第13話
彼はいつも優しかった。
上手くいかなくてカリカリするようなこともあったけれど、付き合っている頃は怒鳴ることなんて一度だって無かった。夢を追う彼の後ろ姿はいつもどこか輝いていて、その背中を支えていることが、私自身の誇りだった。
「彼は君の元彼なんですか?」
その言葉に、頭の中をぐるぐる回っていた意識が浮上する。顔を上げて辺りを確認すれば、そこはマンションのロビーだった。どうやらいつの間にか帰ってきていたらしい。
「どうなんですか?」
長谷川が答えを急かせるようにそう聞いてきて、陽菜は一つ頷いた。そして遅れて「はい」と声が出る。その言葉に長谷川は少しだけ眉を寄せ、ロビーのオートロックを開けた。そして、そのままエレベーターに乗る。
「勝手なことをしてしまって、すみません」
「え? 何がですか?」
「彼は復縁を望んでいたのでしょう?」
ため息交じりの沈んだ声色に陽菜は長谷川が言わんとしていることに気がついた。
「いえ、私も断ろうとしてたので、大丈夫です」
「そうですか……」
そのまま無言のままエレベーターは上がっていく。モーター音が二人の間に落ちて、いつの間にか繋がれていた手が少し痛かった。
部屋の前についた長谷川は握っていた陽菜の手を離す。先ほどまでの暖かかった感覚が一気に遠のいて、陽菜は思わず自分の手を見つめた。
そして、驚いたように目を見開く。
「あっ! 長谷川さんっ、お弁当買ってないです!!」
「あ……」
長谷川も今気づいたと言わんばかりに声を上げた。
逃げるようにコンビニを後にしたので、結局二人とも何も買えていない。
「やばいですよ! 今日うち食べるもの何もありませんっ! もー、今から買いに行くのめんどくさいー!!」
頭を抱えて蹲りそうになる陽菜に長谷川はふっと微笑む。そこには先ほどまでの鬱々とした気配はどこにも無い。
陽菜も心なしか元気になった声を上げる。
「うちにあるのって確かジャガイモとタマネギだけなんですよねー。作るにしても碌なもの作れない…… やっぱりなんか買いに行くしかー……」
「俺の家にニンジンと牛肉ならありますよ? 持ち寄ってカレーでも作りますか? カレーに使う香辛料も確かあったと思いますよ」
長谷川がそう提案すると、陽菜の表情がとたんに明るくなる。
「それいいですね! あ、でも、今からお米炊くのってめんどくさいかも……」
「そんなことをめんどくさがらない! と言いたいところなのですが、今日は俺も疲れましたし同じ気分です。冷凍してあるのでよかったら、百五十グラムに小分けになってるのがありますが……」
「あ、じゃぁ、それ解凍しましょう!」
手を叩きながら陽菜はにっこりと笑う。そして、軽い足取りで自分の部屋の扉を開ける。
「んじゃ、二十分後に長谷川さんの部屋でいいですか?」
「別にきれいに片付いてるなら、君の部屋でもいいんですよ?」
「抜き打ちチェック、だめ、絶対!」
よくわからない標語のようなことを言いながら、陽菜は自分の部屋に帰っていく。その背中を見ながら、長谷川は少しだけ眉を下げるのだった。
◆◇◆
「着替えてきたんですか?」
長谷川の問いに玄関で靴を脱いでいた陽菜は部屋着に着替えた自分の格好を見下ろす。フードのついたパーカーに、ゆったりとしたパンツのセットアップを着た陽菜は、出かけた時の格好よりは砕けた感じになっている。
「だめでした? 結構高かった服なので汚すのもったいないと思いまして……」
「いえ、問題ありませんよ。ただ、着替えてくるならもう少しちゃんと見ておくべきだったと思っただけです」
そう言いながら長谷川はもうすでに料理の準備を始めていた。その様子に陽菜も慌てて隣に立つ
「何をですか?」
「今日の君の格好ですよ。いつもと違ってずいぶん可愛らしい装いだったので、びっくりしました」
いつもと違って、を強調して言う長谷川に陽菜は口を尖らせながら、スーパー袋に入れてきたジャガイモとタマネギを取り出す。
「……それって褒めてます?」
「褒めてますよ? 桂木さんはとてもいいセンスを持っていますね」
「それって私のこと褒めてませんよね!」
少しだけむくれながら、陽菜は隣の長谷川を睨みあげる。
そんな陽菜を見下ろしながら、長谷川は目をすがめて口の端を引き上げた。
「あまり褒めると、また真っ赤になるでしょう?」
「な、なりませんよ! 私はどちらかと言えば褒めて伸びるタイプなんです!」
売り言葉に買い言葉というようにそう口を開けば、長谷川がまるで試すような笑みを浮かべた。
「そうですか。それでは……とっても可愛かったですよ、陽菜さん」
「――――っ!」
耳に息がかかるぐらい顔を寄せて長谷川がそう囁く。飛び上がった陽菜は耳を押さえたまま長谷川を睨みつけた。その顔はやはり赤く染まっている。
「ほら、赤くなった」
「今のはズルです!」
「ズルって……そもそもあなたが強請ったんでしょう?」
そう冷静に言われた後、長谷川は陽菜に冷凍庫にあるご飯を解凍するように指示を出してきた。それに渋々従いながら、陽菜は唸るような声を出す。
「それは、それは、お世辞を言わせてすみませんでした!」
「俺は基本的に嘘が苦手なので、思ったことしか言いませんよ? 今日は本当にかわ……」
「ありがとうございますっ!」
これ以上甘ったるい言葉を吐かれてはたまらないと、長谷川の言葉をぶった切る。
前々から思っていたが、長谷川には羞恥心というものが足りない気がする。陽菜は電子レンジに暖められていくご飯を見ながら、少しだけ火照った頬を両手で張るのだった。
カレーはあっという間に出来上がった。
すさまじく手際のいい長谷川がまるで料理番組かのように作っていくのがすごく印象的だった。
陽菜はほとんど見ているだけで、皿の用意をしたぐらいだ。ルーを使わずに香辛料から作られたカレーは突き抜けるようなスパイスの香りがした。
いつかの朝食のようにローテーブルに並んだ食事を見て陽菜は感心したようにひとつ息を吐く。
「長谷川さんって何でも出来るんですねー。掃除洗濯、更に料理まで……ほんっと、いいお嫁さんになりますよー」
「……なんなら貰ってくれますか?」
「他、当たってください」
にっこりと微笑みながらそう言うと、真向かいに座った長谷川が腕を組みながら不服そうに口を曲げた。
「全く、君は俺のどこがそんなに嫌なんですか? 長期戦は覚悟の上なので、そんなことを言われたぐらいではなんとも思いませんけど、俺は俺が駄目な理由が知りたいです」
カレーを口に運ぶスプーンを止めて、陽菜は難しい顔をした。まさかこんな話になるとは思わなかったのだろう。少し考えた後、陽菜がスプーンを皿の上に置いた。
「今します? その話……」
「はい。是非」
「…………」
陽菜は眉間の皺を揉みながらうーんと唸る。そして小さく答えを絞り出した。
「……なんとなく?」
「は?」
どこか怒ったような声に陽菜の顔が引きつる。
「ちゃんと理由を言ってください。本当に『なんとなく』で俺をフッてるんなら、怒りますからね……」
「わ、わかりましたよ!!」
目が据わった長谷川に陽菜は肝を冷やした。どうやらお茶を濁させてはくれないらしい。
「えっと、……女性に対する理想が高すぎてついて行けないです。まず私には無理です」
「大丈夫ですよ。それは俺がなんとかしましょう。成せば成る、成さねばならぬ何事も、ですよ」
任せておけとそう言う長谷川に陽菜は必死に首を振る。
「いや、そうじゃなくて! ……長谷川さんは今のままの私じゃ駄目なんですか?」
その言葉に長谷川が目を見開いた。そしてしばし固まる。
「……それは考えたことが無かったですね……」
「えー……」
なんでやねんと突っ込みを入れそうになる自分を我慢して、陽菜はどっと疲れた顔になった。
なぜそれを一番に考えないのか、長谷川の思考回路はやっぱりわからない。
「そもそも、あのノートなんですか? 最初に見せて貰ったやつ。アレ、正直怖いんですけど……」
「あぁ、あれは人生の予定表ですよ。大まかなものですが……小学生の頃から付けています」
「人生の予定表!?」
陽菜のひっくり返った声に、長谷川は腕を組んだまま首をかしげた。どうしてそんなに驚くのかよくわからないようだ。
「まぁ、行動指針のようなものですよ。何歳の時にどうなってたい、こういう資格を取って、こういう自分でありたいというようなことを書いています」
「な、なんか、すごいですね……」
その行き過ぎた完璧主義者ぶりに陽菜が引いていると、長谷川は少し前のめりになる。その表情はどこか不満げだ。
「いま引きましたね」
「……わかります?」
「人の感情に疎いとよく言われますが、それぐらいはわかります。と言うか、ノートを見せた大概の人間がそういう反応になるので……」
心外だと言うように長谷川はそう言う。
「大体、計画も立てずに生きるなんてもったいないじゃ無いですか。人生は一度きりなんですよ? 俺は無駄に過ごすつもりは毛頭無いんです」
「それで、あの女性像ですか……」
彼は自分の思い描く最高のパートナーと恋人なり夫婦なりになりたいのだろう。それなのに、恋をした相手が家事も満足に出来ないような干物女で……
だから長谷川は陽菜をどうにかして理想に近づけようとしているのだろう。共感は出来ないが、長谷川の思考回路がなんとなく理解できた気がした。
陽菜が少しだけ呆れたような目線を向けていると、長谷川が一つため息をつく。そして、少しだけ苦しそうに眉を寄せた。
「だって、その方が相手のことをなんとも思わなくなったときに良いじゃないですか……」
「相手のことを……?」
意味がわからなくてそう聞き返すと、彼は少しだけ彼女から目線をそらした。
「君は恋愛感情というものが何年続くか知っていますか?」
「いえ……」
「……正解は四年です。四年たつと人はパートナーのことをなんとも思わなくなるそうです」
「へぇ……」
そうなんだと一つ頷く。すると長谷川は更に眉を寄せた。
「君は怖くないんですか? 結婚している相手のことをなんとも思わなくなる日が来るんですよ? ……自分たちは別れれば良いかもしれないですが、もし子供でもいたら子供が可哀想じゃないですか……」
そう言う彼はどこか苦しそうだった。陽菜がその事を問う前に長谷川は言葉を続ける。
「もし、理想に近い女性を選んでいたら、相手に興味がなくなったとしても、一緒にいることは苦痛ではないでしょう? 相手にだって理想の夫を演じられる自信はありますし、少しの浮気ぐらいなら目をつむれると思います」
彼は淡々と言葉を紡ぐ。陽菜はその様子を見ながら少しだけ首を捻った。
「お母さんが浮気をしてて、お父さんが理想の夫を演じてる家庭って、離婚しなくても子供は嬉しくないと思いますよ?」
「……そうですか?」
「そうですって! それに、恋愛感情は四年でなくなるって言いましたけど、世の中の夫婦みんな四年で離婚するわけじゃないですよね? うちの両親なんて未だにラブラブですよ? 結婚して何年経ってるんだっていつも思いますもん! だから、そんな難しく考えなくても大丈夫ですって!」
どこか暗い雰囲気がある長谷川を励ますように陽菜は明るい声を出す。
「…………」
「あ、もしかして呆れてます? まぁ、長谷川さんからしたら私なんて無計画の大馬鹿野郎かもしれませんけど、それなりに人生楽しいですよ? 長谷川さんももうちょっと肩の力抜いてみてもいいんじゃないですか? 突然起こるハプニングだって、そのときは辛いかもしれないけど、年数経てば大体は笑い話になりますし!」
にっこりと笑いながらそう言えば、長谷川の表情がゆっくりとほぐれた。
「すごいですね」
「へ? 何がですか? おバカ具合?」
「いいえ。……陽菜さん、ありがとうございます」
突然のお礼の意味を計りかねて陽菜が首を捻る。長谷川は少しだけ晴れた表情で、冷えかけのカレーに手を付けた。
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