五章 心のありか
フレンは目を開くと、光が視界を埋め尽くして、思わず手で瞳を覆った。
どうやら寝過ぎたらしい。普段はもっと早くに目が覚めるのに、さすがに今回は疲労困憊だったようだ。体が痛いのも気のせいではないだろう。
それとも運動した翌日に筋肉痛がきたことを喜ぶべきか。年を取ると二日後とか三日後に筋肉痛がやってくるのだ。そうなってくるといよいよ自分も本当に年を取ったと認めざるを得ない。そうしたら確実に傷つく。
「フレン! フレン、起きたのね。ねえ、わたしのこと、分かる?」
もう片方の手から温かいものが離れた。
耳を打つのはもはやなじみ深くなった、鈴を転がしたような可憐な声。いつもよりも感情が大きく乗せられた、フレンの可愛い婚約者(偽物)のものだ。
今、手に触れていたものはもしかしたら彼女の手だったのだろうか。フレンは回らない思考でそんなことを考えた。
「ええと、どうしてきみは人の寝顔を観察していたのかな?」
言いながらフレンは昨日の情景を必死に思い出した。
たしか、酒場からオルフェリアの姿が消えて、フレンはある思惑から彼女を追いかけたのだ。
「あ、相変わらずね。その言い方……。いい加減起きないなら、鼻をつまんでやろうかと思っていたところよ。いびきもうるさかったし」
対するオルフェリアの言葉も通常運転だった。愛らしい唇から紡がれるのは、割と辛辣な言葉である。常々、見た目と台詞の内容が一致していない。
そうだ、決闘後、碌に二人きりで話す時間もなかったからフレンはオルフェリアのことを追いかけた。彼女のことは視界の端にさりげなく入れるようにしていた。
機会があればすぐに彼女のそばへ寄れるように。
そう思っていたけれど、少しの間街の人間の談笑に付き合っていたら、忽然と姿が消えていて焦った。ミネーレの元へ行くと、少し外の空気を吸ってくるとのことだった。
その言葉を受けて、フレンはただちに外へと向かった。表にいるはずのオルフェリアの姿はなかった。どこに行ったのだろうか、少しだけ逡巡して、視界を巡らせた。街の外へと続く通りの先の方にランプの明かりが揺れているのを確認して、フレンは念のためそちらへと足を向けたのだ。
「思い出した……。私は情けない姿をきみにみせてしまったんだ」
「あなたはわたしのことを助けてくれたわ」
暗がりだったけれど、暗い世界でフレンははっきりとオルフェリアのことを確認した。ダヴィルドが彼女の自由を奪っているところだった。
「きみは、どこも怪我をしていない? 大丈夫?」
フレンは慌てて身を起こそうとしたけれど、めまいに襲われた。
ふらりと体が傾いだ。オルフェリアが慌てたようにフレンに上半身を寄せてくる。
「あなたこそ、急に起き上がらない方がいいわ。へんな薬をかがされたのよ」
オルフェリアはいたわるような目線を投げてきた。オルフェリアとの距離が存外に近くてフレンの方がどぎまぎした。彼女がここまで警戒心なくこちらに近づいてくるのは初めてではないだろうか。
「大丈夫、だよ。きみが無事で安心した。彼の目的はきみだったんだろう?」
フレンがオルフェリアの頬に手を添えれば、彼女は今初めて、自分たちの距離感が通常よりも近いことに気がついたらしい。慌てて寝台の横に置かれた椅子に座りなおした。
フレンは名残惜しかったけれど、手を離した。
「そうみたい。会わせたい人がいると言われたの。連れて行きたいって。彼、本当に腕力がないのかしら。気絶したわたしを運ぶのは面倒だから、って最後まで薬を使わなかったのよ。わたしってそんなにも重いのかしら。失礼よね」
オルフェリアは怒りどころを間違えている。
フレンは見当外れな怒りをみせるオルフェリアに苦笑しつつも、頭の中はせわしなく働いていた。彼の目的はオルフェリアを連れ去ること。
会わせたい人とは誰だろうか。まさか、ディートマル……?
フレンはついこの間まで人の行く先々に現れて微妙にいらつく嫌がらせをしてきた大叔父を思い浮かべた。
彼ならばそのくらいやってのけそうである。女組の公演を成功させたオルフェリアに見当違いな恨みを抱いても、彼ならばやりかねないと納得してしまう自分がいる。
しかし、それにしても腑に落ちないことも色々とある。そもそもダヴィルドとディートマルに接点などないだろう。
「それと……。我が家の家宝が持ち去られたわ」
「なんだって」
オルフェリアの次の言葉でフレンは思考の海から現実へ引き戻された。
「わたしがこの間、王家の晩餐会でつけた首飾りと耳飾り。あれを、ダヴィルドが持ち去った」
その一言にフレンは目を見開いた。
「彼が最後立ち去るときに見せてくれたのよ。ちょうどリルお姉様が駆けつけてくるときだったんだけれど、お姉様は実家から知らせを聞いてダヴィルドの行方を追って来たの」
「きみの危機を察知したわけじゃなく?」
「ええ。お母様たちが実家に戻って、しばらくしてもレインが部屋からでてこなくて。夕食のころになっても姿を見せなくて、不審に思った侍女がレインの様子を確かめに行ったら、ソファに沈んでいて。最初は眠っていると思ったみたいだけれど。起きたレインは真っ青になっていたわ。彼女が内緒でダヴィルドに首飾りと耳飾りを見せたようなの……」
「どうして」
フレンが尋ねると、オルフェリアは言いよどんだ。
口を開いて何かを言おうとするが、どう説明していいのか分からない様子で視線を彷徨わせた。
「オルフェリア?」
「ええと……。呆れないでね。レインはね、その……わたしに嫉妬したのよ。わたしがフレンから新しいドレスや宝飾品をたくさん買ってもらえてずるいって。自分にもちょうだいって言われたの。でも、フレンがわたしに買ってくれたものって、全部……私の中では借り物っていう扱いで。だから、勝手にはあげられないし」
話が飛んだ方向へ飛躍してフレンは戸惑った。
しかもなにやら理解に苦しむ言葉が飛び出した。借り物ってなんだ。
「その……、契約期間が終わったら全部返品するつもりだったから、レインのおねだりを断ったの。そうしたら、彼女へそをまげちゃって。お母様に仲裁に入ってもらったのもまずかったみたい。で、ダヴィルドを使って、わたしとフレンの仲が悪くなるように仕向けたのよ。その見返りにダヴィルドは我が家の家宝を見せてほしいって」
「オルフェリア、私はそこまでケチくさい男じゃないよ。今まできみに贈ったものは全部きみのものだから、別に私の許可なんていらない。それとも、きみは私の贈り物なんてひとつもいらない?」
この場で論じることではないことくらいフレンは百も承知だったけれど言わずにはいられなかった。フレンは、自分の腹の底が冷えてくるのを感じていた。
「だって……婚約破棄した後に、元恋人から貰ったものを使うなんて……だめなんでしょう? 叔母様の家にあった淑女の心得に書いてあったわ」
たしかに、それはそうだろう。昔の恋人ゆかりの品をいつまでも持っていては、オルフェリアが本当に結婚をする相手に失礼にあたる。フレンは自分の心が鉛のように重くなるのを感じていた。彼女が本当に結婚する相手、という言葉に勝手に傷ついたのだ。
「分かっているよ……。それで、ダヴィルドはレイン嬢を使って宝石を持ってこさせて、まんまと持ち去った、と」
「ええ。あとで聞いたんだけれど、彼は折につけてあの宝石を見せてくれるようカリストやお母様に働きかけていたみたい。歴史学者だから、興味があるんだろうくらいにしか、みんな認識していなかったけれど。きっとずっと前から狙っていたのね」
「彼の行方は?」
「国境警備隊やリルお姉様たちが手分けをして探しているわ。けれど、まだ見つかっていないって」
フレンは顎に手をやった。宝石を持って逃げるとすれば、トルデイリャス領の地理を鑑みればフラデニアへ抜けるのが一番手っ取り早いだろう。下手にアルンレイヒ国内に留まるよりも隣国へ抜けた方が追っての追随も弱まる。
「ごめんなさい。勝手に話しこんでしまって。あなた、お腹すいていない? そうだわ、医者を呼んでくるわね。ちょっと待っていて」
オルフェリアは慌てたように立ち上がって、そのまま部屋から出て行ってしまった。
しばらくのちに白いものが多く混じったこげ茶色の髪をした老医師がやってきてフレンの体を診察した。
フレンの場合、薬で眠らされていたということもあるが、そもそもが疲労困憊だった。そのせいでこんな時間まで意識を取り戻さなかったらしい。それはそれで切なくなったのでフレンは体力づくりを頑張ろうと心に誓った。
「それにしても、あなた様はオルフェリアお嬢様に本当に愛されてますな。早朝にファレンスト氏の様子を聞きにわしのことを叩き起こしたくらいですよ。なかなか起きないからずいぶんと心配をされていました」
フレンの心がじんわりと温かくなった。
心配をかけて申し訳ないと思う反面、彼女がフレンのことに親身になってくれていたことを聞かされて、心がむずがゆくなった。
医者からはしっかり養生して疲れを癒すように言われた。
その後アルノーがやってきて、オルフェリアが話したことと同じ内容をフレンに聞かせた。彼女と違うところは、アルノーなりにダヴィルドの人となりを調べてきたようで、彼の評判や、追跡の進捗状況などが付け加えられていた。
彼の話を聞いている最中に食事が運ばれてきて、フレンは消化にやさしいメニューを食べきった。
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