戦国鬼

@kisiri-tooru

第1話 プロローグ

 森羅万象を司る神々の世界に異変が起きた。詐欺、輪姦、殺生、略奪。天の均衡が乱れ、地が裂け、風が逆巻き、灼熱の斜陽が天の大気を焦がした。絢爛な天界が灰色に染まっていった。業を煮やした如来神は世界を分断した。如来は天道、人間道、修羅道、畜生道、餓鬼道、地獄道の六道に世界を分け、地に落ちた天界の秩序を取り戻そうと画策した。如来はこのうち、地獄から修羅までを四悪道と定めた。如来の狙い通り、天界の秩序は回復し、平穏が齎された。如来は数多の神々に命じ、人間道を見守るよう指示した。


 天界では比較的平均点だった伊弉諾(いざなぎ)に、四天王の配下だった八部衆の一部衆である龍族を従者に付け、伊弉(いざな)弥(み)と共に倭国を作らせた。二人は「天の浮橋」に立ち、天之瓊(てんのぬ)矛(ほこ)を使って大海を掻き回し、倭国の大地を創造した。


 倭国の各地に配置された八大龍王は、それぞれの地を治め、秩序ある世界を人間界に示した。


 『人心乱れ、煩悩に支配される時、龍王咆哮を上げ飛翔し、大地、大海を揺るがさん。人間道を四悪道に陥れ、戒(いましめ)を与えん。脱人現われ、竜王を従え大地、大海を治め、人々に安寧を取り戻さん』

 

 伊弉諾が人々に伝えた言の葉。大海より倭国が創造されてから数千年。幾年月が経ち、人々は伊弉諾の忠告をただの伝説と忘却していった。


 菜食を絶ち幾年月が経ったのか見当もつかない。深閑とした厳粛な時間の中に体躯を横たえ、唯一己の意志に従う右側の眼球だけをうろつかせる。肉体は朽ち、蛆が全身の至るとこで蠢いている。一切の光が閉ざされた土石の中で腐りゆく我が身。それが厳然として目前にある現実。空腹を満たすために喰った両腕は、既に白骨化している。こんな姿になっても途絶えることのない己の生命力が恨めしい。過酷な訓練の賜物か。口唇はとうに腐敗し、剥き出しになった歯茎でにやりとやり場のない笑みを零す。微笑む口元が妙に艶めかしく、怪しい色香を放つ女のことが、見るに堪えない醜悪な姿となった今でも、脳裏に焼き付いて離れない。彼女の透き通った肌の感触を思い出しては、噴出す怒りと情愛が膨張し、僅かに残存した血潮を沸騰させる。天の岩戸のように、固く閉ざされた、不可侵な彼女の心中に入り込んだ人間は俺しかいない。そう自負している。突出し垂れ下がった眼球を揺らしながら、彼女の温もりを思い出す。俺が生きてきた道程のいたるところに、彼女の痕跡が刻み込まれている。理屈や言葉では表せない、脳漿ではもはや判別できない愛だった。彼女を思い、我が身を省みて、暗澹たる思いに襲われては、悶え苦しむ。悶絶し暗く沈んだところで、どうにもならない。俺は形容できないほどの狂気にも似た愛を抱きながら、只々こと切れる瞬間を待っている。


ギギ、ギギギーー


 棺桶を開ける鈍い音と共に、月明かりが俺の眼(まなこ)を刺した。眩しい。

 「生きてるか?」重く低い、ひどく懐かしい声が微かに聞こえた。数年ぶり浴びる地上の風が肉の無い俺の頬を殴打した。

 

 箱根山中。吹雪が舞い、積雪で街道が埋もれている。凍てつく凶暴な冷気が、三度笠を深々とかぶった旅姿の男に吹きすさぶ。突然、十数人の黒装束を纏った集団が山肌を飛ぶようにして現れた。男を取り囲んだ追跡者たちは、全身から湯気を立て、殺意を露わにしていた。

 一拍於いて、黒装束たちはそれぞれに手にした短剣の諸刃を剥いて、猛然と男に襲いかかった。

 男の目が赤光する。男は背にかけた刃長五尺は有る長剣を電光石火で居抜き、一太刀で三人の黒装束を切り倒した。白銀の街道が赤く染まり、斬られた一人が街道脇の急峻な崖を声も立てず、もんどりをうって滑落していった。他の黒装束達は仲間が切られたにも拘らず、身じろぎひとつ見せず、男に斬りかかった。血の息吹を感じない冷淡な太刀が一手、また一手と振り下ろされる。男は、襲いかかる追跡者をわずか四手で全て切り捨てた。

 「た・す・け・てくれ」

 僅かに息の残っていた黒装束の男が、口から血を流して命乞いをしている。弱々しく手が伸び、返り血で染まった男の袴を鷲掴んだ。男はにやりと不敵な笑みを零して、追跡者の背中に切っ先を突きたてた。男は息一つ上げず、血で彩られた紅白の街道を、何こともなかったかのように後にした。

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