第6話 七夕
スランプに陥った選手のように負け続けた。言うまでもないがテニスのことではない。雪だるま式に増える黒星はそのひとつびとつがテニスの試合なんかよりもはるかに重く、俺のメンタルはずたずたに引き裂かれた。
暗澹たる気持ちで七夕初日の金曜日を迎えたと思うと、すぐに最終日の日曜日になってしまった。祭りはまだ終わってないが、完全に後の祭りである。いや七日の夜を木戸、大場、日野の三人と過ごすのはもう祭りでさえない。俺は調子が出ない時に苛立ちをラケットにぶつけるごとく、見つけ次第我門に怒りをぶつけてやろうと鼻息荒く家を出た。
外はすでに夜の帳が下りて、自分にとっては少しもロマチックでない星までちらほらしている。完全に歩行者天国と化した中央地下道をのろのろ潜ると、無数の屋台が投げかける明かりと人々のかしましい声が、線路の北側をまったく別の世界を作り上げていた。
地下道を上がった先では、すでに三人が集まっている。
「おお、来たか」
「テンション上がらんわー」
「何ポンドくらい?」
「10に届かへんな」
「マッケンローもびっくりだな」
ジョン・マッケンローといえば、ガットを限界まで緩く張ったことで有名な選手である。彼はその低いテンションのラケットで年間勝率96・5%という驚異的な記録を叩き出したが、今の俺たちの低いテンションから何も生まれないのは火を見るより明らかであり、その事実は正視に堪えない。
「坂上がまた陣子になれば?」
「日野、それ言わんとき。横隔膜がせり上がるわ」
「とにかくテンションを上げることだな」
「それならやっぱり酒が近道だねぇ」
「だな」
俺たちは雑踏をかき分けながら、駅前通りを駅の方へ向かって歩き出した。
何だかんだ言っても、そこかしこを歩いている浴衣姿の女の子たちを見るためだけでも来た価値はある。そういえば、俺の誘いを断った女の子たちも来ているかも知れない。
フランクフルト、焼きそば、もちポテト、タコ焼き、ベビーカステラ、お好み焼きと食べ歩きながら、俺たちはコンビニに立ち寄った。
「さてさて、何にしようか」
「ジャックダニエルなんか、どう?」
「バーボンを瓶ごとラッパ飲みしながら、歩いとる高校生なんか、そうはおらへんやろな」
「俺はウーロン茶」
「相変わらず真面目だねぇ。少しは息抜きを覚えたらどうだ?」
日野は挑発をフォルトしたサーブのように無視して、ウーロン茶を買いにレジへ行く。俺たちは散々物色した挙句、結局金銭的な理由から各々チューハイを買って再び外に出た。
一応飾りも見ておくことにして、コンビニの通りから一本北の道へ出る。道の両脇に並ぶ竹からは巨大な飾りがぶら下がり、頭上にひしめき合うそれらの飾りは元から見えにくい天の川を完全に見えなくしていた。正に織り姫と彦星そっちのけのお祭り騒ぎである。
頭上の飾りから長々と伸びた吹流しはカーテンのように地面すれすれまで垂れ下がっていて、それをかき分けないことにはとても前が見えない。人ごみと吹流しにもみくちゃにされながら歩いていると、アルコールと高い気温と人口密度のせいで体が火照ってくる。やや上がってきたテンションに任せて、雄叫び共に前方の吹流しに突入しようとしたら、突如そこから堀川さんが現れた。
「堀川さん」
フォルトボールに対する線審さながらの反応で俺は声を上げた。
「あ、坂上くん」
薄いピンクの地に何だか分からない花が咲き乱れている浴衣。赤い帯。お団子に結った髪。大和撫子の見本がそこにいた。
プロのテニス大会は賞金総額によってカテゴリ分けされている。例えば男子テニスでは上からグランドスラム、ATPワールドツアーファイナル、ATPマスターズ1000、500シリーズ、250シリーズというようになっている。勝った時に得られるATPポイントという世界ランキングを決めるためのポイントも、カテゴリが上位の大会になるほど大きい。だから当然トーナメントカテゴリの高い大会にはプロの中でも上位の選手が集まるのである。そして、日本における最大の男子プロテニス大会である楽天ジャパンオープンは500シリーズに該当しているのだが、もし外務省のホームページにこうした浴衣美人の写真を大量掲載すれば、楽天ジャパンオープンにはもっとたくさんのトッププロが来るのではないだろうか。なんと言っても彼らだって男である。そうして世界ランキング上位者の出場が定着すれば人気も出て集客率も上がり、つられて賞金総額も上がり、大会のレベルも500シリーズなどと言っていないでマスターズ1000、いやグランドスラムまで格上げされるかも知れん、と妄想してしまうくらい堀川さんの浴衣姿は可愛かった。
「浴衣、すごい似合ってるよ。学校にも是非それで来てくれ」
「ありがと。でも、さすがに学校には……」
「美穂、待ってよ」すぐ後ろから原さんと城崎さんが出てきた。「あれ、坂上くんじゃん」
原さんは紺色にバラ模様の浴衣、城崎さんのは黒地に蝶が飛んでいる。
「いやぁ、三人とも似合ってるね」
「ふふ、ありがとう。坂上くんは誰と来てるの?」
「詰まらない野郎どもさ」
「お前も同類やろが」
「良かったら、写真撮らない?その友達も一緒に」
原さんはスマホを振って言った。
「いいね。こいつら入れないで撮」
「えな、撮ろ、撮ろ」
木戸は俺の言葉を掻き消すように声を張った。
道の端に寄って、そばにいた女の人にシャッターを頼んで撮影を済ますと、堀川さんたちは俺たちとは反対方向へ歩いて行った。そのまま一緒に行こうとした俺を、すかさず木戸と大場が抑え込んできた。
「抜け駆けはさせへんで」
「離せ」
「諦めろ」
俺たちは再び男四人の七夕という、一説には照り返しのきついハードコートよりもむさ苦しいと言われる状況に戻った。少しでも痛苦を和らげるためにかき氷を買い、しゃくしゃくやりながら歩いてみたが、あまり効果を実感できない。途中で黒い浴衣を着た渡見さんを見かけたが、傍らを歩く彼氏に敬意と殺意を込めつつ、敢えて素通りした。
「退屈やな。何か変わった屋台ないんかいな」
「我門も見つからないしな」
「相当警戒してるんじゃないか」
「警戒して当然でしょ」
駅から北へ真っすぐ伸びる道を歩いている時、ふと、やけに巨大な屋台が目に留まった。どこかの会社の駐車場をいっぱいに使ったその屋台の看板には虫取り網のようなイラストが描かれ、『コーンを狙え』とゴシック体の文字が躍っている。屋台の前は黒山の人だかりだ。
「虫取り網でトウモロコシでも捕まえるのかね?」
「いや、あれテニスラケットじゃない?」
「マジか?」
「ぽいな」
「おもろそうやん、行ってみよか」
人ごみをかき分けて最前列まで来ると、ようやく広い屋台の中が見渡せた。ボーリングのレーンのように縦長に仕切られた四つのスペースがあり、それぞれ『ボレー勝負』、『サーブ勝負』、『ストローク勝負』、『スーパーショット』と看板がついている。『ボレー勝負』のレーンでは白地に金魚柄の浴衣を着た女の子がラケットを握って構えていて、その近くでもう一人の女の子がその様子を見守っている。浴衣とラケットの取り合わせは個人的に意外と違和感がないが、とてつもなく動きにくそうだ。しかし驚いたことに、その女の子は草履で軽くスプリットステップをしている。
それにしても傍で見ている女の子といい、見覚えがあるな。
奥のボール出しマシーンからボシュっと音を立てて球が飛び出した。女の子は丁寧に面を合わせて模範的なボレーを打ったが、前に並んでいるコーンには当たらなかった。
「くぅ、外したぁ」
「惜しかったね。はい、お姉ちゃんは合計一点だから、この中から選んでね」
小さい景品が入った缶を店主に渡された時、その子の横顔を見て俺はやっと合点がいった。
「橋本さん、鈴谷さん」
「わ、坂上くん。それに木戸くんたちも」
「何なん?これは?」
「飛んできたボールをボレーしてコーンに当てるの。三球やってその合計点で景品が決まるんだけど、中々難しくて。あの大きいパンダのぬいぐるみを狙ってたんだけど」
橋本さんが指さした先には9点と書いた台があり、大型の景品が並んでいる。
「9点というと、満点かな?」
日野が前方に並ぶコーンを見て言った。
なるほど、大小様々なコーンには1から3の数字が書いてある。にしても、3のコーンは見たこともない小ささだ。およそテニスボール一個分くらいか。
「そうなの」
かつてない、身を切るような悔しさが込み上げてきた。
何故、俺は今、この瞬間、テニスを忘れているのだ。こんな時に使えないようでは、後にインターハイに出場できるくらいの腕前になったとしても、まったく意味がない。
「ふーん。おっちゃん、ボレー一回やらせてや」
少しコーンを見ただけで木戸は言った。
「まいど。八百円ね」
金を払った木戸が渡されたラケットは、どこかのデパートで売っていそうな物をさらに使い込んだ代物である。
「八百円とは高いな。そんなラケットで大丈夫か?」
「まあ問題ないやろ」
木戸はレーンの真ん中に立った。よく見ると一メートルほど前に張ってあるネットは紐をセンターストラップ代りに使い、真ん中が少し低くなっていて無意味に凝った作りである。
「君、レフティか。その位置だと、バック側にボールが飛ぶよ」
「かまへん、かまへん」
「そうかい。じゃあ、いくよ」
ボシュ、と一球目が飛んできた。木戸は軽くステップして肩口でボールを捉え、見事に真ん中あたりの3点コーンを吹っ飛ばした。
「わあ、すごーい」
橋本さんと鈴谷さんが感嘆の声を上げる。
ボシュ。
すぐに二球目が飛んでくる。今度は少し低めで捉えて、一番奥の3点コーンを倒す。腹が立つくらいボレーが上手い。危うく声を上げて邪魔をしそうになる。だが最後の3点コーンはネットからほとんど離れていない。さすがに木戸でもあれは無理だろう。
ボシュ。
三球目はさらに低い位置で捉え、ラケットを引いて勢いを殺すのかと思いきや、木戸は限界まで薄い当たりで思い切り振り抜き、強烈なスライスをかけた。
ジャッ、とガットのずれる音が響くとボールの勢いは完全に死に、音が聞こえそうなくらいスライス回転がかかった球はゆっくりとネットすぐ向こうへ沈んで、最後の3点コーンに直撃した。
一瞬、後ろの野次馬たちまで沈黙した。
カランカラン、と思い出したように店主が鳴らしたベルで再び音が戻ってくる。
「いやあ、参ったね。すごい腕前だ。さあ、景品を選んでくれ」
「あのパンダくれや」
木戸は恐ろしく似合わないパンダのぬいぐるみを受け取って、こっちへ戻って来た。
「ほいよ」
いかにも何でもなさそうにぬいぐるみを橋本さんに渡す木戸には誰だって虫酸が走るだろう。もちろん俺だってそうである。
「いいの?」
「俺はいらん」
「あ、ありがとう」
橋本さんの木戸を見る目がぽーっとしているのは気のせいだろうか。気のせいだろう。断じて気のせいだ。
「お前、最後のまぐれだろ」
俺は我慢できずに口を挟んだ。
「阿呆、実力や」
「楽しそうだな。おじさん、サーブ勝負ってどんな?」
大場が店主にたずねる。
「基本的には同じだよ。三球サーブを打って、奥のコーンを狙うんだ」
「でも、全部同じ大きさのコーンだけど」
「点数が高いほど下が重くなって、倒れにくくなってるんだ。サーブ勝負は倒さないと点にならないからね。3点コーンは半端なサーブじゃ倒れないよ」
商売上手と言うのか、店主の口調が妙にこっちのチャレンジ精神を煽るものになってきた。
「よし、やろう」
「はい、毎度。八百円ね」
大場はラケットとボール三球を受け取った。
どうも天井の高い屋台だと思ったら、サーブのトスを考慮しているのか。このレーンはネットの向こうにラインまで引いてある。きっと、ネットまでの距離もかなり正確なんだろう。何という凝り性だろうか。
大場はコーンを見てから左手でボールを二、三回バウンドさせて構えた。
どれを狙うつもりだ。3点はセンターとワイドの端、そしてワイドの少し浅め。ワイドの浅めはフラットじゃあ、厳しいだろうな。
大場がトスを上げた。
随分左だ。スピンで狙うつもりか。
反り身になった大場の体が伸び、次いで腕が伸びて、いいインパクト音が響いた。
打ち出したボールはネットを越えたあたりで急激に重力が増したように沈み、一番浅い3点コーンに当たって鈍い音を立てる。
コーンはグラリと傾き、中途半端な角度で一瞬止まる。思わず固唾を飲んで見ていると、そのままコトリと倒れた。
「いやー、危なかった」
大場は深く息をついた。
「ギリギリやな」
「でも、一番の問題は片付いたね」
今度はやけにリラックスして、真っすぐトスを上げる。
スパン。センターに凄まじく速いサーブを決め、3点コーンは一メートルほど吹っ飛んだ。すると周りがまだ驚いているうちに、大場はすぐに次のトスを上げてワイドに同じくフラットサーブを決めると、3点コーンはあっけなく全て倒れてしまった。
カランカラン、と店主はベルを鳴らしたものの、表情には硬いものがある。
「鈴谷さん、何か欲しいものある?」
三球目を打ったのと同じくらい不意に大場が言ったのには、さすがの俺も文句をつける余裕がなかった。
「え、だって大場くんは?」
「いいの、いいの。俺はこれで遊びたかっただけだから」
嘘つけ、カッコつけが。大真面目のど真剣に3点コーンを狙いやがって。
「ありがとう。じゃあ、あれ」
鈴谷さんは大きい星型のクッションを選んだ。
すでに俺のフラストレーションはいかなるテニス不調時をも凌ぐほどに溜まっていた。何故もっと難しい設定にしないのか。すんでのところで店主のおじさんを罵倒しそうになりながら、気がつくと生まれて初めて悔しさのあまり歯ぎしりをしていた。
「それじゃあ、俺の出番だな」
日野が進み出る。
「もう贈り物をする相手はいないぞ」
「俺はあの大きいテニスボールが欲しい、部室のインテリアに。ストローク勝負はどういうルールですか?」
「これも同じさ。ただし、ノーバウンドで打つのは無しだ。やるかい?」
「やります」
「はい、毎度」
と言ったものの、店主のおじさんの声は大分不安そうである。
それとは対照的に、日野は気楽な様子で用意された場所に立った。
ボシュ、と出てきたボールにはおかしなくらい回転がかかっている。きっと、マシーンの機能の最大限だろう。ちょっと卑怯じゃないか、と思ったが、バウンド後に異常な伸びを見せるそのボールを日野は難なく打ち返し、3点コーンに命中させた。
パカン、パカン、とテンポよく打ち返して3点コーンを全部倒した時には、何だか日野の方が卑怯に見えた。
「あのテニスボール下さい」
「はいよ」
日野に景品を渡したおじさんは目に見えて意気消沈している。
「やるやないか。あの球、ごっつ回転かかっとったやろ?」
「うん。最後のはちょっと危なかった」
「日野くんもすごい」
「ナイスストローク」
橋本さんと鈴谷さんのこの言葉で俺の我慢は限界を超え、頭の中でガットが切れるように何かが切れた。
「おっさん、スーパーショットって何なの?」
「ああ、これは股抜きショットだよ。そこの上のレールからボールが落ちてくるから、それを股抜きで打ってコーンを狙うんだ」
「千、五千、一万ってコーンに書いてあるけど?」
「このゲームだけは現金が景品だからね」
店主はボソッと、独り言のように呟く。
「よし、勝……」
「ちょい待ち。陣、股抜きは止めとけや。失敗したら、色んな意味でごっつ痛いで」木戸は小声で口早に言いながら、顎で橋本さんや鈴谷さんの方を、そして後ろにいる人だかりを指した。「サーブでもストロークでもええやんか」
「二番煎じは御免だ」
俺はきっぱりと言っておじさんに八百円を払った。
「阿呆が。知らんで」
受け取ったラケットは元グリップのままで、細い上にごつごつしていて驚くほど握りにくい。あいつら、こんなラケットであんなプレーをしたというのか……いや、使ってみると案外使いやすいのかも知れん。
店主のおじさんに言われるままに、天井に架かっている流しそうめん台のような半分に切られた筒の真下に入って、コーンに背中を向ける。木戸、大場、日野が無駄にいいプレーをしたために、ボレーやサーブに挑戦している人がいるにもかかわらず、野次馬たちは俺の方に視線を集めている。この程度の注目で煩わしいのだから、センターコートで試合をするプロはすごい精神力だな、と考えていたら「いくよ」とおじさんが声をかけた。
筒を見上げていると、端からボールが落ちてきた。俺は落下地点を予測しながら、限界までボールに近づく。回転のないボールはほとんど真上に弾む。さらに距離を微調整する。ボールが落ちるのを待って、待って、待って……今だ。
股抜きショットとは、その名の通り、ネットに対して背中を向けた状態で開いた両脚の間からボールを打ちだす、甚だエンターテイメント色の濃い打ち方である。しかし地面すれすれから飛んでくるボールの軌道は読み辛く、また打つ時の体勢上フラットな当たりになるためにスピードが出るので、存外ポイントを取れることも少ないわけではなく、実際にプロが股抜きでウィナーを取ることはままある。その際、彼らは普通のストロークを打つように軽々と股抜きショットを放つのだが、それは彼らがプロだからであり、決して股抜きショットが簡単なのだからではない、ということをストレスから忘れかかっていた俺は、躊躇なく振り抜いたラケットで玉を打った。球でなく玉を。
気がつくと俺は野次馬の笑いが爆発する中を、えも言えない股間の痛みで阿呆みたいに跳ねながら一つの単語だけを叫んでいた。
「メ、メディカルタイムアウト……」
〇
「どや、遺伝子の運び手としての本分は全うできそうか?」
「ああ、まだ疼くけど、何とか」
俺は平津加駅前のファーストキッチンの二階にてメディカルタイムアウトを取っていた。当然、傍らにはすでに男どもしかいない。さすがの俺もこの状況で女の子に囲まれて心配される惨めさには堪えかねる。
「この状況で言うのは悪いと思うけど、やっぱ言わずにはいられない。坂上、バカだね」
「うるさい」
「鈴谷さんと橋本さんも心配してたぜ」
「うるさい」
「野次馬は笑っとったけどな」
「うるさい」
何という失態だ。もう二度とラケットを握りたいとは思えない。道すがら追加で買ったチューハイをぐいぐい呷って空にする。
「あんな屋台、去年までなかったよね?」
「来年からは、また無くなるかもな。ちょっと暴れ過ぎたし」
「せやな。発想は悪ないけど、難易度が残念やったなぁ」
「いや、普通に危なかったじゃん。木戸は、最後のドロップはマジでまぐれでしょ?」
「実力や、実力。まあ何にしても、我門は見つからんけど、中々おもろかったやないか」
「面白くない。あんな屋台なんぞ滅べばいい」
まだ大声が出ない。
「まあ、お前はそやろな」
「そんじゃあ、そろそろお開きにしますか。明日の学校かったりぃな」
俺たちはファーストキッチンを出て、各々家路についた。すでに午後十一時を回った駅前通りは屋台もほとんど畳まれて祭りのあと独特の虚しさが漂っている。中央地下道を潜りながらも、俺の頭には試合のハイライト放送のように執拗に屋台での失敗が甦ってきた。
くそ、再び強烈なボールを頭に食らってこの記憶を消してしまいたい。
そう思った瞬間、首筋に突然冷たい物が触れた。アウトのコールをする線審のように叫びそうになったのを何とか堪え、振り返った俺は今度こそ軽く声を上げた。
織り姫がイチゴ味のかき氷を持って立っている。
驚いてまじまじと見ると、織り姫は毬が描かれた水色の浴衣を着た姉さんだった。
「ふふふ、びっくりした?」
もちろん、びっくりした。しかし、かき氷を当てられたことにではなく、ずば抜けた浴衣美人にである。
「どうした、驚いて声も出ないかっ」
「あ……いや」姉さんに言われて俺はハッとした。「姉さん、俺を呼び止めるなら、かき氷じゃなくて首筋にチューとかにしてよ。さもなくば、その柔らかそうなおっぱいでまふっと」
姉さんは深くため息をついた。しかし俺はもはや屋台での出来事を忘れんばかりにテンションが上がっている。ラケットには種類によって推奨テンションなるものがあり、それを超えるとフレームが変形してくると言うが、人が自らの推奨テンションを超えると変形してくるのは人格だろうか。しかし抑えたくともテンションは上がる一方である。
「ところで姉さん、まさかデートの帰りじゃないよね?」
テンションが上がってきた所で最大の懸念事項を確認にかかる。実はあまり大勢の女の子に誘いを断られ続けたために、つい臆病風に吹かれて姉さんを誘えなかったのだ。だから姉さんが今日七夕に来ていることも知らなかったし、誰と来ているのか、ということはなおさら見当もつかなかった。
姉さんは目を細めて俺を見ていたが、やがて前を向き「だったら、どうなの」と言った。
「本当に?嘘だろう?」
足元が崩れていくような気がした。今年の七夕で一体どれほどトラウマを作らねばならないんだ。誰かが短冊に俺の不幸を願ったとでもいうのか。
緊張とともに姉さんの横顔を見ながら返事を待った。無言のまましばらく並んで歩くと、姉さんは俺の方をちらと見て、ぷっと笑い出した。
「ははは、あはは、真面目な顔しちゃってー。友達とだよ」
「そうか、よかった」
はあ、と息をついて3ポイント連続で相手のマッチポイントを凌いだように安心した。安心した勢いで姉さんの肩に寄りかかる。
「ん、お酒臭い」姉さんはひらりと身をかわした。「もう、あんまり飲み過ぎてると捕まっちゃうぞ」
「へーき、へーき」
中央地下道を出ると、夜の道はまだ七夕帰りの人が歩いていて普段よりも賑やかだ。
「陣ちゃん、テニスはどーなの?」
「今やトラウマだね」
「トラウマ?」
「まあ、とにかく思い出せそうな気配はないね。初心者同然だよ。全く面白くない」
なるべくゆっくりと歩いていると、姉さんの草履の足音が道に反響する。
「君にとってテニスとは何かね?」
突然、姉さんは仰々しい口調で言った。
「難しい質問ですな」
「それが分かれば、おのずと道は開ける。若者よ、大いに悩むのだ」
悩めと言われても、姉さんのような美人が隣にいたのでは他のことに対する集中力など些かも残らない。今ならテニスボールと野球ボールを間違える自信だってある。俺は悩むふりをしながら、姉さんの浴衣姿を眺めていた。
「ちゃんと悩んでないでしょ?」
「悩むのは苦手分野でね」
「それじゃあ、神頼みにしちゃおっか?」
姉さんは手に持っていた小さな巾着から短冊とマジックを取り出した。
「どこの竹に吊るすの?」
「陣ちゃんの家の前の公園に子供会の竹があったよね。あれでいいんじゃない?」
「なるほど。それにしても、よくそんな物持ってたね」
「友達がたくさん持ってたから、何となくもらっちゃった」
「その友達もよくそんな物持ってたね……」
いつも七夕の夜は遅くまで中学生や高校生が騒いでいるはずの公園にはめずらしく誰もいなかった。気が利くではないか諸君、いつも騒いでいることはこの際不問にしよう。寛大になった心とともに俺は姉さんとベンチに座った。
「さ、書いた、書いた」
姉さんは何だか楽しそうだ。
「願い事は一つだけ?」
「そりゃあ、そうでしょ。何をそんなに欲張るの?」
「いやね、色々願いはあるからさ。例えば、姉さんその浴衣の下がどうなってるのか見たいなぁ、とか……」
「時間遅いし、もう帰ろ」
姉さんはつんとして立ち上がる。
「ごめん、待って、嘘、嘘」いや嘘ではないか。「真面目にやりますから」俺は姉さんを説得して何とかベンチに座らせた。
『テニスが思い出せますように 坂上陣』。書いてみるとなんだか訳の分からない感じになったが、これ以外に書きようがない。
「書いたよ」
俺は薄暗い街灯の下で何とか書き終えると、姉さんに見せた。
「よしよし。それじゃあ、付けよう」
「できるだけ高い所に付けようか。俺が姉さんを抱っこでもおんぶでも肩車でもするから、姉さんが付けるってのはどう?」ストロークのコースを隠すように下心を隠して、何気ない口調で言ったつもりだったが、姉さんの目を見ればそれが看破されたことに疑いの余地はない。「いや、やっぱり高けりゃいいってもんじゃないね。サーブのトスだってそうだ、うん」俺は慌てて軌道修正をした。
手近な枝に短冊を吊るすと、他の短冊に比べて大きい上に色が鮮やかなために随分と浮いて見える。
「かなり目立つな」
「陣ちゃんみたいだねぇ」
「どういう意味?」
姉さんは楽しげに笑うだけで、俺の質問に答えずに歩き出した。
「陣ちゃんに、家まで送ってもらおうかな」
星明かり下で笹の葉越しに振り返った姉さんを見て、ふと、生まれて初めて織り姫と彦星を応援してやってもいいような気持ちになった。
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