第4話 私を作った者 ①

 あのたった一言はとても大きなものになっていた――。

 あれから母さんとは意外にも普通に話が続けられ、俺は工場の現状や仕事のことなど色々と近況報告していた。

 10分程した頃だろうか。唐突に母さんが言った。

「さて、そろそろ退院手続きでもやって来ようかしらね」

 俺のことなどお構いなしに母さんが小走りに駆け出す。

 俺は驚きの声を上げ、呼び止めた。

「ちょっ!? えっ、今から!?」

「そうよ。ハイロードには秘密にしてたけど、あたし、とっくに治ってるから。あんたがちゃんと目をみて話してくれるようになったら退院するつもりでいたのよ。そんなわけで、お先にー」

 手を振りながら母さんが屋上を去っていく。なんと勝手な……。

 今まで悶々と悩んで来た俺の苦労は一体なんだったんだと言いたくなる。いざ終わってみると、大したことなかったもかもしれない。

 虚しさというべきか、少し安堵していたところへ残る彼女が横槍を投げてきた。

「ちゃんとやれば出来るじゃない。見直したわ」

 そうだ。

 そう言えば、コイツが居たんだった。

 何だよ、笑っちゃってさ。お前は偽物なんだろ? アリスの顔でそんな笑顔したってこっちは嬉しくも何ともねぇよ。

「そりゃどーも」

「……随分、素っ気ない返事ね。いいお母さんじゃない。明るいし、優しい。羨ましいわ」

 遠くを見つめるような眼差しで彼女は語る。

「用が済んだら代わるって言ってたけど…、まだ終わらないのか?」

「あら? そんなにあの子のことが心配?」

 今度は人をいじる様な嫌らしい目つき。

 アリスの姿だと余計に腹が立つ。

「少なくとも、正体が知れないお前よりは信用してるからな」

「そう…」

「?」

 俺の言葉を聞いて何を思ったのか、彼女の方は目を閉じた。

 両手を水平に広げ、吹きつける風に黄色の髪がなびく。

「私だって、本当は――」

 口元がわずかに動いたように見えたが、風の音に紛れて聞き取れなかった。

「何か言ったか?」

「いいえ、何でもない。なら、最後に一つ。あなたに言っておくことがある」

「何だよ?」

「〝ベル・ルーフェ〟という名前に聞き覚えはある?」

「ベル…ルーフェ? 聞いたことないな」

「……なら、今後のために覚えておいた方がいいわね」

「どうして?」

「あの子を作った人の名前だから。あの子の記憶は少しずつ戻り始めてる。いずれ彼を探すことになるでしょうね……」

 直後、ふわりとアリスの身体が倒れていく。

「おい! まっ……」

 慌てて受け止めた時、彼女は気を失っていた。


              ◆◆◆


 私には会わなきゃいけない人がいる。

 いたはずなんだ。

 今どこにいて、その人がどんな人だったのか、私は覚えていない。

 でも、目の前でハイロが泣きだした時、思った。


 何とかしてあげたいって――。


 だけど、身体は彼女が使っている。今の私には何もできない。

 ただ見ていることしかできなかった。

 前にも同じようなことがあった気がする。

 私がまだ石像(モノ)だった頃。

 私を作ってくれたその人もハイロみたいに泣いていた。

 大粒の涙が次々と現れては滝のように頬を伝って目の周りは赤く腫れていた。ガラガラに枯れた声は頻りに喉の奥から溢れ出し、周囲に反響する。

 泣いちゃダメだよ! 泣けば悲しみが強くなるだけなんだから!!

 いつも彼の側に寄り添ってくれていた人。あのヒマワリのように綺麗な黄色い髪をした女性。

 あの人はもうこの世にいないんだよ? いくら泣いても帰って来ないんだよ?

 私、あなたが泣いている姿はもうみたくない!!

 なら、どうして私を作ったの?

 ねぇ、教えてよ。ベル……

 

 目が覚めた時、真っ先にみえたのは私の知っている彼(ハイロ)の姿だった。


              ◆◆◆


 ジリジリと電話が鳴った。

 また仕事の依頼だろうか? 最近増えた気がする。

 ジモーさんの一件以来、どうもこの工場の知名度が上がったらしい。以前は鳴るのが珍しいぐらいだった電話が頻繁に音を立てるようになった。

 仕事が来るのは嬉しい。でも、それは善し悪しな感じもある。工場内に溜まっている破損品たちの修理をしつつ、仕事をこなしていくというのも大変なもので、俺独りではやれることにも限界があるからだ。

 だからこそ、強力な助っ人が戻ってきてくれたことには非常に感謝している。

「はい。壁面の修理ですと一週間程かかりますがよろしいでしょうか? ……はい。では、これから伺いますので、よろしくお願いいたします」

 受話器を置く音。今どき黒電話というのもレトロなものだろう。

 机上で手作業しながら俺は尋ねた。

「母さん、今度はどの辺からの依頼だった?」

「えっとね…、三丁目のピルスさんとこ。この前の強風で家の外壁が壊れたんだって。あたし、ちょっと見てくるからそれ終わったら少し休んでなさい」

 手早く支度をし、母さんがドアを開ける。

 慌てて俺は声をかけた。

「えっ、下見なら俺も行くよ?」

「いいから。仕事の方は母さんに任せて、あんたはアリスちゃんを迎えにでも行ってきなさい」

 そう言い残し、母さんは工場を後にした。

 あの後、退院続きを済ませた母さんは工場に戻ってきている。長期間の入院ということもあり、請求金額は度肝を抜く値段であったようだが、そこはさすがというべきなのだろう。しっかりと母さんは代金を値切り、計画通りとご満悦な顔をして帰ってきた。一体、どんな手を駆使したのか聞けなかったけど、また元気な母さんの姿をみれるのは嬉しいことだ。

 嬉しい…のだが、俺の場合そう余韻にも浸っていられない感じである。

「さて…」

 机上を片付け、俺は立ち上がった。壁にかかった鍵を手に取り、ベルトにくくり付ける。

 アリスのやつ、今日はどこまで行っているのやら、ここ数日深夜まで起きていたこともあった。根詰め過ぎて道端で倒れていないといいのだが……。

 工場を出ると、うだる様な熱い日差しが俺を歓迎してきた。

 思わず、目を細める。

 吹き付ける潮風は生暖かくとも、天然扇風機のように涼しげな感覚を全身に与えてくれている。おてんばなアイツもどこかで、同じように海からの風を受け、黄色く長い髪は風になびいているのだろうか。

 彼女は自分の存在意義について考え始めた。それは記憶が曖昧ながらも戻り始めている証拠なのかもしれない。


 私は石像モノとして生まれた――。

 ならどうして、ものとしての人格や身体を得たのか――?

 それには何か意味があるのか――?

 私は大事な何かを忘れている気がする――。

 

 そんな考えがアリスの中で渦を巻いている。記憶と思考の乱流の中、彼女は核心にあたるものに気がついたのだろう。


〝ベル・ルーフェ〟


 いずれ探すことになる――か。

 不服ながらも今のアリスは彼女の中に存在する別意識が言った通りの状況になっている。街へ出かけては聞き込みをし、家では芸術系の本を読みあさる毎日。『きっと全ての真相は彼が知っている』そう彼女は確信しているようである。

 まあ、全てと決めつけるのは少々言い過ぎも否めない。ただ単に石像を作っただけなのだとすれば、者へ変化した不思議な現象は後から加わったものとも考えられる。一丸に決めつけるには情報が足りない。少なくとも会うことができればどういう経緯で彼女を作ったのか、そのぐらいは分かるんじゃないだろうか?

 そもそも仮に自我を持ち、自らを変化させる石像が作れる職人だとすれば、それは大発明と同じで、世界規模で有名になるはずである。しかし、この人物、驚いたことに名前以外情報がないに等しい。初め俺は自分が芸術に疎いために名前を聞いてもピンとこないのだと思い込んでいた。だが、調べていくと、どうもそうではないらしい。アリスが意気込んで街の図書館に三日通い詰めてもベル・ルーフェのベの字すら見つからなかったのだ。いくら名が通らない芸術家であっても断片的な情報が出てきてもいいはずなのに彼の名は出て来ない。

 もちろん、捜索も行き詰ってしまった。アリスの方も万策尽きたようで、昨日聞いた話では最近は手当たり次第聞き込みをしているようだった。

 となれば、必然的に彼女のいる場所も限られてくる。

「この辺にはいないか…」

 市街地の中心までやってくるのにそう時間はかからなかった。以前、ジモーさんの家に行くためにアリスと一緒に通ったあの道だ。あの時は祭りの影響で人で溢れ返っていたが、ここは海を渡ってきた旅人や商人たちが集まり易い。

「聞き込みするにはベストポイントだと思ったんだけどな……」

 そうぼやいていた時だ。

「ヘイ! ユー。助けてくれまセンか?」

「!?」

 肩を叩かれて振り向く。

 一瞬、ほんの少しの時間。自分の身長が低くなったような感覚に襲われた。すごく背の高い人がそこにいたからだ。アロハシャツを着た身体は2メートルはあるだろうか。見上げないと顔がみえない。

 頭上からの妙な威圧感。でもこの人、ひょろい。何ていうか、身長の割に女性のように白くて細い手足をしているため、不思議と怖いとは感じなかった。

 モヤシ…? 初対面の人に失礼だが、そう思ってしまった。

「助けてクダサイ、お願イシマス!!」

 息を切らしながら、モヤシが俺の手を掴む。

「え、ええっ!? 助けて…ってどうかしたんですか!?」

「ワタシ、追われているのデス」

「追われてるっ!?」

 モヤシが自分の走ってきたと思われる方向を指さす。

 俺も目で追う。

 何だあれ?

 遠くに砂埃すなぼこりが上がっている。

「どきなさい! 私が先なんだから!!」

「何すんのよっ! 邪魔よ!!」

「いい加減にしないか! 最近の若者は年寄りを敬うという考えはないのかね!」

 な、なななっ!?

 何だか知らないが、人の波が押し寄せてきている。

 老若男女問わず、すごい数だ。

「お前、一体何やったんだよっ!?」

「べつにワタシは何もトクベツなことはしていないのデスが……う~む」

「悩まなくていいからっ! とにかく逃げないと!! あんな人混みに揉みくちゃにされたんじゃたまんないよ! 仕方ない、一旦俺の家に……」

「オー! あなたはどこか隠れることのデキル場所をご存じなのデスね!」

「いちいち感心しなくていいからっ! こっち早く来い!」

 駆け出しながら俺はもう一度後ろを確認した。まだ追手との距離も空いている。

 よし…。

 地面を踏み切ったと同時に、俺は頭の中で地図を展開した。慣れた感覚で商店の角を曲がり、路地へ滑り込む。すいすいと足が動いた。ここは俺のホームグラウンドだ。そう簡単には捕まりはしない。

『なあ、知ってるかハイロ、この街には裏道が無数と存在してんだ。何かあった時の逃げ道として知っといて損はないぜ?』

 カサラ兄ありがとう。子供の頃、一緒に街を駆け巡った経験が活きてるよ。

 とにかく休む間を入れなかった。ひたすらに走った。

 すれ違った人や風景など記憶にない。獲物を追い駆けるチーターが獲物を捕えた後にどう走って狩りをしたのか覚えていないのと同じだ。本能のまま、しみ込んだ記憶に導かれるようにして俺は家まで駆け戻った。

「はあ、はあ……」

 工場の門を開け放った時、俺はようやく自分の息が上がっているのに気がついた。全速力で走ったのは何年ぶりだったんだろう? ここ最近はめっきり運動をしていない。汗が止まらず、全身の組織が酸素と水分を欲している。

「オーッ! ココがユーの〝ハウス〟デスか! 中々独創的な所なのデスね。オウッ!? アレは一体何デスか?」

「おいおいおい、あまり漁らないで……って、聞けよ!!」

 電磁石の吊るされたクレーンが物珍しいのだろうか。モヤシは歓喜の声を上げていた。とても追われていた人には思えない。むしろ観光でもしに来たようだ。

 それにしても、この人一体何者だ? あれだけダッシュしたのに俺に引き離されるどころか、しっかりと一定の距離を保ちながら後をついてきた。おまけに顔色一つ変わってないとか、アスリート向きな持久力だ。

 俺は部屋のドアを開け、中へ入る。モヤシも続く。彼には入り口が狭かったらしい、身をかがめ、入り口をくぐる様子が見ていて新鮮だった。

「フォー、ファンタスティック! 部屋の中も面白いデスね」

 モヤシは奇声をあげる。

 この人本当に助けて良かったのか? …と頭が痛む。

 突然だったから考えなかったけど、この人不審過ぎる。普通アレだけの人数を敵に回すようなことするか? 敵というと語弊があるかもしれないけど、少なからず、『追われている』ってこいつは言った。

 何か悪いことをして追われてたのか?

 食い逃げ……とか?

 いや、そんな規模でないのかもしれない。急に背筋がひやりとした。タオルで汗を拭く。

 もしかするともっとヤバいことに首を突っ込んでるんじゃ…。

「お前、一体誰者なんだ?」

 呼びかけにモヤシはくるりと振り返った。

「《誰者ナンだ?》……と訊かれたら、答えてアゲよう、少年よ!」

「お、おおおっ!?」

 モヤシが立ち上がり、右腕を上げる。

 左腕も。

 一度Yの字の態勢を取ると、徐々に両腕が回り始めた。一体何してんだ? こいつ? 頭でも打ったのか?

 両腕の回転速度は遅く、ゆったりしていた。

 長い

 長い…

 長い……

 今か今かと、構えていると唐突に両腕が右に払われた。

「………」

 おい! そこで何も言わないのかよ!! 

 そんな、シャキーンッ!! と格好だけキメられても……。


「あーっ! そのポーズ、ガンダルフィードの登場シーンだよね!!」

 

 何も言えず呆気にとられていると、どこかで聞いた単語とともに背後から声が響いた。振り返る先に立つ小さな女の子は部屋の中へと駆け込む。彼女の後ろにはもう一人、俺が探していた黄色い髪の少女の姿もあった。

「ニーナっ!? それにアリスも…」

「ただいま。ジモーさんの家に資料がないか探しに行ったんだけど、ニーナが遊びに来たいって言うから連れて来ちゃった…」

 アリスが申し訳なさそうに頭を掻く。

「なんだ、ジモーさんの家にいたのか。どうりで街中を探しても見当たらないわけだ」

「ところでハイロ」

「?」

「そこで変なポーズを決めてる人は誰?」

「あ、いや…、あの人は……」

 アリスにしては珍しく、目を点にしている。

 俺だって分かんないよ! アロハシャツで、モヤシみたいで、可笑しな喋り方をする人……。

 変人じゃねーか!!

 どう説明すりゃいいんだよ? 名前だってまだ訊いて……。

「お久しぶりです、。ちゃんとガンダルフィードのこと覚えててくれたんですね」

 え?

 おい、ニーナ。今、何て言った?

「当然デス。ニーナちゃんのガンダルフィード講習会で聞いたことは全て覚えてマース。ガンダル・パンチから必殺のガンダル・ストライク・フィニッシャーまで完璧デース!」

「くーッ! さすがゲーハさん!! 教えたかいがあったわ」

 おかしい、ニーナが嬉しそうにモヤシと会話している。だって、あのニーナだぞ。街で初めて会った俺を危ない人扱いにした彼女のことだ、モヤシのことも〝変人〟とでも言うかと思った。

 それに、モヤシの方もニーナの趣味を理解している。もしかして……。

「……ニーナ、その人って知り合いなのか?」

「えっ? そうですけど?」

 やっぱり。

「……誰?」

「ゲーハさん。有名な彫刻家なんですよ」

「ちょ…、彫刻家っ!?」

 俺が驚くより先にアリスが動いた。

 すれ違いざま、黄色の髪が尾を引く。

「教えて下さい! あなたは、ベル・ルーフェという人を知っていますか!?」


              ◆◆◆


「改めマシテ、ワタシの名前は《ゲーハ・ツーウォ》といいマス」

「あ、どうも。ハイロード・スティッカーです」

「アリスです」

 長い話になりそうだったので、俺はゲーハさんをテーブルへ勧めた。話によると、彼はベネティウスと呼ばれる街から観光目的でクラストルドへやってきたそうだ。ベネティウスと言えば海を隔てて東側にあり、数々の芸術家たちがアトリエを構える芸術の港街として有名である。そしてこの人、ファンニブル家とは親戚関係にあるらしい。当然ニーナも知っているはずだ。

「ハイロードさんには大変ご迷惑をおかけシマシタ。プライベート旅行のつもりだったのデスガ、どういうわけか、到着早々ファンに追いかけられてしまいマシテ……」

「そうだったんですか…、有名人も大変ですね。てっきり……」

「テッキリ? 何デスカ?」

「い、いや、何でもないです」

〝泥棒〟とか〝変人〟って思ってた。なんて知れたら殺されるだろうな……。

「それと、アリスさん……といいマシタか?」

 若干語尾が弱まっていた。

「失礼デスが、ワタシとは初対面デスよね?」

「はい…?、そうですけど…」

「オウ、そ、そうデスよね。少々考え過ぎていたようデス。申し訳ナイ。では、本題に戻ってあなたのクエスチョンにアンサーしましょう。ワタシ、ベルを知ってマース」

「本当ですか!? どんな人ですか!? 今どこに!? 何か言ってませんでしたか!?」

 アリスがテーブルを強く叩いて身を乗り出す。

「おいアリス、そんな質問攻めされたんじゃ、ゲーハさんだって答えづらいだろ…」

 ハッとしたようにアリスが顔を赤くした。慌てて席に座り直す。

「ごめんなさい……」

「ハッハッハ。構いマセンよ。それにしても、ベル…、懐かしい名前デスね。カレとは学生時代に同じ芸術大学に通っていたのデス。お互い顔を知る程度デシタが、真面目な雰囲気で一生懸命に勉学へ励んでいた印象が強いデース」

 ゲーハさんが手元の紅茶を一口すする。カップの持ち方は湯呑みでお茶を飲むようであったけど。

「カレは石を削るタイプの彫刻家デシタ。主に動植物をモチーフとしたものを削り出していたようデス。何より印象的だったのは、カレの彫刻を作る姿デス。スマイル。いつも明るく、楽しそうで、他人の目や実力差など気にも留めずに、自分のペースで制作活動を行ってイマシタ。その点、ワタシなど結果を気にしてばかりで、どうやったら他人に認められる作品を作れるのデショウ……そればかり考えて作品へのラヴが足りなかったように感じマス。今では有名になってしまいマシタガ、本当ならば、カレの方がワタシより評価されるべきだったのではナイか? そう思ってしまうこともありマシタね。カレの考え方は見習うべきもので、もっとカレとトークすべきデシた。今となっては、もう遅いデスが……」

「どういう……ことですか?」

 思わず、俺はそう言ってしまった。不安の正体は考えたくなかったが、きっと頭の中には浮かんでいるもので九割方合っていると思う。

 それでも、違っていて欲しい。そう信じたい。

 彼女の悲しむ姿は見たくないから……。

 ゲーハさんは何度か目を逸らし躊躇していた。

「残念デスが……、ワタシもカレの所在については分からないのデス…。少し前まではワタシと同じくベネティウスにいたのですが、現在行方は知れず、消息も不明と聞いてイマス。探すのならば、困難を極めるデショウ……」

 やはり。

 俺は隣に座るアリスに目をやった。彼女は何も言わず、言われた一つ一つの言葉を噛みしめるかのように俯むいていた。膝の上で作った握り拳を強めるその姿には悔しさがにじみ出ていて、見ているこっちが辛くなる。

 それにしても消息不明とは……情報が出回らないのも納得せざるをえない。

「ゲーハさん、貴重な情報ありがとうございました。どうであれ、こっちは行き詰っていたところでしたのでお話が聞けただけでもよかったです」

「……お役に立てずに申し訳ないデス。よければ教えてくれまセンか? あなたたちはどうしてベルを探しているのデスか?」

「それは……」

 深くは言えない。言ったところで分かってもらえないだろうから。

 俺は言葉を上手く置き替えて、アリスの現状をゲーハさんに説明した。

「なるほど、記憶喪失とは複雑な事情があったのデスね。唯一の手掛かりが〝ベル〟デスか……」

 ゲーハさんは腕を組んだ。何か妙案を考えてくれているのだろうか? ひたすらに唸っている。

「ハイロードさん!」

「えっ、あ…、はい!」

「ベル・ルーフェ本人に会うのは難しいデショウ。デスが、少なくともカレに関わりのアル所へ行けば、彼女も何か思い出すキッカケになるノデは?」

「それって……」

「何か心当たりがあるんですか!!」

 急加速した車のようにアリスが話に跳びついてきた。今しがた落ち込んでいたようには思えないほど、期待に瞳の色が輝いている。

「もしかするとベネティウスのどこかにベルの使っていたアトリエがあるかもしれまセン。そこに行けば何か分かるのではないデスか? 以前ワタシは少なからず街で彼に会っているので可能性は十分あると思いマス」

 ゲーハさんが言った後、俺の時間は一瞬だけ停止した。不意に足元をすくわれたような感覚。使っていなかった脳の回路が活性化を始める。

 見落としていた。いや、気づかなかったと言うべきか?

 アリスには不思議なチカラがある――。

 以前、俺は彼女のチカラを目の当たりにしている。修理したロボット人形であるガンダルフィードがまるで生きているかのように会話するアリス。その不思議な行動には半信半疑な面もあるが、可能性としては悪くない。ベル・ルーフェ本人を探すより、彼に関する場所やモノを探すことができれば、何か手掛かりが掴める見込みはある。

 俺は立ち上がった。

 それは本来、彼女が言うべきセリフだったのかもしれない。

「ゲーハさん! 無理を承知でお願いします。アリスをベネティウスに連れて行ってくれませんか? 少しでも可能性があるのなら、俺はそれに賭けてみたいんです!!」

 俺は一生懸命に頭を下げた。眉間にシワが寄る。力んでいるのもそうだが、ゲーハさんの返答が怖いこともあった。彼には情報を提供してくれただけでも十分感謝すべきだ。これ以上を求めるのは不合理なのかもしれない。でも、それでも、アリスのために何かしてやりたいと思ってる自分がいる。きっとここはターニングポイント。彼女にとって大きな一歩を踏み出すきっかけとなるに違いない。なら、少し背中を押してあげるぐらいいいじゃないか。

「ダメ!」

 短く、鋭い二文字が飛んだ。

 俺に異を唱えたのはアリスの方だった。

「行くなら、ハイロも一緒。そうじゃなきゃ、私は行かない」

「何、言ってんだよ! おまえについて何か分かるかもしれないんだぞ!! 仕事がある俺のことは放って……」

 そこまで言って言葉が途切れた。アリス眼差しが胸元に突き刺さる。

「ハイロは初めて私と会ったあのとき、何て言ったか覚えてる?」

「えっ…」

 焦った。唐突過ぎてすぐに返事が出ない。何か言おうとするたび、形にならない言葉が喉の奥で砕け、その破片が喉元をえぐった。ごくりと唾を飲み込んだ音が頭蓋に反響し、思い出せないという混乱が拡大していく。

 何も言わない俺からアリスは目を逸らさなかった。先ほどよりも視線が鋭く感じる。まただ、真剣な彼女の目から俺は逃れることができない。その紅の瞳は俺を一瞬にして飲み込み、灰にしてしまいそうに思える。指先ひとつ動かない。左の額を伝う汗は輪郭に沿って流れ落ちる。思考できるのに身体だけ時間が止まったかのように言うことを効かなかった。

 燃え盛る炎を覆い隠すようにアリスが深く目を閉じる。金縛りに似た感覚から解放された俺に彼女の言葉がゆっくりと紡がれていく。

「〝モノに生まれてきたおまえ達は不運だな〟そう言ったんだよ、覚えてない? でもね、今は私、モノに生まれてきてよかったなって思ってる。だってそうじゃなかったら、ハイロとも会えなかったし、ニーナとも友達になれなかった。いっぱいおしゃべりもできなかっただろうし、風を感じながらこの街を歩くこともなかったのかなって思う。楽しいこともあった。ケンカだってした。色んなこと私に教えてくれたのは全部ハイロだった。ハイロがいなかったら、私きっとただのモノで終わってた。こんなこというと変かもしれないけど、私、期待半分怖がってるんだ。自分について知りたい。でも記憶が戻ったら今がなくなっちゃうんじゃないかって、ハイロとも会えなくなるような気がする。だから……」

 アリスの声は一生懸命で、少しだけ枯れていた。

 大人になれば上手な話し方や表現が分かるように、研究発表やレポートといったものは子供の作る絵日記や作文発表会とは比べ物にならない。

 アリスの話方はどちらかと言えば後者の方になるだろう。けど、子供には大人にない素直さと感受性豊かなところがある。思ったことを躊躇することなく言い、表現する能力は大人になるほど失われてしまうものなのだろう。だからこそ、アリスの言葉一つ一つに重みが感じられた。矢のように的確に俺を射抜く。

 俺と合わなければアリスは何も始まらなかった。それを改めて自覚した。当たり前だったように過ぎてきた彼女との日々がおもむろに、ぼやっと蘇ってくる。アリスと会ってまだ数えるぐらいしか経っていない。でも、心のどこかではすごく長い時間彼女と過ごして来たような気がする。それだけ充実した日々を送って来たということなのだろうか。

 アリスにものとしての時間を与えたのが俺なのだとすれば、彼女のやるべきことを最後まで見届けるのも俺の役目なのかもしれない。

「オー、何だかシリアスな雰囲気デスが、お話してもよろしいデスか?」

「あっ…、ああ、すみませんゲーハさん。どうぞ」

 慌てて我に返り、俺は向き直った。アリスもゲーハさんの方を向く。

「お二人がよろしいのデシたら、ご一緒で結構デスよ。ハイロードさんには助けてもらったこともありマスし」

「ほんと!」

「本当ですか!?」

 俺の予想とは裏腹な答えだった。

「ええ。ワタシでよろしければ、お手伝いしマスよ。ただ……」

 ゲーハさんの目線が下がる。手前に置かれたお茶の水面はわずかに波立ち、映し出す顔をさらに歪ませた。

 わかってる。ベネティウスに行くためには、どうしても解決しなければならない問題がひとつだけある。

「〝どうやって港まで行くか〟ですよね?」

 俺は短絡的に言った。ゲーハさんが頷く。

「ハイロードさんはお察しが良いデスね。その通りデス。残念ながらワタシがこの街をウロツクことで先ほどのように人に囲まれ、追いかけられてしまう可能性がありマス。ベネティウス行きの船まで辿り着けるかドウカ……」

 先ほどの光景が脳裡に蘇る。あれだけの数のファンに押し寄せられてはきっとパニックが起こってしまう。ゲーハさんも一溜まりがないはずだ。

 どう解決しようかと考え込んでいると、足元の方から声がした。

「あら、それなら早朝を狙って行けばいいんじゃない?」

 机の下からぬっと母さんが顔を出す。

「わっ!! か、母さんっ!? いつからそこに? 話聞いてたの!?」

 驚きのあまり、俺は跳び上がった。反動で膝が机にぶつかる。カップは倒れなかったが中の紅茶が少しだけ零れた。

「ただいまーって帰ってきたのに誰も返事してくれないから、こっそり盗み聞きしてたのよ。あっちで遊んでるあの子は気づいてたみたいだけどね」

 母さんがニーナの方へ目配せする。壊れたビデオデッキを積み上げて何をしているのだろうか。気がついたニーナがこっちへ振り向く。俺を見ながら苦笑する彼女の頬を一発つねってやろうかとも思ったが、一言出る方が先だった。

「なんだよニーナ、気づいてたなら教えてくれてもよかったじゃないか」

「ふふ。だってハイロードさん本気でゲーハさんに頭下げてるんだもの。見てて面白くなっちゃって。やっぱりアリスお姉ちゃんのこと好きだからなんでしょ?」

 は?

「す、すすす好きとか…そういうもんじゃ……」

「動揺してますよ?」

「し、してない!」

「顔も赤くなってますし」

「なっ、なってないッ!!」

 ムキになったせいか、声が張り上がる。

「まあまあ、二人とも。とにかく、ゲーハさん…とおっしゃいましたか? ハイロードとアリスちゃんのこと、よろしくお願いします」

「いえいえ。こちらコソ」

 母さんがゲーハさんに頭を下げる。その様子が俺の思考を呼び戻した。

 ちょっと待て、母さんはそれでいいのか? 俺も行くとなるとしばらく工場を空けることになるんだぞ?

「母さん、俺が居ないと工場が……」

「心配しなくても大丈夫よ。修理とか難しいことはできないけど、簡単な仕事ならあたしでも対応できるから。あんたはアリスちゃんと一緒に行ってあげなさい。親しい人が側にいないのって意外と寂しいものよ……」

 母さんの視線は壁に掛けてある小さな写真を眺めていた。いつだったか、家族皆で撮った唯一の写真。

 覚えてる。母さんの隣。左上の一カ所だけ、俺がまだ小さかった頃マーカーでぐしゃぐしゃに塗り潰した部分。塗りつぶしたのはそう、母さんが病院に入院したあの日のことだ。突然姿を消したあいつ。あいつの顔はもう見たくない。そう思ったからこそ出た反動的な衝動だったのかもしれない。

 あいつのことをどう思っているのか母さんに尋ねたことはなかった。でも、今の母さんを見ていると俺とは別の思いをずっと胸の奥に仕舞っていたことが伺える。

「母さん。やっぱり、とう……」

 母さんはサッと口元に人差し指を立てた。それ以上は言わなくても分かる。そう暗示していた。

「いいのよ。気にしなくて。あの人はあの人なりの答えを見つけるために、そうしたんだから。何にも縛られずに自由に生きる。それがあの人の選択。誰かのために何かをしてやろうって思うことも立派なことよ。アリスちゃんのチカラになってあげなさい。ハイロードの選んだことは間違いじゃないと思うわ」

「母さん…」

 アリスがベルを追う姿に、俺は無意識にあいつを重ねていたのかもしれない。俺に自由の意味を教え、いつの間にか姿を消したあいつ。それはあいつなりに責任を取ったつもりなのかもしれない。でも、俺だって母さんと向き合えたんだ。息子にできてあいつにできないということはないだろう。

「ねぇ、ハイロ」

 考え事をしているとアリスが俺の袖を引っ張ってきた。

「どうした?」

「ベネティウスってところは船で行くんでしょ? 船ってそんなに朝早くから動いてるものなの?」

「あ…」

 頭の中が真っ白になった。同時に部屋中が静まりかえる。外で泣いてるセミの鳴き声が気になり出し、うるさく思えてきた。

 母さんのアイディア。初めは有りだと思ったけど、肝心の船が動いてないのでは話にならない。クラストルドからベネティウスに行くためには東行きの船に乗る必要がある。一番早いものでも七時~八時ぐらいにならないと出港しないだろう。また、港では朝市もやっている。その時間帯となれば人通りも増え始めるはずだ。市場の買い物客の中にゲーハさんのファンが潜んでいる可能性は十分ありえる。

 俺が肩を落とすと、その様子を見ていたニーナが言った。

「お困りなのでしたら、水上セスナ機をお貸ししましょうか?」

「へ? セスナ…機?」

「はい。お父様に頼めば貸して頂けると思いますよ。離陸から着地まで水面を使うので滑走路は必要ないですし、アレなら四人乗りなので全員乗れます」

 開いた口が閉じなかった。さすがは金持ち。ファンニブル家が自家用飛行機まで所有していたとは……、ましてや、それを貸すなどと軽々しく口にするニーナが小さい外見ながらも大人びて見えた。

 だが、この申し出は非常に助かる。船の心配なく移動手段が確保できれば、当初の予定通り早朝に出発すれば大丈夫だ。

「オウ、空の旅とは中々洒落てマスね。ワタシ飛行機はハジメてデス。楽しみデスねー」

 ん? はじめて?

「ゲーハさん、それってどういう……?」

「言葉通りの意味デスが?」

「………」

 マジかよ、一体誰がセスナ運転するんだ? てっきりニーナが飛行機の話をするからゲーハさんに運転経験あると思ってたけど、今の反応からしてそれはない。

 俺はニーナの方を向いた。

 にこりとニーナが笑い返す。

「ニーナ…」

「はい?」

「俺に運転しろ……と?」

「何か問題でもありましたか?」

 ニーナが首をかしげる。だが俺には分かる、彼女は賢い子だ。幼く無知な少女を演じているが、実際は状況が良く分かっている。俺に無茶ぶりして楽しんでいるのか?〝機械が直せる=操縦できる〟そう思われているのだとすれば、独断と偏見にも程がある。

「大アリだよ! どうすりゃいいんだよ!?」

「あら、操縦できないのですか……初耳です」

「初耳も何も、平凡な一般人が航空免許なんて持ってるかよ!」

「いえ、ハイロードさんは普段着の下に工具ぶら下げて歩くような人なので、一般的な18歳の方とは少し違って……」

「……それ、どういう考え方だ」

「仕方ありませんね。では…」

 ニーナがすたすたと入り口へ向かう。ドアを半分開いて振り返る。

「急ぎでお父様にマニュアルを用意できないか頼んでみます。恐らくそれを読めば大丈夫かと思いますので。失礼します、お邪魔いたしました」

「おい、ニーナ、ま……」

 ドアが閉められた。一枚板に仕切られ、余った言葉が宙を彷徨う。口をパクパクさせながら固まっていると母さんが俺の肩を叩いた。

「まあまあ、そんなに心配しないの。あの子なりにハイロードとアリスちゃんに協力しようとしてるんだと思うよ? 今日は早めに寝ないとね、明日起きれなくなっちゃうわよ~。あ、ゲーハさんも泊って下さい。部屋に空きがありますから」

 なんかいい感じに締めくくってるけど、母さん、そういう問題じゃないと思う。


              ◆◆◆


 夜が明けるのはあっという間だった。相変わらず日中との温度差が激しく、吹き付ける風は少し肌寒い感じがする。

 小型セスナ機はすでに港にスタンバイされており、桟橋の隣に赤い外装の機体が鎮座している。やや目立ち過ぎな感じも否めない。

「えっと…、左のレバーで高度を調節、このメーターは……」

「ハイロまだ~?」

「ハイロードさん急いでクダサイ。これでは朝早く来た意味がなくなってしまいマース」

 セスナの中にいる俺に対し、桟橋から二人の声が跳ぶ。

 あ~! もう、うるさいな!! これでも急いでるんだよ!

 そもそも、当日にマニュアル渡されるってどういうことだよ? ニーナが届けてくれるものだとばかり思ってたら、『すみません。本日中に渡しにいけそうにないので、セスナに積んでおきますね』とか電話来るし。おかげで出発前に操作確認しないといけない状況になっている。港についてから2時間は経過しているだろうか。これでは早く来た意味がない上に出発時刻も押してる。急がないと……。

 俺の目は忙しなくマニュアルの文字を追った。片手はページをめくり、もう一方の手で機器の位置と動かし方を確かめ、文面と照らし合わせていく。大まかな基本構造は一般的な小型飛行機と大して変わりない。車輪がないこととエンジンのパワーがやや強い分、飛行可能時間は長くなっている。目につく大きめの操作ボタンは主に飛行高度を自動的に調整するものが多く、左右にあるレバーは右が旋回用、左が上昇下降の役割を担うようだ。大分頭の中でイメージが固まって来た。けど時間がない。これ以上マニュアルの理解に裂く猶予はないだろう。あとは理解した範囲で上手く操縦出来るかが問題だ。練習なし、本番一本勝負。緊張して心拍数が上がってる。若干呼吸も早い。

 落ちつけ。深呼吸、深呼吸…。 

 初めて車の運転を習った時だってそうだ。習えばほとんどの人が乗れるモノだというのに、始めから〝怖い〟〝無理〟そう思うから上手く出来ない。ネガティブな思考はそれだけ自身の行動に影響を与える恐ろしいものだ。

 意を決して俺は言った。

「おし! アリス、ゲーハさん、乗って!」

 桟橋で待つ二人から返事がなかった。

 嫌な予感が走る。慌ててフロントから顔を出し振り返るとアリスとゲーハさんが落ちつかない様子をしていた。

「ハイロ…ちょっとやばいかも……」

「コレは、嫌な予感デスね……」

 アリスとゲーハさんの視線の先には若い女性が3人いた。港からこちらを指さし、ひそひそと話している。俺は慌てて腕時計をチェックした。午前5時。クラストルドの朝市が始まる時間にしては早い。人通りが増える心配はないだろうが、悪い傾向だ。もしあの三人がゲーハさんのことを知っていれば遅かれ早かれこちらにやってくる。今はまだ疑っている。急いでこっちが逃げれば慌てて追ってくるに違いない。急発進は危険だ。

 どうする? 上手くやり過ごすか? いや、高身長、モヤシ体型の特徴的なゲーハさんを誤魔化しきれるとは思えない。それに情報はあっという間に拡散する。類は友を呼ぶと言うように一度3人を相手にしてしまえば、たちまち人が集まってくるはずだ。昨日の彼の追い回され様からしてそれこそ抜け出せなくなる。

「あのーっ!」

 こちらを呼ぶ声が発せられ、3人が近づき出した。やばい、桟橋に入られてしまっては手遅れだ。アリスとゲーハさんはどうすればいいか分からず棒立ち状態になっている。セスナから降りた俺も正直どうすればいいか分からない。

 もう天に運命を任せるしかない。そう少しでも思った時だ。大きなエンジン音が耳に響いた。

「どいたどいたー!! お嬢さんたち危ないよーっ!!」

 長い大きなトラックだった。引き連れる銀色のコンテナが桟橋を隔て3人と俺たちを仕切り、停車した。

「ちょっと! 何なのよっ!」

「邪魔なんですけど~!」

 銀色のコンテナの向こうで文句が跳ぶ。

「いや~、すみませんね。朝市のための荷降ろしなんですよ。ご了承下さいー」

 3人を軽く無視するかのようにトラックの運転席から男性が言う。頭にかぶるニット帽に俺は見覚えがあった。

「カサラ兄っ!?」

 驚く俺にカサラには大声で言った。

「おう、ハイロ! 元気そうで安心したぜ。今のうちに早く行きな!」

「あ、ありがとう! でも、何で…?」

「おまえの母ちゃんからナエさんに電話あったんだよ! 事情は一通り聞いてるぜ! アシストしろってことだから、早くしな!!」

「お、おう!」

 俺は手早くセスナの運転席に乗り込んだ。後ろにアリス、ゲーハさんと続く。

 寂しくなるから母見送りはしないって母さん言ってたけど、やっぱり気にかけてくれてたんだな。ありがとう、母さん……。

「シートベルト付けたか?」

「うん。大丈夫だよ」

「イエス。大丈夫デス」

「よし…」

 エンジンを回す。プロペラがゆっくりと回転を始めた。俺は頭上のゴーグルを目にかけた。普段は鉄を溶接する際にバーナーの火花から目を保護するためのものだが、飛行の際は水面やコクピットの窓ガラスに反射する太陽の光を弱めてくれるはずだ。

 両側のレバーに手をかける。緊張で汗がにじむのと同時に気合が入った。アクセルを踏むのと同じだ。あとは右足を軽く踏み込めばセスナは前進する。

「ハイロ、やっぱり緊張してる?」

 後ろからアリスが覗きこむ。

「初フライトだしな……それに無免許だから見つかったら最悪罰金くらうかもしれない」

「ばっきん!? バイ菌みたいなもの?」

 ちょっとだけ緊張が解けた気がした。

「相変わらずだな」

「?」

「ベネティウス着いたら教えてやるよ……行くぞ」

「うん」

 セスナが海上を滑りだす。ボートの上のような振動。さっきまで震えていた手は不思議と落ち着いていた。波に揺られながら俺は左側のレバーを手前に引く。

 ベネティウスへ向けて緩やかに機体は浮かび上がった――。



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