第91話 まものと王子様

 交差点でアユと別れてから、わずか数分。

 距離にして数百メートル程度しか離れていない場所に位置する、とある大病院に俺は来ていた。 


「うるあ゛あ゛ああああああっ!!」


 腹の底から気合の入った低音をひり出すと同時に、入口に陣取っていたゾンビの隙だらけな首めがけて、ずっしりと重いステンレスの棒でメジャー級のフルスイングを華麗にぶちかました。

 でろんでろんに皮膚がただれたゾンビの肉をスッカスカの骨もろとも叩き潰すと、脳みそが半分剥き出しになったグロい頭部が見事に吹っ飛び、自動ドアのガラスをガシャーンと盛大に粉砕した。

 予定にないダイナミック来院を果たした俺は、近くにゾンビがいないことを確認して耳をすませる。


「聞こえる……聞こえるぞ、マユの声が。だけど……くそっ、よりにもよって、こんなでけえ病院かよ……」


 上の階のどっかにいるってことは間違いないが……何階の何号室なのか、そもそも病室にいるのかも皆目見当がつかない。

 アユが派手に戦って大半のゾンビを引き付けてくれているおかげか、はぐれゾンビがたまにいるくらいで労せずここまで辿り着けたが……このどでかい建物を片っ端から総当たりするのはクソすぎる。

 しかも、焦る気持ちを嘲笑うかのように照明が全てことごとく切られていて薄暗く、死角も多いので慎重に動かないと危険極まりない。


「つっても……とにかく探すしかねえよな……」


 こんな状況となっては聖剣エクスカリバーのように頼もしいステンレス棒を汗ばんだ手で強く握り締め、俺は階段の脇にあった院内案内図に目を通す。


「にしても、病院か……なるほどな……」


 アユの予想通りここがマユの精神世界だとして、俺の知る麗しのマユは一体どこにいるのだろうかと考えていたのだが……蓋を開けてみると答えは単純だった。

 マユが心を病み、もう一人のマユが生まれた場所……それが多分、この病院なのだろう。

 となると、最優先で目指す場所は……。


「精神科入院病棟……南棟の六階か……遠いっつーの」


 エレベーターが使えれば楽なのだが、街灯も信号機も何もかも停止していたので試すのは時間の無駄だろう。

 二段飛ばしで盛大に駆け上がって音に敏感なゾンビの注目の的になったらタイムロスどころか生命の危機なので、疲労が溜まってきた体に鞭を打ち、息を殺しながら非常灯すら消えた階段をそっと上る。


「くそぅ、ダンジョンに比べりゃ怖くないはずなのに、こんなにびびっちまうとは……」


 なんて情けねえんだ、俺は。

 今思えば、ダンジョンでは一人でいることなんてほとんどなかったからなぁ……。

 本当に最初……初めてマユと出会った時に噛まれて、愚かにも逃げ出しちまった後の数十分と……コブラソルジャー相手にヘマやって重傷を負った俺のために、マユが超神水(仮称)を取りに行ってくれた時と……パラサイトヘルズスネアに食われてマユと離ればなれになっちまった時と……そんくらいか。

 最近やっと優秀なスキルをゲットして調子こいちゃってたが、いかに自分が一人じゃ何もできない弱くてちっぽけな存在か実感させられるな。

 特にマユには何度も命を救われたし、精神的にもマユの奔放さとキチかわいさのおかげで、少しは反省すべきなくらい能天気に楽しくダンジョン生活をエンジョイできていた。


「マユ……マユ……っ」


 そんな、俺にとってかけがえのないマユと久しく会えていない。

 最後にまともに話したのはいつだ?

 もちろん覚えてるさ! 三十一日と十四時間二十五分三十八秒前だ!

 ああ、辛い……辛すぎる。

 先刻、青天目ルカと戦っていた時の、あんなわずかな時間なんて当然ノーカンだが、そのほんの少しの邂逅だけで俺のSAN値はMAXまで回復したもんだ。


 早く……早くマユに会いたい。

 やっと六階に着いた。

 永遠にも思える時間だった。

 どの病室だ?

 もうすぐだ。

 もうすぐ会える。

 もう、すぐ近くにいる。


「マユッ!!」


 はやる気持ちを抑えきれず、最後の部屋のドアを思い切りスライドさせると同時に、俺は叫んだ。

 次の瞬間、俺の心臓は二つの意味で高鳴った。

 一つは、そこに間違いなく俺の知るマユがいた喜びで。

 もう一つは……その愛しのマユの首を絞めているゾンビへの怒りで。


「こんっ……の野郎ぉおおおおおっ!!」


 人間は自分の体を壊さないよう無意識に力をセーブしているため、本来持っている全力の三割程度しか力を出せない、という話を聞いたことがある。

 が、この時の俺は明らかに百パーセント中の百パーセントのフルパワーを発揮し、ステンレス棒がひしゃげる勢いでゾンビの頭蓋骨を叩き割った。


 ――――と、俺は確信していた。

 のだが……


「なっ――――!?」


 ゾンビは舞い落ちる木の葉のようにゆったりとした自然な動きで、俺の生涯最高の一撃を一切見ることなく上体の捻りだけで難なく躱した。

 これまでのゾンビとは明らかに一線を画する、見た目にそぐわない熟練された動きだ。

 なんだこいつ……まさかの高ランクボスゾンビか?

 よくよく見ると、なぜか右手の手首から先が欠損しているが、左手一本でマユを高々と締め上げているところから腕力も並外れて高いことが分かる。

 ――だがっ!


「俺のマユから……離れろやゴラアアアアアッ!!」


 力なく腕を落として首吊り死体のようにぐったりしているマユを目の前にして、俺は理性を失った狂戦士と化した。

 頭の中から「冷静」「慎重」「堅実」といった言葉が消え去り、「殺す」の二文字が隙間なく埋め尽くす。

 といっても、勝算もなく闇雲にステンレス棒を振り回しているわけではない。

 相手は片手がなく、もう片方の手はマユの首を掴んでいるため俺を攻撃することができない。

 加えて、いくら達者な回避術を持っていようと狭い室内でそうそう逃げ回れるわけもなく――


「死ねやあああああああああっ!!」


 ついに、俺の渾身の一撃がゾンビの左肘を捉えた。

 クリティカルヒットとは言えない微妙な感触だったが、ぐじゅぐじゅの脆い腕は容易く木っ端微塵にブチ折れて、絞められていたマユがドサリとベッドに落ちる。

 今すぐにでもマユを介抱したいが……その前に俺は、左腕を失ってよろけるゾンビに追撃のドロップキックをお見舞いした。

 しかし、バックステップで軽やかに避けられる――その直前、ゾンビの腐った足が動きに耐えられなくなったのかぐしゃりと潰れ、俺の攻撃は見事にゾンビの胸にクリーンヒットした。

 吹き飛んだゾンビは窓ガラスを突き破り、口元を不気味に歪めながら遥か階下の地面へと吸い込まれていった。


「マユっ! 大丈夫か、マユっ!!」


 勝利の余韻に浸る気はさらさらなく、俺は世話になったステンレス棒を放り投げて、急いでマユの元に駆け寄った。

 倒れたマユを抱き起こし、顔を覗き込む。

 屋敷にいたマユと全く同じ顔だが……俺には分かる。

 絶対に、確実に、俺の知っているマユだ。

 だけど…………だけど、息をしていない。


「マジかよ、おい……マユ! 起きてくれ、マユーッ!!」


 声が枯れるくらい必死に呼びかけるが、いつも元気で無敵で最強で並び立つ者なしの天下無双だったマユが、これじゃまるで……死ん……


「くっ……落ち着け落ち着け、余計なことを考えるな! 今できることだけ考えろ……!」


 どうすればいい……俺に何ができる?

 ヒーリングの魔法料理はないし、リザレクションもなくなった。

 今からアユを呼びに行く? あるいはアユの所まで連れていく?

 いや、ダメだ……時間がかかりすぎる。


 ……じゃあ、もうあれくらいしか……。


 俺はマユを仰向けに寝かせると、腕を組んで目を閉じ、五秒ほどかけて昔々の記憶を辿る。

 やり方自体は学校で何度か習ったが、自分には生涯無縁であろうと思って九割近く聞き流した残りの一割を全力で思い出す。

 足りない分は勘と気合いと……気持ちだ!

 などと半ばやけくそ気味に、けれど意気込みと反しておそるおそるマユに心臓マッサージと人工呼吸を開始した。


「くっそ……こんなことしかできないなんて……!」


 胸の真ん中で両手を重ね、真上から体重をかけて圧迫……えーっと、たしか一分くらい?

 そんで、顎を押さえて気道を確保して、口から息を吹き込んで……えーっと、どのくらい? 何回?

 そもそも、精神世界でこんな応急処置をして意味があるのだろうか。

 不明点や疑問がじゃんじゃん湧いてくるが、その全てをシャットアウトして無我夢中に心臓マッサージと人工呼吸を繰り返した。


「あー……なんか……思い出すな、あの時のこと……」


 そんな場合じゃないのに、思い出が脳裏をよぎる。

 コブラソルジャーにやられて瀕死になった俺に、マユはこうして口を重ねてクソマズ回復水を飲ませてくれたっけ……。

 あの時とは立場が真逆だが、思い返せばあれが俺にとって重要な転機になった。

 俺が自分の気持ち……マユが好きだという気持ちを自覚する、大きな転機に……


「…………てん……ちゃ……ん……」


 どれだけ時間が経っただろう。

 必死だったから分からないが、ぼやけた視界の奥から、聞き逃してしまいそうなくらい小さな、小さな声が聞こえた。

 俺は自分の目にたっぷり溜まった涙にようやく気付き、慌ててゴシゴシと手の甲で拭い取る。

 そして、クリアになった世界の中心に、半ばまで持ち上げられた長いまつ毛の下から真っすぐこちらを見つめる、懐かしい綺麗な瞳が鮮やかに映った。


「ッ~~~~マ……マ……マユッ!」


 胸の奥に重く沈んでいた不安や心配が途端に霧散し、気づけば俺は神々しく温かい太陽を包み込むようにマユを抱き締めていた。


「心配させやがって……よかった……生きてて……やっと……会えて……」


 本当は、もっとカッコよく再会するつもりだった。

 本当は、もっとキザなことを言うつもりだった。

 それがどうだ?

 血がこびりついたステンレス棒を武器に、ゾンビの肉片が付着したクサだせえ恰好で、余裕のない号泣しそうな情けない顔と震えた声でカッコ悪く登場して、挙句の果てにいきなり抱きつく始末だ。

 まったく、俺ってやつはいつも肝心な時にダメダメな、どうしようもない男だ。


「……なんで……なんで、来たの……? マユは……ううん、あたしは……本当のマユじゃ……ないんだよ……?」


 いつものマイペースで自由奔放でキチかわいいマユとは違う、物憂げで消えてしまいそうな弱々しさ。

 いつもの間延びした締まりのない気が抜ける楽しそうな声とは違う、か細くてたどたどしくて儚げな声。

 しかし、不思議と俺の知るマユだという確信は少しも揺るがない。

 ここが精神世界だからだろうか……根拠はなんだと問われると、理屈じゃないとしか答えられない。


「本当のマユってなんだよ……。俺が知ってるマユは……俺が出会ったマユは……俺を何度も助けてくれたマユは、ここにいるマユだっ!」


 マユは小さく首を横に振りながら離れようとするが、俺は背中に回した両手にぎゅっと力を入れて離さない。


「で……でも……あたしは、もう……ひ、必要ないから……いちゃ、だめだから……」

「誰がそんなこと決めたんだ? 俺には必要だ。いてほしいっ。いなきゃだめだっ!」


 マユのかすれた声に、力強く答える。

 マユの目から頬を伝って零れる涙が、俺の肩にぽたぽたと落ちる。


「でも……でもっ……あたしの、せいで……てんちゃん……て、手が……だ、だから……」

「手? ああ、あんなもん、もう治った。ってか、あれは俺がとろかったせいだ。それに、マユがいなけりゃそもそも俺は生きてない。今までに何回死んでるか分かりゃしねえよ」


 どれだけマユが自分を否定しようと、俺はすぐにそれを否定する。

 マユが自分を肯定するまで、俺は何度でもマユを肯定する。


「……で……も……あたし……あたしは……普通じゃ、ないから……。魔物を……切り刻むのが、楽しくて……ぐちゃぐちゃにすると、わくわくして……食べるのが、大好きで……。ずっと、へらへらして……気持ち悪くて……おかしくて……だから……あたし、なんか……」

「だがそれがいいっ!!」


 喉を詰まらせながら途切れ途切れに絞り出した言葉を遮って、俺がそう高らかに言い放つ。


「普通じゃない? それがマユの魅力じゃないか! たしかに最初はひいたけど、そんな猟奇的で残虐的で頭がハッピーセットなキチかわいいマユと一緒にいるのが、今じゃ楽しくてわくわくして心地良くて、つまり、あれだ、そう……俺はマユが大好きだっ!!」

「っ…………てん……ちゃん……」


 マユの手から、俺を引き剥がそうとする力が徐々に抜けていく。

 こうしてはっきりとマユに好きと伝えたのは二……いや、三回目か。

 一回目は……超回復水の副作用でラリった時になんかノリで叫んでぶっ倒れた、最悪の黒歴史。

 これは忘れていいな。

 二回目は、つい数時間前……青天目ルカ相手に神風特攻を仕掛けながら叫んだ、完全に死亡フラグ以外のなんでもない愚行。

 実際、速攻で死んだし……これもなかなか酷いな。

 とにかく、まともな状況でちゃんと想いを伝えたのは、よく考えると初めてだ。

 ゆえに、当然ながら相手からのリアクションもこれが初めてなわけで……。


「…………あたし……本当に、みんなと……てんちゃんと、一緒にいても……いいの……?」

「当たり前だ! ずっと一緒にいてくれっ!」

「こんな……迷惑ばっかり、かけちゃう……気味が悪い……化物みたいな、あたしでも……いいの……?」

「誰も嫌がるわけがない! みんなが一緒にいたいと思ってるっ!」

「……………………あた……し…………」


 声を詰まらせてすすり泣くマユの背中を、幼い子供をあやすように優しくさする。

 俺の肩に顔を埋めていたマユが、静かに顔を上げて俺を見る。


「………………あたし……あたし……ね……」


 悲痛に満ちた顔をくしゃっと歪ませ、溢れ出る大粒の涙で瞳を震わせるマユが、嗚咽を堪えてぎゅっと引き結んだ唇をゆっくりと緩めた。


「元気な、サユも……心配性な、アユも……不器用な、パパも……面倒見がいい、陽芽ちゃんも……みんな……みんな、大好きで……」

「うん……」

「でも……でも……てんちゃんは、明るくて……面白くて……楽しくて……あったかくて……こんな、こんなあたしと……一緒に、いてくれて……好きで、いてくれて…………。だから…………」


 ぎこちなく、一生懸命に、一つ一つ丁寧に言葉を選んでいたマユは、そこで口をつぐみ、迷うように目を伏せ、意を決したようにもう一度俺の目を真っすぐ捉え、そして再び口を開いた。


「だから……てんちゃんが、一番好きで……大好きで……大好きだから……ずっと……ずっと、一緒に、いたい……っ」


 そう言い終え、とめどなく涙を流しながら顔をほころばせて穏やかに微笑むマユを見た俺は、まるで露に濡れた蕾が開いて美しい花が顔を覗かせる瞬間に立ち会ったような感動に息を飲んで……えっと、つまり、要するに、簡潔に言うと……ちょっと言葉にできないくらい、かわいいと思った。

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