山行

クロン

上篇


 頭上を見上げれば、真っ直ぐ伸びる梢の合間に五羽の鳶が輪を描いてゆったりと飛んでいるのが見えた。

イシは鼻の下に溜まった汗を拭い取り、ずっしりと重い袈裟の上からがりがりと体を掻き毟った。さっき藪を通った時蚊にでも刺されたのだろうか。無性に痒くて、イシは両腕を背に回した。肩の付け根を思い切り掻いていると、後ろからカヅサの声が飛んだ。


「おい、うるせえぞ」


 イシは小さく舌打ちし、掻くのをやめた。

草藪を踏み分け、行く手を阻む枝を手で押しのけながら進む。また鼻下に汗が溜まってきた。イシは苛苛しながら袖にそれをなすりつける。


 しばらく、イシたちは無言で道なき道を歩き続けた。

イシの真後ろを歩くカヅサはことある毎に嗣由杷しゆは僧正に対する呪詛をぶつぶつと呟き、またそれがイシを苛つかせた。涼しい顔をしているのは先頭を行くヨドくらいのもので、列の歩調は乱れ始めていた。

 無理もない、とイシはひとり心の中で悪態をついた。

この炎天下の中、ろくに休憩もとらずに分厚い袈裟を着て森の中を歩いているのだ。疲弊しないわけがないし、それだけにヨドの人間離れした体力がどこか不気味にすら思えた。


「ヨド、今どのへんだ」


 カヅサが言った。

ヨドは立ち止まって、懐から小さく折り畳まれた地図を取り出した。ヨドが行程を確認している間、イシたちは休むことができた。カヅサの後方、最後尾を行くシクマドなどはその場にへたりこんで犬のように舌を出してはあはあと喘いでいる。


 人里を遠く離れた山の中。持たされたのは竹筒一本の水だけ。これからおれたちは、果てしなく続く山々を踏破していかなければならない。


 そう考えるだけで、イシは吐き気がした。

地獄だ。ここは。紛れもなく。


「うんとね。今ちょうど、鋸山の中腹にさしかかった辺りだ。このぶんだと急げば、陽が沈むまでには中栄寺に辿り着けそうだよ」

「糞、まだそんなんかよ」


 イシはほとんど聞いていなかった。理性が、体を休ませろと喚いていた。

ヨドが歩き出す。イシも汗でぐっしょりと重い袈裟を引きずり、一歩足を前に踏み出した。









 寺子たちに課せられる修行の中でも、山行は一際過酷なものとして知られていた。イシも寺に入った時から覚悟こそしていたものの、実際に山に放っぽり出された時には心細さと不安のあまり泣きそうになってしまった。得体の知れないものたち―それこそ、土掬つちすくいや蜘蛛蜂くもばちのような化け物―が跋扈する山の中を、目的地まで四人一組で歩き通さなければならない。


 毎年、中継地点の寺で棄権してしまう者や、それっきり寺から逃げ出してしまう者もあらわれる。篩いにかけられて残った者だけが精進の道に戻るというわけである。


 空が夕焼けに朱く染まり始めた頃、カヅサが野宿しようと言い出した。

ヨドは渋顔だったが、しばらく悶着が続いたのち、ようやく適当な空き地を見つけて焚火をたくことが決まった。

 四人で集めた枝の山の上に、ヨドが火を起こした。

橙色に染まった顔がぼうっと浮かび上がる。


「ほんとうは、今日中に辿り着いた方がよかったんだ」

 ヨドが不服げに顔をしかめて言った。流石にイシも憤って、言い返す。


「あのな、ヨド、お前。皆が皆お前みたいなわけじゃないんだぞ。少しは気を使えってんだ。見ろよ、シクマドなんか虫の息だぜ」


 鬱憤が口から流れ出て行く。

「僕は皆のためを思って言ってるんだ。」ヨドもきっとイシを睨んで言い返した。「野宿するなら、交代で見張りが必要になる。中栄寺にさえ着けば、僧人たちが守ってくれる。そんなもの必要ないんだ」


「お前―」


 カヅサが言い争いをにやにやしながら眺めていた。それで喧嘩をする気も失せてしまった。焚火を囲んで各自休憩をとる四人の間に、何とも重苦しい沈黙の波が押し寄せてきた。


「まあ、まあ、でも、よかったよね。無事四人生き残れて」


 執成すように言ったのはシクマドだった。

皆の視線が向けられると、しゅんと俯いてしまう。丸刈りの頭が橙に照らされて浮かんでいた。


「そうだなあ、今ちょうど、苔頭こけがしらやら土掬いやらに襲われたら、ひとたまりもねえだろうなあ」

 カヅサがそう言って、一人で笑った。彼以外誰も笑わなかった。イシは心底カヅサを軽蔑した。


「カヅサ君、あまり皆を不安にするようなことは言わないでくれ」ヨドが枝をぱきりと折って焚き木に投げ込み、そう言った。カヅサはふんと鼻を鳴らした。


 ぱちぱちと炎の爆ぜる音が響いている。

夜の森はうるさい。野鳥や虫の鳴き声、風にゆらめく梢のざわめき、それ以外にも至るところから多種多様な音が流れてくる。あるいは、こちらを伺う化け物どもの息遣いも混じっているかもしれない。


「なぁ、こんな話知ってるか」


 カヅサが沈黙を破った。やつれた三つの少年の顔がぎこちなく動く。喋っていないと、この夜闇に飲み込まれてもう二度と帰ってこれないような、そんな気がした。

「この山行ではな、毎年必ず、行方不明になる者があらわれる」


「だからどうしたってんだ」

 竹筒の底に僅かに残った水滴を舐めとりながらイシが言うと、カヅサは頬を歪ませて答えた。


「わかるか、イシ。犠牲だよ、犠牲」


「え、それって、どういうこと?」

 興味津々といった様子でシクマドが聞き返した。こいつはいつもこうだ。純真で、騙されるということを知らない。要するに馬鹿なのだ。イシはそう心の中で呟いた。


「おれは歴代の山行に関する資料を親父の蔵から探し出したんだ」カヅサの家は代々山行を取り仕切っている一族の末端である。「蜘蛛蜂に捕獲されて巣に連れ去られた奴、足を踏み外して峡谷に落下して死んだ奴。色々いたが、毎年共通していたのは必ず道に迷って四人共々行方知らずになった例があるってことだ」


 カヅサは口を置いて反応を見た。

シクマドの反応は予想通りだった。食い入るようにカズサの話に聞き入っている。馬鹿が。もう一度、心の中でイシは毒づいた。


「おかしいだろお、偶然にしちゃできすぎてる。だからな、きっと毎年、選ばれた四人が寺の奴らにどこかへ連れ去られるんだよ」


 イシの背筋をひやりとしたものが走り抜けた。連れ去られる、どこかへ。いつもならくだらない与太話と一蹴していたかもしれないが、今日は違った。いつ草陰から化け物が襲い掛かってきてもおかしくない。そんな状況では、カヅサの突拍子もない話が妙な現実性を持って迫ってくるようだった。


「連れ去られるって、どこへ、何のために?」

 シクマドの怯え顔に満足したのか、カヅサは満面の笑みを顔に称えて言った。


「さあな。まあおれらには関係ねえこった」


「おい、そろそろ今日の見張り番を……」


 たまりかねたイシがそう言いかけた時、それまで黙っていたヨドが急に人差し指を口にあてた。静かにしろ、そういう意味だろうか。イシが怪訝そうに見返すと、ヨドが擦れた小さな声で言った。


「何かきこえる」


 それを聞いた瞬間、イシの脳裏に一瞬、ある光景が浮かんだ。追ってくる寺の僧人たち。イシたちは捕えられてどこかへ連れて行かれてしまう。カヅサを見れば、彼もさっきまでの浮かれ顔はすっかり消え失せ、青ざめた顔でその場に立ち尽くしている。

 イシも耳をすませてみる。

微かに、微かにだが、何か楽器を打ち鳴らすような音がきこえてきた。それに混じって、これは……何だろうか。足音とも羽音とも違う、これは―


 シクマドがひそめた声で何か尋ねた時、ヨドが子供とは思えない程に低い声で告げた。


「来る、土掬いが。来るよ」




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