即席風物詩
淡島かりす
夏の風物詩
夏の風物詩 -1-
空を破りそうな轟音がして、どこかに雷が落ちたことを認識する。
先ほどから降り始めた雨は、身体を冷やすどころか蒸し暑さと気怠さを助長するだけだった。非常階段に吹き込んでくる雨を蹴散らし、逃げるように鉄製の扉を開く。中に入ると、冷房の黴臭い匂いが鼻をついた。
「お疲れーっす」
「あぁ、お疲れさま」
扉を入ってすぐの事務室に顔を出せば、Tシャツとハーフパンツ姿で椅子に座り込んで防犯カメラを見ていた男が顔をあげた。
四十になるかならないかの年齢だが、彫りが深いのと服装が若いせいで五つは若く見える。
「結城君、今日入ってたっけ?」
「入ってませんけど、雨宿りです」
「雨宿りで来るなよ」
至極もっともなことを言うのは、その男が社員であるからで、言われたほうはと言えばただのアルバイトであるから軽薄な笑みを浮かべただけだった。
「いいじゃないですか、この前シフト変わってあげたでしょ?」
「まぁ、あれは助かったけど。そうだ、来週長谷部君が変わってほしいって」
「なんでですか?」
「就活」
真面目だよねー、なんて言いながら社員は煙草を取り出した。
「煙草一本下さい」
「雨宿りしたうえに煙草まで強奪すんのかよ」
「この雨でダメになっちゃったんスよ」
「本当に酷い夕立だよ。そろそろ次の客が来るころなんだけど、大丈夫かな?」
「来なかったりして」
「それだと商売あがったりだ」
繁華街の奥にある雑居ビルは、分類上は貸部屋業である。
大きさや中の設備で値段は変わるものの、少々建物自体が古いこともあって他の同業他店よりは安い。
大抵は会議室やオフ会、映画やドラマの撮影などで使われる。最近では留まることを知らないコスプレ文化のために撮影会の申し込みも多かった。
「売上、いいんですか」
「この調子ならね。先月は梅雨のせいで撮影系が軒並みキャンセル。上に叱られちゃったよ」
煙草の煙を吐き出しながら社員が嘆く。
二十五歳のフリーターである智弘にとって、人からもらう煙草は貴重である。何しろこの職場と来たら、社員も含めて全員まともな人間がいない。煙草一本ねだったせいで、三千円奢らされたなんて話も珍しくない。
つい三ヶ月前も、シフトリーダーが金を持って逃げた。額は二十万ほどだった記憶がある。普通なら警察に行って被害届でも出すような金額であるものの、誰もそうしなかった。なぜかと言えばこの店に警察が入ることを本社が嫌がったからである。
どうやら幅広く商売をしている本社としては、警察が来るぐらいなら二十万などどうでも良いらしい。
智弘は本社のことはよく知らない。一応は飲食店経営を主としているようだが、不動産もやっている。社員の殆どが元金融屋なのは、きっと未経験に優しい会社なのだろう。
何しろ部長や課長は真夏でも長袖スタイルを崩さないシャイな中年である。内向的な人に優しいのは良いことだと智弘は考える。
「あ、そうだ。結城君煙草買わない? 三個で千円」
「遠慮しておきます」
少々不可解で、それでも普通と言えば普通の職場を智弘はそれなりに気に入っていた。
「あり? お疲れ」
通用口とは逆、店舗側に出るための扉から入ってきたのはバイト仲間の
年齢は智弘より上で、そろそろ三十路に手が届く。ただあまり年上とは思えない言動が多いので智弘は基本的に年上とは見做さない。
昔バンド活動をしていた名残なのか髪の色は青に染められている。しかしながらあまり手入れをされているわけでもないため、青というよりは淀んだ藍色に近い。
「どうしたの?」
「雨宿り」
「ふーん。あ、店長。電車止まってるみたいですよ」
「え、まじで?」
社員は面倒そうに携帯端末を操作して、電車の遅延情報を見る。その傍ら、真は清掃用具を床に置き、ゴミ類を大きなゴミ箱に放り込んだ。
「雨だから床が濡れててさー」
「どの部屋?」
「十八番」
「あそこの床、すげぇすべるよな」
「この前、新井さんがコケてた。結城ぃ、なんかこの後用事あんの?」
「ないけど。スロットにでも行く?」
スロットレバーを操作する手振りをして問えば、返ってきたのは思いもよらない言葉だった。
「いや、暑気払い行こうぜ」
「しょきばらい?」
聞いたことのない単語を繰り返せば、真は「うん」と頷いた。
「暑いから」
「しょきばらいってなんだよ。ローンか?」
「ん? いや、ビアガーデンとかに言って暑さを発散させる…なんて言うんだろ」
「お前外に出たか? 天気見たか? それともズブ濡れの俺の服が見えない?」
「雨だとビアガーデン無理か」
「無理じゃない?」
よく知らないが、雨天決行のビアガーデンなど聞いたことがないので智弘はそう答えた。やっていたとしても楽しめそうにない。
「今日はそういう気分だったんだけどなー」
「普通に飲めばいいだろ」
「そういう気分でもないし、金もない」
そして真は聞かれもしないのに、金のない理由を述べる。前回はスロットだったが、今回は馬だった。勝算の低い馬に生活費の半分を注ぎ込むあたり、勝負師というよりただの馬鹿である。
「じゃあ諦めろよ。俺は奢らない」
「なんで」
「前に金貸したら、その金で後輩どもに奢ったのは誰だっけ?」
人から借りた金で奢るような人間は、智弘が知っている限りは目の前にいる男と、野口英世ぐらいだった。偉人と肩を並べることなど、そうはない。しかしながら黄熱病の治療に貢献をしていない真は圧倒的に負けである。
「なんだ、酒飲みたいの?」
携帯電話から顔を上げた社員がそう尋ねる。
「はい」
「丁度よかった。いいものがあるよ」
立ち上がって、壁際の冷蔵庫を開けた社員は中を指さす。其処にはビールのロング缶が二ダース、冷えた状態で鎮座していた。
「え、なんですかコレ」
智弘が驚いて問うと、社員は軽い溜息をつく。
「お中元だってさ。まだ時期早いと思うんだけど。部長がくれたから飲んでいいよ」
「飲まないんですか?」
「俺は個人的に貰ったから、いい。というか好きな銘柄じゃないし」
「やりぃ」
フリーター達は銘柄に拘りはあれど、金のない時にまでこだわるほどグルメではない。それに平素飲んでいる発泡酒と違って、それは安いながらも生ビール。一も二もなく飛びついた。
「部屋借りていいですかー?」
「四三号室なら使っていいよ」
一番狭い部屋の鍵を社員が放る。真がそれを上手にキャッチした。
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