第17話
陽菜と長谷川が一緒に通勤するようになって数日、社内ではある噂が飛び交うようになっていた。
「おまえさぁ。鉄仮面と付き合ってるって、本当なの?」
本日五度目となるその問いに、陽菜はため息をつきながら、目を細めて男を睨みつける。
喫煙室と化している給湯室で同僚はたばこを吹かし、陽菜はその隣でコーヒーを入れていた。
同僚の男はその陽菜の鋭い視線にブルリと身体を震わせて青い顔になる。
「だってさぁ。毎朝同じ時間に来て、帰る時だって一緒だろ? 出勤時間が一緒なのはまだわかるけど、帰宅時間が一緒なのはおかしいって! 正直疑うなって方が無理だろ」
「それは、ただの偶然だって言って……」
「いや、偶然にしても続きすぎだって! それに、お前ら二人が仲良く一緒に帰ってるの見た奴が何人も居るんだよ」
びしりとたばこの先端を突きつけられ、陽菜は眉をひそめた。たばこの臭いは好きじゃないし、危ないからやめて欲しいのだが、今はそんなことを言っている場合じゃ無いと頭を入れ替える。
「……それは帰る方向が一緒だから……」
「あっやしーなぁー。ホントのところはどうなんだよ?」
「ホントのことろって……」
「付き合ってんだろ?」
同僚の言葉に陽菜はぐっと言葉を詰めた。
長谷川とはここのところずっと一緒に行動しているのだ。確かにそう見えても仕方ない。
しかし、だからといって無い事実を認めるわけにも行かない陽菜は、額にじっとりとした冷や汗を感じながら焦ったように口を開いた。
「……本当に気のせいだって。それより、さっきアンタが担当してるお客さんから電話あったわよ? 折り返さなくても良いの?」
焦りを隠すようにそうはぐらかせば、同僚の男は慌ててたばこを消した。
「忘れてたっ! 教えてくれてサンキュ!」
そう言って同僚は足早に去って行く。給湯室の扉が閉まる音を聞きながら、陽菜は一つ息をついた。
鼻につくたばこの臭いと、羽虫のように耳に触れる噂話にイライラする。そもそも人にたばこの火を向けるとはなんていう常識知らずなんだ。入れ立てのコーヒーを一口飲んで、陽菜は自分を落ち着かせるように首を振った。このままでは仕事に身が入らない。
しばらくそうして、陽菜がようやく落ち着きを取り戻した頃、また給湯室の扉が開いて芽依と同期の後輩女子が顔をのぞかせた。そして、陽菜を見つけて「あっ」と声を上げる。
「先輩、ようやく見つけました! 聞きたいことがあるんですけど、今良いですか?」
「なに?」
嫌な予感にこめかみがぴくりと反応する。しかし後輩の女性はそれに気がつくこと無く、好奇心を貼り付けたような笑顔を陽菜に向ける。
「先輩って長谷川先輩とどういう関係……」
「仕事しなさい!」
本日六度目の質問をすっぱりと切り捨てて、陽菜は給湯室を後にした。
◆◇◆
「と、いうことがあったので、長谷川さん! 朝はもう別々に行きませんか?」
「言いたい人には言わせておけばいいじゃないですか。別に俺は困りませんよ?」
夕食を食べながら長谷川は飄々とそう言う。その目の前で陽菜は不満げに唇を尖らせた。
仕事を終わらせた二人は、慣れた様子でいつものように一緒に食事を取っていた。数日前から始まった関係だが、二人の間にはもう何ヶ月も前から同じ事を繰り返しているような、そんな落ち着きがあった。
一日おきに部屋と料理当番が回ってくるのが正直めんどくさいが、他人が作った料理を食べるくすぐったさと、自分の料理を食べる相手が居るという喜びはそう悪いものでは無く、陽菜はこの関係に多少以上の居心地の良さを感じていた。
ちなみに、今日は長谷川の部屋で彼の手料理をごちそうになっている。
長谷川の作る料理はいつも手が込んでいて、料理人も真っ青のおいしさだった。長谷川曰く『一応、誘った以上は美味しいものを出したいので……』とのことらしいので、陽菜のために頑張って料理を作っているらしい。
そんな彼に負けられないと陽菜も一応料理を頑張っているのだが、勝てる日が来るのは当分先になりそうな出来映えのものばかりだ。決して陽菜が料理が下手なわけでは無い。長谷川が上手すぎるのだ。
今日も今日とて、陽菜の前にあるのは手の込んだ料理ばかりだ。温野菜サラダに野菜のスープ、とろとろに解れる牛肉のシチューと手作りらしいパンが所狭しとテーブルに並んでいる。
そのテーブルというのは以前使っていたソファー前のセンターテーブルでは無く、二人掛け用のダイニングテーブルだ。長谷川がこちらに越してくるときに購入していたものが、先日ようやく届いたらしい。
陽菜は真新しいダイニングチェアに足をぶらつかせながら食事を口に運ぶ。
「あ、このシチュー美味しい! お店で食べる味みたい!」
「それでしたら下ごしらえを前日にしておけば後は煮詰めるだけなので簡単ですよ? レシピ教えますから、今度一緒に作ってみますか?」
「わ! 作れるかなぁ……。でも頑張ってみます! ……って、そうじゃなくって!」
陽菜は思わず綻んだ頬を引き締め直し、長谷川を真正面から見据えた。そして、唇をとがらしてまるで抗議するようかのような声を上げる。
「朝は大丈夫ですって! 私が心配してるのは夜なので! だから朝は別々に行きましょう」
「確かに朝は明るいですし、別々に行っても構いませんが、どうせ乗る電車は一緒なので結果としては一緒ですよ?」
「ぐ……」
確かにそれはそうだと陽菜は口を噤んだ。その様子に長谷川はそっと微笑む。
「先ほども言いましたが、言いたい人には言わせておけば良いんですよ。放っておけばそのうち飽きるでしょう」
「……そういうわけには……」
「それなら、噂を本当にしてしまいますか?」
目を細めた長谷川の腕が陽菜の方へ伸びる。大きな手のひらが頬に触れ、唇の下をなぞった。その行動に陽菜の肩は飛び上がる。
「ついてますよ?」
引っ込めた手の親指を舐めながら長谷川がそう言う。その様子に陽菜の背筋がぞわりと逆立った。頬が熱くなる。急上昇した体温がじりじりと全身を赤く染め上げていく。その様子に長谷川は少しだけ首を傾げた。
「おや、今日は暴れないんですね? てっきり『本当になんかするかー!』とか言って暴れ出すものだとばかり……」
「そ、それは……」
「もしかして、本当に付き合っても良いとか思ってくれましたか?」
どこまでも余裕そうに長谷川はそう言う。その表情が少し気に入らなかった。告白しているのは長谷川の方なのに、狼狽えるのは陽菜ばかり。まるで想いが伝わらないその長谷川の表情に陽菜の心臓がぐっと固くなる。
「思ってません!」
「本当に?」
まるで見透かすような目で長谷川は陽菜を見つめる。その視線から顔を逸らして、陽菜はいつもより低い声を出した。
「本当です」
「本当ですか?」
三度目の問いに陽菜は居心地の悪さを感じて、思わず立ち上がった。その様子を長谷川が驚いた様子で見上げている。
「帰ります」
考える前にそう吐いていた。長谷川はその言葉にも表情を崩さない。その様子になぜかわからないが悔しさがこみ上げてくる。
噂が流れ始めたときだってそうだった。赤くなったり慌てたりする陽菜に対して、彼はいつもの業務連絡をするような口調で「違います」と言うだけだ。別に赤くなったり狼狽えたりして欲しいわけでは無いが、それではあまりにも不平等な気がした。
帰り支度を始めようと、陽菜は自分の食べかけの皿に手を伸ばした。すると、その手がぐっと捕まれる。
びっくりしたように目を瞬かせると、その腕の先には少しだけ怒ったように眉間に皺を寄せる長谷川がいた。
「どうしてですか?」
「どうしてって……」
その手を持ったまま長谷川は席を離れ、陽菜の前に立つ。その手に、表情に、言葉に、困惑した。陽菜を離すまいと握られたその腕は、痛いわけでは無いが、少しだけ熱かった。
「……いや、なんとなく……」
「なんとなくではわかりません。俺が何かしましたか? しつこく聞き過ぎたのがいけませんでしたか?」
その問いに少しだけ考えてから首を振る。
「それは、別に……。ただ、長谷川さんの表情がなんか嫌だったというか……」
「……表情?」
「なんか一人だけ余裕ぶってて、気に入りませんでした」
そうふて腐れたように白状すれば、目の前の長谷川が目を見開いた。そして、しばらく固まった後、ふっと表情を崩す。
「一応、かっこつけてるんですが……」
「……なんとなく、不公平です」
「君は赤くなって狼狽える俺が見たいんですか?」
「それは……」
顔を背けたまま言葉を濁すと、長谷川はぐっと陽菜に詰め寄ってくる。その表情はどこか嬉しそうだ。
「陽菜さん、久しぶりにキスしませんか?」
「はぁ!?」
突拍子も無い言葉に陽菜の声が裏返る。
「君は赤くなる俺が見たいんでしょう? 俺は単純に君としたいですし、両者ともに都合が良いじゃ無いですか? ……なので……」
ぐっと迫ってきた顔に陽菜は背を反らせた。いつの間にか腰は捕まれていて逃げ場が無くなっている。
「し、しません! そういうのは付き合ってからでっ!」
「付き合ってから、ですか。要は君が俺の告白に頷けば良いんですよね?」
そう言いながら、長谷川の顔はどんどん近づいてくる。互いの呼吸がわかるところまで近づいて、陽菜は思わず堅く目をつむった。
「最近、手応えがありすぎるんですが、俺の気のせいですか?」
耳元で囁かれたその言葉に、頭が沸騰した。かかる吐息の熱が耳から全身に転移して、数倍に膨れあがる。なぜか一瞬にしてカラカラに渇いた喉に思わず生唾を飲み下すと、長谷川がくつくつと喉を鳴らして笑った。
そして、そのままぐっと抱きしめられる。
「早く好きになってくださいね」
その言葉にまた全身が粟立った。
「し、失礼しましたー!!」
「あっ」
陽菜はもう限界とばかりに長谷川の腕から離れて、持って帰ってきた荷物を掴み、部屋を後にした。廊下で呼吸を整えながら赤くなった頬を何度も叩く。
「あーもー! 駄目だ! 流されるっ!!」
何度でもじわじわと這い上がってくる熱に陽菜は冷静になろうと自分の部屋の取っ手を握った。
その瞬間、鍵が掛かってるはずの扉が何故か開いていることに気がついた。
「え? 何で、開いて……」
よく見れば鍵穴は電動のドリルのようなもので壊されていた。先ほどまで身体を支配していた熱が一瞬で冷めていく。
恐る恐る部屋を覗けば、その光景に陽菜は思わず悲鳴を上げた。
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