第8話 ありがとうを言いたくて
白雪先輩の話によれば、桜庭荘に住む桜庭高校生は、月に一度、第二の日曜日に誰かの部屋に集まってお茶会を開く習慣がある。紅茶好きの女子生徒から端を発したそれは、五年ほど続いているそうだ。
しかし、今年は桜庭高校生のほとんどが卒業してしまい、お茶会のメンバーとして残ったのは白雪先輩だけ。新しく入ったのは高坂くんと、まだ会ったことがない205号室の
さすがに三年生の女子一人と一年生の男子二人では気後れする……と、悩んでいたところに私が入居してきた。
紅茶も珈琲もどちらも好きです、と答えると、白雪先輩はそれはもう、嬉しそうな顔をした。お茶会と銘打ってはいるものの、飲む物は珈琲でも紅茶でも緑茶でも、なんでもありらしい。
絵本の中ではアリスの
ちなみにこのお茶会、皆で集まるのは第二日曜日と決めてはいるものの、白雪先輩は毎週自室で行っているそうだ。
気が向いたら来てと言われた。白雪先輩は大の紅茶好きらしい。前のお茶会のメンバーから残り物を頂いたから、ダージリンもアッサムもギャルも、大抵の種類はある。もちろん紅茶嫌いの人のためにもお茶や珈琲も準備してあるから、と熱弁された。
彼女のお茶会にかける情熱はなかなか凄い。よっぽどお茶が好きなんだろう。
ううん、お茶じゃなくて、単純に気の知れた友達と集まるのが好きなのかな。だとしたら、先輩たちが卒業してしまってとても寂しかったのだろう。
「気の知れた友達」
口に出して呟いてみる。
さて、私は二歳離れた美人の先輩と友達になれるのだろうか。
東京での友達はいないし、友達は大いに越したことはない。
友達になれたら嬉しいな。
午前10時になり、テレビの番組が切り替わって週間天気予報を告げた。明々後日の入学式の日は雨らしい。
雨。その単語だけで憂鬱になってしまうのは、天然パーマの髪を持つ者の宿命だ。何故よりにもよって新しいクラスメイトたちと会う初めての日が雨なんだと私は唸った。
照る照る坊主を作ってみようか、と幼稚な考えが閃いたものの、すぐに打ち消す。ティッシュを丸めて少々加工するくらいで天気が変わるなら、楽なんだけど。
ため息をついてテレビを消し、立ち上がって外出の準備を整える。
今日は買いたいものがあった。否、買わなければならないものがある。
浄水器だ。
昨日の夜、私はうがいをしただけで水道水の味がおかしいことに気づいた。なんというか、化学のような味がする。とても人工的で、天然水とは程遠い。
有体に言えば、とても不味い。それはもう、信じがたいほどに。
ドラッグストアやスーパーで何故水が売られているのか、田舎育ちの私は水を買うという意味すらわからなかったけれど、いまならわかる。都会の水は飲めたものじゃない。味を身体が拒否してしまう。
昨日のうちにキッチンの水道は携帯に撮っておいたし、一応メジャーでサイズも測っておいた。この写真と記録があれば、電器屋さんで浄水器のコーナーに行っても迷わずには済む、はず。
戸締りを終えてから、私は外へと出て行った。
浄水器と、夕食用の野菜諸々を買った私は、それなりの荷物を抱えて帰宅した。慣れない手つきで浄水器を取りつけた後、試しに一口飲んでみる。
「……田舎の水には勝てませんな」
評論家のようなことを言いながら、コップを置く。それでも浄水器があるのとないのとでは味が違う。それなりに高価なものを買ったのだから、これで良かったのだろう。
夕食にはカレーとサラダを作った。どちらも比較的簡単な料理だ。
5分経ったら出来上がり……というところで、隣の部屋の扉が開く音がした。
高坂くんの部屋だ。彼もどこかに出かけていたらしい。
あっ、お礼を言うチャンスかも!
私は火を止めて、急いで玄関を出た。
「高坂くん!」
ちょうど玄関に入り、扉を閉めようとしていた彼に声をかける。扉が閉まりきる寸でのところで高坂くんは私の声に気づき、扉を開けてくれた。
「なに。どうしたの」
お礼を言わなきゃと焦っていた私の様子が、切羽詰っているように見えたらしく、高坂くんは目を瞬いた。扉を閉め、廊下に出てきてくれる。
彼の右手には近くのスーパーのマークが入ったビニール袋が下げられていた。透明なビニール袋に包まれた、スティック状のチョコパンが見える。それとカップラーメン。
お節介かもしれないけど、これが主食だというなら、彼の食生活が非常に心配だ。高坂くんは明らかに標準体重よりも軽いし、改めて見ると顔色もあまりよろしくない。
「あ、えっと、いきなりごめんね。お礼を言いたかっただけなの。昨日、ううん、正確には今日になるけど、ミヤビちゃんとノエルくんを遣わせてくれてありがとう」
アパートの廊下で大声を出すのはマナー違反なので、小声でお礼を言い、軽く頭を下げる。
「ああ、なんだ。どういたしまして。正直に言うと、余計なお世話だったかなって不安だったから、良かった」
安堵したように表情を緩めた高坂くんに、私はかぶりを振った。
「ううん。余計なお世話なんかじゃないよ。誰かに気に掛けてもらえるのは、嬉しいことだもの。もしあのとき私が寝てたとしても、きっと変わらずに喜んでたよ」
飼い猫に隣人の様子を見に行かせるという行為には、やりすぎだとか、お節介だとか、そんな非難もあるかもしれない。
でも、その前提には私の心配があるんだ。
だったらどうして、彼の行為に感謝こそすれ、非難なんてできるだろう。
非難や嫌われることを覚悟してでも人を思いやって、それを行動で示すことができる彼を、私は素直に尊敬する。
「そっか。ミヤビに怒られた甲斐があった」
高坂くんは嬉しそうな顔をした。
和やかな空気になったところで、私は話題を変えた。どうしても彼の手荷物が気になってしまう。
「……ところで、それ、今日の夕食?」
ビニール袋を視線で示すと、高坂くんはなんだか気まずそうな顔をした。親にちょっとした悪戯を咎められた子どものようだった。自分でも少々寂しい食事だと思っているのかもしれない。
「自炊って面倒くさいじゃん。光熱費を考えるとスーパーで値引きの弁当を買ったりしたほうが安いしさ」
言い訳めいたことを口にする彼。
「うん、わかるけど、ちゃんと食べないと身体に悪いよ? ただでさえ高坂くん、痩せすぎだと思うし。顔色もあんまり良くないし……ずばり聞くけど、引っ越してきてからお米炊いたことある?」
私の視線から逃げるように、高坂くんは目を逸らした。
ひょっとして三日間、まともなご飯を食べていないのだろうか。栄養士の資格を持つ母から、きちんとバランスの良い食事をするように言われてきた私にとって、これは由々しき事態である。髪質はお母さん譲りだけど、痩せた人や動物を見過ごせないのは、おばあちゃん譲りかもしれない。
「……もし良かったら、なんだけど」
提案には勇気が必要だった。同年代の男子を自分から家に誘った経験なんて、かつて一度もない。それでも、この提案が正しいと信じて言う。
「今日はカレーを作ったんだ。猫ちゃんたちにはカニかまも買ってあるし、昨日のお礼に、一緒に食べない?」
「え。いいの?」
「悪かったら誘わないよ」
戸惑う高坂くんに、私は笑ってみせた。
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