第拾八話
先日やってきたときと同じ位置に清六の飯屋は建っていた。小さな暖簾がふわりと揺れて、少し距離があるここからでも美味しそうなにおいが漂ってくる。店の主はといえば、相変わらず大きな声で歌いながらちょうど屋台に暖簾をかけているところだった。体格がよく上背もあるので、藍染めの和服姿が遠目で見てもよく目立っていた。
「よーう、清六!ちょいと邪魔するぜ!」
夏樹が陽気に声をかけて清六に近づくと、彼は驚きに目を丸くしてこちらに向き直った。
「何でぇ、夏樹じゃねぇか。こんな朝っぱらから来るなんて珍しいこともあったもんだ」
「あぁ、ちっと仕事でな」
「ほぉ?」
いそいそと屋台傍の縁台に腰掛けた夏樹を横目に相槌を打ちながら、清六は春臣と白墨に視線を向けた。
「それに、たしかそっちの二人はこないだ秋兄と来てくれた」
「あはは……すみません、あまり日を置かずに来てしまって」
頭を掻きながら春臣が言うと、清六ははっはっはっとあたりに響く笑い声を上げた。
「良いってことよ。常連が増えるのは飯屋にとっちゃ願ったり叶ったりってな!」
それから先刻夏樹がしたのと同じようにばしばしと肩を叩くと、彼は店の向こう側にまわった。そして、傍らの大きなお櫃の蓋を開けて一行を振り返る。ふわりと醤油の香りがあたりに漂い、春臣は鳴りそうな腹の虫を必死になだめながら夏樹の隣に座った。
「そいで、来てくれて悪ぃんだが、まだ飯以外の仕込みが終わってなくてよ。簡単なヤツしか出せねぇんだが……構わねぇか?」
春臣と夏樹は同時に頷いた。
「あぁ、良いさ。こっ早くから押しかけてきちまったのはこっちだからな」
夏樹が言うと、清六はぎりぎりっとねじり鉢巻きを締めてしゃもじを手に取り、にやりと笑った。
「あいよ、そんじゃあちょいと待っててくれ」
清六がこちらに背を向け、また歌を歌いながら準備を始める。何の歌なのかはわからなかったが、どうやら気分が良いときの癖らしかった。
「はは、やっぱ下手くそだな!」
縁台に両手をついて軽やかに笑った夏樹の言葉に、店の主人は即座に大声で返す。
「うるせぇ、歌で食ってこうなんざ思ってねぇから安心しろ!」
「ハハハ、むしろそいつを本気で考えてたほうが俺ぁ驚きだわ」
「何でぇ、紅尾の兄貴までひでぇや!」
言葉では怒っていても清六の表情は裏腹に軽やかだった。彼は二人分の茶碗に飯を山盛りにして春臣たちに出してくれる。今日は煮付けた浅蜊を混ぜ込んだご飯だった。春臣と夏樹は早速箸を手に取り、それを食べ始める。甘辛く味つけされた浅蜊と上に乗った白髪葱がいい仕事をしている。
「んー!やっぱり春は浅蜊ですね!」
「いい浅蜊が入ったんでなぁ。やってみたわけさ。ほら、付け合わせだ」
頬張りながらたまらずそう言った春臣に笑いつつ、清六は手早く漬け物を切って出してくれた。今日は麹のついたべったら漬けだ。
その白い漬け物に反応したのはそれまで少し離れたところで紫煙を吐いていた紅尾だった。彼は目敏く近寄ってくると、夏樹の皿からぺろりと一枚つまみ上げて食べてしまう。
「一枚もらうぜ。」
「あ!行儀悪ぃぞ紅尾!つか、食ってから言うな!」
相方の叫びにもどこ吹く風で、ついでにもう一枚平らげた紅尾は満足そうに尻尾をゆったりと振った。それから黄色い目を細めてけらけらと笑う。
「俺ぁこいつにゃ目がねェってのはよく知ってるだろ?」
「あ、紅尾さんべったら漬けお好きなんですか?」
紅尾はぱりぱりと音を立てながら機嫌良さそうに尾を揺らした。
「アァ、基本漬物ってェのはあまり得意じゃねェんだが……こいつぁ別だ」
そう言って彼は三枚目に手を伸ばそうとしたのだが、夏樹は浅蜊飯を食べつつ無言でその手をはたいて制した。紅尾は肩をすくめてまた煙管を手に元いた位置に戻っていく。
その様子を見ながら、仕込みが終わったらしい清六が手ぬぐい片手に傍にやってきた。
「そいで?今度は何の捕り物でぇ」
「なに、ちょっとした盗人をとっ捕まえるだけさ。……そうだ」
夏樹はそこで旧知の仲の飯屋を見上げた。
「清六、お前たしか一日ここで店開けてんだろ?」
飯屋は、あぁ、とすぐに頷いた。
「ここが一番辻で目立つからな。おかげでなかなか稼ぎもいいぜ」
「なら、ここいらで桜の枝を折っていくやつを見かけたりしなかったか?たぶん子供くれぇだと思うんだが」
夏樹の問いには春臣も目を見張った。その発想はなかった。たしかに、清六がここで店を開いているなら、何かしら見ている可能性もある。春臣はある種の期待のこもった目で知らず箸を握りしめていた。
しかし、その期待は裏切られた。清六はしばらく考える素振りをしたあと首を横に振った。
「……いや、悪ぃがたぶん見てねぇなぁ。なにぶん昼間は人も多しな」
「そうか……」
清六は悪ぃな、と謝った後、ふと桜並木のほうに視線を向ける。それから、ぽつりと呟いた。
「しかしまあ……そんな不届き者もいるんだなぁ。春神さまの桜なのにな」
その言葉の端々に、桜を……いや、“春神”への気遣いが見てとれた。同時に、彼のその言葉こそがいかにこの胡蝶神の人々があの桜を大切に思っているのかを示していた。春臣はそれがなんだか嬉しくて、この場に花散里がいないことが残念でならなかった。きっと、あの優しい顔に満面の笑みを浮かべたことだろうに。
夏樹も同じことを思ったのだろうか、ふと横を見れば口の端にひっそりと笑みを浮かべていた。彼は茶碗と箸を縁台に置くと、足を組んだ。
「あぁ、その不届き者をとっちめてやるのがオレたちの仕事ってわけだ」
少し誇らしげな顔を見て、清六はひとつ頷いた。そしてとんとんと自分の拳で胸を叩き、頼もしく笑う。
「わかった、俺も気をつけて見てみることにする。力にはならねぇかもしれねぇが……何かわかったら座に寄らせてもらうぜ」
「ありがとよ、千人力だ」
春臣には拳を突きあわせて笑い合う二人がとても頼もしく、そして眩しく見えた。
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