ルペン氏はレイシストか?-あるいは本とインターネット

 ルペン氏がレイシストであるかどうかを調べる際に、あなたが「ルペン レイシスト」と検索するのは、まったく意味のないことであるばかりか、有害ですらある。なぜなら、まず第一に検索というのは「そのような情報が存在するかどうか探す」ことであり、すなわち、網羅的ではなく、意見が五分五分、いや九分と一分に分かれるような状況であっても、ああもちろん筆者は人数が正しさを担保するとは考えていないと申し添えなければならないのだが、ともかく明々白々で、異論を持つのは狂人めいた人間だけであるとしても、その狂人の意見を、インターネットは映し出して見せる、ということなのである。端的に、すなわち簡潔に言うならば、100人中99人が正しいと断言するような状況でも、検索は残りの1人を表示する。重ねて言うが、人数は正しさを担保しない。要するに、存在しうる限り、検索しうる。たとえそれがいかに滑稽であろうとも、だ。第二に、様々な言語でMr.やMs.あるいは氏と呼ぶべき、名前に付ける尊敬語というのは存在するのであって、それを使わないというのは、すなわち罵倒や蔑視や見下しの意が存在する可能性が高い、と言わざるを得ない。あなたはルペンと検索するよりもルペン氏と検索するほうがよかろう、ということだ。そうして恣意的に抽出された情報ばかりをインプットすると、アウトプットがおかしくなる。インプットとアウトプットが夫婦たることは明白だ。片方がおかしい夫婦というのはそのうちどちらもおかしくなるか、離婚せざるをえなくなる。そういうわけで、あなたは自由と平等とレイシストの逮捕を愛する一般人になるというわけだ。

 その点本というのはなかなか悪くなく、あなたが何かを調べるべく本を手に取った場合、意図しない情報が目に入りうる。例えばルペン氏がレイシストであると言いたいがために本を手に取ったとしても、本にはそうでないと書いてあることだってありうる。もちろん、あなたは忙しいとか興味が失せたとか気に入らないとかいう理由で本を放り出すことだってできるのだが、それだけだ。読むか読まないかの選択しか、読者はできない。インターネットで「一部だけ読む」のとは大違いなのである。

「ほーん、で、本がほんとうだと、誰が保証してくれるのだ?」

「保証されたところで、その保証を、誰が保証してくれるのだ?」

 なるほどこれがシンセティックCDOである。

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