第3話 神峰の霊脈
愛実たちの暮らす日本から遥かな海を越えた、極寒に閉ざされた地。そこに都市国家ファルシオンは存在する。世界中でファルシ教という宗教が広く信仰されており、ファルシオンはその最大の聖地である。その国家体制はファルシ教を絶対視しており、教団のトップである大司祭が国家元首を兼ねている。
ファルシ教のは非常に簡潔で、「悩める隣人を助けること」、「ファルシ教を絶対と信じること」である。その単純さと絶対的な権力により、ほとんどの国々でファルシ教に基づいた生活や統治が行われている。議会の決議の際には、「ファルシの名に誓って本心を票に託す」という祈りが必ず行われるほどである。ファルシ教に人格をもった神のような存在はなく、ファルシ教の教義そのものが同時に神という概念としてあがめられている。そして、人格を持たないファルシ教と人とを仲介するのが、天使の役割ということになっている。
ファルシオンの心臓部とも言える大聖堂。まるで中世の城を思わせる堅牢な石造りの建物に、一人息を切らして向かう少女がいた。名はヴァネッサ・ルーサー。大司祭エルマー・ルーサーの一人娘であり、そこそこ名の知れた悪魔祓いである。
階段を二段飛ばしで駆けのぼり、最上階にある大司祭の執務室にたどり着く。いつも扉を守っているはずの騎士はいない。体はすっかり暖まり、顔は上気している。数秒呼吸を整えてから、執務室の扉をノックした。
「エルマー大司祭、ヴァネッサが参りました」
「よく来てくれた、入ってくれ」
数か月ぶりに聞く敬愛する父親の声に、綻びそうな顔を必死で引き締め、執務室に入った。ソファを勧められ、デスクを挟んでエルマーと向かい合った。
「……最近はどうだ」
「最近、というのは」
「それはだな、学業とか、職務とかだ」
「お陰様で全て滞りなく。大司祭は、お体に障りなどありませんか」
久しぶりに対面する親娘。とりとめのない会話をしようとするが、会話が続かない。ヴァネッサはそうでもなかったが、エルマーにとっては沈黙が苦痛でしかないようで、視線を泳がせていた。
「……父と呼んでよい。そのために人払いをしたのだ」
「それでは、父上。私をここにお招きになった理由をお伺いしたい」
エルマーはしばし逡巡する様子を見せた後、観念したかのように切り出した。
「ヴァネッサ。お前に頼みがある。これはファルシオン大司祭としてではなく、一人のファルシ教を憂う男として、ただ一人信頼できるお前に託したいのだ」
ファルシ教と、ファルシオンの行政官の長である父親が、ただ一人自分を信頼すると言った。これは父が針のむしろに座らされていることと同義であったが、彼女にとっては光栄であった。
「はい、父上の頼みならなんなりと」
「そうか……」
エルマーはは安心したような、落胆したような表情を浮かべた。顔には疲労の数、皺が刻まれている。
「我らがファルシの祖、初代大司祭ソロモン。彼がファルシ教を世に広め、敵対した悪魔を魔導書ゴエティアに封印した。知っているな」
「当然のことです」
「そのゴエティアは長らく行方が分からなくなっていたが、近ごろ日本に持ち込まれたという話でな。その道の者によれば、すでに封印が解かれたらしい。これは我々を含め一部の人間しか知らない」
「なっ……!?」
ヴァネッサは絶句した。魔導書ゴエティアに封印されたのは、強力な魔物や忌むべき異教の神々。彼らはファルシによる治世や秩序を否定し、人々を混乱と破滅に陥れようとしているといわれている。ヴァネッサは何度も悪魔を討ってきたが、封印された「ソロモンの悪魔」は格が違う。彼女が動揺するのは無理もなかった。
ヴァネッサの動揺は想定の範囲内、そのような態度でエルマーは言葉を続ける。
「ソロモンの悪魔には、純粋なる魔物デビルと、異教の神々が悪魔へと姿を変えたデーモンとが存在する。目覚めたばかりの彼らは著しく力を落としており、それを補うために共食いを始めることだろう。お前には、デビルを討ち、デーモンが神々に還る手助けをしてもらいたい。ファルシオンの正式な特使ではなく、私の密命を帯びた、という形で」
「正気ですか……!? あの魑魅魍魎を助けろと!?」
すっかり激昂したヴァネッサを、大司祭は手で制した。ヴァネッサは自分の痴態に気付き、ソファに座りなおした。
「世界をファルシ教の力で抑えつけるのは、もう限界なのだ。封印が解かれた理由についてはいくつも憶測がなされているが、信仰心が薄れたとか、破滅が近いとか、そんなことではない。悪魔とされた彼らも、ファルシの犠牲者だ。今こそ、我らの罪を償う時だと、私は考えているよ」
「犠牲者……罪……分かりません。父上、あなたはファルシをどうしたいのですか……?」
「他の神々と共存していく。迷える人々を導く道しるべの、数ある一つとしてな」
動揺して、すっかり黙り込んでしまったヴァネッサ。エルマーは幼子に言い聞かせるように語り掛けた。
「お前が今までどれほど努力に努力を重ねて来たか、全て知りえないが私も分かっているつもりだ。そんなお前の恩義を仇で返すことになるのは、本当に申し訳ない」
ヴァネッサは微動だにせず、ただ話に耳を傾けている。
「ファルシオンの司祭会議で、正式な特使が日本に派遣されることになった。この世に存在する最後の天使、フェニックスが神殿から解放されたことも確認している。奴らはすべてを焼き尽くして有耶無耶にするつもりだ。私にそれを止める権力はすでに失っている……」
「……父上。その派遣されるという特使はどなたなのでしょうか」
アルゴ・ローゼンという男だ。議会で全会一致で選ばれたらしい」
アルゴ・ローゼンという名を聞き、ヴァネッサの目の色が変わった。エルマーはそれを知ることはなかった。
「分かりました父上。その任務、必ずやなしとげてみせます」
「すまない……。だが、よく了承してくれた。……お前にこれを渡したい。悪魔と戦うための強力な武器だ」
大司祭は懐から黒い十字架のペンダントを取り出し、ヴァネッサに手渡した。
「これは……?」
「ソロモンの悪魔は72柱。しかしそのすべてがゴエティアに封印されたわけではない。数は少ないが、ゴエティアへの封印を免れたものがいる。結局、全ての悪魔は封印されたがね。そこに封じられているベリアルという悪魔も、そのうちの一柱だ。そして、我々の犠牲者だ」
ヴァネッサは手にしていたペンダントを思わず手放した。悪魔が封じられているペンダントと聞いて、手に持っているそれが途端に禍々しいものに見えたのだ。
「持ちたくないなら構わない。だが、お前は日本で数多くの悪魔と戦うことになるだろう。そのための護身として持たせられるのは、それしかない」
「父上、差し出がましいのですが、護符はお持ちではないのですか?」
「嗤ってくれヴァネッサ。私にはもう護符を発行する権限すらないのだ」
それからどのような話をしたのか、ヴァネッサは覚えていない。自宅に帰る足取りもふらふらとしていた。ただ、今夜、父の話の全てが悪い夢であってほしいと、何の罪もないのに処刑を宣告された者のように願うばかりであった。彼女の手に握りしめられた黒い十字架が、光を吸って輝いていた。
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