第19話 高貴で完璧な実猟犬を追求して作られたワイマラナーは、機敏で活発、知的で状況判断能力にも優れた犬種です。


「今日ね、町内の寄り合いがあったから、あの犬のいるブロックの組長さんとちょっと話したのよ。

 組長さんとこにもゴールデンレトリバーがいて、例の飼い主さんと会うと犬の話をすることがあるんですって。

 どうやら、そのマキシちゃんて子、最近あんまり散歩に行きたがらないって話してたみたい。大好きなドッグランなら喜ぶかもしれないから、近いうちにまた連れて行ってみるって言ってたそうよ」


 翌週、福田さんから電話がきた。


「そうなんですね! ありがとうございます!」


 有力情報をゲットできたあぁっ!!

 ドッグランに通い続けていれば、マキシに会える可能性が高くなってきた!


 シフトの遅番の朝や、早番の夕方にドッグランの様子を見に行ってくれている優希にもLINEでそれを伝えると、優希から興奮を伝えるスタンプとメッセージが即行で送られてきた。


〔やったね!! これからはさらに通う頻度を上げてみるよ〕


〔健太郎くんとのデートに支障ない? それが原因で喧嘩になっていないかなぁ?〕

 と、優希の彼氏との仲を心配すると、

〔健太郎も時々一緒にドッグランに行ってるよ! あそこのカフェのパンケーキが気に入ってるみたいだから大丈夫♬〕

 と返信がきた。

 今度健太郎くんにもパンケーキをご馳走しなくっちゃ!


 翌日、いつものように征嗣くんから電話がきた。


『今日ランニングに行った折笠公園で、噛まれたキャシーって子を発見したよ!』


 征嗣くんの声が弾んでいる。


「えっ!? 本当!?」

 ベッドに座って携帯を耳にあてていた私は思わず立ち上がった。

 膝の上で丸くなって眠っていたチョコ太郎が落ちそうになって、慌ててベッドに飛び移る。


『ボルゾイの飼い主とドッグランに来ていた友人だって名乗って話しかけたんだ。

 キャシーって子は、噛まれた傷は浅かったみたいで、消毒と飲み薬だけで済んだって』

「そうなんだ! よかったぁ」

『それで、噛まれた時の状況は本当にわからないんですかって尋ねたんだけどさ……。

 噛まれた瞬間は見ていなかったけれど、一緒にいたワイマラナーのマキシが、キャシーが擦り寄るのをやけに気にしていたように見えたって。

 いつもは会うとじゃれ合うのに、その日はキャシーが近づくと嫌そうに離れていたみたい。ただ、噛んだのがマキシだって確証は持てなかったし、馨さんにうまく場を収めてもらって助かったって言ってた。治療代は請求するつもりはないらしいよ。

 マキシが最近散歩に行きたがらないから、あの事件以来マキシとその飼い主にも会っていなくて、事件についてはうやむやのままみたいだけど』

「そっかぁ……。じゃあ、キャシーの飼い主さんも、アリョーナのことを恨んだりはしていないんだね。よかった……」


 ほっとして電話を切ったけれど、心の中ではマキシのことが引っかかる。

 福田さんからも、征嗣くんからも、マキシが最近散歩に行きたがらないという情報が得られた。

 運動量の多いワイマラナーが散歩を行きたがらないってどうしてなんだろう?

 それに、事件の日、キャシーが近づくのをマキシが嫌がっていたというのも気になる。

 マキシに会えれば、その理由もわかるかもしれない……!


 🐶


「瑚湖! すぐにドッグランに来れる!? あのワイマラナーが来たんだけど!」


 果たして四日後、優希からの電話を受けて、私は店を飛び出してドッグランへ向かった。


「瑚湖! こっち!」


 店の送迎車でドッグランの駐車場に着くと、ログハウスの入口で優希がヒメと一緒に立って手を振っていた。


「優希、電話ありがと!」

「うん! ワイマラナーのあの子、もう広場の方へ行ってるよ」

 母に頼んで急いで飛び出してきたから、チョコ太郎は店に置いてきている。

 優希と一緒にドッグランの広場へ向かい、私は一人で大型犬エリアの柵の中へ入った。


 優希の言ったとおり、ワイマラナーのマキシが大型犬エリアの広い芝生の上にいる。


「あら、あなた、確か……」

 マキシの飼い主で、先日私と池崎さんに突っかかってきた女性が私に気づいた。


「こんにちは」

 とりあえず笑顔で挨拶をすると、彼女は気まずそうに無言で視線をそむける。

 私は気にせずマキシの様子を観察することにした。

 柵を挟んで小型犬エリアにいる優希も傍に寄ってきて、ヒメの様子を見ながらこちらの様子も伺ってくれている。


 マキシは同じエリアにいる犬たちとはごく普通に匂いを嗅ぎ合って挨拶していて、他の子を襲うような様子はない。

 けれども、しばらくマキシを観察しているうちに、私はあることに気がついた。


「あの……」

 少し離れて立っていたマキシの飼い主に話しかける。


「なんですか?」あからさまに怪訝な顔をする飼い主さん。

 けれど私はひるまずに尋ねた。


「マキシちゃん、足を悪くしてませんか?」


「えっ……?」

 私の突然の問いかけに、飼い主がますます顔をしかめる。

「急に何を言うのかしら」

「マキシちゃん、右の後ろ足を少しかばって歩いているように見えるんです。

 ちょっと近くで様子を見せてもらってもいいですか?」

「え、ええ。いいけど……」


 飼い主から離れて、私はあまり歩かずに立ちつくしているマキシへ近づいた。


「マキシ、ちょっとごめんね……」


 マキシの傍らに跪いて、右後ろ足をそっと触ったときだった。



 ハグッ!



「う……っ!!」



 それは本当に一瞬の出来事。


 吠えもせず、威嚇もせず、マキシは右足を触った私の腕を突然噛んだ。



「瑚湖……っ!」

「きゃあっ……」


 その一瞬を見ていた優希とマキシの飼い主が同時に声を上げた。


 半袖Tシャツから出た右腕の肘下から、血がぽたぽたと流れ落ち、緑の芝生の上に真っ赤なドットを作っていく。


「ちょっと……! 大丈夫ですか!?」

 マキシの飼い主が真っ青な顔をして駆け寄ってきた。


「ごめんね。痛いところを触ったから、嫌だったんだよね」

 マキシの頭を左手でそっと撫でながら呟くと、飼い主が呆然とした。

「えっ……」


 右腕に心臓があるかのように、脈を打つたびにズキン、ドクン、と痛みが腕を駆け上がる。

 その痛みに耐えつつ、私はマキシの飼い主に精一杯の笑顔を向けた。


「マキシちゃん、やっぱり右足が痛いようです。

 外傷はないし、恐らく関節炎か何かだと思うんですけど、それで痛い右足を触られて、反射的に噛んでしまったんです」

「そんな……」

「トリマーの仕事をしていてもたまにあるんですよ。

 痛みを抱えている子は、痛いところを触られると反射的に攻撃を加えてきたりするんです。

 事件の時にマキシがすでに痛みを抱えていたとしたら、お友達のワンちゃんがうっかり痛いところを触ってしまった拍子に噛んでしまったことも考えられます」


「瑚湖! 早く止血しなよ!」

 ヒメにリードをつけた優希が大型犬エリアに入ってきて、私の腕にハンカチをきつく巻いてくれた。

 締めつけられたことで右腕がさらにズキズキと痛むけれど、こんなの全然平気。

 あの事件の真相を突き止められた喜びが私の体を駆け巡り、痛みを軽くしてくれる。


「確かに、マキシがあまり散歩に行きたがらなくなったのは半月くらい前からだわ。

 暑さのせいだと思っていたけれど、まさか足を痛めていたなんて……。

 とにかく、怪我をさせてしまって、あなたになんてお詫びしたらいいのか」


 これまでの強気の態度から一変し、マキシの飼い主は沈痛な面持ちでこうべを垂れた。


「私の方は平気です。それよりもマキシちゃんが心配です。

 犬は痛みを我慢しちゃうし、痛みを訴えることもできないんです。すぐに病院で診察してもらうことをおすすめします」

「あなたの連絡先教えていただける? それかお店の名前……。今度改めてお詫びに伺いますから……」

「私はあの事件の真相がわかっただけで十分なんです。それよりも、あのボルゾイの子が突然襲い掛かったわけじゃないって、お友達にお伝えください。マキシが理由なく噛んだわけではないということも」


 私は結局名乗ることをせずに、優希に付き添われてドッグランの柵を出た。


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