I. Allegro Macabre  ――死のアレグロ(アレグロ・マカブル) (6)




最後の障碍はホテルの表玄関たるロビーである。


そこは自ずと人が多く行き来し、何かをこそこそ隠れてやるには一番不適格な場所なのだが、この隠し通路や秘密の階段など後ろめたい物の一切ない公明正大なホテルに於いて、そこはどこへ行くにしても避けて通れぬ、正真正銘の関所だった。


「ひとまず、フロントの裏の事務室に運び入れるぞ。あそこだったら、少なくとも客の目に触れる危険性はほぼない」


至極まともな意見で、私とミースはしっかりと頷くと、すぐさま行動に移した。ということはつまり、ミースが先にロビーに出て辺りの様子を伺い、安全が確認され次第、私とハヅキがそそくさと遺体をホールの向こうまで運び入れることである。


「人影なし。ラジャー?」


よし今だ、と私たちは阿吽の呼吸で遺体を担ぎ上げる。


しかし、万事がそう上手くいかないのがこのホテルの常。


ロビーの中頃まで辿り着いた頃、ハヅキが急に「あっ」と声を上げ、立ち止まった。


「おっと、急に止まらないで下さいよ。ご遺体の息の根は当の昔に止まっていても、納棺夫は急停止できないんだから――どうしたんです?」


ハヅキは、身を傾げながら苦渋の面持ちで答えた。


「靴だ。ヒールが折れちゃった」


災難だ。


しかし、そこまで支障を来すほどの重大な事故でもない。兎に角、人の目がない内に、さっさとコレをしまっちゃいましょう、と私が云うと、ハヅキも頷いて、脚だけで器用にパンプスを脱ぎ始めたその時――


「責任者はアンタかね?」


と、如何にも小煩そうな顔をした紳士が、玄関から入ってきた。たしか、昨日入ったジョンソンとかいう男で、職業は弁護士だとかなんとか。


「少し話したいことがあるのだが――」


ハヅキは、露骨に嫌そうな顔をして、


「今? 今じゃなきゃダメ? そんなに重要?」


それを聴いた客人は、ぎょっとしたかのように目を見開いて怒鳴った。


「なんだって?」


流石に洒落の通じない相手だと判ったのか、もしくは単に知的階級の殿方には渋々ながらも追従するのが習性なのか、ハヅキは遺体の脚を勢いよく床に落とし、またしても私は引っ繰り返りそうになった。


「いーえ、なんでも? ようこそ〈ホテル・ニムロド〉へ! さあ、伺いましょうか? ジョンソンさん――『オーナー』のハヅキ・イェーガーです」


「アンタが責任者かね――まあいい。昨日は所要で夜遅くなって、云いそびれてしまったのだが、昨日の昼食のサラダのことだがね。このホテルの衛生管理はどうなっておるんだ?」


あちゃあ、どうやら苦情らしい。


ハヅキの経営者としての欠陥を列挙しては暇がないが、その中でも最たるものがクレームの対応で、遜った物腰のジュリオさんや如才ない対応をするキャリーならいざ知らず、たとえ自分の不注意ですっ転んだとしても、舗装が悪い重力が悪いと地面を殴りつける勢いの自己中心的なハヅキにとって、それはトロイの言語学習に匹敵する不得意分野なのだ。大人しい客だったら苦情を云いに来た客のほうが泣き出すまで云い立て、喧嘩っ早い相手なら殴り合いも辞さんというハヅキ相手に、それが円く収まる保証は万が一にもない。


数々の失態で、自らもようやくそれを学習し始めているハヅキは、わざとらしく辺りをぐるりと見回して、


「生憎、今、担当の者が出ておりますので、後にしていただけると――」


「アンタ、さっき自分でオーナーだと云わなかったか?」


と、食い下がるジョンソン氏。


「通常業務はね。でも、こうしたメンドく――イレギュラーな事態と云うか、異常と云うか、兎に角通常でない業務に関しては、専門の責任者がおりますので」


「正常な営業を維持できるように、不測の事態にも対処し改善するのが責任者の務めだろうが」


流石弁護士。理路整然と的確に、ハヅキの穴だらけで蜂の巣のような理屈の壁を打ち破ってくる。これはパターンB、順調に殴り合いのデスマッチが始まる兆しを見せている。ジュリオさん早く戻ってきて。


「では伺いましょうか、何が御不満だったんです? サラダに何があったんです、髪の毛でも入ってましたか?」


そう喧嘩腰に云ったハヅキだったが、彼女が相手の頭をチロリと盗み見るのを、私は見逃さなかった。その禿頭は、出された食べ物に毛髪が混入する余裕など一切なく、それすらもジョンソン氏の弁護士としての堅固さが、婉曲に表れていると思えた。


「髪の毛どころじゃない。チーズだ。サラダに塗してあった賽の目に切られたチーズに、明らかにネズミが齧った後があった」


「チーズ本来の穴ぼこじゃなくって? ご存じかご存じでないかは存じませんが(ハヅキは明らかに狼狽えていた)、チーズには自然と穴が開くものなんですよ」


「発酵の段階で出来た穴に、どうして齧歯類特有の前歯のギザギザの跡が付くのだね」


形勢は超不利。


しらばっくれるにしても、私らには心当たりが大いにありすぎるのだ。思い出しても欲しい、

ミースが食糧庫へと続くドアの前で、通気性の大変よろしいケージで、ハムスターと仮称された生物を飼っているという事実を。更に云うと、これはミースが余所から仕入れてきた生物では無く、彼女の管轄下である日『偶々』迷い込んできた一匹を保護しただけなのだ。つまり、ハムちゃんの取り残された一族が、未だあそこに根城を築いている可能性は大いにある。そして、チーズは常時その冷たい霊安室のような食糧庫で保管される慣わしとなっているのである。


適切な反論が何も思いつかず、呆然と固まっていたハヅキだったが、ふと手に持ったままのヒールが折れた靴に目を落とすと、それで勢いよくミースの頭を打った。スパーンっと、いい音したなあ。


頭を抱えるミース、呆気に取られているジョンソン氏を尻目に、ハヅキはようやく勢いを取り戻したのか、仕切りにペコペコ頭を下げながら捲し立て始めた。


「申し訳ございません、わたくし共も衛生管理には充分気を遣っておりますのですけれど、何分古い建物ですので、中々目の届き切らないところが多く、お客様にはご迷惑をおかけしました。他は? 他のお食事は平気でございましたか? パスタにクモの巣が入ってたり、ナプキンでハエを叩き潰した跡があったり、コーヒーの中に何か泳ぎ回ったりしていませんでしたか?」


「いや、他には何も問題は無い」


「それはよかった、今後はそのようなことがないように、細心の注意を払ってまいりますので今後とも宜しくお願い致します」


「まあ、判ればよいのだが――」


未だ怪訝そうな様子だったが、大分怒りの矛先も収まってきたようで、


「くれぐれも衛生観念には気を付けてくれたまえよ。私は胃が弱いんだ。普通の人間では当たらない食べ物でも当たってしまうかもしれない。厨房には無関係の不衛生な品物を持ち込んだりしないようにも、徹底してくれたまえ」


そう云い残してテラス席に去って行く弁護士を笑顔で見送ったハヅキは、その姿が見えなくなるや否やきちんと毒づくことを忘れなかった。


「フン――あの男の胃病は、あのやあつく煩い性格に起因してるに違いない。あの私が放り投げたニシンを食わせれば静かになるかな」


「止めてくださいよ、死体一個でもこのてんてこまいなのに、これ以上増やされたら私もその仲間入りしちゃいますよ。それは兎も角、今がチャンスです、裏に運び込んじゃいましょ」


いっせいのせ、で再び死体を持ち上げた私たちは、足早にそれをフロントの裏へと運ぶ。そこには従業員専用の札が掛かった事務所へのドアがあるのだが――


「やべっ」


「今度はなんです」


「鍵が無い」


ええー――


普段、〈ホテル・ニムロド〉に存在する数十種類にも及ぶ鍵は、総てこのコンシェルジュ席の裏の壁に並んでぶら下げる決まりになっている。しかし、規則というものは存在すれば、それを破る者、突発的に忘れてしまう者もいるわけで、たしかに事務所への扉の鍵は既定の位置に掛かっておらず、もぬけの殻だった。


「多分ジュリオさんでしょ。あの人、時々そういうポカをやるんですよ。やっぱ親戚ですね」


「どういう意味だ。少なくとも、どこかにさっさと隠さなきゃまずいぜ? ここに放ったらかして置いたら、最初の場所の数千倍、性質が悪い。そうなれば、わたしらの苦労は水の泡だ」


それは非常に困る。というかいやだ。


そう思っていると、客室へ続く階段のところを見張っていたミースが、声を上げた。


「バーはどう? 今なら誰もいないんじゃない?」


「それだ!」


またしても、私とハヅキは遺体をヨイショと持ち上げ、フロントデスク脇のバーに運びこもうとすると――


「おお、フロイライン・イェーガー!」


と、ビールグラス片手の呑んだくれとご対面。


この爺さんをさっきそっちへ追いやったのを忘れてた――


「別のかい?」


「え?」


「また、別のソヴィエト兵を撃ち殺したのかね?」


「いえ同じのですよ、残念ながら。ご愁傷様、さようなら」


そう云ってUターン。


「じゃあ厨房は?」


と、ミース。それだ、と頷く私たち。


そんなところに現れたるは、先程の胃痛の気難し屋の弁護士。何を思い直したのか、テラスから早々に引き揚げ、部屋に戻る心算らしい。


「キッチンに何を運び込もうとしているのだね?」


「なにも!」


そして再度Uターン。


ジョンソン氏は包みを指差して、


「そもそもそれはいったい何なのだね?」


ああ、もう答えにくい質問ばかりしてくるオジサンだなあ!


「そりゃあ、し……んふぅ」


「何だって?」


「だから、した……むふぅ」


「ハッキリと物を云ったらどうなんだ!」


何か言い訳のネタは無いかと辺りをキョロキョロと見回していた私たち。私はふと上を見て――


「シャンデリア!」


「へ?」


なんでオーナー、アンタが一番驚いた顔してるんですか。そりゃいきなり大声出したのは謝りますけど、ちょっとは察してくれたっていいじゃないですか。


「シャンデリアですよ! ほら、このホールの天井に、大きなフックがあるでしょ。ちょっと前に、このオーナーが南京豆を指で弾き飛ばして、あっちの花瓶にカップインさせるとかいう悪ふざけをしていたら、どんな馬鹿力か、シャンデリアの一部を欠けさせちゃったんですよ。それで修理に出してたのが、戻って来たんです」


「なんでそこはホントのこと云うの――」


小声で涙ぐむハヅキ。


仕方ないでしょ、そんな今日吐いたどんなウソよりもウソ臭いホントの話、強烈過ぎてこの状況じゃそのまま出てきちゃいますよ。


「シャンデリア? にしては、奇妙な形だが――L字型とは珍しい」


「でしょ?」


と、今度はオーナーが乗った。


「最近のベイベルの流行なんですよ、こうした古色蒼然とした調度品の中に、一つ目立つところに思いっきりモダンでシャレオツなインテリアを飾るのが。前はここにもアトモスフィアにジャストフィットのアンティークのがあったんですけれどね、これをチャンスに、思い切ってビビッドでアヴァンギャルドでナウいモダニズムに溢れる物に交換してみようと思いましたのよ」


途中から横文字だらけで何が何か判らない上に、ところどころ死語が混ざる。ベイベル人は、得てしてそう云った流行の言葉とか物言いからは、完全に取り残された浦島太郎状態に陥り易い。


「ほう、それは興味あるな、どれどれ――」


「ダメ! しっ!」


純粋な好奇心に眼を輝かせ、シーツを捲ろうとするジョンソン氏に、ハヅキはまるで犬の躾のように威嚇した。


こういう時のオーナーは中々迫力がある。その証拠に、あのジョンソン氏が、まるで先生にイタズラが見つかって、しょぼくれる男の子のようになってしまっているではないか。


ハヅキは鬼気迫った表情で、過呼吸気味に一語一語、言葉をひねり出した。


「今、見ると――爆発、しますよ」


ひっ、と声をあげるジョンソン氏。


「それでも――見たい?」


首を大きく横に振るジョンソン氏。


「じゃあ――見ない?」


今度は縦に振るジョンソン氏。


「そ、そろそろ私は部屋に戻らせて頂くかな――みなさん、シャンデリアの吊り上げ頑張って。あ、後で楽しみにし、してますよ」


と云い残す言葉も震え声。


この人、態度こそ大きいが、根本的には女性恐怖症なんじゃないだろうか、と思った。判るよ、ここの女連中、特に逞しいものね。ジョンソンさん、意外と家では恐妻家で、奥さんの尻に敷かれてそう。いや、絶対敷かれてる。


先程までの私らどころじゃないへっぴり腰で、情けなく退散するジョンソン氏の背中を見送ると、どっと疲れた様子で溜息を吐くハヅキ。


「あー疲れた。マジもう無理。マジでシャンデリア代わりにこれ、ぶら下げちゃおっか」


そんな時、突然玄関の方でゴトッと音がして、私らは跳び上がって一斉にそちらを向いた。


それは、園芸以外には一切興味を示す素振りもない、植物と半分同化していると思われる庭師のノーベリー爺さんが、戸口の前に大きな高枝用の梯子を置くだけ置いて、どこかへ去って行くところだった。


「エドゥ」


いつになく、畏まった声音で喋り始めるハヅキ。いやな予感しかしない。


「いやですよ」


「まだ何も云ってないぜ」


「何も云わなくても、よっぽどのバカでもなけりゃ、ロクでも無いこと云い始めるってことぐらいは判りますよ。ここで三ヶ月も過ごしてりゃ」


「わたしと君の仲じゃないか」


「あなたとの縁も七十五日ですよ」


「わたしの存在は噂かなんかか。いや、頼むよ、マジで」


「いやですって」


「お願いしますって」


「絶対いや」


「こんなに頼んでも?」


「どんなに頼まれても揺らぎませんね」


「絶対? 話だけでも聞く気ない?」


「くどい。どうせトンデモナイこと云い始めるのは目に見えてますし、どんなに頼まれても、せがまれても、泣き付かれても、脅されても絶対いやですよ」


「じゃあ――」


私の耳元目掛けて、そっと顔を近づけるハヅキ。


近い近い。


思わず顔に熱いものが流れ、ストロベリーブロンドの後れ毛と、仄かな香水の香りが鼻孔をくすぐる。


そして、耳元で囁くは甘美なる悪魔の誘い。


ほんの一言、けれどそこに森羅万象総ての言霊の力が凝縮されていると云っても過言ではない、とっておきの呪文。



…………。



「――判りました」


そう云って、私は一人でご遺体を、乱暴に首の辺りを引き摺って、屋外を目指した。


人間、誰しも弱点の一つや二つはある。その箇所をピンポイントで的確に打ち抜けば、ギリシャ神話の英雄アキレスが腱を切られて崩れ落ちたように、簡単に均衡を崩すものなのである。私は、必ずしもそれを悪と思わない。完全無欠の美女よりも、ちょっとくらい問題があったり、崩れているパーツのある女性のほうが時に魅力的に見える場合があるのと同様、弱点とは人間を人間たらしめている所以でもあり、人の長所を際立たせ、より人間らしく魅力的にしてくれるエッセンスのようなものなのだ。


何が云いたいのかって云うと――


仕方ないじゃない!



三ヶ月分の重労働と引き換えの俸給と同等の金額を提示されたら、言いなりになるしかないじゃない!



画して、人間は犯罪の片棒を担がされるようになるのである。




少なくとも大金が剥き出しのハヅキの言霊は、私の自制心と云う自制心を総てかなぐり捨てさせ、ノーベリー爺さんの梯子とついでに荒縄をちょいと拝借し、ホテルの裏手の一階分屋根が低くなっているところまで死体を引き摺り、六十キロは軽くある物体を荒縄で括りつけて梯子を昇り、煙突部分にしっかり荷物を巻き付けて固定することを忘れずに、何食わぬ顔で口笛吹きながらそっと借り物を元の場所に戻す――その一連の大作業を、肉体の疲労を感じさせる間もなく成し遂げさせてしまうだけの効力を持っていたのだ!




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