四章 未来へと続く道4
◇◇◇
オルフェリアとデイヴィッドは病院の庭を歩いていた。
少し離れたベンチにはフレンが仏頂面で座っている。
フレンはオルフェリアとデイヴィッドが二人きりになることを頑として拒んだ。
けれどオルフェリアが望んだ。
恋人に弱いフレンは条件付きでそれを吞んだ。すなわち、自分の目の届く範囲内にいること、である。
「やきもち焼きもあそこまでいくと面倒ですね。オーリィ、いいんですか? あなたのことも信用していないってことじゃないですか?」
二人はゆっくりした足取りで庭を歩く。
庭の真ん中には大きな花壇があって、今の季節黄色の紫君子欄が大輪を咲かせている。淡青紫色が涼し気な印象である。
「フレンはわたしのことを信じてくれているわ。彼が信用していないのは、あなたのほう」
オルフェリアはデイヴィッドの言葉を訂正した。
「なるほど。一理ありますね」
デイヴィッドはあっさりと認めた。
過去オルフェリアを連れ去ろうとしたことのあるデイヴィッドである。フレンが警戒心を解かないのも納得だ。
オルフェリアはデイヴィッドの後に続いて歩く。
庭の壁沿いには大きな葉薊が花を咲かせている。この庭園の管理主は大きな花を咲かせる植物が好みらしい。
デイヴィッドはやおら立ち止まった。
フレンの姿は遠くなっていた。
彼はこちらを注視してるが、立ち上がる素振りは見せていない。
「オーリィ、好きです。わたしと結婚してください」
デイヴィッドはオルフェリアに真摯に言い募った。直球の言葉はまっすぐにオルフェリアの胸に突き刺さる。
もう何度目かの求婚の言葉だ。
オルフェリアは、ごくりと喉を鳴らした。
告白はするほうも力を要するけれど、断る方も同じくらい気力を必要とすることが分かった。
「ごめんなさい。わたし、あなたの気持ちには答えられない。フレンを愛しているの。かれと、一緒になりたい。……お父様が許してくれたの」
最後は囁くような声になった。
風がオルフェリアの髪の毛をやわらかく持ち上げる。
オルフェリアはされるがまま、その場に立ちすくむ。
言うことは伝えた。
オルフェリアはデイヴィッドの気持ちに応えることはできない。未来ずっと、オルフェリアの気持ちはフレンの側にあるから。
ごめんなさい。
今のオルフェリアはそれしか言えない。
デイヴィッドは眦を下げた。
少しだけ口を湿らせて口を開いた。
「あーあ、今度こそ失恋しちゃいましたね。うん、わかっていましたよ。ちゃんとバスティからも報告を受けましたしね」
デイヴィッドの声は明るかった。
わざと、明るくしているのかもしれない。
オルフェリアは微動だにしなかった。
「本当はもう少し早く決着を付けようと思っていたんですが……、柄にもなく怖気づいてね。仕事の忙しさに逃げていました」
「……父のために、その……ありがとう」
オルフェリアは感謝を伝えた。
バステライドが寝台から離れられないため、デイヴィッドにしわ寄せがきているのだ。最近は病室に書類を持ち込んでいるが、長い間読みふけっているとカリティーファが怒り出す。この間、彼女が父の頬を抓っているのを目撃した。見なかったことにしようとオルフェリアは心に誓った。
「いいんです。彼の右腕ですから。まったく、最初は名門貴族の跡取りがどうやって自分の血と決着をつけるのか見届けるために側にいたのに、気が付いたら僕まで実業家の仲間入りですよ。歴史学者だったはずなんですけどね」
デイヴィッドは肩をすくめた。
「あなたの気持ちもね、あの時、ああもう駄目なんだなって思いました。バスティが意識不明のこん睡状態だったとき、待合室で僕もあなたに声をかけていたんです。覚えてませんか?」
オルフェリアは首を横に振る。
あのときの記憶は断片的だ。
フレンの声が聞こえたら、いつの間にか彼の腕の中にいて泣いていた。
「あなたはずっと心をからっぽにして微動だにしなかった。僕もリュオンも心配していましたが、まったく声が届かなかった。それなのに……」
デイヴィッドは泣き笑いのような顔を作った。
もう仕方ない、というようなあきらめにも近い顔だ。
「ファレンスト氏があなたの元に来て、そうしたらオーリィが泣き始めて、そのままあいつの胸の中で眠って。あれを見せられたら、勝ち目はないって思います」
「ごめんなさい」
「別に攻めているわけじゃないんです。あなたの正直な気持ちを目の当たりにしただけですから。オーリィ、あなたは信じないかもしれないでしょうが、僕はあなたに一目惚れだったんです」
オルフェリアは小さく目を見開いた。
「バスティからオーリィの話を聞いていて、いつか会ってみたいと思っていました。そして、年末にトルデイリャス領で初めて姿を見て、それであなたに恋をしたんです。自分でも信じられませんでした。いい年して、一目惚れなんて」
その割には結構酷いことをしようとしたものである。
正直な気持ちが顔にダダ漏れだったらしい。
「ま、そこは僕も性格がひねくれてますから。すみません」
デイヴィッドは悪びれなく説明する。以前も効いたけれど、それはどうなのかと思う。
「あなたの心が僕になくても、僕がその分まで愛せばなんとかなるって思っていました。実際時間だけはたっぷりとあったはずですから。誤算だったのはファレンストが案外執念深かったってことでしょうか」
彼が現れたときから、時間の問題だったと彼は嘯いた。
フレンのことを忘れようと頑張ったけれど、本人に会うと駄目だった。オルフェリアの心が先に決壊した。やせ我慢なんてできるはずもなかった。
「玉砕前提で告白なんて柄にもないことをしちゃいましたが、潔く振ってくれてよかったです。悔いはないですよ、オーリィ」
デイヴィッドは笑顔を作った。
晴れやかな顔をしていた。
オルフェリアは戸惑った。
こういうとき、どういう表情を作ったらいいか、わからない。
「笑ってください。あなたの笑顔はファレンストの専売特許なのは知っていますけど、最後にわたしのために笑って、オーリィ」
オルフェリアはぎこちなく笑った。
彼の気遣いが伝わってくるから、オルフェリアは笑顔を作った。
うまく笑えただろうか。
「ありがとう」
デイヴィッドはさっとオルフェリアとの距離を詰め、彼女の黒い髪を一房掬った。
手に取った一房にデイヴィッドは口づけを落とした。彼はすぐに手を放した。
突然のことにオルフェリアはすぐに反応することができなかった。
「それでは、さようなら。僕はしばらくダガスランドでバスティの代わりに働きますから。彼のことは任せて、安心してください」
「ありがとう。……さようなら」
オルフェリアも挨拶を返した。
たぶん、彼はしばらくオルフェリアの前に姿を現さないつもりなのかもしれない。
デイヴィッドは大きく歩を歩みだす。
オルフェリアはその場に佇んだままだった。
風がオルフェリアの髪の毛を撫でる。
日差しは強いが風は思いのほか冷たく気持ちよかった。
なんとなく、今日が晴れの日でよかったな、と思った。
ざっと、草を踏みつける音がした。
オルフェリアが振り返るとすぐそばにフレンがいた。
彼はきっと慌てて側へとやってきたのだろう、少し呼吸が乱れている。
「あいつ! ほんっとうに油断も隙もありやしない」
フレンは一部始終を見ていたのだ。
オルフェリアは今更ながらに恥ずかしくなって頬を赤くした。
フレンはオルフェリアを正面から腕に抱え込んだ。
「あいつのために頬を染めないで」
「だって……あれは、その。不可抗力よ。突然のことだったのよ」
「わかっている。きみに怒っているんじゃない。ちゃっかり者のデイヴィッドに腹を立てているんだ」
オルフェリアを抱え込むフレンの腕が少しだけ強くなる。フレンはいなくなったデイヴィッドに対抗するようにオルフェリアの頭や目じりに口づけを落としていく。背中を掻き抱く彼の手が、オルフェリアの心を求めるように切なげに動く。
「きみは頭から足の指の爪まで全部私のものなのに」
「ちょっと。わたしの心はあなたのものだけれど、わたしの体はわたし自身のものよ」
とっても恥ずかしくなって、オルフェリアは慌てて訂正した。
フレンは何か言いかけて結局は黙り込んだ。
◇◇◇
昨日デイヴィッドが病室に現れたとき彼は最後に「しばらくオーリィと顔を合わせないように時間を調整することにします」と言った。
別れ際だったから深く追求はしなかったが、彼はどうやら自分の気持ちに決着をつける決心をつけたようだ。
彼にさりげなく伝えたのだ。
オルフェリアとフレンとの仲を認めることにしたことを。
デイヴィッドは少しだけ驚いた顔をしたが、一拍後には平常に戻っていて、小さく「そうですか」とだけ言った。
今日の夕方近くに恋人と一緒に姿を見せたオルフェリアはどこか空元気だった。
きっと、病室を訪れる前にデイヴィッドと話をしてきたのだ。
人の好意を受け止めて、それからその想いを拒絶する。
拒絶する側も精神的な負担は大きい。そういうのにオルフェリアを煩わせたくなくてずっとバステライドはデイヴィッドのことをけん制してきたのに。
とはいえ、色々な思いを経験して人は成長していく。バステライドがいつまでも守ってやるわけにはいかない。
それをちゃんと認めるようになったのは本当につい最近のことだが。
ずっとオルフェリアのことを子ども扱いしてきたし、子供のままでいてほしかった。
結局自分がメンブラート家の中で一番子供だったのだ。
妻が怒るはずである。
傍らではカリティーファが刺繍をしている。彼女はずっと病室に詰めている。
部下と仕事の話をするときは席を外すが、毎日朝早くから病室へとやってきて使用人の仕事まで奪う勢いでかいがいしくバステライドの世話をする。
「オーリィはファレンスト氏の話ばかりだね。彼女、大丈夫なのかな、あんな調子で」
今日も話題といえばほぼフレンが何をしたとか、彼とどこへ行ったとか、彼ったら心配性なのよ、とか要するに惚気話ばかりで食傷気味だ。
カリティーファは刺繍をする布から目線を上げた。
「あら、今が幸せの盛りだもの。仕方がないわ。エルちゃんも基本あんな感じよ。セシリオったら心配性なのとか、マルガレータとばかり遊んでいると拗ねちゃうの、とか。似た者姉妹ね」
マルガレータとは誰だろう。
バステライドが沈黙したのでカリティーファは「マルガレータはあの子の飼っている鶏よ。今三代目なの」と教えてくれた。
そういうことが分からないくらいバステライドは家族と離れていた。
「帰ったら一度セリシオともゆっくり話さないとね」
自分のいない間にちゃっかり娘をかっさらって行った男に言いたいことは山のようにある。
「やめておいた方がいいわよ。エルちゃんから返り討ちにされるから」
カリティーファは手厳しい。
彼女は完全に娘たちの味方なのだ。
「あなた、このさきリルちゃんとレインちゃんも控えているのよ」
「レインはともかく、リルはまだ当分は大丈夫だろう」
「わかららないわよ?」
と、言うもののカリティーファも困ったように首をかしげている。ロームで受け取った手紙を読めばリシィルのお転婆加減は年頃になってもそのままだった。
こん棒を振り回す伯爵令嬢がどこにいる、と思うが面白がって剣術の触りを仕込んだのはバステライドだ。
「リルちゃんのお転婆さんは完全にあなたのせいよね」
「ごめん……」
家に反発をして、娘たちを意図的にたきつけた自覚は十分にある。
「さみしいな。みんな、巣立って行ってしまうんだね」
バステライドは窓の外を眺めた。
子供たちは自分の道をそれぞれ選んでいく。それがどうしようもなくさみしい。
「仕方ないわよ。でも……わたしがいるじゃない。わたしはずっとあなたの側にいるわ」
「でも、きみトルデイリャスに戻るんだろう」
そこでバステライドは拗ねた声を出す。
カリティーファは娘に付添い、一度トルデイリャス領へ戻るという。
「当然です。領地がどうなっているか、気が気じゃないもの。エルちゃんのことも心配だし。わたし、あなたの妻だけれど、子供たちの母親でもあるし、一応伯爵夫人……ではないけれど、伯爵のお母さんだもの。やることはたくさんあるの」
「さっきと言っていることが違うじゃないか」
「あなたが素直にトルデイリャスに戻ってくればいい話よ」
カリティーファが頬を膨らませる。
小さなころから変わらない仕草だ。彼女と初めて会ったのはいくつのときだったか。
金色の髪の毛をふわりと風にそよがせた少女とバステライドは夏の日に出会った。
少女は人見知りらしく、友達になるのに数日を要したけれど、一度慣れると彼女はバステライドにとても懐いた。
懐くというか、内弁慶ってカーリーみたいな子のことを言うんじゃないかな、って思った。
「大体カーリーは冷たいんだ。再会して一週間以上もお預けさせられたし」
「当たり前でしょう! わたし怒っていたのよ。なんの便りも寄越さないままどれだけ留守にすれば気が済むの」
「私はいつもきみのことを思い出していたよ。きみだけが私の可愛い人だ」
バステライドはカリティーファの方へ手を動かした。
カリティーファはそれを横目で認めつつも動こうとはしない。簡単に懐柔されてくれるつもりはないようだ。
「ロルテームには戻るよ。今後はディルディーアの方に拠点を持つことにする。ただ、こっちに地盤もつくったからね。年に数か月はダガスランドに滞在することになると思うけど。……いつか、もう少し時間をくれないか。そうしたら、きっとトルデイリャスにも一度足を踏み入れるよ」
バステライドは目を閉じた。
まだ心にわだかまりがある。ずっと苦しめられてきたという思いがあるからだ。
けれど、いつか。
もう一度帰りたいと思える日がくるのだろうか。
「そうねえ。まずはナヘル家にお邪魔するところから始めましょうか。お仕事も、わたし応援するわ。今度はフレイツも連れて、わたしも一緒にこちらに来ようかしら」
カリティーファはにっこり笑った。
それにしても、まずはナヘル家からとは、どんなリハビリなんだろう。まるで水に顔を浸けることのできない子供が、水を張った金盥で顔付けを練習するわけじゃあるまいし。
どうも子ども扱いされているような気がしなくもない。自分はカリティーファの夫なのに。
二人がたわいもない会話を続けていると、こんこんと扉が叩かれた。
「はあい」
カリティーファの返事の後に扉が開いた。顔をのぞかせたのはリュオンだった。
「リュオン。来たのか」
記憶にあるよりだいぶ背が伸びた息子の登場にバステライドは目を細めた。
「お加減はいかがですか?」
「悪くないよ」
何しろ腹と足を刺されたのだ。
もしかしたら今後歩く際杖が手放せなるかもしれないと医者からは言われている。
バステライドはそれでも構わなかった。
生きていることができたのだから。
アウスタインの悪意と憎悪はバステライドではなく娘のオルフェリアへと向かった。それが一番怖かった。
うまく立ち回ったつもりだったが、驕りだった。さんざん悪事を働いた男相手なら多少のずるも差し引きゼロだろうと踏んでいたが、小悪党は考え方も独善的だった。
しかしバステライドも自分の利益のために他人を利用したのだ。大きな代償を支払う羽目になった。
「船の切符が取れました。僕は先に帰ります。新学期が始まりますし、予習もしたいですからね。あと、領地からの報告に目を通しておかないといけない」
「もうすっかり伯爵の顔だね」
「ええ。こっちに渡る前に王家から承認をもらいましたから」
「そうか」
リュオンは少し挑戦的な目をしている。
彼はバステライドとは違う。生まれながらの伯爵だ。自分は、そういう教育を施したつもりはなかったが、周りが次期伯爵として扱った。
「僕は、別に伯爵家の長男に生まれたから伯爵を継ぐのではありません。これは僕自身の意志です。僕の周りにだっていろいろな人がいます。友人の兄は侯爵家の嫡男でしたが、好きな女性と駆け落ち同然で別の国に移住したそうです。だから、メンブラート家を継ごうと決意したのは僕の意志なんです。誰かから強制されたわけでもありません」
バステライドはしばらく間リュオンを眺めた。リュオンは気色ばっている。
「そうか」
「リュオンも立派な伯爵ね」
カリティーファが穏やかな顔をする。
すっかり刺繍を刺す手は止まっている。
「父上は、伯爵家を継ぐという点では落第点でしたが……」
バステライドは眉をぴくりとさせた。息子から喧嘩を売られているような気がする。
これも息子が成長したと喜ぶところなのだろうか。
「……父上の事業への才能は尊敬に値すると思います。僕も、領地運営を行う上で、参考にさせてもらいたいと思っています」
「そ、そうか……」
話が別の方向に転がってバステライドは声を上擦らせた。さきほどから「そうか」としか返していない気がする。
思いがけない息子の成長を目の当たりにして、語彙力がすっかり乏しくなってしまった。
「しばらく見ないうちに大人になったね」
「当然です」
リュオンは胸を張った。
「オーリィとファレンスト氏の間柄も賛成してあげているんだろう。さすが、だね」
と、持ち上げてみたらリュオンは一転思い切り不本意だという顔をした。
やっぱりまだ子供の部分を残しているようでバステライドは安心した。
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