蛇とカモメ
暮準
第1章 蛇、カモメ、飛行士
(1)エセル
テイクオフして空軍基地が小さなおもちゃの家みたいになると、エセル・ヒロイズはひとつ息をつく。地上のあれこれ、煩わしい全てから逃れられるような気がするからだ。
青空の上では、この戦争でさえも些細な、どうでもいいことに思えてくる。
西海戦争。西海を挟んで存在するソル連邦と貴志国が、海底に眠る資源を巡って巻き起こした、愚かな戦い。この戦いにソル連邦が投じた軍事費を考えると、例え戦争に勝利しても儲けはほとんどないはずだ。負けた場合にはそれすらなく、むしろ貴志国に賠償金を支払うはめになる。
なんてばかばかしいんだろう。
そんなことの為に死んでいった人たちのことを考えると、やりきれない。
エセルはスロットルをあげ、操縦桿を引いた。ぐんぐんと空が近くなる。
上官の期待やこの愚かな戦争、同僚の羨望や嫉妬。それらを振り切ろうとするように、機速を上げていく。そうして戦闘機が雲の上に出ると、風防の外の視界が一気に広がる。一面の青空と、照りつける太陽。それ以外には何もない世界。
そこに、エセルは新たな愛機と共にたゆたう。
そうしてしばらくすると、いつもあの人のことを考える。
エセルがまだ小さい頃、故郷の島でよく一緒に遊んでいたお兄さんのことだ。名は“ウツイ・サイト”といった。貴志国の出身の者だ。
当時、まだ西海戦争はその兆しすらなかった。エセルの故郷のグラデス島は両国のちょうど間に挟まれた、人口1500名ほどの小さな島だった。豊富に魚介がとれ、砂糖の生産も盛んで、それらをソル連邦と貴志国に輸出することで島は成り立っていた。その頃、町ではソル人と貴志人が仲良く暮らしていた。今でも一応グラデス島は中立特区だが、恐らく人々の仲は昔ほど良くはないだろう。残念なことだ。
あの人は、きっとまだグラデス島に住んでいるのだろう。
エセルのような志願兵は別として、中立特区の住民はどちらの国にも徴兵されないことになっている。あの人は志願してなければいいなぁ、と思う。
――この戦争が終わったら、また会いたい。
あの人のことが気になりはじめたのは、一体いつからだっただろうか。
ある夏の日、両親が畑に出ている間に散歩をしていた11歳のエセルは、あぜ道でばったり巨大な蛇と遭遇してしまった。当時の自分からしたら巨大に思えただけで、今みたらそうでもないのだろう。だが、その時のエセルには恐ろしくてたまらなかった。
蛇と目があい、エセルは立ちすくんでしまった。シーッと威嚇しながらじりじりと寄ってくる蛇を相手に、何もできなかった。泣いて両親の名を呼んでみたが、両親はもちろん、誰の助けも来なかった。エセルの声に驚き、さらに気が立った蛇が、エセルの足を咬もうと口を開けた。
――まさにその時だった。
「危ない!」
誰かがエセルの前に立ちふさがり、その蛇を足で払った。空中で一瞬ばねのような形になった蛇は、そのまま着地するとうねうねと林の中へと消えていった。
「大丈夫?」
エセルが見上げると、黒髪の少年と目があった。
「咬まれてない? 多分、毒蛇じゃないと思うけど……」
その少年は心配そうに尋ねてきたが、当のエセルはついさっきまで泣いていたのも忘れ、「こんな男の子、今まで島で見たことないなー」などと考えていた。
そして、こう思った。
これは昔に絵本でよく見かけた、“運命の出会い”とかいうやつではなかろうか、と。
絶体絶命の状況になった女の子を、間一髪で王子様が助けてくれるような、そんな出会い。
それは、世間をまだ知らない幼い少女の、他愛もない想像だ。
だがそれでも、その時は確かにそう思ったのだ。
聞くと、エセルを助けてくれたその人――ウツイ・サイトは引っ越してきたばかりだという。年はエセルよりも二つ上の、13歳。当時のエセルからしたら十分にお兄さんだ。
サイトはまだ友達がおらず、ひとりで島の散策をしていたらエセルの叫び声が聞こえたので飛んできたらしい。
ふたりはそんなことを、島の端にある砂浜で話していた。畑の近くにいたらまたあの蛇が出てくるんじゃないかと思い、場所を移したのだ。
サイトは波打ち際に座り込み、エセルは寄せては返す凪いだ海のささやき声を聞いていた。
そこでエセルは鼻をふんすと鳴らした。ひとつ、決意をする。
「じゃあ、私がサイトの最初の友達になる!」
エセルは胸を反らして宣言する。
ふぃー、と上空を飛ぶカモメだけが返答した。
「本当に? ありがとう」
しばらくサイトは面食らったような表情をしていたが、すぐにほほ笑んだ。
――懐かしいな。
こうして、私はあの人と友達になったのだ。
いま思い返しても、つい笑みがこぼれてしまうような、何もロマンチックなことはない小さな出会い。
それでも、私にとっては大切だ。
そして、そこから西海戦争がはじまるまでの5年間、ふたりは友達だったのだ。
――今、サイトはどうしているのだろう。
ここで思考が一巡する。
風防の外、遠くを飛ぶソル空軍の攻撃機編隊をエセルはぼんやりと見つめる。
――戦争が終わったら、あの人に会いに行きたい。
そして、この気持ちを伝えるのだ。
あの人以外には決して抱いたことのない、この不思議な気持ち。
自覚したことはないが、エセルの容姿は他人より秀でているらしく、男性兵士に言い寄られることが多々あった。新聞に“絶美のエース・パイロット、確実撃墜数30へ”などと書かれたこともある。自分は人と飛行機の話以外をするのがあまり得意ではなく、ともすれば冷たい印象をもたれがちだが、それでも言い寄ってくる男性は後を絶たなかった。しばらくすると、軍上層部はエセルに変な男がまとわりついて飛行に支障が出るのを恐れ、接近禁止令を出した。エセルに近づく男がいると、どこからともなく憲兵が現れて囲い込むようになったのである。それはエセルとしてもありがたいことだった。
とにかく、今まで話しかけてきたどんな男の人にも、あの人に抱いたような気持ちを感じることはなかった。この感情を何というのだろう。
もしかして、もしかすると。
サイトに伝えることができたら、この気持ちに名前が付くのかもしれない。
――話したい。面と向かって。
私は口下手だから、うまく伝えられないかもしれない。口調はたどたどしくなるし、口ごもるし、恥ずかしくて俯いてしまうかもしれない。
だけど、あの人はそんなことを気にしないと、そう思う。
じっと黙って、でも少しほほ笑んだり、うんうんと頷いたりして、辛抱強く聞いてくれるはずだ。
――それで、あの人から素敵な返事がもらえたら。
きっと、こんなにわくわくすることはないと思う。
そんな想像をして、エセルは少しほほ笑んだ。
彼女の乗った戦闘機が、空中でひらりと宙返りした。
(1)サイト
黄色い歓声を背後に、宇津井サイトの乗った輸送バスが逸敷の町から離れていく。バックミラー越しに、バスへと手を振る若い女性の一団が見えた。
その熱い視線すべてが、サイトへと注がれている。
「ははぁ、流石わが貴志国の一級飛行士サマ。モテますなぁ」
傍らの同僚にからかわれる。うるさい、とだけ返してサイトはまた窓の外の夕暮れを見つめた。
――はやく空に帰りたい。何にも縛られずに自由に飛びたい。
それだけが今のサイトの望みだった。
「まぎれもない“興国の英雄”。それなのにまだ童貞とは驚きですよ」
横からもう一人の同僚がかぶせてくる。
「黙れ」
顔を赤くしたサイトは窓の外を見つめながら言うが、まじめに止めるつもりはない。いつものように、どうせサイトが何を言っても続けるからである。
「はぁー。俺がサイトのように顔がよくて勉強もできて操縦技術の才能があったら、女の子もよりどりみどりなんだけどなぁ」
「待て。それってもはや、お前じゃない別の何かではないか? というか、サイトそのものなのでは?」
「てことは性格も奥手になるから、結局は童貞のままかぁー……」
「残念だったな」
同僚ふたりのそんなやり取りを聞き流し、サイトはまたあの娘のことを考えていた。
新聞や雑誌でどんなに褒め称えられ、どんなに多くの女性から求婚されようとも。
――僕が今でも想っているのはただひとりだ。
波打ち際で、潮風にとられてしまわないように麦わら帽子を押さえる女の子。
その光景が、頭から離れない。
頭が、離そうとしない。
むしろ、それに縋っているのかもしれないとも思う。それだけを救いにして、空を飛び、敵機を落としている。血を流し、血を流させている。
サイトは、緊急離脱してパラシュートをひらいた敵飛行士を追撃することをしない。そのため、撃墜数に対して殺傷率は高くないはずだ。それでも、多くの人を殺めている。その自覚はちゃんとある。
そう。ただ、彼女を守りたいがために。
この独りよがりのために、空を飛び、人を傷つけている。
――彼女は今でもあの島で暮らしているのだろうか?
きっとそうだろう。一度、ソル連邦に戻ったと聞いているが、今はもう帰ってきているはずだ。グラデス島は中立特区なので戦争に巻き込まれることなく平和だ。そして何を隠そう、僕はその平和を守るために空を飛んでいる。
貴志国とソル連邦、どちらにとってもグラデス島は魅力的な土地だ。中立規定を反故にして、グラデス島を支配して前線基地を築けば敵地への襲撃が容易くなる。そこを足掛かりに相手国を占領するのにはうってつけの地理でもある。だが、自分が軍の一級飛行士になり発言力を増せば、それを食い止められる。また、ソル連邦がグラデス島を支配しようとしても、自分という最強の盾がいる限りは不可能だ。
西海戦争において空の王は、海をも統べる。いまの技術では、高度を飛ぶ機体を落とせる対空装備を持つ艦船は存在しない。つまり、強力な戦闘機の直掩を受けた爆撃機を相手にした場合、あらゆる艦船にはなす術がないということだ。また、艦船で兵士や車両を運べなければ、敵地を実効支配することもできない。つまり、空の王は海と陸を同時に統べることができる、“戦争の王”でもある。そして、間違いなく宇津井サイトはこの西海戦争における“戦争の王”であった。
サイトが愛機につけたカモメのノーズアートは、ソル連邦のパイロットたちの間で強く恐れられている。ある生き残ったソル空軍のパイロットは、サイトの操る戦闘機を“理不尽な死”そのものであると述べたという。何をどう足掻こうと撃墜することはできない。例え、その逆はいくらでもあるとしても。
空戦でカモメと出くわすことは事故みたいなものだ、という飛行士もいる。戦闘ではなく、事故。
“遭う”ものだと。
――ここまで来るのに、苦労した。
サイトは濃い紫色に染まった空を眺めながら、今までを顧みる。バスが走る規則的な揺れが心地良い。いつの間にか、同僚たちはみな寝てしまっていた。
昔は、飛行士になるつもりなんてさらさらなかった。
だが、親はサイトに飛行士になることを強要していた。飛行機の操縦を覚えれば、平時は旅客機や輸送機の機長として、戦時は飛行士として軍に重宝されるからだ。決して両親は西海戦争を見越していたわけではないだろう。ただ、自分たちの自慢の一人息子を立派な飛行機乗りにして、世間に見せびらかしたかっただけなのだ。
そして、当時のサイトはそれに付き合う気などさらさらなかった。だから、サイトが自家用機でのびのびと飛べるようにと、両親が人の少ないグラデス島に引っ越しを決めた時には強く反対した。だが結局、宇津井家は首都の邸宅を引き払い、グラデス島へと移り住むことになった。
最悪だ、と思った。
というわけで、専属の家庭教師つきの飛行訓練は、初日からサボることにした。寝室から抜け出し、家の門を乗り越え、ついでに父親の車を蹴飛ばした。そうして自宅の近くをうろうろしていると、女の子の悲鳴が聞こえてきた。これはただごとではないと思い、慌てて声のした方へと走っていった。
それこそが彼女――エセルとの出会いだった。
そして、ふたりの間の月日は流れ、それから4年後の、17歳の夏の日。
サイトは、すべてが嫌になっていた。
初回の飛行士試験に落ち、親や教師に罵られた。真面目に取り組んでいなかったので、当たり前といえば当たり前だろう。だが、こんな言われ方をするとは思わなかった。
――どこで育て方を間違えたのか。
――他の子はもっと上手くやっているのに。
――引っ越してまで練習をさせたのに。
――お前はどうせこれから先、何も為さずに死んでいく。
生き方の、否定だった。
――全部、自分たちの都合じゃないか。
あんたたちは僕じゃなくて、飛行士を育てているだけなんだ。
そう言いたかった。
でも、言えなかった。情けなくて、泣きたくて、家を飛び出した。
気がつけば、エセルと初めて出会った日の砂浜まで来ていた。空はどんよりと重く曇り、波は激しかった。生温い潮風がサイトの頬を撫でた。
いっそこのまま海に入って――。
よくない考えが頭をよぎったりもした。
「サイト?」
そこで、エセルに声をかけられた。銀色の髪の上に、麦わら帽子がのっかっていた。何かを感じ取ったのだろう、心配そうな目でサイトの方を見つめていた。
「エセルか……」
名前を呼ぶと、堰を切ったかのように思いがあふれ出た。飛行士試験や今までのあれこれを、年下の、15歳の女の子にぶちまけていた。
我ながら、しょうもない男だと今では思う。なんとも身勝手だ。
だが、その時のエセルはそれを受け止めてくれた。
そして、怒ったように、こう言ったのだ。
「貴方は、貴方だと思います!」
その言葉にどれほど救われただろうか。
飛行士以外の別の道もあるのだと、急に視界が広がった気がした。
――僕は、僕なのだ。
サイトの目の前で、ご両親はひどいです!とエセルはまだぷりぷりしていた。
「ありがとう」
心からの感謝をエセルに伝えた。
「サイトの助けになれたのなら嬉しいです」
そう言ってエセルがほほ笑んだのと同時に、その麦わら帽子の上に一羽のカモメが止まった。のちに“戦争の王”と呼ばれることになる男の愛機の、そのノーズアートのモデルとなるカモメだ。
エセルの帽子の上で、ふぇー、と一声鳴く。
「わ、わ」
慌てたエセルが、カモメを麦わら帽子から降ろそうとその場でくるくると回った。
「あはは」
その光景が何だか可笑しくて、さっきまで泣きそうだったのにサイトは笑ってしまっていた。
カモメが飛び去ったあと、エセルは恥ずかしそうに麦わら帽子を押さえていた。今度はカモメにも潮風にもとられないようにと。
そして、そんな彼女がとても愛おしく思えた。
その時、だからこそサイトは、飛行士になろうと決意した。
彼女を、彼女の暮らす島を守りたいから。
――そのためだったら、僕はどんなことだってするだろう。
鶴牧空軍基地へと向かうバスの中、サイトは決意を新たにした。
(2)エセル
「ランディング」
無線で管制に告げ、エセルの乗った戦闘機が着艦する。誘導員の指示通り、空母ケンドルの甲板にすっと無駄なく収まった。
「相変わらず素晴らしい着地だ。新型機はどうだったかな」
エセルがコックピットから降りようとすると、大佐に声をかけられた。
ソル連邦・新型戦闘機“コーパー”の空軍基地から空母までのテスト飛行。それが今回の任務だった。エセルの乗るコーパーには整備士が気をきかせて、トレードマークである蛇のノーズアートを描き加えてくれていた。
――蛇は今でも嫌いだ。でも、あの人と出会わせてくれた。
だから、エセルは幸運のお守りとして愛機にはいつも蛇のノーズアートを付けていた。
「え、えーと。ヒロイズ君。どうだったかな、機体は……」
物思いにふけっていて、大佐を無視してしまっていた。
「前回同様、すこしまだフットバーの“あそび”が多い気がしますね。どうせ乗るのは熟練のパイロットなので、もっと少なくていいでしょう」
課題点を端的に答え、甲板をとんとんと歩いていく。
「なるほど、助かるよ」
エセルの後ろをご機嫌をとりながら大佐がついていく。普通なら一介のパイロット相手にありえない光景だ。
だが、ソル連邦のエース・パイロットであり“戦争の女王”と呼ばれるエセルには関係のない話だった。彼女の意向であれば、腰の重い軍上層部もすぐに動く。彼女がいなければ、西海戦争におけるソル連邦の前線が今の半分にまで下がるとさえ言われている。
――凡百のパイロットを寄せ集めた航空師団より、空を統べるエース・パイロットの乗った戦闘機1機の方が戦力となる。
それこそが、何者も覆すことのできない空戦場の鉄の掟だった。地上戦では、兵士の数がものをいう。だが、空では違う。
量より質。
空戦において敵機を仕留められるタイミングは限られる。大勢が一機に同時に攻撃をしかけるのは不可能であり、それゆえに空戦は切り取られた個人戦の継ぎ接ぎとなる。どんなに数を集めようとも、実質は1対1の勝負の連続であり、だからこそエース・パイロットは負けることがない。
エセルが、負けることはない。
それでもソル連邦が貴志国と一対一の攻防を繰り広げているのは、貴志国にもエース・パイロットがいるからだ。
――カモメのノーズアート。
エセルは、それを墜とさなければならない。そうしないと、きっとグラデス島は敵の手に落ちるから。
――あの人と、会えなくなるから。
絶対に、この手で、カモメを墜とす。
エセルは改めて固く決意する。
蛇とカモメの戦い。
西海戦争は、その結果いかんで勝負がつくと噂されていた。
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