休息を知らない男と不思議な少女

久山明

第1話

 頬杖をついた王は、臣下であるヴィンスをじっと見つめていた。王の目の前には紙やら布やらが積まれているが、別段気にしていないようだ。王のよりも幾分か小さな山を前にするヴィンスは、王にとって腹心であり、幼き頃からの良き友人でもある。


 茶色く逆立った髪に、鋭く切れた眼差し。元兵士で筋骨隆々。王の右腕と言われるほどの頭脳も持っている。これで女が寄ってこないわけがない。それなのにどうしてか、この男には女っ気が全くない。お陰で王に囲われているのではないかと言われて、こちらが迷惑だ。そんなことを思いながら、王は深々とため息をついた。


 王は先ほどからだいぶ長いこと見ているつもりであったが、当の本人は、凝視されていることすら気づかずに手を動かす。いや、知っていてなお止まらないのだろうと、王は苦笑した。


 忠実で有能なこの臣下は、休むということを知らないのだ。


 これは由々しき事態だ。何とかしなくては。


 そう使命感に駆られながらも、彼をこんなにしたのは恐らく自分で、また彼が望んだことでもあるのだと、薄々気がついてはいた。


「ヴィンス、喉が渇いた」


 頬杖をつきながら、王はそう告げる。すると、ヴィンスは律儀に手を止めるには止めるのだ。しかし、少し恨めしそうに王を見てからため息をつき、侍女を呼び何か飲み物を持ってくるように伝え、また変わりなく手を動かし始める。ため息をつきたいのはこっちだと、王は小さく舌打ちした。


「王よ、紅茶でございます」


 侍女は申し訳なさそうな顔をして、紅茶を持ってくる。王はそんな侍女がいたたまれなくなった。


 この侍女も、特別かわいい娘を城下町から王が見つけてきては、わざわざヴィンスにつかせたのだ。理由は言わずもがな、ヴィンスに休むということを知ってもらいたいのだ。


 しかし、王も諦めて持ってきてもらった紅茶を一口飲み、また手を動かしだす。石でできた冷たい王宮に、暑く乾いた風が窓から吹き入れた。


 ちょうど王が全ての書類に目を通し、サインし終わったころ、ヴィンスの手も止まった。王が時間を確認すれば、もうヴィンスの仕事も終わる時刻である。これで帰ってくれれば王もいらぬ心配をしなくて済むのだが、如何せんそうもいかず、ヴィンスはまた違う書類をどこからか取り出してくる。


 ヴィンスの仕事をまた強制的にでも、他の者に振り分けるしかあるまい。またどうせ、それが彼の所に戻ってくるのだと分かっていても。


 王は思わず目頭を指でつまみ、深々と溜息をつく。


「……ヴィンス」

「如何なされましたか」


 また迷惑そうな目がヴィンスから向けられ、王はさすがに一人の友人として、ヴィンスのことが心配になってきた。


 それに加え、ヴィンスが有能であることは事実。彼に倒れられでもしたら困るのは、明白なのだ。


「お前、一体いつ睡眠をとってる。最近じゃ、殆ど自分の部屋に戻らないそうじゃないか。一体なぜ私がお前たち政務官や宮仕えの者たちを、城に住まわせていると思っている。一体何が不満だ」

「いえ、不満なんてものはございません。王にはとてもよくしていただいております」

「ならばなぜだ」


 王は不機嫌そうに眉を顰めると、足を組んだ。一方のヴィンスは頭を掻くしかない。


「なぜ、といわれましても、ほかにすることがございませんから」

「なら、女はいないのか。この国は美人が多いだろう」

「ええ、確かに多いですが、別に今のところ気になる女性はいません」

「……女の趣味は」

「私と全く違う方ですかね」


 大方、ヴィンスは王が目ぼしい女性を捕まえてこないように、わざとはぐらかしているのだろう。


 どうも核心を捉えないヴィンスの応対に、段々と王は腹が立ってきた。


「はあ、もういい。とにかく、今日はもう休め。明日はエトロニア国の女王との会食がある。しっかりと睡眠はとっておけよ」


 わかりましたとヴィンスは言って席を立つ。彼の後姿を見ながら、王はまたため息をついた。


 随分と聞き分けの良い返事をしておきながら幾つかの書類の束を持って帰ろうとするのだから、本当にあいつは話を聞いているのだろうか。王のため息の数は、増すばかりである。



 一方、幾つか書類を抱えながら、ヴィンスは言われたとおりに自室へと帰っていた。


 茜色に染まった空が実に美しい。ふと見上げた空に心を奪われ、ヴィンスは風が吹いていることも気にせずに、外へと少し飛び出している廊下へと歩を進める。


 見上げた空に雲が浮かんでいる。風に吹かれて動く雲は、まるで犬に追われる羊の群れのようだ。


 追われる羊は、段々と散り散りになっていく。


 それを追う犬は、羊が減るのに反比例して、体を大きくさせていく。


 まるで、少し前までの自分のようだとヴィンスは思った。傲り高ぶり、自分の虚像を信じる者の末路など、たかが知れている。


 思わず案の定散り散りになった追う犬だった雲を、鼻で笑った。


 すると唐突に強い風が吹いた。ヴィンスはあまりの風に、目を細める。手に持っていた書類がパタパタと音を立てて、空に羽ばたこうとしていた。


 それでも少し目を細めながら暫く空を見上げていると、不意に膝のあたりに何かが追突したかのような衝撃があった。


 痛みはさほど無い。何故だか生温い。もしやそれこそ獣の類ではないだろうか。


 そう訝しがりながら、ヴィンスは膝のあたりに目をやる。すると、見慣れない服を着た、長い黒髪の女児が足に抱き着いているのが目に映った。

 ヴィンスは目を大きく開き、固まった。


 どうしてこんなものが、ここに。黒髪は魔女の証。だが魔女は、この国にいるはずがないのに。


 ヴィンスが胸中悶々としていると、その女児が僅かに震えていることに気が付いた。


「おい、子供。名は何という。誰の所有物だ」


 女児は何も言わない。ただ黙って、ヴィンスの足にぎゅっと抱き着いたまま、その手を放そうとしない。ヴィンスの口からは抑えきれないため息が漏れ出る。


 こんなことをしている場合ではないのだが。


 ヴィンスが痺れを切らせて、無理にでもはがしてやろうかと思ったときであった。


「……アイ」


 小さくか細い声が、ヴィンスの耳に入った。はっと女児のほうを再び見れば、目に涙を一杯ためてこちらに救いを求めるかのように見つめている。


 思わず綺麗に手入れされた黒髪に触れようと、ヴィンスは手をのばす。


 だが、すぐにその手を引っ込めた。


 そしてまたやはり少し躊躇してから、おずおずと手をのばす。


 壊れ物に触れるように優しく頭を撫でてやれば、足を抱える手もほどけ、ヴィンスは女児の目の高さまで膝を曲げた。


「どうした。……いや、ひとまず俺の部屋に行くか」


 こんなところを誰かに見られたら、たまったものではない。一体どう思われるか分からない。


 ヴィンスは軽々と女児を抱きかかえ、自室へと足早に向かう。だがそれでも、風に飛ばされそうになる書類から、決して意識を逸らすことはなかった。


 無事に誰に見られることもなく自室に帰ると、ヴィンスは溜息とともに激しい後悔に苛まれた。


 面倒なものを拾った。


 それが女児であることも、黒髪であることも、頭が痛い。一体どうしたものか。


 ヴィンスが一人頭を抱えていると、アイが控えめにズボンを引っ張った。


「何だ」


 そして言ってから、アイが泣き出していることに気が付いた。あまりに静かに泣くものだから、ヴィンスは今の今まで気が付かなかった。


「ど、どうした。どこか痛いのか。腹が減ったのか」


 子供とまともに接したことがないのに、こんな時にどうしたらいいものなのかなど、より一層分からない。


 いつの間にか暗くなってしまった部屋に、とりあえず明かりだけともして、ヴィンスはアイが泣き止むのを待った。


 持ってきた書類は結局、何も手が付かない。


 やがて少し時間が経ってから、アイは泣き止んだ。ヴィンスが座らせた上等なソファに腰掛け、足をぶらぶらさせる。手にはヴィンスがいれた、甘くないホットミルクを大事そうに持ち、ちびちびと飲んでいる。


 アイの向かいに座りながら、ヴィンスは自分で入れたコーヒーに口をつけた。


「……さて、アイと言ったな。お前は一体どこから来た」

「自分のおうち」

「……なら、言い方を変えよう。お前の家はどこだ」

「ニホンって前ママが言ってた」

「ニホン?」


 ニホンという国も、地域も、聞いたことがない。いや、もしかしたらあまりに小さな国で覚えていないだけかもしれない。


 そこで、ヴィンスは世界地図を引っ張り出す。


「そのニホンとやらはどこにある」


 世界地図を前にして、アイは首を傾げた。


「わかんない」

「それもそうか」


 ヴィンスは頭を掻いた。


 アイは見た目からして四、五歳だろう。もし誰かの所有物であるにしろ、この年なら世話をする者がいるはずだが。


 より一層、頭が痛くなってきた。


 そんなヴィンスのことなど意にも介さず、アイは足をぶらぶらさせる。そして、ホットミルクを飲み干すと愉快そうに、何もなくなったコップをのぞき込む。


 満足したのかテーブルにコップを置くと、今度はにっこりと笑った。


「ごちそうさまでした」


 ヴィンスが不思議そうな顔をして首をかしげると、アイもまねをする。さっきまで泣いていたとは思えないほど良い笑顔を見せている。


 さて、アイを一体どうするか。そういえば、明日くる女王も魔女ではなかったか。いや、それもそうか。エトロニア国は魔法使いの国なのだから。


 ヴィンスは自分が現実逃避していると気がつき、頭を横に振った。


 もう一回、いた場所を聞くべきか。


 現実に戻ってきたヴィンスがアイのいた方を見ると、もうそこにアイの姿はなかった。


「はっ?」


 思わず音を立ててヴィンスは立ち上がる。だが、煙のごとく消えたアイの姿はどこにもない。


 そこに変わらずあるのは、テーブルの残された空っぽのコップだけであった。

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