第71話 塔に正邪善悪の境目なし

 ユヴェンは学院の中庭に面した渡り廊下を歩いていた。


 学院の中庭には春のポカポカした陽光が降り注いでおり日向ぼっこに最適だった。


 有害ではない魔獣が放し飼いにされ、飼い主である魔導師と思い思いにくつろいでいる。


 こんなうららかな日にもかかわらずユヴェンは先ほどから胸騒ぎを覚えていた。


「何かしら。街の方で騒ぎ声がする。何かあったのかしら」


 ユヴェンがピリピリした表情で歩いていると、廊下の向こう側から見知った人物が歩いてきた。


「イリーウィア様」


「あら、あなたはユヴェンさん」


 イリーウィアはいつも通りデュークを引き連れて歩いている。


 いつもと違うのは学院魔導師用の深紅のローブを着ていることだった。


 ユヴェンは彼女のローブ姿を初めて見たため、少し新鮮な印象を受けた。


「珍しいですね。学院に来られているなんて」


「ちょっと学院長に用事があって。以前、手紙でしておいた脅し……じゃなくてお願いがきちんと聞き届けられているかどうか直接会って確かめておこうと。もしきちんと伝わっていないようでしたら、もっと分かりやすく念押ししなければいけません。まあ大丈夫だとは思うんですが……。念には念をと思いまして。」


「は、はあ」


 ユヴェンはそこはかとなく危うげな事情を感じ取って深く追求するのを控えた。


「それにしても今日は良い天気ですね。おや? なんでしょう。街の方からなにか物々しい騒ぎ声が聞こえますね」


「ええ、そうなんですよ。さっきから散発的に悲鳴のようなものが街の方から聞こえてきて。確かあっちは最近リンやテオが学院帰りによく行く場所なんです。あいつらまた何か騒ぎを起こしてるのかしら」


「まあ。リンがこの騒ぎを起こしているのですか?」


 イリーウィアがリンの名前を聞いて顔を輝かせる。


「ええ、リン達だと思いますわ。なにせ彼らは正真正銘の憎まれっ子。陰険性悪と真面目系クズのコンビで世間の恨みつらみを買いまくり、その一方で憎まれっ子世に憚るの格言通り、ちゃっかり出世するものだから周囲の妬み嫉みはますます高まるばかり。行く先々でトラブルの種を撒いては、衝突を繰り返し問題を起こす。私も彼らに何度煮え湯を飲まされたことか。そいうわけでこの乱痴気騒ぎも彼らの仕業に違いありませんわ」


「では確かめに行ってみましょう。学院長への用事もリンに直接成果を確かめれば事足りる話です。ユヴェンさん。あなたも一緒に来ますか?」


「えっ? は、はい」


 ユヴェンが戸惑いながらも返事するとイリーウィアの指輪が光り、その光線で地面に魔獣を召喚する魔法陣が描かれた。


 すると突然、どこからともなく旋風が巻き起こる。


 静かだった中庭に轟音を立てて強風が吹きすさび風塵が立ち込めた。


 中庭にいた人々や魔獣は驚いて散り散りに逃げ惑った。


 ようやく旋風がやんだかと思うと二人の姿は忽然と消えていた。


 代わりに街の方へ旋風が飛んでいく。


 取り残されたデュークは慌てて旋風が向かっているであろう街の方へと急行した。



 リンとテオを乗せた馬車だった何かは橋を越えた後も相変わらずケルベロスに追われていた。


 もはや馬車は馬車の体をなしておらずあらゆるところが破壊され痛み剥がれている。


 床も壁もいたるところに亀裂が走り車輪は先ほどからキイキイと軋む嫌な音を立てており、いつバラバラになってもおかしくなかった。


 街をハイスピードで疾駆しているもののケルベロスは目と鼻の先まで迫っており、三つある頭のうち中央の頭が鼻先を馬車の最後尾にこすりつけんばかりの距離まで迫っていた。


 馬車の最後尾はケルベロスの熱気で焦げ付き始めており、リンのいる場所まで灼熱の熱気が伝わっていて、リンは車体の揺れも相まって頭がクラクラし気絶しそうであった。


 おまけにすぐ目の前に突き当たりが差し迫っていた。


 このままのスピードで進めば壁に激突し、行くも地獄止まるも地獄の一丁目。


「リン、もう直ぐだ。準備はいいか?」


 テオが必死で車輪を杖で叩きながらリンに声をかける。


「え〜? 何〜?」


 リンはろれつの回らない様子で聞き返す。


「しっかりしろ。さっき言ってたカーブまでもう少しなんだよ。合図したら呪文を唱えるんだ。いいね。打ち合わせ通りやるんだよ」


「う〜ん。わかった〜」


「しっかりしろって」


 テオはリンの頬を引っ叩いた。


 リンの表情に生気が戻り、正気を取り戻す。


 いよいよケルベロスの牙が馬車の後部に噛みつこうとした時、リンとテオが一緒に呪文を唱え始める。


「行くぞ。トンニエの杖よ。車体全身に重みを伝えて地面に吸い付け」


「杖よ左側の車輪に重心を移せ。陥没するほどに」


 二人が呪文を唱えると馬車の重心が左に寄って車体が傾き始め、T字路に入っていく。


 ものすごい力が車全体にかかり危うくひっくりかえりそうなところ、一人が車体の方向を変え、一人がひっくり返らないよう地面に押し付けて、馬車の車体は不自然に歪みながらも急カーブを描いていく。


 結局、綺麗に曲がることはできず、壁に突っ込むことは避けられたものの、右側の車体は建物の壁にガリガリと擦り付けられる。


 しかしどうにかこの直角の急カーブを曲がり切って激突を避ける。


 車体は左右上下に尋常ではない負荷がかけられて、真っ二つに砕け引き裂かれそうになりながらも、どうにか体勢を維持してバラバラにならずに済んだ。


 馬車の最後尾しか見ていなかったケルベロスは突き当たりの存在に気づかずに、そのままのスピードで直進し、急な方向転換もできず建物の壁に激突する。


 ケルベロスはそのまま建物の内部に突入していった。


「うわああああ」


「ぎゃあああああ」


 ケルベロスの突っ込んだ建物の中から悲鳴が聞こえてくる。


 程なくして建物からモウモウと煙が立ち込める。


 リンはその様子を見て青ざめた。


 ケルベロスの突っ込んだ家屋の住民のことを思うと気の毒でならなかった。


「ふぅー。とりあえず一安心だな」


 テオが一息ついて床に座り込む。


「このままエレベーターまで行こう。エレベーターにさえ乗り込めばいくらケルベロスといえども追跡することはできない。でもその前に馬車を乗り換えた方が良さそうだな」


 馬車は相変わらずメキメキと音を立てて今にもバラバラになりそうであった。


 車輪も一応回り続けてはいるものの、相変わらずキイキイと嫌な音を立てている。


「そうだね。このままじゃ早晩壊れないとも限らないし」


 リンとテオが近くに馬車がないかどうか見回していると鉄の棒が飛んできて車輪に巻き込まれる。


 あえなく車輪は外れ反動で車体がはねとび、ガクンガクンと揺れた。


 二人はついに投げ出され地面に叩きつけられた。


「いっててて。くそっ、なんなんだ」


 テオは地面を這いずりながらも自分の杖を拾おうとするが、その手を誰かの足が踏みつけた。


「ぐっ、お前。ロレア。さっきのはお前が……」


「ガキどもが。散々てこずらせてくれたわね」


 ロレアはリンとテオがエレベーターのターミナルに向かうと踏んで先回りしていた。


 その後ろでは部下達が弓矢や鉄の棒を乗せた台車をガラガラと引いている。


 先ほど飛んできた鉄の棒はどうやらこれのようだった。


 これなら基本的な質量魔法で飛ばすだけで相手に致命傷を与えることができる。


 ロレアはリンの方に向き直ると妖しく微笑む。


 リンは彼女の表情を見てゾッとした。


 それは一目で狂気に捕らわれているとわかる人間の表情だった。


「リン。いますぐイリーウィアに掛け合ってちょうだい。退校処分と取引停止を無効にするの」


「そんなことできるわけないだろ。だいたい街をこんな風にしておいて……うぐっ」


 テオがリンの代わりに答えるが、ロレアに手のひらをグリグリと踏みつけられて黙ってしまう。


「あんたは黙っていなさい。リン。あんたのお友達が苦しんでいるわよ。テオのことが大事なんでしょう? 助けてあげなさいよ」


「うっ」


 リンはロレアの狂気に気圧されて返答に詰まる。


「リン。耳を貸すな。僕達はいびつだったこの街を正常に戻そうとしただけだ。何も悪いことなんてしていない」


「正常? 正常だと?」


 ロレアが頬をヒクヒクとさせた。


 怒りを爆発させる直前の彼女の仕草だった。


 杖を振り上げる。


「何が正常だ。この世に善も悪も正も邪もあるものか。あまつさえこの塔。善人が明日の不安に怯え、悪人が枕を高くして眠るこんな無茶苦茶な世の中で。何が正常かなんて、そんなこといったい誰にわかるものか!」


 ロレアはテオの頭に向かって杖を振り下ろす。



 次回、第72話「絶対零度の剣」

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