、彼の仮想人格は、まだあの都市の中にいるのでは。

 彰の心臓が、どくん、と大きく動いた。

 なら、どうにかしてその仮想人格に会うことができたら、その時の彼と実家との関係を詳しく知ることができるのではないだろうか。そうすれば、満ちるの疑念を完全に払拭できるような言質が取れるかもしれない。

 彰はやや前のめりに座った状態で、激しく胸を打つ心臓を服の上から押さえる。

 次の『パンドラ』の予定は明々後日しあさってだ。

 ごくり、と彰は息を呑む。

 誰に話すかは、もう決まっていた。



「いつもよりかなり心拍数が高いようですが、体調はいかがですか?」

 カプセルに入る準備をしながらかけられた言葉に、彰はどきりとする。

 今のできっとまたもっと心拍数が上がってしまった、そう思いながら「ちょっと、遅れそうで。走ってきました」とできるだけ自然な笑顔を浮かべてみせる。

「そうですか。少し、落ち着くまで待たれますか?」

「いえ、大丈夫です」

 焦るとまた心拍が高まる、そう思いながらも首を振り、彰は何とか気持ちを押さえ込みながら横たわった。実のところ、どう切り出そうか、どう説明しようか、考えれば考える程目が冴えてしまって、この数日はあまり眠れていなかった。

『それでは、もし中で体調が悪くなったら、すぐにご連絡くださいね』

 ヘッドホンから聞こえてくる声を聞きながら、彰は目を閉じた。



 ――そして次の瞬間、違う意味で心拍数が跳ね上がる。

「……うわあ」

 思わず声にまで出しながら、彰は辺りを見回した。

 そこはいつもと同じ、ログイン場所の広場で――けれどその真ん中にあった彫像は消えていて、代わりに巨大なクリスマスツリーが立っていた。

「すごい……」

 足元から見上げても一番上が見えない程のそのツリーは、軽く七、八階建てのビルレベルの高さがあり、一面に細かな電飾ときらきら光る球や星の無数のオーナメントに彩られている。

 そうか、もう十二月なんだな。

 彰はしばらく、すべてを忘れてそのツリーを眺めた。

 もう少し下がったら、てっぺんにあるだろう星が見えるかも、そう思って後じさろうとして、広場のまわりを明るく華やかな屋台が囲んでいることにやっと気がつく。

 それはテレビや映画で時々見かける、ドイツのクリスマスマーケットを模していて、赤屋根の取り付けられた屋台の中にはグリューワインやソーセージ、砂糖掛けのアーモンドにジンジャークッキー、可愛らしい手袋やマフラー、クリスマスをテーマにした置物やオーナメントが所狭しと並んでいる。

 どこかから手回しオルガンで奏でられるクリスマスソングも聴こえてきて、彰はすっかりその眺めに魅了されていた。

 ツリーや屋台があるせいか、広場の中は今まで見た中で一番、にぎわっていた。そもそも初回の時は体験用ウェアを着るのにずいぶん手間取ったせいもあってか、自分がログインした時には周りに殆ど人がいなかったし、前回も皆それぞれに目当てが決まっているのか、すぐに四方に歩き去ってしまっていた。けれど今日は、屋台のまわり、立って使える背の高いテーブルでくつろぐ人々や、ツリーを飽かず眺める人々がたくさんいる。

 そしてその誰もが、笑顔だ。

 彰はログインするまでに背負っていた緊張が一気にほぐれるのを感じて、ほっと自分も笑みをもらした。

 ……軽く一杯だけ飲んで、もう少しだけこの雰囲気を楽しんでから行こうかな。

 そう考えて、屋台に向かってグリューワインを頼むと、赤いブーツの形をしたマグに入った熱々のそれを渡される。

 息を吹いて冷ましながら、少しずつすすって屋台を冷やかしつつ広場を巡って。

 ツリーの足元をぐるりとまわって、今まで見えていなかった奥の方に回り込み――足が、止まった。

 視界の先に、シーニユが立っていた。



 彰は三秒程その場に立ち尽くした後、はっと我に返ってツリーの影に隠れる。

 ……なんで隠れてるんだ、俺。

 内心でそう思いながらも、出ていくことができなかった。

 ちらり、と向こう側を覗いてみる。

 彼女は立ち飲み用の背の高いテーブルの前で、ワインとソーセージを前にした老紳士を隣に、何か話をしていた。こちらには全く、気がついていないように見える。

 一度は落ち着いた彰の心臓が、またどくどくと動き出す。

 彰は一瞬ぎゅっと目を閉じて、たった今見たシーニユの姿を脳裏に浮かべた。

 ――笑って、いた。

 目を開き、再度そっと相手の姿をうかがってみる。

 やっぱり、笑っている。

 心臓がずん、と重たくなって、オルガンの音が耳から遠ざかった。

 それは、まわりにいる売り子やお客達のような「破顔」レベルでは無く、ごく薄い、青い絵の具をつけた筆を白い筆洗に入れた時の水のいろのようにうっすらとしたものだったけれど、それでも確かに「笑顔」だった。

 ずきずきと、心臓が痛み出す。

 彼女のあんな顔を、見たくはなかった。

 彼女のその表情に、話し相手が全く気づいていないことも、同じくらいに嫌だった。

 何故って、判るから。

 自分には判る。

 あれは違う。

 あれは……「笑顔」じゃない。

 彰は背中を丸めるようにして、大きく息を吐いた。

 唇はわずかに横に開いている。口角が少し上がって、目元も細められ、頬骨も上がっている。

 だけどあれは、「笑顔」じゃない。

 彼女は笑ってなんていないのだ。

 彰にはそれが、はっきりと判った。

 ここにいる、売り子はきっとほぼ人工人格だろう。お客は大半が人間だろうけど、あそこにシーニユがいるのだから、他にも何人かは人工人格が混じっている可能性がある。

 けれどそのすべてが、程度の差はあれど、彰には「笑っている」ように見えた。今、ここにいることを心から楽しんでいて、だから自然に顔には微笑みが浮かぶ。

 なのに彼女は違うのだ。

 違うのに顔だけは「笑って」いるのだ。

 どうにもやりきれなくなって、彰は手の中のマグカップをきつく握ると、ぐっとひと息に飲み干した。

 そしてきっと目を上げ、大股にそちらに向かって歩いていった。



「――御堂さん」

 足音にふと顔を向けたシーニユの瞳が一瞬でいつものガラス玉のようなそれに戻ったのに、彰は心底、ほっとした。

「ああ、お友達ですか?」

 隣のシルクハットに燕尾服を着た、小柄ながらも粋な老紳士が、ふくふくとした頬に笑顔を浮かべてみせる。

「ええ」

 彰は細かいことを説明せずに、そううなずいてテーブルの上にカップを置いて。

「それはお引き止めしてしまって申し訳ない。妻とオペラに行くんですが、着替えにいったままなかなか戻ってこなくて。きっとあれやこれや、悩んでいるんでしょう」

 にこにこと目を細めて言われるのに、相手に対して無意識の内に身構えていた自分が急に申し訳なくなって、彰は小さく頭を下げた。

「すみません、いきなり」

「いやいや、こちらこそ話し相手になってもらって……ああ、来ましたよ」

 そう言って紳士が手を振る方を見ると、深緑のドレスにファーのコートをまとった紳士と同年代くらいの美しい女性が歩いてきながら手を振り返す。

「それでは、失礼しました。良い夜を、トモさん」

 ひょい、と帽子を取って頭を下げて歩き去っていく男性に、シーニユは黙って小さくお辞儀を返した。

「……トモさん?」

 後に残されてきょとんと声を上げる彰に、テーブルの端に指を置いて彼女はこくりとうなずく。

「前にお話した通り、人工人格はそれと判らないようにふるまうよう指示されています。ですが人工人格名はあまり一般的な日本の名前でないことが多く、名字もありませんので、皆お客様と会話する時に名乗る為の別名を持っているのです」

 シーニユの言葉に、彰はしばし考え込んでしまった。この間はその部分についてはあまり深く考えてはいなかった、けれど。

「それはつまり……お客さんに対して、嘘をついている、ということ?」

 考え考え言うと、シーニユはわずかに小首を傾げた。

「俳優や作家は活動をする時に別名を使うことがあります。歌手も。ファンの集い、などの時に、『その人個人』ではなく『活動している公の存在』として話したりふるまったりするのは『嘘』に相当する行為でしょうか」

「うーん……」

 すらすらと言い返されて、彰は言葉に詰まる。

「いや、でも……『プライベートなその人』が存在してる、てことは、ファンの人達だって一応、判ってる、知ってることな訳だから。でもここに来てるお客さん達は、君や他の人工人格がお客さんの『ふり』をしてる、ことは知らないよね」

「そのような方々はファンの方に『夢を見せる』為に活動しています。私共がやっていることも、それと同様です」

「…………」

 ――わたし達はここに、夢を見に来ているの。

 前回の女性の言葉が、胸に突き刺さった。

 確かにこれは、『嘘』とは違うことのように感じる。先刻は「人工人格に『嘘』がつけるのか、ついていいのか」ということがつい気になってしまったけれど、これは彼女の言う通り、舞台の上の俳優と同じ行為なのだろう。

 と、すると。

「……君は、下手だね」

 口元に薄く苦い笑みを浮かべて呟くと、シーニユが一度、瞬きをした。

「笑ってなかった。全然」

 相手の言葉を待たずに続けて言うと、彼女はもう一度、今度はゆっくりとした瞬きをする。

 その様子から彰は、もしかして彼女自身はそのことに全く気がついていなかったのではないか、そう思った。

「似てたんだ。少し前の、自分に」

 だからきちんと伝えるべきだ、という気持ちになって彰は話し出した。

「皐月が亡くなって忌引きの休暇が終わって、その後一ヶ月半くらい、普通に仕事をしてた。あんまり普通過ぎて、取引先で事情を知らない相手は誰も気づかなかった。たまたま仕事相手の人と外でばったり会って、お茶に誘われて、店でしばらく話をして……相手がトイレに行って、待ってる間、ぼーっとしながら辺りを眺めてたら、柱に飾りで掛けてあった古い鏡に、自分の顔が映ってて……それが、笑ってたんだ」

 話しながら彰の体が、勝手に震えた。

「向かいに誰もいないのに、笑ってた。その表情のまんま、固定されてたんだ。でもその時には何とも思わなくて、ああいけない、今は表情を作ったらかえって駄目なタイミングなんだ、と思って笑顔を消して、相手が帰ってきたらまた戻した。スイッチみたいに切り替わるんだ」

 シーニユはただ、じっと黙って彰の言葉を聞いている。

「先刻の君の笑顔が、その時の自分の笑顔と同じだった」

 そう言い切ってから、いや、と慌てて首を振る。

「勿論、僕は見た通り十人前だから笑ったって大したことなくて、君はそうじゃない。けど、種類が同じだった。中身が全然無いんだ」

 彰がそう言うと、シーニユの眉がほんの0・2ミリだけ寄った。

「中身、とは何でしょうか?」

 問いかけてきた言葉に、彰は深く考えず反射的に答える。

「気持ちとか、心とか……嬉しいとか面白いとか、そういう感情がまずあって、それが『笑顔』を引き出す訳で。先立つ感情が何も無いのに『よし笑うぞ』て決めて笑うのは、やっぱり中身が無い気がするんだ」

「こころ」

 淀みなく話して言葉を切った、そのわずかな間に、シーニユが唇を殆ど動かさずに低く、小さく呟いた。

 ――心臓がどくん、とひとつ跳ねる。

 彰は思わず、シーニユの表情の無い顔を見直した。

 彼女は動きの少ない瞳でそれを見返してくる。

「……シーニユ」

 心のどこかでひどく焦りを感じながら名を呼ぶと、それを遮るように彼女が口を開く。

「人間の方にそのように判断される、というのは、お客様を迎える人工人格としての能力が足らないということです。アドバイスに感謝して、今後も精進します」

「違う!」

 言葉と同時に、彰は強くテーブルに拳を打ちつけていた。

 次の瞬間、はっと我に返る。

「お兄さん、喧嘩はダメだよ」

 周囲を歩いていたカップルの男性がからかうような言葉を投げて、彼女に引っ張られて歩き去っていった。

 彰は熱い息を吐く。

 ……ああ、この間と似ている。

 自分でも驚く程の一瞬の激情がさあっと引いていく頭の隅で、彰は思い出す。

 今程激しくはなかったけれど、この前『パンドラ』でシーニユと話していて、彼女に君は怒っている、と指摘したのを勘違いされた時にも感情がかき立てられた。

 あの時と、今と。

 それをゆっくりと見比べて、彰は大きく深呼吸をした。

 シーニユは驚きも焦りも何ひとつ無いまなざしで、じっと黙ってそんな彰を見ている。

「僕が言ってるのは、そういうことじゃないんだ」

 まだ心の表面にざらりと残る波立ちをなだめながら、彰は噛み締めるように言葉を発した。

「そんな風に、無理をする必要は無いんだ。自分の内にそんな感情が無いのに、顔の筋肉だけを動かしたりしなくていい。それは、そうやってる時の自分には判らないかもしれないけれど、実はもの凄く自分に負担をかけるんだ。後になればなる程、のしかかってきて戻れなくなる」

 テーブルの端に置かれた彼女の指が、わずかに動いたように彰には見えた。

「そのかたちにぎゅっと押し込められて、かちかちになって、元に戻れなくなる。僕はそうなりかかってた。でも友達や皐月の両親のおかげでぎりぎり間に合った。だから君にも、そうなってほしくないんだ」

 一度言葉を切ると、ふう、と彰はため息をつく。

「君は多分、自分では判ってないんだと思う。君が自覚してないだけで、君の中には、ちゃんと、怒ったりとか楽しかったりとか、そういう『動き』が存在してる。それが僕等の『感情』と同じものなのかどうかは判らないけど、でも間違いなく君の中には『何か』がある。少なくとも僕は君を見ててそう思う。だから無理に顔や態度を作ろうとしなくても、そういう場面に出逢えれば、自然に外にあらわれてくる。だから大丈夫」

 子供に道理を説く親のような口調で言うと、シーニユの唇がほんのかすかに開きかけ、また閉じた。

 少し待ってみたけれど、彼女が何かを話し出す様子はない。

 彰はふう、とまたひとつ息をついて、肩の力を抜いて微笑った。

「ごめん。なんかちょっと、頭に血がのぼった。こんなつもりじゃなかったんだ。君に話したいことがあって来たのに」

「何でしょうか」

 呟くように言った言葉に、今度は即座に彼女が反応する。

「うん……あまり、人に聞かれたくない話なんだ」

 ちらりと周囲に目を走らせる彰に、シーニユが「ご希望ならシークレットモードでの会話も可能ですが」と答えたが、彰は小さく首を振った。

「歩きながら、話そう。……なるべく人の少ないところを、選んで歩いてもらえないかな」

「判りました」

 彼女はこくりとうなずいて、屋台の間を抜けて歩き始めた。



 歩きながら話すことを選んだのは、話している自分の顔をシーニユに見られるのが、どこか怖いからだった。

 あの瞳で見つめられていると、いろんなことを見透かされてしまいそうな気がしたのだ。

 だから歩く彼女から体半分遅れて彰は歩いた。

 忠行と再会して英一の話を聞いたこと、英一もこのバイトに参加していたこと、彼の死を知って地元を尋ねて満ちるとした会話、を、彰は順を追って説明していく。

 そして自分の推測――英一の仮想人格はまだ都市の中に、存在しているのではないか、と。

 シーニユは一言も口を挟まず、彰の方も見ず、ただまっすぐに前を見て路地から路地へと歩いていく。

 もしかしたら「ログチェック」をして道を選んでいるのか、見事なまでに誰の姿も無い裏通りを歩きながら、まるで迷宮のようだ、そう彰はひっそりと思った。話すことに専念していたせいもあるけれど、自分が今この街のどの辺りにいるのか、もう全く見当がつかない。

「……もし美馬坂くんの人格が都市にいるなら、僕は彼に会いたいんだ。実際、彼と家族との関係がどうだったか、特にお姉さんとの仲がどんな風だったか。それを聞けば、彼の妹さんの苦しみを払えるかもしれない」

 そう言うと、彰は小さく、唾を飲み込む。

「君は……君だけじゃなく、この街の人工人格体は、この街からは出られないのかな? 仮想都市に、行くことはできない? もし行けるのなら、君に美馬坂くんを探してほしいんだ」

 思い切ってそこまで話すと、シーニユがぴたりと足を止めた。

 つんのめるように自分も立ち止まりながら、彰は慌てて言葉を繋げる。

「あの、もしそれがここでの君の立場としてまずいことだったり、『パンドラ』の規範に違反することなら別にいいんだ。無理に頼むつもりなんかない。ただ、そういうことが可能なのかどうか知りたかっただけだから」

 最初に彼女が指の動きだけで榊原氏を「強制退場」させたことを思い出して、彰は一気に早口に言った。まさかこの頼みだけで即「違反」とはならないとは思うが、向こうの定めたルールのラインがどこなのかはこちらには判らない。

 シーニユはくるり、と彰に向き直った。

 まさか、と彰はたじろぎ、半歩下がる。

 彼女はまっすぐに立って、しばらく彰を見つめた。

 背骨の中を、ひやりとした空気が通り過ぎていくのを感じる。

 シーニユが薄桃色の唇を開いた。

「ひとつ、確認したいことがあるのですが」

「え? え、何?」

 我ながらうわずった声で聞きながら、ほっと内心で息をつく。どうやら速攻で「退場」ではないらしい。

 だが安心した彰の心を、その次のシーニユの言葉が真っ向から撃ち抜いた。

「御堂さんが『パンドラ』に来られたのは、仮想都市にいる皐月さんと会われる為、なのでしょうか?」

 ――ひゅっ、と彰の喉が高く鳴った。

  

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