Here Comes The Sun

松尾模糊

第1話

 野口はいつもの様に駅南口を出た正面にあるパチスロ店で、いつも座る台で、二十年前に流行した SFアニメの新台の出たスロットを打っていた。


 駅は都市の南西に位置し、西側の海と都心を結ぶ電車の線路のほぼ中央に位置する。駅近郊は利便と治安の良さから人々が住みたい街TOP5に毎年ランクインする、高級住宅街だ。駅には正面口と南口があり、正面口を出ると広場があり、バス停があり、交番がある。定番の作りだ。南口はそのまま、歓楽街へと続いていて、チェーンの牛丼店やコンビニ、居酒屋、カラオケ店、ゲームセンターなどが所狭しと並んでおり、野口の利用するパチスロ店もこの一角にある。平日の昼間は閑散としているが、夜間や週末は学生やサラリーマンで賑わう。


 野口はいつも人の一番少ない、平日の正午あたりにここのパチスロ店に入る。正面の自動ドアを抜け、左手にある階段を上り、手前から三列目の中央に位置するスロット台が彼の定位置になっている。何回転したとか、そんなものは気にしないので、勝った経験は一度もない。しかし、野口はここで過ごす二時間が一日のうちで一番好きだ。野口はパチスロほど人間が産み出した娯楽で陳腐なものは無いと思っていた。同時に、人生なんて大した意義もない、退屈なものでしかないとも思っていた。野口は三流大学の文学部を卒業したが、もちろん就職口は限られていたし、就職活動もろくにせず、暫く派遣社員として外資の運送会社で事務員をしながら、大した人生設計もせず、過ごしていた。


 つまり、野口はこのパチスロ店で二万をすり、思考を停止して実質的にも精神的にも無駄としか言えない二時間で、己の人間性と社会性を噛みしめるように確認していた。ところが、今日は少し様子が違っていた。一向に銀貨が減らないのだ。銀貨が尽きる寸前でフィーバーが続き、そこで増えた分がまた尽きる前にフィーバーが起きる具合で。

「何だ? 今日はアタリなのか、この台は? 珍らしい」

 けたたましく鳴り続けるパチスロ機の音の中、野口は一人呟いた。ジーンズの右ポケットに入れて、バイブ設定にしていた携帯電話が細かく震え出したのは、その時だった。野口はメールかと思ったが、あまりに長く携帯が振動し続けるので、スロットのボタンを押していた右手をポケットに突っ込み、今では珍らしい、折り畳み式の携帯電話を取り出し、画面を開き、発信先を確認した。


 野口は画面上の名前を見て驚愕した。携帯のウィンドウには、去年亡くなった、親友の“吉田 和真”という文字が映し出されていた。野口は意味もなく、持っていた携帯を裏返した。もちろん、それは何の変哲もない、野口が三年もの間、使い続けている携帯に間違いない。現在ではスマホと呼ばれる、液晶と操作ボタンがタッチパネル式で一体化した高機能携帯電話、形はもちろん、アプリのダウンロードによって機能を拡張できるものが主流で、野口の持っている様な、電話とメールが主な機能のものはガラパゴス携帯電話、“ガラケー”と揶揄される程、古い型である。それでも、野口は未だに液晶画面に直接指で触れる行為に抵抗を感じ、この携帯を使っている。今でも電池の消耗が多少早くなったこと以外に、不便は感じていない。なぜ、野口が死んだ友人の電話番号を消去してないかというと、それは何となくとしか言えなかった。


 一年前、梅雨が明けて間もない時期だったが、すでに摂氏四十度近い日々が続き、その日も一歩外に出れば、汗が滝のように流れる真夏日だった。野口は連日の猛暑と、こんなときに限って調子の悪いエアコンのせいで、よく寝付けないでいた。少しでもこの睡眠不足を解消する為に、近所の区立図書館で昼寝をするのが、この頃の野口の習慣だった。この日も、野口は人が一番少ない正午を少し過ぎた時間に図書館に出向いた。区立図書館は赤煉瓦造りの外観で、イベントスペースと併設している。一階は卓球台やバスケットボールのゴールが設置された体育館と受付ラウンジがあり、図書館は階段を下った地下にある。野口は正面入り口の自動ドアから中に入り、左手にある階段を壁一面に所狭しと貼り付けられた、区内で行われる演劇やクラシックコンサートなどのポスターを横目で見ながら、気怠く下りた。


 野口の携帯が震えたのは、その階段を途中まで下りた、谷崎潤一郎の『春琴抄』の区内公演のポスターの前だった。発信先は吉田だった。野口は一度下りてきた階段を再び上り、外に出ようとしたが、その熱気に気圧され、ロビーで通話ボタンを押した。

「もしもし?」

「よお、今大丈夫?」

 吉田はいつも電話できる状況かを確認する男だった。

「おう、大丈夫。どうした?」

「うん、話さなきゃいけないことがあって」

「何?」

「うん、明日話すよ。越後屋間SHIDAYAに十四時に来れる?」


 SHIDAYAは、全国展開している書店とCDショップ、DVD、ブルーレイのレンタル営業店が併設したチェーン店である。越後屋間店は最近新しくできた店舗で、海外のコーヒー店もテナントに入った、多くの人が利用する都会の新スポットになっていた。

「何だよ、今言えないの? わかった。明日十四時な」

 吉田と話したのは、それが最後だった。


 翌日、吉田はSHIDAYAに現れなかった。何度も電話したが、「おかけになった電話は、電波の届かないところにいるか、携帯の電源が入っていない為、お繋ぎできません」というアナウンスが返ってくるだけだった。野口が吉田の死を知ったのは、翌日、吉田の母親からの電話によってだった。

「の、野口くんの携帯でしょうか?」

「はい。そうですけど……」

「私、吉田和真の母です。息子がいつもお世話になっております」

「ああ、和真君の。いえ、こちらこそ、お世話になってます。昨日から連絡がつかなくて、心配してたんです。ご実家に戻っているんですか?」

「いえ、それがその……息子は、和真は昨日、亡くなりました。巡回線の何処だったか、駅で飛び込んで。自死だったみたいです。警察から電話があって。今日こちらに来て、先程、遺体の確認と遺留品を受け取ったところなんです」


「え……」


 野口は一瞬、全身の力が抜けて、持っていた携帯を落としそうになった。

「その遺留品の携帯電話で最後に発信したのが、野口くんの番号だったので。その、和真は何か言ってなかったかと思いまして。何であの子が自殺なんて……」

 吉田の母親は途中から嗚咽混じりにそう話すと、くぐもった泣き声が聞こえてきた。通話口を手で押さえて泣いていたのだろう。野口も気づかないうちに、涙が頬をつたっていた。


「…もしもし?」

 野口は吉田の死を知った日を思い出しながら、フィーバー中の台を渋々離れ、外に出て、携帯の応答ボタンを押し、死んだはずの吉田の電話に出た。

「…もしもし?」

「よお、今大丈夫?」

 野口は唖然とした。それは間違いなく、一年前に聞いた吉田の声だった。

「明日、SHIDAYA越後屋間に十四時に来れる?」

 野口が呆然としているのをよそに吉田の声が続ける。

「ちょ、ちょっと待って。本当に吉田なのか? 吉田は、一年前に電車に飛び込んで死んだはずなんだ」

「明日話すよ」

 吉田はそう言うと、一方的に電話を切った。

「ちょ……」

 野口は慌てて話を続けようとしたが、ツーツーと無機質な音が野口の携帯から聴こえてくるだけだった。


 翌日、野口は半信半疑で吉田に指定された時刻にSHIDAYA越後屋間店に向かった。SHIDAYA越後屋間店の最寄りの越後屋間駅には、特急は止まらないので、鈍行で向かう。その日は明け方からずっと雨が降っていた。野口は、四番ホームで特急の待ち合わせをしている鈍行に乗り込んだ。野口は扉のすぐ右手の座席の左端に座った。向かいの席に真っ黒のフリルが全身に付いた、西洋人形を黒く染めた様な、所謂ゴスロリ系と言われる十代後半から二十代前半の女性が座っていた。彼女は黒い手鏡を片手に顔にメイクを施していた。


 野口は何だか見てはいけない気がしたので、彼女から目を逸らして、電車の車両の天井から吊るしてある、中吊り広告を眺めた。隣国の誹謗、陰謀論が書き連なれた週刊誌の広告が目に入った。長い不況が政権交代により終わったが、隣国との関係は、政権の強気な外交により悪化した。マスメディアのこうした言論は、今まで溜まりに溜まった鬱憤が、風船に針を刺して吹き出す淀んだ空気のように、国中に溢れている。


 反対の方に目を向けると、およそ四十代とは思えない美貌を持つ女優が表紙を飾る、婦人誌の広告が吊るされていた。中吊りを見るのにも飽きた野口は、自分の足元を見た。黒いレザーのハイカットコンバースの下に広がる床材は、明るめのグレーだった。閉じたビニール傘から滴り落ちた水滴を、傘の先端で集めて床に落書きをしようと試みたが、水滴は少し間伸びしたくらいで弾かれ、上手くいかない。何度かやってる内に、電車は越後屋間駅に着いた。電車を降りると、雨は止んでいた。夏の蒸し暑さが、体にまとわりつく。この駅周辺は、サロンやカフェ、雑貨、洋服のセレクトショップが軒を連ね、若い女性が数多く電車を降りる。野口は駅の東口を出て坂を下る。下りきると、大通りの交差点があり、野口は歩行者の信号が赤から青に変わるのを待つ。数多くのカップルや女性のグループが同じように並ぶ。


 信号が青に変わり、ぞろぞろとゾンビのように、人々が横断歩道の上を歩く。野口は一人、早歩きで渡り、再び正面の狭い路地に入った。民家を改築したような雑貨屋や、古着屋を横目に路地を抜けると、再び大きな通りに出る。北の方に曲がり、一分で大通りに面した土地に三棟からなるSHIDAYA越後屋間店はあった。都市の再開発時に、現代建築の一翼を担う建築家の個人事務所が新進気鋭の海外の若手デザイナーと共にデザイン設計を手掛け、大いに話題となった店舗であり、今でも老若男女、人種を問わず、ここで寛ぐ客は絶えない。


 野口は手前の棟の入り口で立ち止まり、昨日着信があった番号に電話しようと、携帯電話をチノパンの右前のポケットから取り出した。その時、その番号から野口の携帯に着信があった。不意を突かれた野口は慌てて応答ボタンを押した。

「もしもし?」

「もしもし、野口くん?」

「え?」

 野口は間違え電話かと思った。吉田の携帯の番号から女性の声が聞こえてきたのだ。しかし、彼女は自分の名前を呼んでいる。

「あの…どちら様ですか?」

「あ、すいません。もう忘れちゃったかな? 冨田ミヨです。和真くんの彼女の……」

 野口はそれを聞いて、すぐに思い出した。吉田には当時、四年近く付き合っていた彼女がいた。野口も時々、顔を合わせたことがあった。しかし、吉田が死んでからは一度も会っていなかった。

「ああ。お久しぶりです」

 野口はそう応えながら、嫌な予感がした。自殺した親友の携帯から、その親友の彼女が自分に電話してきている……

「野口くん、今、SHIDAYAだよね?」

「うん、今着いたんだけど、その……」

 野口は、どう話せばいいかわからなかったし、冨田ミヨもこの携帯を所有してるということは、何らかの事情を自分より知っているのだろう、と思い、口籠った。


「じゃあ、CDとかある棟の二階に来て」

 野口の心情など全く意に介さない様に、電話は野口の返事も待たずに切れた。野口はもう一度、携帯電話のショウウィンドウを見た。そこには今日の日付けと十四時五分という現在の時刻、それに野口が敬愛する海外のパンクロックバンドのフロントマン二人が肩を抱いている画像、彼らのセカンドアルバムのカバー写真が映し出されているだけだった。


 CDやレコードの音楽のマテリアルを扱うフロアは正面左の棟の二階にあった。一階には海外のコーヒーのチェーンストアが展開し、手軽に読めるファッション雑誌などがその手前に平積みされている。野口はそこを素通りし、フロアの真ん中にあるエスカレーターに乗って二階に向かった。二階に上がると、正面には国内大手の通信会社の携帯電話ショップがあり、その会社が最近、発表した人間と会話できる家政婦ロボットのプロトタイプが、突っ立って独り言を言っている。左に音楽ショップがあり、回り込むように裏に向かうと、テーブル席とソファがにあり、音楽、映画雑誌、アーティスト、映画監督、俳優の自伝、伝記の本が中心に置かれてある空間が広がる。野口は冨田ミヨを探した。音楽ショップの外側の硝子のショーケースに、クラシックロックの大御所ギタリストのサイン入りエレキトリックギターが飾られている。そこを通り抜け、本のある空間に出る。


 本棚の合間の革張りのソファには、若いカップルが映画雑誌を二人で広げ、互いの好きな男優と女優を指摘しあっている。窓際のテーブル席に一人腰掛けた、ライトブラウンのワンレンボブの髪型に、グレイの薄手のカーディガン、カーキ色のサルエルパンツに、白いサンダルの出で立ちの二十代に見える女性を、野口の瞳が捉えた。彼女は、ぼんやり外を眺めていた。野口は一目で、彼女が冨田ミヨだと分かった。彼女が羽織っているグレイのカーディガンは、以前、吉田が彼女の誕生日にプレゼントする物を何故か同じ男である野口が、無理矢理、一緒にファッション街に連れて行かれ、吉田が真っ青な色違いのカーディガンと、迷いに迷って、購入した物だったと野口は記憶していたからだ。


「お久しぶり」


 野口は彼女の後ろから声を掛けた。彼女はチラッと横目に野口の方を振り向き、木製の低い椅子から立ち上がり、野口の正面に立った。短い前髪は左から七三に分けられ、山なりになった薄い眉に長い睫毛、くっきりとした二重に大きな黒い瞳、すっと通った鼻筋、薄い唇……整った顔のパーツが丸い顔によって幾分か和らぎ、彼女独特の愛敬を醸し出している。野口は不思議な懐かしい感覚を覚えた。


「久しぶりね、野口くん」

 そう言って、冨田ミヨは微笑んだ。冨田ミヨはもう少し落ち着ける場所で話そうと提案し、野口たちはSHIDAYAをでた。外は曇ってはいたが、蒸し暑さがまとわりつく。

「暑くないの?」

 野口は聞いた。

「あ、これ? クーラー、私苦手で。出る時は雨も降ってたし。でも、外はやっぱり暑いね」

 冨田ミヨはグレイのカーディガンを脱いで、左腕に掛けた。

「そのカーディガン、吉田のプレゼントだよね? 吉田に付き合わせられたんだ、選ぶの」

 野口は思わず、さっき思い出したことを口から出してしまい、後悔した。吉田は死んだのだ……

「そうだったんだ、和真くん、凄く優柔不断な人だったもんね」

 冨田ミヨは野口の予想に反してさらっと微笑みながら、返した。

「うん。昼飯食うのに何食べるか迷いすぎて、昼休みが終わってしまうような奴だった」

 冨田ミヨの意外な反応に、野口も当時を思い出して笑ってしまった。


 野口たちはSHIDAYAを出て、すぐ隣りにあるカフェレストランに入った。店の入り口にあるテラス席を抜けて、白く塗られた木製の扉に付いた、百合の装飾が施された銅製の取っ手を手前に引き、扉を開けると店内は薄暗い空間で、右手にはキャッシャーがあった。

「いらっしゃいませ。二名様ですか?」

 二〇代前半か中盤に見える小柄なウェイトレスが二人を出迎えた。明るい茶髪を後ろでまとめ上げ、前髪は綺麗に一直線に切り揃えられている。笑窪がとても印象的な女性だった。

「お煙草はお吸いになりますか?」

「いいえ」

 野口は喫煙者だが、冨田ミヨは吸わないだろうと思ったので、そう答えた。

「では、こちらへ」

 野口たちは店の奥の窓際のテーブル席に通された。奥は木枠の黒い二人掛けソファ、手前は黒い革張りのウッドチェアーが二脚並んでいる。野口は冨田ミヨを奥のソファに通し、手前の椅子を引き、座った。笑窪のウェイトレスは深緑色のカバーのついたメニューをテーブルの通路側に置いた。

「ご注文がお決まりになりましたら、お呼びください」

 と言ってその場を去った。


「何か食べる?」

 野口は冨田ミヨにそう尋ねながら、メニューを開いた。見開きには季節の冷製パスタがオススメとして載っていた。

「私は遠慮しとく。野口くんは、お腹空いてる?」

 冨田ミヨは野口の目を見てそう返した。

「いや、さっき食べて来たから」

 結局、冨田ミヨはアイスのアールグレイ、野口はアイスコーヒーを、近くを通ったウェイターに注文した。二〇代後半から三〇代くらいだろうか、一八〇近い長身に眼鏡を掛けた、笑窪のウェイトレスとは対照的に無愛想な男だったが、ロイド眼鏡の奥の瞳は大きく、鼻筋の通った端正な顔立ちで、不思議と人に不快感を与えない男だった。

「かしこまりました」

 彼は伝票に書き込み、そう言って、メニューを持ち、去った。


「それで……」

 野口は冨田ミヨが話し始めるのを待ちきれず、そう切り出した。

「ミヨちゃんが吉田の携帯を持っている、その経緯から聞きたいんただけど」

「うん、私もまだ信じられないんだけど……」

 冨田ミヨは、去年の吉田の死から最近の自身に起きたことを話し始めた。まず、吉田が死んだその日、彼女は実家のある遠方の地方都市に帰省中だった。吉田の死を知ったのは、こちらに戻ってきた十日ほど後の警察の任意の事情聴取の時で、警察も吉田の死を自殺とほぼ断定していたので、本当にあっさりと吉田の死を説明され、暫く実感がなかったという。吉田が不在の現実を過ごしていくうちに、吉田の死を受け入れたという。


 しかし、野口が死んだはずの吉田の電話を受けた翌日、つまり、今日の朝、野口の住む街にある、彼女の住むマンションの郵便受けに、吉田の携帯電話がメモと一緒に投げ込まれていたという。


「お待たせしました」

 彼女の話が終ると同時に、長身のウェイターが銀製のよく磨かれたトレイに細長いグラスに入ったアイスのアールグレイと、アイスコーヒー、小さなガラスと陶器の容器にそれぞれ入った、シロップ、ミルク、紙袋に入ったストローを載せて、運んで来た。それぞれを野口と冨田ミヨの座るテーブルに静かに置くと、一礼して、長い中指でロイド眼鏡を押し上げ、去って行った。


「で、そのメモには何て?」

「うん、“今日、野口と越後屋間SHIDAYAで会う約束をしたから、この携帯を持って十四時にそこに居て欲しい。この携帯に野口から連絡があると思う。野口の番号は最後の発信履歴の番号”とだけ」

 冨田ミヨはシロップを少量、ミルクを陶器の容器が空になるまで入れて、紙袋に入ったプラスチックのストローを取り出し、グラスの中の氷の間に挿し込んで、軽くかき混ぜながら答えた。

「じゃあ、ミヨちゃんは吉田の声を聞いたわけではないんだ……ミヨちゃんはその、吉田が死んでなかった、もしくは、蘇ったと思う?」

 冨田ミヨは黒い革製のハンドバッグから吉田の携帯電話を取り出し、それをテーブルに載せて暫く眺めていた。


「私はまだ和真に会ってないし、声も聞いてないから信じられないけど、これは間違いなく和真くんの携帯だし、私は彼の家族全員に会ったことあるけど、彼らがこんなタチの悪い悪戯をするとは思えない。他に心当たりもないし、第一、こんなことで誰かのメリットになるとは思えない。だから、私はもしかしたら、本当に彼は死んでなかったんじゃないかと思うの」

「うん。でも、警察で吉田のお母さんも確認したんだし……」

「うん、そうなんだけど、でも、飛び込みでしょ?遺体も本人かどうか分かる状態だったか、疑問だし」

「じゃあ、何で吉田は消えちゃったんだろう?」

「わからないけど、きっと何か重大な理由があるんじゃないかな?」

「重大な……」

 野口は思い出したように、シロップとミルクをアイスコーヒーに入れてストローでかき混ぜたが、氷が随分溶けてアイスコーヒーというか、土砂降りのあとの泥水にしか見えなかったので、結局飲まなかった。

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