五章 唄う伯爵令嬢5

◇◇◇


 舞台のはじまりはオルフェリアの歌から始まる。

 オルフェリアは舞台の上で歌を紡ぐ。

 楽団の奏でる繊細な旋律の上をオルフェリアの歌声が滑るように伸びやかに響いていく。

 始まりの歌。


 不思議だった。怖くて震えていた心が、いまは嘘のよう。客席には大勢の人があふれているのに、オルフェリアの心は凪いでいた。

 オルフェリア以外の時が止まっているように、彼女の歌声だけが世界に音を与えているかのように四方へとしみわたっていく。


 始まりは幼い日々から。姫君と二人の騎士の出会いと成長、友情を静かに語り、そして。

 年頃へと成長した三人の人間関係に変化が訪れる。


(不思議……。まるでわたしじゃないよう……)


 心と体が話されたような不思議な感覚だった。オルフェリアの口は確かに歌を紡いでいるのに、どこか空の高いところから俯瞰して自分を眺めているような、どこか夢と現のはざまを泳いでいるような錯覚に陥る。


 演目は滞りなく進んでいく。

 姫君と騎士たちの淡い恋心。姫君は二人の魅力的な青年の間で揺れ動く。

 セリータはアゼルを想い歌う。


 オルフェリアはフレンのことを頭に浮かべた。

 あなたの瞳はとても切なげだった。あなたは今幸せなの?

 レカルディーナ様のことは忘れたって、それはほんとう?


 アゼルに思慕するセリータのように、オルフェリアはまるでフレンに恋をしているかのように彼を想って感情を歌に乗せる。

 普段は意地悪で大人ぶっていて、いちいち気障なくせに。肝心なところで臆病なオルフェリアの契約婚約者。


 彼が渡してくれたカフスボタンが熱い。彼の想いがボタンに宿っているかのように、ふわりとオルフェリアを包み込む。その熱に浮かされるようにオルフェリアは声を、想いを、ありったけの想いをこめて歌に乗せる。


 自分でも最後はよくわからなかった。

 ただただ、がむしゃらだった。


 気がつけばオルフェリアはユーディッテに抱きしめられていた。そのユーディッテに腕をまわしているのはリエラとウルリーケだ。


 割れんばかりの歓声がどこか遠くの出来事のようにオルフェリアの耳に届く。

 舞台裏である。本番が終了し、演者一同が舞台袖に掃けたのだ。


「オルフェリア様! おつかれさま。さあ、アンコールよ。最後はみんなで歌いましょう」

 ユーディッテが歓声に負けないくらいの大きな声を出す。

「よくやったねオルフェリア様。正直あれだけの声を出すなんてびっくりしたよ」

 まだ夢の中をただよっているような感覚のオルフェリアはユーディッテに手をひかれて舞台上へと連れ出された。


 改めて舞台へと戻ってきて、そして沢山の観客たちを目の当たりにして。

 初めてオルフェリアは舞台に立ったということを実感した。実感したら急に足が震えてきた。


 思わず隣のリエラのほうへ足がもつれて、彼女の腕に寄りかかるような体勢になってしまった。リエラはすぐに気がついてオルフェリアの肩に腕をまわした。

 そうしたら歓声が一層大きくなったような気がしたけれど、気のせいだと思うことにした。でないとあとで色々と怖い。


 メーデルリッヒ女子歌劇団定番の楽曲をリエラとユーディッテらと一緒に歌った。

 胸の前でぎゅっと右手を握ると、フレンの貸してくれたカフスボタンが存在を主張したように感じた。

 曲はすでに終盤だ。

 どこか異世界めいた、夢の一部が終わりを告げる。

 オルフェリアは自分でも分からないけれど、色々な感情がたくさん溢れてきて、いつのまにか目に涙を浮かべていた。


◇◇◇


 事前の宣伝活動のおかげか、舞台は満員御礼だった。出版社や新聞社の記者も大勢つめかけ、舞台終了後にそれぞれが取材を受けた。


 オルフェリアも例外ではなく、本来演じるはずだった女優の急病により急遽代替えとして婚約者の窮地のために立ち上がった伯爵令嬢として、熱心に質問をされた。本当は色々とあったんだけど、ということは関係者の胸の中にしまっておくことにしたようだ。


 けれど、こういうハプニングが起こった方が取材をする方としては面白いらしい。事前予告なく舞台に上がった伯爵令嬢の堂々とした歌いっぷりは高く評価をされ、実はファレンスト氏の仕込ではないか、などといった記事も飛び出すことになるのだが、それはまた別の話だ。


 舞台が無事に終了した夜。

 場所はミュシャレンのファレンスト家屋敷へと移動して盛大な打ち上げが行われた。関係者以外にも取引先やら貴族やら、フレンとファレンスト商会に関係のある人物が多く招待されている。


 エーメリッヒはフリージア組団長としてメーデルリッヒ女子歌劇団の売り込みに余念がない。あれだけ遠征公演をしぶっていたのに、いま一番はしゃいでいるのは間違いなく彼だろう。賛辞の声に気を良くし、話しかけてくる人々にメーデルリッヒ女子歌劇団を売り込んでいる。


 リエラとウルリーケの周りには大勢の女性陣が円陣を作っていた。

 初めて観る男役の麗しさにすっかり骨抜きにされたのだ。リエラが次の舞台で引退すると聞かされて先ほど大きな悲鳴があがったほどだった。余談だがリエラ引退公演となる次回作のチケットはミュシャレンからの遠征組も大勢いたため争奪戦が熾烈を極めることになる。

 ユーディッテはそつなく会場にいる人間たちに挨拶をし、にこやかに笑顔を振りまいている。

 オルフェリアといえば、開始直後からフレンの隣で笑顔をつくり客人の相手で忙しかった。


「いやはや、まさかメンブラート嬢自らが舞台に立たれるとは、最初は目を疑いましたよ」

「しかしとても美しい歌声で。家内も驚いていました」

「ファレンスト氏もさぞや自慢でしょうなあ。さて、どこからが計算だったのやら」

 フレンに挨拶をしにくる人々は皆口々に感想を言い合った。

 フレンは控えめに口の端を持ち上げ、「本当に急遽のことで、裏では大変だったんですよ」と言うにとどめている。


「しかし、私の婚約者が窮地を助けてくれました。私にとっては本当に女神のような存在です」

 フレンはぎゅっと傍らのオルフェリアのことを引き寄せた。

「フ、フレンたら……」


 こんな大勢の前でそういうことをされると、やっぱりどうしていいのかわからない。とくに今日の客人らのオルフェリアに対する興味の度合いは通常のそれよりも段違いに高い。

 オルフェリアは顔を赤くして俯くしかなかった。

 それすらも微笑ましく映ってしまうのが年齢を重ねた人間というもので、オルフェリアの可愛らしい反応に一同頬を緩ませている。


「わたしは、本当に無我夢中で。気がついたら舞台が終わっていたくらいでした。最後のアンコールでようやく緊張が襲って来たくらいで」

「きみは大物になる素質があるね」

 フレンの言葉に一同同意をするように笑い声をあげた。

 そんな風に何度も同じような言葉を貰い、返しを繰り返しているとアルノーが静かに近寄って来た。

 フレンはアルノーの言葉に耳を傾け、オルフェリアのほうへ振り向いた。


「どうしたの?」

「どうやらお客様が来ているようだ」

 そう言ってフレンはオルフェリアを促して玄関ホールの方へと歩き出す。

 遅れて到着した人物がいるようだが、一体だれだろう。


 客人は大広間と応接間のほうにいるため玄関ホールは閑散としていた。そこに近衛士官の制服を着た男性が立っていた。

 黒髪に灰色の瞳をした、フレンよりも年上だろう男だ。直立不動の姿勢からは軍人特有のぴりりとした空気が漏れ出ていた。


「オルフェリア・レイマ・メンブラート伯爵令嬢でしょうか」

 見た目に反して穏やかな声音だった。

「はい」

「私の婚約者に何か用でしょうか」

 オルフェリアの緊張を感じ取ったのかフレンも言い添えた。背中にまわされた腕に力を込めたのをオルフェリアは感じ取った。守られているようでなんだか歯がゆいようなくすぐったさが胸の奥に湧いた。

 男は自らを王太子に使える近衛士官隊長と名乗った。今日は王太子夫妻も観劇しに来ていたのだ。


「王太子妃様からの伝言を言い遣っております」

「レカルディーナ様から?」

 オルフェリアの問いに男は頷いた。


「本当は直接伝えたかったとのことですが何分お忙しい身の上、私が代わりに。本日の公演は本当にすばらしかった、と。感激しておいででした。次は王宮晩餐会にディートフレン・ファレンスト氏と出席してほしい旨言付かっております。正式な招待状も近日中に届くでしょう。最後は私の個人的な言葉ではありますが、王太子妃様の願いを聞き入れていただくよう私からもお願いします」


 話し終わると近衛士官の男はしっかりとオルフェリアに目線を合わせた。その瞳にはメンブラート家に対する含みは一切なかった。レカルディーナのオルフェリアに対する親しみを理解し、支持しているのだろう。

 いくらか一方的な物言いではあったけれどオルフェリアは不快には感じなかった。


 近衛騎士は忙しい身の上のためか、オルフェリアに言いたいことだけ伝えると足早に屋敷から去って行った。

 あの場に王太子妃がいたのか、と改めて思えばいまさらながらに心臓がばくばくしてきた。そういえばレカルディーナはリエラの大ファンだとか言っていた気がする。最後肩を抱かれてしまったが、あれもばっちり見られていたかもしれない。


(どうしよう。あなた風情がリエラ様に肩を抱かれるなんて! とかなんとか言われたら……)

「暮れの晩餐会ってオルフェリアの家族が絶賛欠席中のあれだろう?」

 オルフェリアが顔を青くしている原因を勘違いしたフレンが心配そうにオルフェリアのことを覗き込んできた。


 まったく違うことを考えていたオルフェリアはフレンの言葉に我に返る。

 そして別の意味で顔を真っ青にした。


「ど、どうしよう! フレン」

「どうしようもなにも。出るっきゃないだろう。私も一緒だから大丈夫だよ」

 フレンが気楽そうに笑うからオルフェリアは呆れるしかなかった。

 この男はどうしてこんなにも楽観的なんだろう。


 それでも、フレンが任せておけと言わんばかりな顔をして笑みを浮かべているからオルフェリアも落ち着いてきた。

 どんなところでも横にフレンがいれば大丈夫な気がしてくるから不思議だった。


「あ、そうだわフレン」

 オルフェリアは思い出してフレンに声をかけたが、フレンの顔は玄関ホールに向いたままだった。

 近衛騎士が帰った後、静かだったホールにはフレンとオルフェリア、そしてアルノーや従僕のほかにもう一人。

 いつの間に扉を開けたのだろう。老齢の男がたたずんでいた。


「ディートマル・ファレンスト……」

 オルフェリアは口の中で小さく男の名を呟いた。

「これはこれは大叔父殿。まだミュシャレンにいたんですか。てっきりロルテームに帰ったとばかり思っていましたよ」

 暗い目をして又甥を睨みつけるディートマルと対照的に鷹揚に両手を広げて歓待の様相を見せるフレン。対照的な二人をオルフェリアはつい見比べた。


「ふんっ。いい気になりおって。これで勝ったと思うなよ」

「思いませんよ。最初から勝負をした覚えもない」

 フレンは肩をすくめた。

 明るい声を出しているがその瞳は笑っていなかった。二人とも視線をそらさずに真っ向から対峙をしている。怒気が勝っているのかディートマルの顔は赤茶けている。


「小賢しい若造が」

「恐れ入ります。今回は色々と直前までごたごたがありましたけど、そのおかげで最後はうまくまとまりましたよ」

 フレンはにっこり笑みを深めて傍らのオルフェリアを引き寄せた。


 ディートマルがオルフェリアに視線を移した。今回の成功の立役者(かどうかはオルフェリアには謎だが)に対して、彼は隠しきれない怒りのこもった感情をその瞳に宿していた。


 彼の独りよがりな感情のせいで一人の女優の舞台生命が終わったのだ。シモーネはフリージア組を除籍処分となった。もとより同じ組内の女優に対して嫌がらせを行っていたのだから、一概に彼のせいとはいえない。それでも、彼がシモーネに目をつけて彼女に近づかなければ、運命はまた別の形になっていたかもしれない。彼女がフリージア組で罪を償うことだってできたはずだ。


 オルフェリアはまっすぐにディートマルの視線を受け止めた。

 息を少しだけはいて、口元をゆるめた。


「わたしのほうからもお礼を言うわ。あなたのおかげでわたし舞台に立つことができたんだもの。一度でいいから女子歌劇団の舞台に立ちたいと思っていたの。ありがとう」


「くっ……。おぼえていろ」


 少しだけ首を傾けて、酷薄な笑みを浮かべたオルフェリアの言葉を聞いてディートマルは絶句した。顔を赤くして、そのまま足早に出て行ってしまった。

 この場合、空気の読めないオルフェリアなら、彼を責めるよりもにっこり笑ってお礼を言う方が似合っていると思ったのだ。


「は、ははは……」

 静寂を破ったのはフレンだった。彼はオルフェリアの隣で思い切り笑っている。


「き、きみ、ほんとうに……お、面白いね」

 お腹を抱えて笑うフレンに呆然とするが、なんだか腹が立ってきてオルフェリアはいまだに笑い続けるフレンの横腹をこぶしで殴った。いくらなんでも笑い過ぎだ。

「フレンたらひどいわ。あなたの設定どおりにふるまったのに」

「そうだったね。い、いや、いまので正解だよ。本当、最高の婚約者殿だよ、きみは」


 そうやって褒めてはくれたけれど、フレンはまだふきだしている。

 それって本当に本心なのかしら。思わず、心の中で呟いてしまうくらいには失礼な態度なのに、口をつぐんでしまうのは少年のように屈託のない笑い声と顔をしているフレンがまぶしかったからだ。


――わたし、あなたと一緒にいるフレンをみて驚いたのよ。だって、あなたと会話しているフレンはとても楽しそうなんだもの。すこし子供っぽくって――


 不意にいつかユーディッテが言っていた言葉がオルフェリアの脳内にこだました。

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