ガーディアンズ・オブ・ジャパン
@gourikihayatomo
第一部「夢」 第一章「月面上の狼男」
「なぜアメリカがアポロ計画を突然止めたと思っているんだ……馬鹿なことを」
突然咳き込むような声がして、初めて我々はその男の存在に気づいた。
いつの間にか、一人の男がカウンター席に紛れ込んでいたのだ。酔っ払っているようだ。大河も僕もテレビ画面に登場する「世紀の瞬間」を今や遅し、と待ち構えていたので、その男がいつからこの店にいたのかは分らなかった。
メタモルファ、我らが店に乾杯。
我々はまだ常連といえるほどこの店に通ったわけではないが、二人の事情が変わらなければ、遠からずそうなるはずだ。
卒業以来、かろうじて年賀状のやり取りでつながっているだけで、ほとんど会うことのなかった二人は、大河が転勤で市原市に越してきたことで交流が復活、ほぼ月に一度のペースで会うようになっていたのだ。
学生時代の友人たちが社会に出て離れ離れになり縁遠くなっていたのが、仕事の事情で近くに住むようになり、旧交を温める。そして「友情よいつまでも」と思う間もなくまた、会社の都合で別れていく。そんなサラリーマンのさだめを嘆くのではなく、人生のこの瞬間を気の合う友と過ごせればいいという点で二人の意見は一致していた。
始めはお互いの町を交互に行き来して飲んでいたのだが、やがて中間地点である木更津で会うことが多くなり、今では駅裏の一軒に落ち着くようになっていた。大河が見つけたその店は、名前が気に入ったからと言う。
「メタモルファ」つまり“変身”。名前の由来を聞くと「もちろん私たちが変身するからよ」とママは妖しく笑う。
ママいわく「女の勝負は七変化」。つまり、相手に合わせて自分を自在に変化させるという訳だ。名前を変えて化粧で変身、声を変え、能力を隠して年を偽り、素性を明かさず、自分の夢を封じて相手の夢を語る。
変身は不要だよ、ママもエミも素顔のままで充分に綺麗で可愛いのに。でもこんな裏事情を聞くと、僕たち男は一体、女性の何を知っているのだろう、と考え込んでしまう。
名前以外に我々がこの店を気に入った理由はママのポリシー、カラオケやテレビは店に置きません、ということだった。酒を愛し、静かに語ることを好む我々にとって、このポリシーは大歓迎、というか、絶滅危惧種的希少価値を有する店、であった。
しかし今夜だけは特別、日本中のほとんどの店と同じようにこの店にもママがテレビを持ち込んでいた。
お陰で僕たちも月末の飲み事を中止せずに、世紀の瞬間を見ることができるのだ。
「世紀の瞬間」とは日本の有人ロケット月面着陸である。日本が国家の威信をかけた有人月ロケット計画発表以来6年、今夜こそ、その成果が示させるとして日本中が注目していた。月への飛行は順調に進み、司令船は先週、月の周回軌道上に到達していた。そしていよいよ今夜、月面着陸の瞬間を迎えたのである。予定ではすでに、着陸船は「嵐の海」に着陸しているはずだった。
ところが、月面降下中に着陸船と管制センターの交信が突然、途絶えたのである。そしてその交信は未だに回復していなかった。この原因不明のトラブルを我々に限らず、日本中が文字通りテレビの前で固唾を飲んで見守っていた。
着陸船が月面に到達したことは船から送られてきたデータで確認されていた。問題は、いつ音声回線が復旧して船長の第一声が発せられるかであり、それを全員ハラハラしながら待っていたのだ。いつもは仕事帰りの寛いだ雰囲気が漂うこの時間帯の店内も、今夜ばかりは緊張でピリピリに張りつめていた。
アポロ計画以降、アメリカは月面探検を中断しており、もし日本が月で本格的に活動を始めることになれば、宇宙開発競争において日本がアメリカに追いつくことになり、この快挙に国内は大いに沸く。しかしこのまま連絡が回復しなければ、月面上で初めての重大事故となり、各国の宇宙開発への影響も懸念された。従って、マスコミは成功、失敗どちらのケースにも対応できるよう、慎重な姿勢を崩さなかった。
『着陸船火の鳥、応答せよ』
テレビの中で管制センターは必死の呼び掛けを続けていた。
『未だに何の応答もありません。一体、着陸船に何が起こったのでしょうか』
アナウンサーは興奮を押し殺した声でさっきから同じ言葉を繰り返していた。
「なぜアメリカが月面探検を止めたと思っているのだ……」
酔っ払いはもう一度、つぶやいた。
しかし、アナウンサーの声が続いたので、男のくぐもった独り言に誰も注意を向けようとはしなかった。
『日本初の月面着陸はNASAによっても確認されています。あとは日向船長のコメントを待つばかりです』
取り敢えず、アナウンサーも成果を強調していた。何しろ、アメリカに次いで世界で二番目に有人月面着陸を成功させたのだから。
「失敗するのは明白なのに何を戯れ言、言っているのだ、あの連中は」
新たな展開がないまま、僕たちは手持ち無沙汰だった。そして男の言葉の意味に大河が気づいて、最初に聞き耳をたてた。
「……今夜は着陸には最悪の条件だ……」
ここで初めて大河がテレビを指さしながら、その男に声を掛けた。
「このトラブルについて何か知っているんですか」
男は大河のほうを振り向いて、虚ろな顔で首を振った。
「何故、この計画が失敗すると言えるの?」
大河は重ねて尋ねたが、男はまた首をひねりながらしばらく黙った。
「ビールをどう?何か知っているのなら教えてよ」
暇つぶしに酔っぱらいをからかうつもりか、大河は盛んに男に話し掛け、ビールを勧めた。やがて酔っ払いは何かを吹っ切ったように(と思えたのは僕だけかもしれないが)、ママからグラスを取り、大河のビールを受けたのである。
大河の注いだビールを一気に飲み干した男は、酔っぱらい特有のとろんとした眼と妙に滑らかな口調で喋り始めた。
「あんたら、月と人間の関係を考えたことある?月が人間に影響を与えているという話を聞いたことは。月の光は人を狂わせるとか」
男の突飛な切り出しに大河が直ぐ反応した。
「その類いの話、あるね。満月の日には殺人事件や交通事故が多い、とか」
「狼男の伝説もあるわ。満月の夜に変身して、人を襲う」
ガオーと叫び、爪を立てるように両手を開きながら、ママも話に加わった。
「その通り。その伝説はある程度真実を言い当てているんだ。つまり、人間の身体は地球の重力によって地表に縛り付けられていると同時に、頭上から月の引力で引っ張られている。この引力は月の位置によって変化して、体内の血液やホルモンの流れなどに影響を与え、人間の生理バランスを微妙に狂わせるんだ」
「ちょうどそんなことを書いた本を読み終えたところだよ。『月の魔力』という本だけど」
僕は男の話には半信半疑だったが、読んだばかりの本の名を口にした。
「満月と新月の時に影響が一番大きくなる。その時、人間は暴力的になり他人を襲ったり、自分自身を傷つけたりすることがあると言われている。つまりそれが狼男の伝説の正体であると書いてあった」
「まさか?証明されているの」
「アメリカの学者がいくつかの州で殺人事件や自殺、交通事故の件数と月の満ち欠けに相関があることを証明したらしい」
「もしもその説が本物だとすると……」
少しの間、僕の話を黙って聴いていた大河が興奮を押し殺したような声で呟いた。
「そうか!まさしく今、同じことが、いやもっとすごいことが月面で起きているのかもしれないぞ」
大河は自分の発見に驚いたように叫んだ。
「どういうこと?」とエミ。
「月面着陸と狼男の伝説がどう関係あると言うのですか」
これまでカウンターの隅で聞き耳を立てていたらしい常連さんと、その相手をしていたエミがいつのまにかそばに寄ってきていた。狼男に変身したら真っ先に襲いかかりたいな、と思うくらい可愛い笑顔だ。
「当然のことだが月面上では地上と逆に重力が働き、地球の引力によって身体は強く上方に引っ張られる。だから生理バランスは地球にいる時以上に不安定になるんだ」
「そして、オオカミ男になってしまうの?」
ママは僕たちを見回すようにして、目をくるりと回した。
「人の心に潜む獣性が引力という重しを取られて開放された時、人間がどんな容貌に変わるかは想像できないけど、あるいは毛むくじゃらの狼に似た姿になるのかもしれないなあ」
僕も少しずつ大河の話に引き込まれ、満月の下で変身する狼男のイメージがわいていた。それにしても普段はSFや伝奇小説の類いには全く興味を示さない大河の、今夜の態度は不思議だった。
「引力の影響を受けやすい遺伝特性をもったある種の人間は、地上においても月の影響で変身するのかもしれない、彼らこそ昔から狼男として恐れてきたのだとしたら。しかもこれは程度の問題であって、大なり小なり誰にでも起こりうることなのかも。そうだよな、日隈?」
大河が僕の胸毛を冷やかすように、ニヤニヤして言った。
その言葉を引き取って、その名前もしらない常連さんが続けた。
「地球の引力は月の6倍、つまり影響も飛躍的に大きくなるということか。しかも、普段は抑制する方向に働く地球の引力が獣性を解放するように作用する。そうか、地上ではごく限られた人間だけに出現する狼男の特性が、月面上ではすべての人間に現れる可能性があるんですね」
「もう一つ重要な要素がある。何故、多くの場合、事件は満月の夜起こると思う?」
客たちのやり取りの中ですっかり忘れられたようになっていた、そもそもこの仮説を提供した酔っ払いがこう問い掛けた。そしてもう一度議論のネタを提供すると、舌を気味悪いくらい長く伸ばしてグラスの底のビールを舐めながら、ドロンとした目で皆を眺めた。
「さあ、何故かしら。あの光のせい?私も満月に煌煌と照らされているとゾクッとした感じになることがあるわ。」とママ。
「そうか。引力と同時に視覚を通じて直接脳に伝わるイメージの影響が絶大なんだ。満月の夜に特に事件が多くなるのは満月の青い光に精神のバランスを狂わせる働きがあるからかもしれない。月面上に浮かぶ地球は満月に比べてもずっと大きく、そして青い。これが決定的な影響を与えるんだ。アポロが撮った写真を見たことはあるよね」
大河は何かに憑かれたような冴えを見せる。
「アポロ計画はこの狼男変異によって大きな被害を受けたに違いない。だからアメリカはずっと月面活動を中断して、この影響を抑える研究を続けているんだ。そこへおあつらえ向きに日本が月面着陸を計画した。彼らは航行技術の一部を提供して計画を助け、最悪の条件の中で何が起こるか、事態を見極めようとした。そして今、その結果を待っているのだ」
彼は確信を込めた声で宣言した。
「今夜は新月だ。つまり月面上では地球が頭上に昇り、影響も最大になる」
「それで何かが起こると思っているのね」
「多分、もう既に起こっているだろう」
全員が「月面上の狼男」という妄想に興奮した。一方、議論を持ち出した男はカウンターに突っ伏して、眠ってしまったように見えた。時々、引きつって痙攣するように動く腕が異様に黒い。
相変わらず宇宙船との交信は途絶えており、店内の緊張は極限まで高まっていた。
すると突然、男がスッと席を立ってフラフラ外に歩きだし始めた。
「何で、あんたはこのことを知っているんだ?」
大河は問いかけ、男の手をつかもうとしたが直ぐにアッと小さく声をあげて手を離した。その男の腕には異常なくらい濃い毛が生えているように見えた。
全員がその男を引き止めようと立ち上がったちょうどその時、突然アナウンサーの絶叫が日本中を揺らし、我われの動きを止めた。
『何でしょうかこの声は!』
続いて店の中にテレビを通して聞こえてきたのは、間違えようのないあの声、そう、宿命の悲しさを嘆いて長く夜空に響き渡るあの声は、「遠吠え」だった。
『ウォ、ウォ、ウォーン』
次の瞬間、我われはハッとして男を追いかけようとした。
しかし、ベロンベロンの酔っ払いのくせにその男は驚くくらい身軽にドアをすりぬけると、たちまち新月の闇の中に消えてしまった。
あの日から二週間、今夜は素晴らしい満月だった。
驚いたことに、月ロケットは無事に戻ってきたのである。地球帰還後に明かされたのは、ロケットには万一を想定した自動帰還プログラムがセットされていたということだった。
結局、日向船長は月面上で何一つ語らず、戻ってからも公式の場に姿を現していない。ミッション中の極度の緊張により、現在は治療を要す状態にあるという発表だけだ。日本中に流れた不思議な声についても、通信装置のトラブルによるノイズである、という説明だけでうやむやになりつつある。日本政府もアメリカも何事もなかったかのように沈黙を続けている。そしてそれをマスコミが何の追求もせず黙認しているのも不思議である。
あの時、メタモルファで全員が興奮したひと時の謎の男の呟きも今となっては、酔っ払いの座興以上の意味があったのかどうか、定かではない。
それにしてもこうして煌々と輝く満月を見ていると、あの青い光の下、日向船長たちが狼になってウサギを追いかけていたなんてイメージが湧いてきて、自分でも可笑しい。
今夜の僕の胸毛はなぜか、あのときの男の腕毛のように濃くなっている。満月を見上げる僕も、なんだか無性に吼えてみたい気分になっていた。
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