ラーラの料理屋さん
鋭縞みい
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人には忘れられない味がある。口に入れた瞬間、そのときの情景が呼び起されるような思い出の味だ。
それは母の作ってくれたスープの味であったり、家族で行ったレストランの味であったり、あるいは恋人に渡されたサンドイッチの味であったり、様々だ。
ラーラにとっての忘れない味は、隣家の幼馴染オーガストの母が手作りしたラスクの味だった。表面が分厚くキャラメリゼされたラスクは、口に入れる前からほろ苦い大人の味を周囲に漂わせていた。
甘いものになんて縁のなかったラーラは、余ったパンで作られるこのラスクをいつも心待ちにしていた。
大人になったラーラは、それからたくさん美味しいものを食べてきたが、あのラスクを超える味に、まだ出会えないでいる。
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心地よい振動が背中に伝わる。カタン、カタンと、車輪が回るたびに重い音がラーラの耳に届いた。ゆっくりと荷馬車は田舎道を進む。
干し草がたっぷりと積まれた荷馬車は、まるでゆりかごのように、ラーラを包み込んでいた。少しだけはみ出したつま先を、時折ぶらぶらと揺すってみる。子どもに戻ったような気分だ。
顔に被せたつば付き帽子をずらすと、木漏れ日がラーラの顔に当たった。目を細めながら身体を持ち上げると、長く続いた木々のトンネルを抜けようとしているところだった。
「おじさん、もうここで大丈夫です」
トンネルの終わりでラーラは御者に声をかけた。怪訝そうに老年の御者がこちらを振り向く。
「町まではまだあるよ。どうせ通り道だ。乗っていきなさい」
ラーラは心得ているというように、頷いてみせた。
「故郷の町なんです。久しぶりだから、歩いて行こうと思って」
老人が驚いたように眉毛をあげた。無理もない。休暇の季節には、まだ早い時期だった。
それでなくてもラーラの故郷は、人の出入りが少ない田舎町だ。それこそこの老人のように、干し草を売りに来るぐらいしか、用事はない町だった。
休暇の季節ならいざ知らず、こんな時期外れの女性の一人旅はどうしても悪目立ちする。それもラーラのような適齢期を過ぎたような女性なら、なおさらだった。
「そうかい。そうかい。里帰りかい」
老人は心得たというように頷くと、それっきり黙りこくってしまった。元来口下手なラーラであったから、道中それほどこの老人と話が弾んだわけではないが、それはあまりにも不自然な様子であった。
老人は手にした手綱を軽く引いた。カタリ、カタリと、軋むような音を立て、荷馬車が止まった。
ラーラは荷台のふちに手をかけて、地面を覗き込んだ。地面が心なしか黒光りしているように見える。昨日の雨で、ぬかるんでいるのかもしれない。森の近くの道は水はけが悪く、雨の日の翌日は、こういったことがよく起こるのだ。昔は勢いよく飛び込んで、泥を跳ね上げる遊びをしていたが、もうそんな年ではない。
ラーラは脹脛まである長いスカートを膝の辺りまでたくし上げると、泥を跳ね上げないよう注意を払いながら、荷馬車から降りた。地面がへこむような柔らかい感覚が足元に伝わったが、心配したようなことは起こらなかった。もうある程度地面は乾いているようだった。
ラーラは干し草の上に置いておいたトランクを手に取ると、前方に回った。そして老人に向けて手を差し出した。
「ありがとうございます。助かりました。これ、少ないですが」
「いや、気を使ってくれんで、大丈夫だよ。元々ここは通る予定だったから、乗せたまで。あんたが頼んだ場所が違っていたら乗せなかったよ」
行き場なくした掌が、空中で固まる。
似たようなことをラーラは馬車を探すとき、何度も言われた。行き先が違うから他を当たってくれ、と。やっと快諾してくれたのが、この老人だった。
性分だろうか。老人に他意はないし、ただ好意でしてくれていることはわかっていたが、恩を作ったままというのは、どうにも居心地が悪かった。
「こんな田舎には、乗合馬車なんてないからね。みんな家人が迎えに来るか、馬でやってくるか」
そこまで口にして、老人の顔色が変わった。取り繕うように、口調が早くなる。
「でもあれだろ、都会だと、時間が決まって馬車がやってくるんだろう。便利だね」
「そうですね」
ラーラは曖昧に微笑んで、伸ばした腕を引っ込めた。やはり女性の一人旅は悪目立ちする。
「にゃーん」
ラーラがどうしたものかと、押し黙っていると、気まずい空気を振り払うように、甲高い声が響き渡った。
「シグルド」
ラーラはほっと胸を撫で下ろし、頭上を見上げた。いつのまに来たのか、馬の頭に一匹の白猫が座り込んでいた。ラーラを見つめ、髭をぴくぴくと揺らすその様子は、まるで笑っているかのように見えた。
「おお、そうだった。この子を忘れるとこだった。あんたの大切な仲間だった」
老人が抱き上げようと手を伸ばした。シグルドと呼ばれた猫は、それをひらりとかわすと、ラーラの腕の中に飛び込んだ。ちらりと横目で老人を見ると、追い払うように尻尾を振った。老人が苦笑いする。
「結局、最後まで慣れてはくれんかったな」
「すみません。この子、男性に対していつもこうなんです」
「猫は警戒心の強い生き物だから、あんたによく慣れている証拠だ」
返事をしているつもりか、シグルドが甘えるように鳴いた。ラーラの胸に顔を埋めると、気持ちよさそうにゴロゴロと喉を鳴らす。
「忘れ物はもう大丈夫かな。じゃあ、わしはそろそろ行くよ。良い旅を」
老人は手綱を握りなおすと、ふと思い出したようにこちらに向き直った。
「お嬢さん、悲観しちゃいけない。わしから見れば、あんたはまだ若い。ひよこみたいなもんだ。これからいくらだって人生は変えられる」
「あの」
ラーラは何か言おうと声を出したが、言い訳がましくなるのを嫌い、口をつぐんだ。代わりに深々と頭を下げ、老人の言葉を受け取った。
老人は納得したように大きく頷くと、ゆっくりと荷馬車を動かした。
ラーラはその場に立ったまま、町へ向かう馬車を見送った。
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