七本/禁色

山の下馳夫

第1話 式年遷宮

 兄の本棚から折口信夫おりぐちしのぶの『死者の書』を抜き出したことに、さして特別な理由はない。ただ、なんとなくこの本を読みたいと思った。

 自分以外は誰もいない家の中、既読の一冊のみに相対する。四か月前に衝動のまま論文の執筆に取り掛かってからは、文学作品を精読した回数など片手で足りるほど……これほど贅沢に本を読むのは久しかった。

 童心に帰るというのは、このようなことを指すのだろう。とりあえずのしがらみから解き放たれた私は、ただひたすらに慣れ親しんだ文を追っていった。

 名文への没頭は容易く、容易にその世界から醒さめることはない。事実、けたたましく鳴る電話のベルに気付いたのは、兄が挿んだであろう栞が本ののどを滑り落ちたのと同時であった。

 雨脚はいつの間にか強くなっていた。

 黒電話へと向かう。ベルの音は、無視できないような不吉な響きを帯びていた。


「もしもし――ああ、なんだ、兄さんか」


 雨垂れの忙しなさの中で、兄弟は言葉を交わし始めた。

 今になって思い起せば、違和感はあった、それも一つばかりではなく。

 受話器越しに普段と変わらぬ挨拶を交わした時から、兄の声が低いような気がしていた。どうにも気になって尋ねると、兄は風邪をひいたと答えた。その場では一応納得したが、兄の声音が変化した理由が、どうにも私には体調不良によるものとは思えなかった。

 兄弟の会話は、ふたりとも同じくらいに喋り、互いに真摯に応答した。その点で問題はなかったのだが、たまに兄は妙なことを言った。そして、とうとう普段からは考えもつかない失言が、兄の口から飛び出た。

「――あの時、昭和天皇が」

「なんだって?」

 兄の不謹慎で突拍子もない言葉に、思わず間抜けな声が出た。

「兄さん、冗談はやめてくれよ」

 神職課程のある大学に入学し、大学院まで進んで博士課程を修了した兄が『在位ざいい中の天皇を予想される追号で呼ぶ』、信じがたい間違いだった。私はこの時、兄がそんなものを知らぬ人間のような素振りを見せた理由を、兄が疲れているせいだと解釈した。

「……そうか、すまん。今上陛下が――」

 一週間前に電話をかけてきた兄とはまるでよく似た別人のよう、そう思い始めた矢先だった、――「まあ、原田さんには昭和68年にある式年遷宮しきねんせんぐうのどれかの行事で会えるだろう」――兄の口から出た、懐かしい名前と真っ当な目的が、この時、私の注意を逸らすには十分だったようで、追求を忘れてしまった。

 伊勢の神宮が二十年置きに建て替わるその行事は、日本の根幹を成すわざや神道に深く関わる私たちの一族にとって、最重要の事項であった。

 奇妙な電話から一週間後、兄の体調不良は治ったようだった。声も発言の内容もいつもの通りで、黒電話の前で安堵したのも覚えている。

 この時は信じていた、兄の家族と、自身を含めた一族で、原田さんの家に厄介になり、式年遷宮の数々の行事のどれかには参加するのだろうと。

 

 だが、そのような幸福は訪れなかった。

 

 元号が昭和から平成に変わり――あの時の兄の失言「昭和天皇」の追号は現実になり――更に数年が経過したころ、立て続けに不幸は起きた。

 義姉が姪の出産の際に亡くなった。その二ヵ月後、悲しみが癒える間もなく、兄の乗船したマキア号という客船が、原因不明の海難事故に遭った。

 兄の遺体は、長期間海水に浸かり膨張した頭部だけが発見された。

 悲嘆に暮れながらも、この世に一人残された姪を背負いお白石しらいし持ちをしたのは、むしろ記憶に新しい。


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