辺獄のパンドラ

富良野 馨

第1話 黒

 

 煙は出ているだろうか。

 あきらはふとそう思い、待ち時間の間に外に出てみたけれど、あいにく少し前から降り出した雨は短い間にゲリラ豪雨並の土砂降りになっていた。

 傘の下から目を細めて見上げてみても、煙突の先すらよく見えない。

 ――古い映画や漫画なんかでは、こういう時に、煙を見て「魂が天に昇っていくんだな」なんて主人公が呟いてたりしたよなあ。

 今もあんな風に煙が出るものなのだろうか、彰はそう胸の内で考えた。

 こんなに激しく降っていては、昇るどころか、押し戻されてくるんじゃないか。

 そう思った瞬間、足が勝手に前に出ていた。

 手からするり、と傘の柄が離れる。

 額から肩から指の先から、一瞬で全身が濡れそぼった。

 喪服とネクタイの黒が、よりいっそう深く濃く変わる。

 見上げると雨の強さに、目も開けられない程だった。

 鼻筋から唇の先にどんどん雨がつたっていく。

 降りてくればいい。

 頭の中で、そう強く叫んだ。

 天になんか昇らなくていい。ここに、地上に、降りてきて、こうやって自分の全身に染み込んで、そのままずっと、一緒にいればいい。

「――皐月さつき

 うめくように口の奥でその名を呼ぶと、後ろから「御堂みどう様!」と高い声が飛んで、ぐっと腕を引き戻された。

「風邪をひかれてしまいますよ。中へお戻りください」

 スタッフの女性がそう言いながら彰の手の中に傘を押し込んで、ぐいぐいと背中を押して玄関へと連れ戻す。

「今、タオルを持ってきますから、どうかこちらでこのままお待ちください」

 そう言って小走りに去っていく背中を、彰はぼんやりと見送って。

 風邪なんて……自分の体のことなんて、もうどうだっていいのに。

 病気になろうが手や足がもげようが、もうどうだっていい。

 彼女がいないのだから。

 彼女がいない世界で自分の体がどうなろうが、そんなことはもうどうだっていいのだ。

 冷房の風にひんやりと冷えた雫がぽたぽたと落ちる体に、頬の上だけつうっと、熱い水がつたった。



 忌引きの休みは十日間だった。

 やらなければならない行事や手続きは山のようにあり、皐月の両親がその多くを手伝ってくれたにも関わらず、すべてがどうにか片がついたのは休みも終わりの頃だった。

 成程、こういうことに忙殺されていると気持ちがそっちに持っていかれてかえって楽なのかもしれない。

 合理的に出来ているものだ、明日から仕事に復帰を控えて、彰はそんな風に考えた。

 役所や銀行での片苦しい手続きで、何だか気持ちまで四角四面に仕上がってしまったようだ。

 あの連絡から結局、自分は一度しか泣いていない。

 夜も更けたリビングで、彼はテーブルの上に置かれた携帯端末をふと見やった。

 ――御堂皐月さんのご家族でいらっしゃいますか? 気を落ち着けて聞いてください。皐月さんが事故に遭われて、病院に搬送されました。

 耳元で早口で一気に言われたその三言だけを、今もくっきりとよく覚えている。

 それから後は、記憶が曖昧だ。

 気がつくと病院の廊下の長椅子に座り込んでいて、目の前の部屋の中から女性が泣き叫ぶ声がした。

 皐月の母親の声だ。

 ふらりと立ち上がって部屋に入ると、ベッドにすがるようにして泣いている彼女の背中を、父親の方がなだめるように撫でていた。

 その頬にも、幾筋も涙がつたっている。

 彰は入り口に立ち尽くして、その光景をどこか他人事のように眺めた。

 ベッドに横たわっている皐月の顔は、紙のように白かった。

 すべすべでしっとりしていて本当に綺麗だ、そう思いながら何度も撫でた頬だった。

 言葉も涙も、何ひとつ出なかった。

 泣いたのは、ただ一度だけ。

 火葬場で雨に濡れた、あの一度だけだ。

 あれからずっとばたばたとしていて、落ち着いて何かを振り返る、なんてこともできなかった。

 耳にいつも掛けている端末のリモコン――全体的にはおたまじゃくしのような形で、しっぽの部分を引っかけ、頭の部分を耳の穴に入れて装着する――のつるの部分を指で撫でると、テーブルの上の端末が起動する。

 ふた昔前は「携帯電話」、略して「ケータイ」と呼ばれ、その内に「スマートフォン」へと進化したそれは、ネット回線での無料通話が当たり前となったことに加え、部屋の家電の操作や他の日常的な機能の比重が遥かに高くなり、今ではその呼び名は一周まわって「携帯端末」、略して「携端ケイタン」と呼ばれるようになっていた。

 大きさは各種あるが、主流は大人の両手を広げたくらいのサイズで――携帯時は半分に畳めたり三つ折りにしたりできる――彰もその大きさのものを使っている。リモコンは耳掛けタイプが主流だが、時計やブレスレット、ネックレス型のものもあり、皐月は学生の頃からブレスレットタイプを愛用していた。

 ホーム画面の中央に、大量の未読メールの通知が点滅している。

 爪の先で軽くリモコンの丸い頭を叩くと、合成音が最新のものから順にメールを読み始める。

 それを聞きながら、彰は体の力を抜いて目を閉じる。

 音は聞こえてくるけれど、内容は全く頭に入ってこない。

 街で買い物をしていた皐月は、自動運転装置や安全システムを違法に改造した、無免許の飲酒運転の車に突っ込まれて命を落とした。

 昔からどこかで何度も聞いたような、ありふれた事故の概要だ。

 運転手と同乗していた友人の男は、二人とも嘘のように軽いかすり傷で済んだそうだ。

 事故の後、皐月が息を引き取って、その日の夜に彰の元に警察を通じて連絡が入った。

 その事故では子供を含む四人が亡くなり二人が重軽傷となったのだが、遺族の一人から、被害者会を結成して運転手を相手に賠償請求を起こしましょう、という誘いが来たのだ。

 まだ何ひとつまともに考えられないままにメールアドレスを教えてしまったけれど、それから立て続けに届いた何通ものメールには一度も返事をしていない。

 いや、読みすらしていなかった。

 そんなことにはまるで興味が起きなかったのだ。

 もっと日が経てば自分もそうじゃなくなるのだろうか、全く減らない未読のマークの数を見ながら、彰は思った。

 こんな風に、何もかももう皆どうだっていい、そういう気持ちから自分も変わっていくんだろうか。

 けれどどう考えても、そんな気はしなかった。



 仕事への復帰は、すんなりと済んだ。

 二十七歳にして妻を失った彰のことを、最初はまわりは腫れ物を触るように扱ったが、当人がまるっきり前と変わらぬ様子で仕事をこなすのに拍子抜けしたようで、十日もしない内に皆普通の態度に戻っていた。彰の会社は主に知育玩具を扱う大手で、営業である彼は一日の大半を外回りですごしていてあまり社内にいなかったせいもある。

 復帰して半月程が経ったその日も、彰は淡々と午前中の仕事を済ませ、外を歩いていた。

「おう、御堂!」

 だがそう背中から声がかかった時も、彼は全く振り返らなかった。

「あれ? おい、御堂だろ?」

 ぐい、と肩に手を置かれて、初めてその声が自分を呼んでいたのだということに気がつく。

「やっぱり。良かった、勘違いじゃなかった」

 振り返った彼にそう言ってくりっとした目を細くして笑いかけてきたのは、高校と大学の同級生でサークルも同じ、二人の結婚式にも、そして皐月の葬式にも参列してくれた羽柴はしば宏志ひろしだった。

 今は親の仕事を継いで小さな定食屋をやっている筈だったが、今日は休みなのか何なのか、ジーパンを履いた上にTシャツと明るいグレーのパーカーというラフな格好をしている。

「……ああ、宏志」

 三テンポくらい遅れて彰が呟くように言うと、相手の顔がわずかに曇る。

「なんか、痩せたなあ、御堂……今仕事? 昼飯行かね?」

「え?」

 相手の言葉がどうにも頭の中に入ってこずに、彰は眉をしかめる。

「昼飯。食ったの?」

「いや」

 その後に彰は更に言葉を続けるつもりだったが、間髪を入れず宏志が声を上げた。

「じゃ行こうや。あ、用事ある?」

「三坂百貨店に顔出しに」

 当初からそうするつもりだった予定を口にすると、宏志は時計を見る。

「それ、何時から?」

「いや、アポ取ってはいないから。新しいカタログ置きに行くだけ」

「なんだ、じゃあいいじゃん。行こう。この近く、美味いラーメン屋あってさ」

 肩をぽん、と叩いて先に立ち歩き出そうとする相手に、彰は声を上げた。

「ごめん、いいよ」

「……なんで」

 振り返った宏志の顔は、とがめるような、けれどひどく心配気ないろをしている。

「御堂、今お前飯どうしてんの」

 目の前に向かい合って立った相手に、彰は少し、気圧されるような思いを覚えた。

「食べてるよ」

「何を」

 詰問するような宏志の声に、彰は小さく息をつく。

「朝、は、ヨーグルト。皐月が気に入ったのがあって、定期的に送ってもらってたの、そのままにしてて。だからそれ食べてる」

「夜は」

「……忌引きの、間、皐月のお母さんがつくってくれてたんだけど、帰る前に宅配の食事、手配してくれて。それ食べてるよ」

「じゃ、昼は」

「…………」

 何も言えなくなった彰に、宏志がため息をついて両腕を組んだ。

「お前仕事は大体、外回り、て言ってたよな。昼どうしてんの」

「……面倒で」

 うつむきがちにぼそりと言うと、聞き取れなかったのか、「え?」と宏志が眉をしかめながら身を乗り出して。

「面倒なんだ」

 最初に「昼は食ったのか」と聞かれた後に続けようとしていた言葉を、彰は抑揚の無い声で言った。

 真向かいで宏志が一瞬絶句する。

「……え、何、じゃ、お前……昼、食ってないの? ずっと? あれから?」

 あれから、という言葉が、ずしんと彰の心臓を重くした。

 押し黙ったままでいると、宏志が一瞬泣きそうな顔をして、ぐしゃぐしゃ、と自分の茶色がかった髪の毛をかきまわした。

「御堂、この後時間決まってる仕事あるのか」

「え……いや」

「じゃ来い」

 宏志はそう言うと彰に反論の暇を与えず、ぐい、と彰の肩を押して道を歩き出した。



 タクシーに乗せられて連れて来られたのは、宏志の実家の定食屋だった。

『本日定休日』と札がかけられた扉を、鍵を使って開ける。

 がらがら、と引き戸を開くと、宏志は彰の腕を強く引いて中へと入った。

 両肩を上から押し込むようにして、テーブルの前に座らせる。

「ちょっと待ってな」

 そう言って厨房に入って少しもしない内、彰の目の前に大きめの汁碗が置かれた。

「とりあえず、それ飲んで待ってて」

 見下ろすと、内側が赤く塗られた黒い碗の中に並々と豚汁がつがれている。

 湯気の向こうに油の透明で小さな粒がゆらゆらと揺れていて、上に乗せられた鮮やかな青葱の隙間から人参や油揚げが覗いて見えた。

「何やってんだよ、飲めよ」

 カウンター席の奥から顔を出して怒ったような声を出す宏志に、彰は仕方なく箸入れから塗り箸を取った。

「……いただきます」

 手を合わせて小さく言うと、碗を持ち上げ、ずっ、と汁をすする。

 熱を持った液体が喉をすべり落ちていくのは判ったが、舌の先には何の味も無かった。

 もうずっと、そうなのだ。

「あれから」ずっと。

 何を食べても飲んでも、何の味もしない。

 どれだけ食べても満腹感も無ければ、何も食べなくても空腹感も無かった。

 そうしたら、面倒になってしまったのだ。

 食べても食べなくても、自分は何にも変わらない。

 味がしないものを噛んでいても、口が疲れるだけだ。

 それでも朝のヨーグルトと夜の宅配の食事だけは、かろうじて摂取していた。ヨーグルトは、大好物だった皐月があちこちのものをいろいろ食べ比べた挙句に見つけてきた、東北の牧場から直送で送ってもらっていた代物だ。

 皐月がいた頃にはそれにあれこれフルーツが乗ったり、様々なジャムやシリアルが混ざったりもしていたが、今は何も手を加えずにそのまま、ただただ真っ白い味の無い物体を口に運んでいるだけだった。

 別に食べなくても良かったのだけれど、皐月が手配した定期便を止めてしまうのも、食べずに冷蔵庫に容器が溜まっていくのも怖かった。何かが、崩れてしまうようで。

 夜の食事を食べるのは、もっと単純に、食べないと冷蔵庫がすぐに一杯になってしまうからだった。止めてしまっても良かったけれど、万一皐月の両親に知れたらそれも面倒だ。

 中身は燃えるゴミだけれど容器としてはプラスチックゴミで、食べずにまとめて燃えるゴミとして出すのも気が引けたし、わざわざ中身を取り出して分別するのも面倒くさかった。食べてしまうのが一番楽だったのだ。

 本来はレンジで温めて食べるその食事を、彰は冷蔵庫から出した冷たいままに食べていた。どうせ、味など判らないのに余計な手間などかけたくない。

「御堂……お前、大丈夫か」

 はっと気がつくと、隣にエプロンをして頭に手ぬぐいを巻いた宏志が心配気な顔で立っていた。

「あ、ああ、悪い」

 一口すすったまま、手が完全に止まっていたのに、彰はつんのめるように身を起こしてまた碗を手に取る。

 その手を上から、宏志が押さえて止めた。

「まずいか」

 静かな声で尋ねてくる相手に、彰はとまどって小さく首を振る。

「じゃあ、美味いか」

 畳み掛けるように続けられた言葉に、とっさにうなずくことができなかった。

「……御堂」

 ため息混じりに名を呼んで、宏志は隣のテーブルの椅子をがらがら、と引いて彰の真横に座る。

「御堂、お前、駄目だよ、それ……そんなんじゃ駄目になるよ、御堂」

 宏志はテーブルの上に置かれたままの彰の手を軽く叩いて。

「奥に布団敷いてやるから、とりあえずちょっと寝ろ。それから後のことは、また話ししようや」

 ――後のこと、なんてもう自分にはどうだっていいのに。

 肩を抱くようにして椅子から立ち上がらせる相手の腕に素直に従いながら、彰は胸の奥で、そう小さく呟く。

「……ごめんな」

 少しだけ先を歩きながら、宏志が小声で言った言葉に、え、と見ると、こちらを振り向かないまま、

「ずうっと、気にかかってたんだけど……今は逆に放っておいた方がいいのかな、と思ってた。ほんと、ごめん」

 と続けて。

 その心底から悔恨のこもった声にも、彰はただ「全然宏志のせいなんかじゃないのに、一体何を言ってるんだろう」程度の気持ちしか動かなかった。



 小学校の終りから中学の半ばにかけて彰は立て続けに二親を病気と事故で失った。

 父方の祖父母は当時既に亡く、母方のそれはもうずっと先に離婚していてどちらも新しい家庭を持っていたので、彰は父親の弟夫婦に引き取られることになった。 

 とは言えそれは、一年半程度の短いものだったけれど。

 転勤族だった叔父夫婦と性別も年も違う子供二人とはそれまでろくに交流が無かったので、そこでの生活はどうしても他人行儀で息の詰まるものにならざるを得ず、彼は寮のある高校に進学することを選んだのだ。

 生命保険を含めた親の遺産があったので、学費や生活費は自力でも賄えたのに、高校時代のそれは叔父達が全部、負担してくれた。それだけでも充分、彰は叔父夫婦に感謝している。

 皐月の事故の時には、叔父夫婦はカナダの研究所に勤務していた。そこからわざわざ来てもらうには及ばない、彰がそう固辞したので、葬式もその後の諸々も、彼の面倒を見てくれたのは皐月の両親だった。

 だからこの時も宏志が連絡を取ったのは、彰の叔父ではなく皐月の両親の方だった。

 その日の内に二人はすっ飛んできて、あれこれと彰の世話を焼いた挙句、病院で「鬱病一歩手前だ」という診断をもらうと、またたく間に私傷病休暇の手続きを取り付けてきた。

 彰はそのすべてを、流れる川のようにただ見ていた。

 彼が意志らしいものを見せたのは、「しばらく自分達の家で療養したらどう」と皐月の両親に誘われた時だけだった。

 彼はそれに、頑なに首を横に振った。

 どうなだめてもすかしてもうなずかない彰に、両親の方が先に音をあげた。

 何かあったらすぐに連絡して、そうしつこい程に何度も言って二人が帰っていくと、家の中がまた、しん、と静まり返る。

 殆どものを感じなくなっていた頭の中に、それでもほっとしたような気持ちが漂った。

 病院で出されたいくつもの薬を機械的に口に含むと、彼は夢の無い眠りに落ちた。



 薬を飲み出して一週間程で、彰の頭の中のかちかちに凍ったような部分がじんわりと溶け始めてきた。

 それまでは夜も布団に入っても三時四時まで眠れず、かと言って何か別のことをする気力も起きず、ただ仰向けに横たわって目を見開いて天井を見つめているだけだったのに、薬を服用するようになってからはすとんと寝つけるようになった。

 病院で処方された亜鉛の錠剤のおかげか、少しずつ味覚も回復してきている。

 まだ食欲が復活する、とまではいかなかったけれど、その変化を彰は信じ難いような気分で自分の中から眺めていた。

 自分がこんな風になってしまったのは、皐月を突然、理不尽に失ってしまったからだ。それは実に因果のはっきりとした事象であって、にも関わらず、「因」の衝撃や重さは何ひとつ変わらないのに、錠剤数個で「果」の方が消えてしまうだなんて。

 たかが薬でこんなになって、自分は薄情なのか、彰はうっすら、そんなことまで考えた。

 このまま元の自分に戻ってしまうのは辛い気がして、薬をやめようか、とまで思ったけれど、ああして無感情のただ中にいようが感覚を取り戻そうが、皐月がいない、その事実には何の変わりも無い、と気づいて惰性で薬を飲み続ける。

 皐月の両親は彰にひとり暮らしを続ける条件として、週に一度、必ず宏志の店に顔を出すことを約束させた。その時にまた元の様子に戻っているようでは、今度こそ二人の家にひきずっていかれてしまう。

 結婚してから三年弱、皐月とすごしてきた2LDKのこのマンションを彰は離れたくなかった。

 食事時には宏志の店はいつもそこそこ混んでいて、まだあまりごちゃごちゃしたところにはいたくない、と思う彰に気遣って、昼営業と夜営業の間の休憩時間に顔を出すといい、宏志はそう言ってくれた。

 遅い昼飯を食べ、他愛ない話をして、夕飯を詰めてもらって帰る。

 勿論、断る相手に押しつけるようにして毎回代金は払っていたけれど、それにしたって宏志の友情には頭が下がる思いだった。

 ――なのに時々、それをひどく重たく感じる。

 喉の辺りにどんどん何かが溜まっていって、首の皮膚が伸びて重たく垂れ下がっていくような、宏志の店に向かっていると時々そんな奇妙な感覚を覚えた。



 その日も、そうだった。

 休みを取り始めてからもうひと月近くたった、十月も半ばの風の涼しい日だ。

 店に行く前に立ち寄ろうと思っていた処方箋薬局が臨時休業していて、いつもよりずいぶん早い時間になってしまった。

 もうすっかり体が覚えてしまった道を、うつむきがちに歩いていく。

 このまま行くと、昼の営業時間真っただ中についてしまいそうだ。

 それが嫌で、彰は意味もなく店に続く道を振り切るように別方向に曲がった。

 彰の家から宏志の店までは電車で二駅、そこから歩いて七分程だった。店に背を向けるような方角へとしばらく歩いていくと、ちょうどその間の駅に近づいていくことになる。

 街としてはその駅まわりの方がにぎやかで店も多く、すっかり人込みが苦手になっていた彰は失敗したかな、と足取りが勝手に鈍くなるのを感じた。

 今戻っても昼の営業時間内にはなってしまうけれど、それでも引き返そうか。

 そう考えたけれど、トイレに行きたいな、とちらっと思う。

 一度意識してしまうとつい気になってきて、仕方ない、駅前の適当な店のトイレに寄ろう、と翻しかけていた足先をまた駅の方に向けた。

 角を曲がると、大きな百貨店の前に出る。

 心持ち急ぎ足になりながら玄関に向かっていくと、手前に立っていた何人かの、いかにもキャンペーンガール、的な丈の短い派手な色の一律のワンピースを着た女性の一人にぱっとチラシを差し出された。

「ただいまキャンペーンで割引中です。バーチャルワールドで素敵なリゾートを楽しんでみませんか?」

 押しつけるように渡されたそれを断るのも面倒で、適当に畳んでシャツのポケットに突っ込みながらも彰はとりあえず店の中へと急ぐ。

 ――用を足して落ち着いてから、何とはなしにそれを取り出して眺めてみた。

『「パンドラ」で手軽なバカンス体験を! 一周年記念キャンペーン中!』 

 チラシの一番上には、そんなキャッチコピーが踊っている。

 彰はそれ以上内容の説明を読まずに、畳んで洗面台の横のゴミ箱に入れかけ、ふっとその手を止める。

 何かが、気になった。

 もう一度開いて、下の方の細かい文字に目を落としてみる。

『仮想世界であなたも未来のバカンスを楽しんでみませんか?』

『この研究は未来への投資です!』

 ぱっとそんな文字が目に入ってきて、なおも読み進めようとすると、後ろから「すみません、そこいいですか?」と声がかけられ、彰ははっと我に返った。

 気づくと、自分の体がちょうど手洗いの蛇口のひとつを占領した位置にあって、彰は慌てて頭を下げながら後じさると、そのままの勢いでトイレを出てしまった。

 その場で足を止めるのも何となく気恥ずかしくて、とりあえずすたすたと歩き出しながらチラシをポケットへと戻す。後で家に帰ってからゆっくり眺めよう。

 時間を見ると、このまま歩けばちょうどいい塩梅の時間になりそうで、彰はとりあえず宏志の店で落ち着いてふるまえるよう、頭を空っぽにして歩き始めた。



 夕刻、家に帰ると彰はチラシの隅にあったコードを端末で読み込んだ。

 部屋を暗くして、壁の一面に取り込んだ動画を投影させる。

 明るい音楽と共に、五つ星ホテルのフロントにいそうな髪と化粧をぴっちりと整えたいかにも知的そうな女性が、口角をきゅっと吊り上げた笑顔で現れた。

『「パンドラ」一周年記念キャンペーンにようこそ!』

 高くもなく低くもない、絶妙に明るいトーンの声を聞きながら、彰はソファに座り直す。

 女性は淀みない口調で『パンドラ』について映像を交えながら説明を始めた。

 ――『パンドラ』は、つまりはコンピュータ内にある仮想の世界でバカンスを楽しむ為につくられたアトラクションだった。名称は「パーソナル・ドリーム・ライフ」から付けたのだという。

 そしてその基幹システムには、長期低代謝睡眠時における意識維持の為につくられた巨大仮想市街が利用されている、そう説明は続けられた。

「……え?」

 そこまで聞いて、はっと気がつく。

 ――思い出した。

 彰は目の前で進んでいく映像を放ったらかして、端末で検索を始めた。

 そしてその仮想市街を作成した組織の歴史を解説しているサイトを見つけ、説明を読む。



 もともとそのシステムは、二十年近く前に各国共同で始められた恒星間移住計画の中のひとつだった。

 各国が共同で月での資源採掘を行い、火星のそれも目処がつきそうなまでになった現在であっても、将来的にはいつか必ず太陽系だけでは人類を賄いきれない日がやってくる。その未来に向けてわずかずつでも準備を進めていくのが今の人類に課せられた義務だ、そういう名目で始められた計画だった。

 肝心の宇宙船やその航行エネルギーの研究などはなかなか進まない中、計画の為に日本で設立された機関が開発したのが、長期間移動中の人々の為に考えられたそのシステムだった。

 恒星間の移動には相当の時間を要する。その間、宇宙船の航行の維持に無関係な移住民達がその中で生活し続けるのは非効率だし、多数の人間が生活する空間では様々な軋轢が発生することも考えられる。

 最初に想定されたのは、古くからある発想、「冷凍睡眠」だった。

 研究を重ねた結果、マウスや兎レベルでの冷凍睡眠には成功することができ――だが何度も実験を重ねる内、この方法には致命的な欠陥があることが判ってきた。

 ごく短期間、数週間程度の冷凍であればさしたる問題はない。が、月単位で時間を伸ばしていくと、目覚めた後に被験動物の知能が冷凍時間に比例して退化していくことが明らかになったのだ。

 四ヶ月の冷凍を経た動物達は、水や食べ物、光や暗闇、物音や痛みなど、すべての刺激に対して無反応となっていた。

 結果この方法は諦めざるをえなかったが、何故そうなってしまったのか、それを考察していく内に、やはり脳の活動がある一定期間以上停止してしまうことが原因では、という結論に達した。

 かくしてほぼ七年をかけた研究は根本からやり直しとなる。

 その中で最も可能性の高い方法として選ばれたのが、「肉体の代謝を極めて低い状態に保ちつつ、意識を仮想空間に繋いで脳の活動を維持させる」というものだった。

 肉体維持の方法についてはこれまで冷凍睡眠で研究されていた、冷凍の際の保存液を改良する方向で進められることとなり、合わせて「意識」について――長期間人が暮らしていける為の仮想空間の確立に向けた研究が始まったのだ。

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