(5)

 母は綺麗で優しい人だった。

 ピアノの演奏が上手で、物心ついた頃には、私は母からピアノの演奏を教わっていた。

 温厚で優しくて、若くて綺麗な母は、同級生によく羨ましがられた。

 心の優しい人だった。ガーデニングが趣味で、私はよく母のガーデニング作業を手伝った。

 母の元に産まれたことを、母と同じ血を引くことを、私は今でも誇りに思っている。

 父は背が高くて寡黙な人だった。何を考えているのか分からなくて、幼い頃の私は父のことが怖かったけれど、優しかった覚えがある。

 休みの日のなると母と私を連れて、よく遊園地や動物園に連れて行ってくれた。

 ある日、私はおもちゃ屋さんで可愛いウサギの人形に見惚れていた。

 ピンク色で、目がくりくりしていて、チャッピーという珍しい名前のウサギの人形だった。そんな私を見た父は、私に隠れてチャッピーを購入し、その日の夜にプレゼントしてくれた。   

 あの時のことは今でも忘れられない。

 優しい両親の元で育てられた私はきっと幸せだったのだと思う。

 父が仕事にのめり込むようになった、あの日までは。


 その日、私と母は帰りの遅い父を待っていた。

 いつも父は午後六時頃には帰宅して、夕食は家族三人そろってから食べるのが当たり前だった。でも、その日、父は一向に帰ってこなくて、小学四年生だった私は母と一緒に先に夕食を食べて、父が帰ってくる前に眠りに就いた。

 夜中、リビングの明かりに気が付いて目を覚ますと、父と母の言い争っている声が聞こえた。

 母は怒っているというより、悲しんでいる様だった。父も酷く落ち込んでいて、居ても立ってもいられなくなった私は、父と母に駆け寄って言った。

「喧嘩しないで。また明日三人でご飯を食べよ」と、

 その言葉に、父も母もいつもの様に優しい表情になって、明日こそはまた三人で食卓を囲めるのだと、そう思っていた。

 でも、次の日も、その次の日も父の帰りは遅くて、いつしか母と私、二人きりで食卓を囲むことが当たり前になっていた。 

 後から聞いた話だと、父は上司に仕事の失敗を押し付けられて、社会的にも、精神的にも辛い思いをしたみたいだ。

 それから、父は仕事にのめり込むようになった。

 家に帰ってくる日も少なくなって、それでも母は父の為に夕食を用意し、父が家に帰ってくるのを夜遅くまで待っていた。

 母と二人で食卓を囲む日が続いた。

 父が会社に勤めながら、起業に向けての準備を始めると、いよいよ父は家に帰ってこなくなった。

 それでも、私や母の誕生日や結婚記念日には、なんとか時間を作って帰ってきてくれた。

 父は勤めていた会社を辞めて、ついに起業した。

 父の仕事も落ち着くと思った。夜になれば家に帰ってきて、また三人で食卓を囲める日が来ると思っていた。

 でも、起業してからも、父は家に帰ってこなくて――、

 ついには、母の誕生日や、結婚記念日にも帰ってこなかった。

 母はいつも寂しそうだった。

 ある日、私は母の前で、父のことを責めた。それでも母は、お父さんは私達の為に頑張っているからと、優しく私の頭を撫でてくれて、何とかしたいと思った私は、父に電話をすることは出来ないのかと聞いた。電話をしても繋がらないと悲し気に微笑んだ母の表情は、思い出すだけで今でも胸が痛くなる。

 温かかった日々はいつの間にか終わりを告げて、気が付けば陰鬱とした日々を私と母は過ごした。

 そんな、ある日のことだ。

 その日は、私の十二歳の誕生日だった。

 母と二人で誕生日ケーキを食べていると、突然チャイムが鳴った。

 こんな遅くに誰だろうと、恐る恐る扉を開けると、そこには大きなプレゼント袋を持った父がいた。

 久しぶりの父との再会に、私は嬉しくなって父に駆け寄った。

 きっと母もそうだろうと思っていた。

 今日こそは、また三人で食卓を囲めるのだと、そう思っていた。

 久しぶりに家に帰ってきた父に、母は冷たく言い放った。

「どうして今更帰ってきたの」と、

 その言葉に、私は我に返った。

 母の誕生日には帰ってこなかったのに、結婚記念日には連絡の一つもよこさなかったのに、父が家に帰ってこなくなった約二年間、きっと母は沢山我慢していたのだろう。寂しかったのだろう。それなのに、父は母に向けて淡々と言った。

「娘の誕生日だからに決まっているだろう」と、

 その時の母の表情は、今でも忘れられない。

 それから、私の地獄の日々は始まった。

 母は精神的に不安定になってしまった。

 元々心の弱い人だった。悲惨な事故や事件をニュースで目にする度に、悲しい表情をするような人だった。

 まともに家事をすることすらままならなくなった。

 感情の起伏が激しくなって、何か気に障ることがあると、私に暴力を振るうようになった。

 暴力を振るった後、気持ちが落ち着くと、母は申し訳なさそうに私に謝った。

 その時の母は、昔のように優しい母で、暴力を振るう時の母は怖いけれど、優しくしてくれる母は変わらず大好きだった。

 私は暴力を受け入れるようになった。私を殴って気が済めばそれでいいと思った。

 私が中学に進学すると、母は家をよく空けるようになった。

 身なりもどんどん変わっていって、髪を染めて身体に刺青を入れた男の人を家に連れてくるようになった。

 男の人を連れてくると、母は私に部屋に戻るように言った。

 何をしているのかあやふやだけれど、理解することは出来た。

 耳を塞いだ。何も聞きたくなった。

 父に相談しようと、電話をした。

 でも、電話は一向に繋がらなくて、母と私のことを気にも留めない父を、私は憎むようになった。

 母がよく連れてきた男は、家に居座るようになった。

 知り合いを何人も家に呼んで、お酒を呑みながら雀卓を囲むようになった。

 母は夜中にしか家に帰ってこなくなった。

 学校が終わって帰れば、見知らぬ男達が家に居る日々。

 ある日、私は男達に無理矢理お酒を呑まされて、そして、犯された。

 母が連れてきた男は、母が借金を抱えていると私に言った。

「このことは秘密にしろ」と、「お母さんの力になりたいよね」と、まるで呪文のように私に言い聞かせて、私は男達に従った。

 終りの見えない行為。男達は私の身体を弄んだ。

 ビデオも撮られた。どうすれば男を喜ばせることが出来るのか身体に教え込まれた。

 弱い私は、快楽を受け入れることでしか、心を保つことが出来なかった。

 機嫌を損ねないように行動すれば、皆私に優しくしてくれた。

 酷いことをされる日もあった。

 首をどれくらい絞めれば気を失うか何度も試されたり、身体を思いっきり蹴られたり殴られたりもした。タバコの火を身体に押し付けられたこともある。

 訪れる明日への恐怖。快楽を受け入れてしまった自身への嫌悪。

 私の心は崩れていって、そして、私は声を失った。

 体調もおかしくなっていった。吐き気が込み上げてきたり、匂いで食事が喉を通らない日々が続いた。お腹もどんどん重たく、大きくなっていった。

 ある日、私の異変に気付いた母が、泣きながら私に謝った。

 その時、久しぶりに母の顔を見た。

 酷くやつれていて、少し派手な服を着て、髪も染めていて、まるで人が変わってしまったようだった。

 母は父の会社に連絡をして、私が妊娠してしまったことを父に話した。

 私が家で男達の慰め物になっていたことを、母は知らなかったようだった。

 母も自身で作ってしまった借金を返すために、身体を売ってお金を稼いでいたようだ。

 そこからは、あっという間だった。

 父の言う通りに、私はお腹の子をおろした。

 あと少し遅ければ産まなければならないくらい、お腹の子は大きくなっていた。

 不思議と愛情は無かった。残ったのはお腹の子への罪悪感だけ。

 酷いやつだと思った。亡きお腹の子を想い涙を流すこともなかった。

 男達は裁判で裁かれ、今も懲役している。

 父と母は離婚をし、母は荷物をまとめて、家を出た。

 親権は父に委ねられた。

 その後、母がそうなったのか、父は私に教えてくれない。

 父は母と離婚した後、すぐに大学の同級生と再婚した。

 私は、父が許せなかった。だって母も寂しかったのだ。辛い思いをしてきたのだ。父は再婚したのは私の為だと言った。新しい母も私のことを案じていると。

 そんなのいらない。私にとっての母はあの人だけだ。

 引っ越しをして、都内の別の中学校に通った。

 父と新しい母と、私。三人の新しい生活が始まった。

 会社の近くに住み、仕事で忙しい父もなんとか時間を作って、夜中には帰ってくるようになった。

 居場所なんてなかった。新しい家庭に馴染めない私は、塞ぎ込んでいった。

 新しい学校では、男子生徒によく告白をされた。

 きっとそういう年頃なのだろう。でも、必死の告白も、小恥ずかしいラブレターも、嫌悪感しか込み上げてこなかった。

 男なんて汚い。どうせ男なんてあの男達と同じようなことしか考えていない。そうとしか思えなくて、私は声を掛けてくる男達を無視するようになった。

 ある日、私はクラスの中心にいる、気さくな女の子に声を掛けられた。

 藤原夏樹さんに似た、笑顔の似合う女の子だった。

 声を失い話すことの出来ない私を、その子はいつも気遣ってくれて、一緒に過ごすうちに私はその子に惹かれていった。

 ある日、私はその子に自身のことを話してしまった。

 傷だらけの身体のこと。男達の慰め物になっていたこと。妊娠して子供をおろしてしまったことを。誰かに慰めてほしかったのかもしれない。誰かに聞いてほしかったのかもしれない。今までひたすらに隠してきた、その子への想いも告げてしまって、その子とは気まずい関係になってしまった。

 噂はすぐに広がった。

 その子が、私のことをよく思わないクラスメイト達に、私のことを相談してしまったみたいだ。

 先生も、クラスメイトも、学校中の生徒や教師が、私のことを変な目でみるようになった。

 学校では「人殺し」や「ビッチ」と呼ばれるようになった。

「一回ぐらいやらせろ」と、三年生の先輩に迫られたこともある。

 物を隠されたり、暴力を振るわれたり、服を脱がされたり、クラスメイトにいじめられるようにもなった。

 何度も死のうとした。沢山の錠剤を飲み込んだり、首を吊って死のうとしたりもした。でも何度死のうとしても、上手く死ねなくて、少しでも自分を満たす為に、私は人目に付かない箇所に自傷するようになった。

 自殺未遂を繰り返し、自身の身体を傷つけながらも生き続けて、私は自身の進路を決めなければいけなくなった。

 進路を決める時、初めて自分から新しい母に話しかけた。

 どうか都外の、私のことを誰も知らない地方の女子校に進学したいと。

 初めてのお願いに、新しい母は私のことを心配しながらも、父に懸命に進言してくれた。

 父も私のお願いを受け入れて、別荘のある地方の女子校に、条件付きで進学すことを許可してくれた。

 その条件が、マリアとの出会いだった。

 勿論、「マリア」という名は偽名で、彼女自身が名乗った名だ。

 マリアは、たまに家に来て私によくしてくれる、父の友人の娘だった。

 地方での新しい生活に向けてお互いを知る為に、マリアはよく家に来るようになった。

 塞ぎ込んでいた私は、懸命に私に声を掛けてくれるマリアを無視し、それでもしつこく声を掛けてくるマリアを嫌うようになった。

 私を気遣ってくれたあの子の影を、強く感じていたからだ。

 信じたら負けだと思った。少しでも心を開いたら、またあんな目に遭うと自分に言い聞かせた。

 でも、塞ぎ込んでいた私に向けて、マリアは言った。

「私はお給料を貰って仕事でここに来ているの。だから、私のことを無理に信じる必要はないわ。でも困ったことや悩み事があったら遠慮なく私に言って欲しい。あなたが幸せに生活できるように見守り、サポートすること。それが私の仕事だから」と、

 その言葉に、私は思わず涙を流していた。

 無理に信じる必要はないと、給料を貰っているから見返りはいらないと、その時の私にとって、それは信頼することのできる言葉だった。

 張り詰めていたものが消えて、私は少しずつマリアを受け入れるようになった。

 都外にある別荘にマリアと引っ越して、私は聖月学園に入学した。

 入学式の後、周りに怯えながらも、声を掛けてきた生徒の話に、必死についていこうとする、背の小さな女の子を見かけた。

 あんなに小さいのに、一生懸命笑顔を作って、話しについていこうとする彼女から、何故か目が離せなかった。

 上手くいって欲しいと思った。楽しい学校生活を送ってほしいと、他人のはずなのに、何故か心の底からそう思ってしまった。

 塞ぎ込んでいる自分が情けないと思った。

 それでも、変わりたいとは思わなかった。

 マリアから行きつけの喫茶店で、同じ聖月学園の子が働いていると聞いた時、私はそれほど興味を示さなかった。

 友人を作り気も、誰かに良く思われようとする気も、微塵も湧いてこなくて、でも、その子が入学式の時見た、背の小さな女の子だと知った時、私はマリアに食い付くように話を聞いた。

 学校での人間関係に悩んでいること。

 母子家庭で、少しでも母の負担を減らすために一生懸命働いていること。

 あなたの話を聞けば聞くほど、あなたのことを知れば知るほど、私はあなたと話をしたいと思うようになった。


 二年生に進級して、私はあなたと同じクラスになった。

 あなたが私と同じ芸術科を選ぶことは、マリアから聞いていた。

 何度も声を掛けようかと思った。あなたのことをずっと目で追いかけていた。

 初めてあなたに声を掛けられたとき、私は戸惑って、どうすればいいかわからなくて、あなたを無視してしまった。

 マリアからあなたが酷く落ちこんでいると聞いて、あなたには申し訳ないけれど私は嬉しかった。

 あなたと音を奏でた時、生きていてよかったと初めて思えた。

 こんなに満たされることがあるなんて知らなかった。

 あなたに近づけば近づくほど、私はあなたのことを好きになっていって、それと同じくらい怖くなった。

 いつか、あなたにあのことを知られてしまうのではないかと。

 またあの時の様に、酷い目に遭うのではないかと。

 藤原夏希さんのことは嫌いだった。

 私のことを言いふらしたあの子に似ていたから、あなたをとられてしまうようなそんな気がしたから。

 あなたに身体の傷を見られたとき、私は怖くなった。あなたが私の身体の傷のことを藤原さんに相談するのではないかと。そして藤原さんはあの子のように、私の身体の傷のことを言いふらすのではないかと。

 そう思うとどうしようもなく怖くて、なんとかしてあなたを私のものにしたくて、

 私はあの時、あなたの首を絞めてしまった。

 いつからか私は、あなたの気持ちを考えずに、不安や嫉妬に囚われるようになった。

 抑えがきかなかった。あなた以外何もいらなかった。

 でも、それは間違いだった。

 縋る私に、苦しそうに取り乱すあなたを見た時、私はあなたをどれほど苦しめて、傷つけていたかを思い知った。

 もう、関わるのをやめようと思った。

 あなたを、これ以上傷つけたくなかった。

 それでも、あの時の約束を果たさないといけないと思った。

 藤原さんに頭を下げて、私の代わりに看病をして欲しいとお願いした。

 あなたに寂しい思いをして欲しくなかった。

 夏希さんに断られて、あの時の約束を果たすことを諦めた。

 せめてもの思いで、お見舞いの品をドアに掛けておいた。


 念入りに調べて、死ねる方法を見つけた。

 致死量に達するほどの錠剤を、上手く摂取する方法を見つけることが出来た。

 未練は無かった。不思議と、すがすがしい気持ちでいっぱいだ。

 

 あなたがいなくなって初めて気がつきました。

 こんなろくでもない人生だったけれど、

 あなたと過ごしたあの日々は、本当に幸せだったと。

 あの時の約束を果たせなくてごめんなさい。

 沢山苦しめて、傷つけて、ごめんなさい。

 どうか私のことなんか忘れて幸せな日々を送ってください。

 今までありがとう。

 そして、ごめんなさい。

 さようなら。お元気で。

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