frozen chameleon in the love

鹿路けりま

frozen chameleon in the love

胎児

 これまでのところ、君はつねに自分自身の代理であろうとつとめてきたので、自分のほんとうの生活、ほんとうの居場所は、どこか別のところにあるような気がずっとしていた。だからいつも不幸だった。


 そんな君にも幸運なことに、相棒とよべる存在がいる。

 人間ではない。言葉も話さなければ身動きもしない。ただかろうじて生物ではあった。あったというのは、もう生きてはいないということだ。さらに悪いことには、凍らされている――生徒会室の片隅の、古めかしい冷蔵庫の中で。ずっと。

 冷蔵庫、というのは高等学校における希少な物資のひとつになるが、どうやら先輩たちが余った予算で購入したものなのだそうで、現在は給湯室で沸かした緑茶が常備されてあるほか、ジュースや果物、カステラなどが勝手に冷やされており、夏になると大いに重宝する。今ではそんな余裕こそないが、この生徒会室にはそういったものが多くあり、中古のデスクトップPCや、ラジオ、雀卓、サボテンの鉢などは最たる例だ。それらは中央の大きな長机の上に置かれてあるか、各種年鑑と一緒に黒檀色の棚にしまわれてあるか、木の床に放り出されてあるかしている。今日のように生徒会活動があるとき、あるいはないときにも、君はこの部屋をふらりと訪れては、複数人であるいはひとりで、ままならぬ時を過ごしてゆく。

 しかしながら――もちろんこれは、君も含めた少数の人間だけの秘密だが――窓際に設置された白い小型冷蔵庫の、めったには使われない上の扉を開ければ、溶けない霜にかこまれて、ジャムか何かの容器とおぼしき透明な硝子の瓶があり、そこにうすい緑色をした珍しいが長いあいだ閉じ込められている、ということについては、ほんとうの意味では誰ひとりとして把握する者がいなかった。なぜこんなところにあるのか、いつから放置されているのか、不思議に思わないこともないわけだが、誰に訊いてもわからないと言う。きっと相応に不条理な因果を辿ってきたにちがいないが、それを知ったところで、カメレオンの現在置かれている境遇が変わることはないだろう。ただ君が生徒会に入るより瓶詰のカメレオンが冷凍室に入るほうが早かった。これだけは確かなことだ。そしてこの単純にして堅固な事実だけが、なにか君の心を強く惹きつけるのである。不条理なカメレオン。人間界の忘れ物。

 あやしくて、どこかあわれなその亡骸は、だから君にずっと、ある特別な情を抱かせてきたのであった。


(……放課後、日が沈むころにもなると、誰もが帰るべき場所へ帰っていく。戻るべき姿に戻っていく。だがこの小さなカメレオンだけは、氷の世界に閉じ込められたまま、どこへも行くことができないのだ)


 金陽差し込む窓際にて、ひんやりとした冷気を放つ硝子の瓶を両手で持ち、それを時折くるくると回しながら、中に封じ込められたカメレオンにさきほどから見入っていた君は、だからそのとき、君にとって別の意味でな存在、森本樹里亜が開けっ放しの扉から入ってきたことにも、しばらくは気がつかなかった。おはよう、意識の外側からかけられてきたその声に、君は少なからずどきりとして身構えてしまう。というのも、樹里亜がここに入ってきたときには、そうとすぐわかるのがふつうだからだ。とりわけ君にとってはそうなので、いまあらためてその存在感に見惚れつつ、あわてて挨拶を返そうとしている。

「おはよう……ございます、会長」

 すでに放課後ではあるのだが、生徒会で顔を合わせたときには朝昼関係なくおはようと言うきまりごとなのだ。重要なことがもうひとつあって、それは君がこの生徒会においてのみ、森本樹里亜と会話するための正当な「資格」を得ることができる、ということである。そのほかの日常内ではさまざまな壁のために近づきがたい距離感が、いまあるなかでは「会長」と「副会長」という役割によって縒り合わされるために、この名目上の関係が君を守ってくれるというわけだ。もちろん君が立候補したことにそれ以上の理由はないし、こんなやり方で樹里亜の背中を追いかけ続けて、とうとう最後の任期になった。敬語の癖すら抜けないままに。

 木製の引き戸を行儀よく閉めていく樹里亜だが、その見目姿について簡単に言えば――あのころ君が淡い初恋を捧げさえもした、スクリーン上の――エマ・ワトソンをどことなく思わせる影が認められる一方、角度によってはローラのようにも見え、日本人離れした一級品の美貌をもち、本人は明らかにしようとしないが、なんらかの混血であることはまちがいない。ただし、いま挙げた二名の顔と彼女のそれとはまったくの別物である。中間点でもない。樹里亜の顔について記述することはひどく困難だ。君がもっとも尊いと感じるように天から創造されたようだと言わざるを得ない。加えて言うなら、両者と最も異なる点は、長く伸ばした髪を黒くしている、というところにこそある。もっとも地毛はブロンドなので、よくよく見ればその繊細な髪の奥所には、光り輝く金糸の縫い目をさがし当てることもできるのだが。

「なにしていたの?」と、そんな樹里亜がやさしい声で君に訊ねかけてくる。「ああ、また?」

「ええ」

 と言って、君は言い訳でもするかのように瓶を掲げ、左右に軽く振ってみせる。なんとなく気恥ずかしく思われて、ついつい身体の陰に隠してしまっていたのだ。そんななかでもカメレオンのほうは、硝子の底に貼りついているのか、傾けられても身を動かさず、いっさいの音を鳴らしていない。かわりに遠くのほうからは、練習を始めた吹奏楽部の、恋するような楽器の調べが届いてきている。

「ほんとうに物好きな人」

 樹里亜から苦笑混じりにそんなふうに評されたことについて、不意にうれしさがこみ上げてくる君なのだが、ただしそれは違うと言っておきたい。けれど適切な表現が見つからずして、かわりに出たのはこんな言葉だ。

「カメレオンは……ほんとうに面白い生き物です」

 すると、樹里亜は肩にかけていた簡素なスクールバッグを長机の上に置きながら、「もう死んでいるのに?」と問うた。でもほんものだった、と君が答えれば、彼女はああと手を打って、ほんものの死骸ってわけね、と口にして知的に微笑む。それを受けて君は、手許のカメレオンへ再度いたわるようなまなざしを注いでいる。容器に水滴がところどころ付着して、それ自身もこころなし汗をかいているかに見えるカメレオンだ。これを眺めることは、かつてトカゲやらヤモリやらを捕まえてきてはペットボトルの中に詰め、さらにそこへ水道水を注いで溺死させることに愉しみを見出していた、あの無邪気かつ残忍な少年時代のことを君に思い出させるとともに、もしこの氷が溶けたら……などという、およそ益体のない空想を君に引き起こさせもする。そう、実はカメレオンは生きていて、この氷が完全に溶けるときにはコールドスリープよろしく仮死状態からよみがえり、体色を自在に操りながら餌を求めて歩き回る、そんな姿を自分に見せてくれるのではないか……と。だがそんな君の思いもむなしいもので、実際のところ目の前のそれはとうの昔に生きることをやめてしまっているために、その身体つきは縮んでしまい、瞳は鱗に潰されて、密閉された硝子の中で扁平な置物のごとく横たわっているだけだ。ぐったりと。地に還されないのはたんに生徒会室の怠慢と、君の我欲とに過ぎない。

 どれどれ、などと言いつつ取り出した赤いフレームの眼鏡をかけると(これもとても珍しいことだ)、樹里亜は君のもとへ寄ってきて、すこし身をかがめる。君の目の前だ。そこで、しだれかかる髪を片手でかきあげつつ瓶の中を覗き込んでいる彼女の青蛾を、君は湖面をさっとすくい取る野鳥の俊敏さで見て取り、それからけっして悟られないよう細心の注意を払いつつ、ゆっくりと深く息を吸い込んでみる。これはある意味で法悦と言わざるを得ない。埃と黴のにおいは去った。そして君はまだ十八になったばかりなのだ。香気というのは、実体をもたないがゆえに、人をして実体をもとめしむる。君の目は樹里亜のうすい肩をつつむ灰いろのカーディガンの前面へと行き着く。樹里亜という人間の表紙。君の手はその見返しの感触をたしかめ、それから逸るようにひらききって、床の上にひろげ、内容をつぶさに精読してゆく。もちろん想像力の世界の話だ。

「やっぱり不衛生……いえ、不思議ね。形状といい色といい、なにもかもがナンセンス。どうしてこんなものがこの世に存在しているのかしら。ああ、でもかわいそう。気持ち悪いけれど、見入ってしまうわね」

 君の不可避的昂揚をよそに、樹里亜は片手を顎に添えつつカメレオンと睨み合ってくれている様子なので、君としてもこれを無下にするわけにはいかない。

「こいつもたぶん抗議したかったと思いますよ。なにも悪いことしてないのに、平和な熱帯林から突然こんな国まで連れてこられて、しまいには冷凍ですからね。まあ、熱帯林だって必ずしも平和かといえばそうでもないし、カメレオンは弱い生き物なので、結局すぐ死ぬんですが」

 すると樹里亜が次のようにつぶやいた。

「きっと生まれてきたことが罪と罰だったのね。この子も」

「どういう意味ですか?」

 樹里亜は微笑して君の手から瓶を取ると、それを目の前にて掲げてみせた。半分硝子越しに見られるその表情はいよいよミステリアスで、ほんとうに美しいと形容するほかないのだが、……それにくらべて、生命も色も凍りついてしまったこのカメレオンのなんと醜いことだろう。異常に大きい頭、弓なりに曲がった胴、キャンディのような渦を巻く尻尾……これらはもうたんなる物質でしかないのだ。

「まるでみたい」

 その異常な形容に思わず、えっ、と声を詰まらせてしまうのは君のほうだった。ちょっとよく見せてください、そう言って顔を近づけてみるものの、なかなかそのようには見えてこない。だが確かにこうやって仔細に観察しているうちに、だんだん部分が全体から離れていって、しまいには自分がなにを見ているかわからなくなってくるような、そういう特異的な瞬間が訪れるのはよくあることだ。その意味では主観と客観のあいだのどこかで、カメレオンは全然別の存在にも変化しうるのであろうか。そう、あの有名なロールシャッハの図のように、彼女はこの対象を見て、膝を抱えているあの姿のことを思い浮かべたのかもしれない。

「ちょっと不気味ですね」とにもかくにも君はそう返す。

「ええ、ほんとうに」

 そのように話を切ると、彼女は君の後ろをひらりと通って冷蔵庫の前にかがみ込み、カメレオンの瓶を上の扉の奥にしまってから、下の扉から常備用の冷茶を取り出して、コップを並べて注ぎはじめた。後の会議のためであろう。

 一方の君は、長机の端のパイプ椅子に腰かけて、書類に目を通そうとしながらも、その紙からはみ出している分厚い親指の肉を見て、唐突に表在化されてきた、あの異常な離人感を相手に格闘せねばならなくなっていた。――これはほとんど君の宿命といっていいものである。というのは、このせいで君はまったくのところ、他者樹里亜はおろか、自己に対してすら一向に距離を縮めることができない、という人生の背理に苦しめられつづけてきたのであるから。

 それははじめ、不意に時計の針が止まってしまったような、一瞬間が冷凍されてしまったような、自己における異様な感受として現れる。――人は文字盤のなかに時を読む。だが壊れた針は動きを見せない。おかしい、今何時だ、わからない、そういう焦りが君の内部では起っている。外にはほんとうの時の流れがあるはずなのに、君の時計にはそれがない。安定した自己があるはずなのに、君のなかにはそれがない。自分が自分のようではない。具体的には、(自分はこんなところで何をやっているんだ?)という絶対的な不信感、これがつねに意識の背面にあり、ある局面に達すると、一気に裏返されてしまうのだ。そういうとき人は「我に返った」と言う。だがそうではないのだ、返ったところで、そこには何もない。我が帰ってしまったのだ。どうするべきだろう。時計が使いものにならぬというなら、周囲の景色などを見て、推測によって補えばよいのではないか。よろしい。ではそうしよう。君は先験的ア・プリオリな理性の持ち主なので、それくらいなら容易にできる。君は順次考えていく。生徒会、生徒会室、生徒会長……そして「生徒会長・森本樹里亜と会話をしている副会長の自分」。こういうものがよく時報のかわりをはたして、君に現在を伝えてくれる。ところがこわれた時計にいくら正確な時刻を教えてやっても、それで秒針が進むわけではないように、さしあたって君には、すべてが自分をすり抜けていくように感じられてしまうのだった。そしてこの推測というのがいけなかったかもしれない。推測はどこまでいっても推測だから、このせいで君は、自分自身がと感じてしまう運命なのだ。するとどうなるかといえば、自分がどこかにいるはずだということになる。だから君は、まずこんなくそくらえの現状から脱しようと欲する。脱するためには行動を起こすほかない。ほしいものは? ――新しい時計、あるいはその電池。

(それは森本樹里亜のことではないか?)

 男は女で変わる、などという説がある。これは確かだろうか。一度ぐらい試してみる価値はあるかもしれない。君はまだ十八だ。体当たりで学ぶこともあるだろう。だが、はたしてそんなことが許されるのだろうか? 君には「自信」がない。……たとえば樹里亜はやさしい。誰にでも親しみをこめて接するし、感情の振れ幅も少なくて、つねに静謐な睫毛を揺らさない、まるで女神のような存在だ、と君は思っている。……だが、ときにはそれが空おそろしくも感じられはしないだろうか。……彼女はきっと美しすぎるのだ。せめて人間的な醜さのごく一端でも見せてくれれば、それで君の心は安まるかもしれないのに……。


 会議は滞りなく終了した。その間君はやはり自分自身の代理であった。……

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