第参三話
春臣にしがみついて泣いていた初音だったが、しばらくすると少しうつむきがちにまた椅子に座った。
「……落ち着いた?」
泣き腫らした顔が恥ずかしいのか、なかなか真っ直ぐこちらを見てくれない初音に春臣がは優しく声をかけた。すると、彼は小さいながらもしっかりと頷いてくれる。そのことに安堵していると、不意に初音が口を開いた。
「……ぼくとにいちゃのかあちゃはね、ずっと病気してるんだ」
ぽつりとこぼれた言葉に、大人たちはただ黙りこんだ。その静まりかえった室内で、初音は話を続けた。
「……かあちゃは、とうちゃが残してくれたっていう簪を、ぼくたちのために売ろうとしてた。もしものときには、売ってお金にしなさいって」
幼子は、自らの手の中に戻ってきた簪を大切そうに握りしめ、わずかに目を伏せた。
「……でもぼく、できなくて。ずっと持って歩いてたんだ。かあちゃの大事なものなんて売れなかった」
春臣は初音が手にしている簪に視線を落とした。ごくごく普通の簪でも、この子にとっては……否、この子の家族にとっては、とても大切なものなのだ。それは自分が夏樹に語って聞かせたあの信条と、どこか通じるものがあった。ただ形があるかないか───違いなど、所詮それだけなのだろう。
「……にいちゃはいっつもぼろぼろで帰ってくるんだ。かあちゃとぼくの分まで稼ぐために」
幼子はそこで、自分の額に触れた。
そこにあるのは二本の小さな角。異形の証。これがなければと何度思ったかわからない。
彼の傍らにいた春臣には、白い角の付け根にある傷が見えてしまった。そこには、今はあまり目立たなくなっているものの、角を削り落とそうと刃物を立てたような痕があった。
「ぼくはこんな鬼子で生まれてきて、お仕事のひとつももらえなくて……にいちゃのお荷物でしかないんだってずっと思ってた」
初音はそこで小さく息をつく。再び口を開いたその声は、少しだけ震えていた。
「だから……桜の枝を折るだけで金になるぞって声をかけられたとき、ぼく頷いてた。これでにいちゃも楽にできるかもしれないって思って」
「声をかけられた……?」
初音が放った不穏な言葉に皆が一様に眉をひそめる。聞き返した春臣に、無垢な子供はこくんと頷いた。
「おじさんにね、ひとりで遊んでたときにお金になる手伝いをしてみないかって言われたんだ」
途端に、対面に座していた志木の顔が険しくなった。いつもの謎めいた笑みはさっとなりを潜め、見る見る眦がつり上がる。
「……それは、どんな奴だい?」
その変化には、春臣や白墨だけでなく秋彦や相楽も目を見張った。志木がこんな表情を皆の前で見せることは、非常に珍しかった。初音は急に怖い表情になった志木に戸惑いながらも、そのときを思い出しながら答えてくれた。
「え、えっと……顔におっきな傷があったおじさんだったよ。お馬さんみたいに髪を結んでた」
その瞬間、客間の空気が凍った。誰も何も言葉を発しなくなる。
「……その男、何者だ?」
ただ、その者の人相を知らない白墨だけが口を開いた。他の面々は互いに顔を見合わせていたが、やがて押し殺した声で彼女の問いに答えたのは恵だった。
「……“絵師殺し”の狐井匡だ」
恵の隣では、志木がしばしの瞑目のあと感情のない声音でぽつりと言った。
「……とうとう、狐が藪から出てきたか」
「そのようじゃの。……あの腐れ狐が」
照鏡姫は忌々しげに吐き捨てる。その隣では秋彦が無言で眼鏡の位置を直し、相楽は難しい顔で黙りこんだ。紅尾も厳しい顔つきでぐるりと皆の顔を見て、そして春臣の顔色に瞠目した。
「……オイ、青坊……大丈夫か?顔が真っ青だぞ?」
一同が一斉にこちらを見る。春臣は今、自分がどんな顔をしているのかわからなかった。ただ、喉は自分でも驚くくらいからからで、手にかいた嫌な汗が気持ち悪い。
それは、あの椿と呼ばれた禍津神に出会ってしまったときとまるで同じ感覚だった。
「……春臣?」
気遣うような志木の視線に、春臣は片手で顔を覆った。ぐらりと視界が歪んだ気がした。
「……違うんです、僕は──────」
早鐘のように心臓が脈打つ。掠れた声で、春臣は続けた。
「────もうその人に会ってるんです」
視界の隅で、影のような男の虚ろな笑顔が閃いた気がした。
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