彼女は正に絹の娘
種・zingibercolor
第一話 空からの使者
プロローグ
アルノー・バントはその任務を舐めていた。
アルノーが乗る爆撃機は第二次世界大戦時の旧式のものと同等で、アルノーが発射した航空母艦は前氷河期以前の物を真似てなんとか動かしている代物で、いずれも近隣諸国と比べれば数段劣るものだは言え、しくじるはずがなかった。相手の航空戦力はまったくのゼロに等しいのだ。
当たり前だ。これからアルノーが攻撃する大陸には電気すら無い。前氷河期に、発達した文明を自ら放棄した、愚かな人間たちの集う国なのだから。
アルノーは、先陣を切った友軍機がやったように、沿岸の港町に幾つか爆弾をぶち込んで、脅してやればいいのだ。今日この日から、この大陸を支配するのはアルノーが生まれた国であり、この大陸に眠るすべての資源を吸い上げるのはアルノーが生まれた国であると知らしめるには、それで十分なはずだった。
だから水平線の向こうに、その大陸の端が見えた時、アルノーは自分の目が信じられなかった。
沿岸に、アルノーの近隣諸国ですら開発途上のはずの戦術高エネルギーレーザー砲が、ずらりと並んでいた。
「嘘だろう……!?」
アルノーは、この大陸が孤立した時からずっと続いている噂を信じていなかった。おそらくアルノーだけでなく、アルノーの軍の上層部も信じていなかったのだろう。
『あいつらは、アーミッシュまがいの生き方を守るためだけに、最新鋭の防衛技術を導入している』
その噂をアルノーが思い出した直後、コックピットは光の渦に包まれ、アルノーごと消し飛んだ。
第一章 幸運のお守り
ノーザン次期領主オーランド・ガーティンには暴君の素質はない。領民の話をよく聞き、領地のどこへでも出向くその仕事ぶりから言えば、むしろ名君の素質を有しているといえる。
しかし、その女嫌いは有名だ。身の回りに下女の一人すら置かず、年頃になっても結婚の話はすべて断り、二十四歳の現在に至るまで独身を通しているのだから、筋金入りである。
もっとも女の方も、並の男より一回りは大きく厳つい男を、あまり好くことはないだろうが。
数年前に膝を痛めた現領主はほぼ引退、実質的な仕事の殆どは息子のオーランドがこなしている。実質的領主であるオーランドに、口うるさい側近のデリックはいつもこういう。
「相手はこの際、妾でも遊女でも構いません、一刻も早くお世継ぎを」
年寄りの繰り言に、オーランドはいつもこう返す。
「そのうち養子でも何でももらう、女だけは俺に近づけるな」
オーランドがそれほどまでに女を嫌う理由を、誰も知らない。
復活祭の前に、海辺の畑の合間に立つ<神の目>を磨く子どもたちは、ノーザンの港町の名物だ。
<神の目>は海を向いた大砲のような形だが、穴に当たる部分にはガラスが埋め込まれ、そのガラスを通して神は人々を見ていると言われている。
<神の目>は沿岸にも多く立っている。<神の目>は教会が建つはるか以前からあるもので、教会のあり方をあまり良く思っていないオーランドも、これには敬意を払っている。
早春のその日、オーランドは火事に遭った教会の視察に行く仕事があった。
港のそば、焼け落ちた瓦礫の横で、神父は礼儀正しくオーランドを迎えたが、その目は笑っていなかった。
「次期領主様、今回は、援助を誠にありがとうございます」
オーランドは鷹揚に見えるよう気を付けつつ答えた。
「怪我人への援助が有効に使われていて何よりだ」
「神のために、教会再建に引き続きの援助を頂けるものと」
「神のための援助は、中央教会が免罪符で溢れるほど集めているだろう」
教会への反抗は、すなわち神の反抗と取る者が多数だ。デリックがはらはらしている気配をオーランドは感じたが、あえて無視した。
一ユードでも金を集めようとする教会の姿勢がオーランドは気に入らない。金は決して悪いものではないが、金で地獄行きが回避できるわけがないし、その権利を教会が売れるわけがないと思っているのだ。
神父も免罪符のことに触れられるとばつが悪いらしく、それ以上援助を求めようとはしてこなかった。オーランドが馬に戻ろうとすると、声変わり前の少年たちのものらしい、よく通る声が響いた。
「チャリティバザーやってまーす!」
「幸運のお守りはいかがですかー!」
オーランドは首を傾げた。
「チャリティ?」
デリックが答えた。
「火事で焼け残った物を売っているようですな、神学校の生徒たちです」
「それが何で幸運のお守りなんだ」
その疑問に答えるかのように、少年たちの声が再度響いた。
「火事でも焼けなかった小物でーす! きっと幸運を持ってきてくれますよ! いかがですか、次期領主様ー!」
人懐っこいその声に少し興味をひかれ、オーランドは馬に戻るのを止め、声のする方向を見に行った。地面の上に白い布を広げて、少年たちが煤にまみれたガラクタを売っていた。オーランドはそれを覗き込んで言った。
「商売上手だな、お前たちは。神父より商人になったほうがいいんじゃないか」
巻き毛の少年は照れ笑いしながら言った
「僕、神学校を出たら身寄りがいないので……。いかがですか」
焼け残りは、焼け残って当然のものばかりだった。二百五十年を経て今なお残る旧世界の生活の破片。今では作り方もわからないような細かい金属の細工物や、燃える水から生成したという火に溶ける石ころ。しかし、一つ異質なものがあった。
小さな白い蛾。煤にまみれて黒っぽいものが多いなか、それは妙に目立った。オーランドはそれを手に取った。
「何だこの蛾は、生きてるのか?」
少年は妙に自慢げに答えた。
「それ、すごいでしょう、本物みたいに見えますけど、すごく硬いし燃えなかったので、たぶん作り物です」
「ふーむ……」
オーランドはそれをためつすがめつした。触角の先から、足の一本一本まで、たしかによく出来ている。作り物だとしたらかなりの値打ちがするだろう。オーランドは少年に聞いた。
「いくらだ」
少年は嬉しそうに答えた。
「ありがとうございます! 五百ユードです!」
そうして、その白い蛾は細い鎖をつけられ、オーランドの首元にぶら下がることとなった。
オーランドの女嫌いといえば有名なので、領民の女たちは決して次期領主には近づかないし、男たちも女を近づけさせない。元来がまめなので領地に出向くことはしょっちゅうのオーランドだが、おかげでここしばらくは女の声すら聞いたことがなかった。
これからも聞くことがなければいいと思っていたオーランドだったが、その願いは叶うことはなかった。
教会の件でまた妙なことがあり、オーランドは再び港街に出向いた。出迎えたのは瓦礫の煤を顔につけた大工の領民だった。
「教会を直そうとしたら地下室が見つかりまして、そこから妙な物が出てきまして。中央教会が接収すると言うんですが、領地から出たものですし、まず次期領主様にお見せするのが筋かと……」
地下室の位置は微妙に教会の真下から外れていて、オーランドの領地と言える場所だった。オーランドは男に聞いた。
「夜になると光る石、だったな」
「はい、うちの下の者が見つけまして。夜と言わず、暗い所なら昼でも光るようなので、ぜひお見せ出来ればと。今持ってきます」
付いてきたデリックは大変な渋面になっていた。
「オーランド様、教会との揉め事は、お願いですから避けてくださいませ」
「ぎりぎりこちらの領土だ。それに本当の話なら役に立つ石だぞ。火を使わずに光が手に入れられるなら、こんな火事も起こらないだろう」
「ですが」
そこに、男が一抱えもあるような大きな金属の筒を転がして運びながら戻ってきた
「持ってまいりました! この中にたくさん入っていまして」
筒には妙につやのある黄色い紙が貼ってあり、そこには黒い円が割れたようなマークが記されていた。
「何か書いてあるな、何だ、これは?」
オーランドがそのマークに触れようとした瞬間。
どこからか、声が響いた。
『それ触っちゃダメ!』
悲鳴のような、それは女の声だった。
オーランドは思わずあたりを見回した。しかし、教会の跡地で作業をしている大工たちと、遠くを往来する漁師たち以外に、人はだれもいなかった。大体、オーランドの女嫌いは領地獣に知れ渡っているので、近くに女など見当たるはずもなかった。それでもオーランドは疑問を口にした。
「今、女の声がしなかったか?」
オーランドの女嫌いを気にしてか、大工の男は焦ったように答えた。
「いえその、教会ですし、女たちは次期領主様が来ると言うので、あらかじめに出払っております」
「そうか」
いまいち釈然としなかったが、オーランドは振り払うことにした。
「すまん、空耳だ。見せてくれ」
「はい、今開けま……」
再び、悲鳴のような声が響いた。
『ダメ! それ毒みたいなものなの! 開けちゃダメ! 近づいてもダメ!』
オーランドは、またあたりを見回した。……やはり、女がいるはずもなかった。
「何だ? 気味が悪い……」
男が不思議そうにオーランドにたずねた。
「どうかされましたか?」
「いや……」
オーランドはしばらく考え込んだ。
「……見せなくていい。元に戻しておけ。中央教会がしつこいようなら渡してもいい。ただ、そうだな、運ぶのは中央教会の神父どもにやらせろ。お前たちは、それにあまり触るな」
「……? はい」
大工の男は、不思議そうにしながらも筒を開けようとするのを止めた。オーランドの行動を見て、デリックは大きく頷いた。
「そうですオーランド様、教会に任せておくべきです。無用な揉め事は避けるべきです」
オーランドは顔をしかめた。
「そういう理由で戻させたんじゃない」
「では、どうした理由ですか?」
「いや……それは」
オーランドは言いよどんだ。どこからともなく聞こえた声が気味悪かったから、とは言いにくい。しかも女の声だ。
「何でもない。戻るぞ」
そう言って、オーランドは教会の跡地を去った。
オーランドの女嫌いの理由を、誰も知らない。正確に言うと、オーランドの母親だけは知っていたかもしれないが。しかしそれも十年前に馬から落ちて、あっけなくこの世を去った。
母親は若く、美しかった。すれ違うどんな男も振り向かせずにはいられないほどに。その若さと美しさは、いつだって若い男を貪欲に求めていた。父親だけでは、とても足りないほどに。
かと言って、母親は、男なら誰でも手を付けるほど馬鹿ではなかった。彼女は、一番近く、一番若く、一番父親に事を告げることがないだろう男を、生贄に選んだ。
精を放つ事すら知らない年齢の、オーランドを。
まだ母親よりずっと小さく、ずっと非力で、母親に歯向かう術を何も持たなかったオーランドは、数え切れないほど母親に犯された。毎夜毎夜、オーランドの寝室から出てくる母親を、父親は一度も疑ったことがなかった。ただ仲のいい親子だと思っていたようだった。
オーランドは、誰にも母親とのことを話さなかった。誰にも話せなかった。父親にも、デリックにも、友人にも。芯のところで、オーランドはいつも孤独だった。
母親が死んだ時、オーランドはやっと開放されるのだと思った。けれど、それは間違いだった。
毎夜毎夜、母親は死んだときと同じ若く美しい姿のまま現れる。オーランドの夢の中に。オーランドは夢の中では非力で小さい体のままで、どんなに止めてくれ放してくれと叫んでも、母親の手技の下に、あっけなく陥落してしまうのだ。
その夜も、オーランドは悪夢を見た。いつものように母親は妖しい笑みを浮かべて現れて、その滑らかな肌を、豊満な乳房をオーランドの身体にこすりつけ、オーランドは全身で拒否しているのに、一番反応して欲しくないところは全力で反応してしまい、そして目覚めて己の敗北に打ちひしがれるはずだった。
だがその夜は、そうならなかった。どこからともなく、女の声が響いたのだ。
『起きて、起きて、これは夢よ、しっかりして、起きて!』
聞き覚えのある声だった。昼間、光る石が詰まった筒に触ろうとしたときと、同じ声。
オーランドは汗だくになって目を覚まし、しかし、今夜に限っては、己が敗北していないことを知った。これまでになかったことだった。
翌日も、その翌日も、オーランドは誰ともしれない女の声に、すんでのところで助けられた。
数日後、デリックがオーランドに告げた。
「先日の、あの光る石の大工ですが、今、ひどく病気しているそうです」
「病気?」
「医者が言うには、食あたりに似た症状らしいですが、それよりもっとひどいとか……あの大工だけでなく、下の者たちも病気になったそうで。伝染病かもしれません、あの時、早く帰ってよろしゅうございましたね、オーランド様」
あの声は言っていた。それは毒みたいなものだと。近づいてはいけないと。
あの声は何なのか。あの警告は何だったのか。事実をどう受け取っていいものか、ひどく迷ったが、結局オーランドはこう言った。
「あの光る石には、誰も触るなと言っておけ。中央教会のものが引き取ると言うなら、その後どんな病気をしても、こちらは責任を取らないと言え」
デリックはきょとんとした。
「あの石に、何かあるのですか?」
「……ある、かも知れない」
いきなり聞こえだした声。病気を起こしているかもしれない毒。それを知らせた声。自分を悪夢から目覚めさせた声。
……一体、誰なのだろうか。
第二章 旧世界より
夜のノーザン次期領主の寝室には誰も近づかない。側近のデリックでさえも入れさせてもらえない。オーランドは誰にも聞かれたくないのだ。夜、うなされる自分の声を。悲鳴を上げて飛び起きる自分の声を。
だから、オーランドはあのどこの誰ともしれない声の主をなんとしても見つけるつもりだった。あの声の主は、おそらくはオーランドがうなされる声を聞いて、そして彼を起こしたはずなのだ。
後々、領主となる男が毎夜毎夜、何かの悪夢にうなされているなどということは、決して知られたくなかった。断固として口止めするつもりだった。声の主が何者であろうと。
『起きて! 起きてよ、夢よ、大丈夫だから!』
その声で、何度目かに悪夢から飛び起きた時、オーランドは声に向かって誰何する決心をした。
「誰だ?」
返事はなかった。オーランドはさらに言葉を繋いだ。
「お前は誰だ? 何度も声を聞いたぞ、一体誰なんだ?」
やはり、返事はなかった。
「おい、あの光る石が毒だと言ったのはお前だろう? ここ最近、俺を起こしているのはお前だろう?」
寝室は、静まり返ったままだった。
オーランドは頭を掻いた。声が怖すぎたかもしれない。自分の声が普通の男より数段低く、そのつもりがなくても恐ろしげに聞こえがちなことを、オーランドはつい忘れがちなのだ。
「……何か言え。怒ってるわけじゃない。ただお前に、俺がうなされていることは誰にも話して欲しくないだけだ」
長い間、何も声はしなかった。駄目なのかとオーランドが思った時、どこからともなく女の声がした。
『あの……誰にも言わないし、言えないと思うの。私の声を聞いてくれたの、あなたが初めてだと思うから』
オーランドは辺りを見渡した。当たり前だったが、声の主は見当たらなかった。
「どこにいる? お前は誰だ?」
再び、女の声がした。
『あなたの胸元……だと思う。たぶん、あなたが首に下げてる幸運のお守りに宿ってるわ、私』
オーランドは胸に手を当てた。そこには、確かに教会のチャリティで買った、白い蛾がぶら下がっていた。オーランドはそれをつまみ上げた。
「お前、蛾なのか?」
女の声は憤慨したように言った。
『人間よ! 気がついたら蚕の成虫に宿ってたただけ!』
「カイコ?」
オーランドは首を傾げた。
「何だそれは。この蛾の名前か」
当惑したような女の声がした。
『え? 蚕って言ってわからない? ほら、絹を吐く虫よ、この蛾は、その成虫』
「絹?」
オーランドはさらに首を傾げた。
絹とは教会が管理している布で、神が授けた布だとされている。その光沢と肌触りの滑らかさは、全ての人間が欲するものだが、教会は断固として聖職者以外にこの布を触らせようとしない。
「何を言っているんだ? 旧世界の時代ならともかく、絹が作れるわけがないだろう。しかも虫が絹を作るだなんて、嘘も休み休み言え」
『本当だもん! この蛾の幼虫が作る繭を茹でて、そこから糸を引き出して、灰汁とかでまた煮て綺麗にして、それを織って絹を作るの!』
「作り方はどうでもいい」
『どうでもよくない!』
「それよりだ、お前は誰だ? 一体何でこんなところにいる? 何故あの光る石が毒だとわかった?」
『質問は一つに絞ってよ、女嫌いの次期領主さん』
ふてくされたような声がした。
『なんでこんな所にいるかって、私が聞きたい……。高い所から落ちて死んじゃったかと思ったのに、気づいたら真っ暗な所にいたの。そのうち明るくなって、火事だとかなんだとか騒ぐ声がして、知らない男の子に拾われて、いつの間にか売り物にされてたわ。それくらいの時に、自分が蚕の成虫に宿ってるって気づいたの。それを買ったのが、あなた』
オーランドは眉根を寄せて、つまみ上げた白い蛾を見つめた。確かに、これは港の教会の火事の焼け残りで、これを買ったのは自分だが。
オーランドはもう一度聞いた。
「あの光る石が毒だと、何故わかった?」
『えっと、あのドラム缶に放射能のハザードシンボル……その、私が生きてた時代、特別な毒性のある物質につける、キケンですってマークがついてたから。物にもよるけど危ないものはすごく危ないの。あなたが触ろうとしたんで思わず叫んじゃった、大工さんたちは間に合わなかったみたいで、気の毒だけど……』
「間に合わない? どういうことだ」
次期領主として、領民のことは聞いておかなければならない。オーランドが蛾にむかって聞くと、すまなさそうな声がした。
『あの、治療法がほとんど無いの。吐き気だけで済めばいいんだけど、光る石を触ったり何日も近くに置いてたりしたら、はっきり言って手の打ちようがなくて……今すぐじゃなくても、亡くなることがあってもおかしくないの……』
「……置いておくだけで、侵される毒なのか?」
『そういう毒なの、だからすごく取扱い注意なのよ、だから元あったところに戻して、あとは絶対に近づいちゃダメ』
「お前は何で、そんなことを知っているんだ」
『今あなたが生きている時代では、いろんな事が忘れられちゃったみたいだけど、私が生きていた時代では、普通に知られてたことよ』
「一体、いつの時代に生きてたんだ、お前は」
答えが返ってくるまで、少し間があった。
『……西暦二千二十年。たぶん、あなたが旧世界って言ってる時代』
旧世界時代とは、この国に氷河期が襲い来る前の時代のことだ。
じわじわと氷に覆われ、住む場所が減っていく中で、残された人間たちはそれは醜く争ったのだという。
発達した文明がその醜い争いに拍車をかけた。ただでさえ住める場所が減っていると言うのに、島一つ吹き飛ばすようなことまであったそうだ。
やがてその文明も降りしきる雪に埋もれて消えてなくなったという。今でも、地面を掘ると燃える水から生成したという火に溶ける石が出てきたり、海に潜ると空を飛んだという大きな金属の塊が見られたりするが、その全ては過去の遺物だ。
全てが氷の下に消え、やがて氷が溶けたあとも、この国以外は全て海の下になったのだという。この国は、人間が住む最後の土地なのだそうだ。
教会は、旧世界時代を忘れるように唱える。発達した文明が争いを生んだのだと。文明は地を汚し、海を汚し、空を汚した。再びその時代に立ち返るべきではないと。
だが、馬よりも早く地を走り、帆船より早く海を行き、空さえも飛べたという旧世界の時代に、憧れを抱く者は少なくない。教会はその芽を見つける度に焼き払い、弾圧しているが。
その旧世界時代を生きた人間? それが今、自分の胸元にいる?
途方も無い話に、オーランドはため息をつくしかなかった。
「……教会に、ばれないようにしないとな」
『教会?』
「旧世界時代をえらく嫌ってる」
『そうなの……』
女の声はしばらく黙ったが、やがて意を決したように言った。
『あの、お願いがあるの』
「なんだ」
『その、私がただでさえ厄介者で、あなたが女の人嫌いなのはわかってるけど……ここに置いてもらえないかしら。いつもあなたの胸元にぶら下げておいてくれないかしら。引き出しの奥になんか置かないでほしいの。暗くて狭いところでひとりぼっちは、嫌なの』
「…………」
『あの、うるさかったらずっと黙ってるわ。もう変な時に口出したりしないし。夜に起こしたりもしない。だから、お願い』
「……起こさなくなるのは、困る」
『え?』
オーランドはベッドの上に座り直した。
確かに厄介者だし、女は嫌いだ。しかし、悪夢から目覚めさせてくれて、きっとオーランドの夜の秘密を誰にも口外しないだろう<これ>には、利用価値がある。
オーランドは言った。
「俺が夜うなされていたら、すぐに起こせ。絶対に起こせ。それを守れば、お前を首にぶら下げておいてやる」
女のはしゃいだ声がした。
『本当!? ありがとう!』
「普段は黙ってろよ」
『うん、あ、でも光る石みたいに危ないもの見つけた時も黙ってたほうがいい?』
「そういう時は流石に言え」
『はーい』
そして、その密やかな契約は、彼女の方からは決して破られることはなかった。
彼女は几帳面に、毎夜毎夜オーランドを起こした。
『起きて、起きて、起きてったら! これは夢です! 起きてよ!』
おかげで、オーランドは悪夢に敗北することはなくなった。ある夜、彼女はオーランドを起こして言った。
『起きた? おはようございます、まだ夜中だけど』
「……起きた」
オーランドは額の汗を拭いながら小さい声で言った。寝室には誰も近づけないようにしているが、それでも傍から見たら一人で話しているだけだと思うと、あまり大きな声では話したくない。
『あのう、ちょっとおしゃべりしてもいい?』
「何だ」
『私、いつも言われた通りあなたのこと起こしてるけど、あなた起こされた後、あんまり眠れてないよね? 寝不足とか、大丈夫?』
「…………」
あまり大丈夫ではなかった。悪夢に敗北して目覚める時は、目覚めてもどこか疲れていて、始末をした後すぐに寝てしまっていたが、悪夢の途中で叩き起こされた時はそうでもなく、なかなか寝付けない。酒に頼るにも、翌日に残りそうな微妙な時間だ。
『子守唄でも歌う?』
「いらん、俺は子供か」
『でも眠れないんでしょ?』
「それは……」
『じゃあ、眠たくなるような難しい話してあげようか』
「何の話だ」
『えーと、カイコ-バキュロウイルス発現系を用いた糖タンパク質の発現と糖鎖構造の改変とか』
「何だそれは」
『カイコ感染症モデルを利用した微生物資源からの抗生物質の開拓とか』
「何だそれは」
『えー、こういうの話せないんだったら私、遺伝子組換えカイコの拡散防止措置を執った大量飼育技術の開発とかしか話せなーい』
「だから何だそれは!」
知らず知らずのうちに声が大きくなっていることに気づいて、オーランドは口を抑えた。
「……どうせなら、旧世界時代の何か面白いことを話せ」
『面白いこと?』
「今よりずいぶん色々なことが出来たと聞くぞ、馬より早く移動できたとか、帆船より早い船があったとか、空を飛べたとか」
教会は旧世界に立ち返ってはいけないと言うが、旧世界の時代を生きた人間が目の前にいるとなれば、少し聞いてみたい事柄だった。
白い蛾に宿る声は答えた。
『自動車とか、エンジン船とか、飛行機とか? 確かに全部出来たけど……どれも石油がないと無理じゃないかしら。あとエンジン』
「石油? エンジン?」
『えっと、石油っていうのは地下深くにある油のこと。食べられないけどね、燃やすのにはすごく都合がいいの。エンジンっていうのは石油なんかを効率よく燃やして動力を得る機関。その動力で車や船を動かしたり飛行機を飛ばしたりしてたの』
「ふーん……」
『簡単なエンジンなら今でも作れそうな気がするけど……原理をよく知らないのよね、私』
「作ったりしたら、教会が黙ってないだろうな」
『教会って本当に旧世界時代が嫌いなのね。エンジンくらいなら役に立つと思うんだけどなあ、電気もダメなのかしら』
「電気?」
『うーんと、今この時代で目に見える電気は雷かな。磁石とタービンを使ったり、それ相応の機械があれば日光から取り出したりも出来るんだけど……とにかく、電気を使えばいろんな事が出来るの。明かりをつけたり、暖房を動かしたり……多少だけど車も走らせてたなあ』
「雷を灯りに使うのか。眩しそうだな」
『ちゃんと調整できるもん、そのへんは平気。……ねえ、いいの?』
「何がだ」
『旧世界に興味持つのって、教会が禁止してるんでしょう? 私はいくらでも話すけど、あなたは聞いてもいいの?』
オーランドは黙り込んだ。旧世界の文明は悪徳とされている。それにオーランドが興味を持っていることを、ただでさえ摩擦が起きている教会に知られたら、面倒なことになる。
だが、オーランドは言った。
「……教会の教えで、おかしいと思うことがある」
『何?』
「聖書は、産めよ増やせよ地に満ちよと言う……だが、少なくとも俺の領地では、今いる人間を養うだけで大変だ」
オーランドの領地は豊かなほうだ。海に面しているので魚も捕れるし、畑の麦もここ十年は天候に恵まれ、病気にもやられずに育っている。
しかし、土地あたりの生産量には限界というものがある。今の人口より人間が増えたら、維持していくことが難しいだろうということは、領主としての仕事をこなして来て実感していた。
「だが、旧世界時代は、もっとたくさんの人間が同じ土地にいたはずなんだ。人間の増えすぎが世界を汚したと、教会は言っている。しかし、人間が増えて地に満ちていたのは明らかに旧世界の方だ」
一体、どちらが正しいのか。
「旧世界がたくさんの人間をどうやって養っていたかは、正直、興味がある。どうしていたんだ?」
『うーん、ぱっと思いつくのはハーバー・ボッシュ法だけど……』
「何だ、それは?」
『水素と窒素からアンモニアを作って、それを肥料のもとにする方法』
「水素? 窒素? 肥料が作れるのか?」
肥料があれば、土地あたりの麦の生産量はもっと増えるだろう。今よりもっと多くの人口を養うことも不可能ではないかもしれない。
『うん、作れるの。水素っていうのは水を作ってる物質で、窒素は空気に含まれてる物質で……もっとわかりやすく言えば、水と石炭と空気とから肥料を作れたのよ』
「そんな方法があったのか!?」
『でもごめんなさい、今の技術じゃ再現は難しそう。今できるのは、人間の糞尿を発酵させて撒いたり、干し魚や家畜の骨の削り屑を土に混ぜるくらいかなあ』
「糞尿? 魚? 骨? そんなものが肥料になるのか?」
『全部本当にやってたことだもの。今だって家畜の糞尿は土に混ぜてるでしょ』
オーランドは畑を耕す領民たちの姿を思い出した。土を耕す牛や馬の糞尿はたしかに垂れ流しで土に漉き込まれているが、にわかには信じがたい。
『ウソだと思うならやってみてよ。きっと効果が出るはずだから』
「……骨の削り屑くらいなら、試してもいいが……」
そんなことを話しているうちに、東の空がうっすらと白んできてしまった。
『あ、ごめんなさい、全然寝かせてあげられなかったわね』
「……今から寝る、太陽が全部見えたら起こせ」
『はーい』
そうして、オーランドはわずかな眠りに落ちた。
今の話がどれだけ貴重なものだったか、数年後に思い知るなどとはまるで想像もしないまま。
第三章 過去の遺物、空からの使者
港町の隣り、内陸の街では今日、ささやかながら復活祭が行われる。オーランドはデリックを伴って内陸の街に赴いた。
本来なら次期領主として城下町の祭りに出るべきだが、内陸の街で妙な噂が立っているので、それを聞き取りに行くついでだった。
手工業ギルドの集会場に集められた男たちは、入ってきたオーランドとデリックを見て次々に挨拶をした。
オーランドは片手を上げてそれに応え、さっそく話を切り出した。
「妙な大きな鳥を見たというのは、お前たちか?」
「はい、私達です」
「教会に口止めされそうになったそうだな」
「はい、絵を描いてみせたら口外するなと言われたのですが、本当に妙な鳥だったので、次期領主様のお耳に入れておいたほうがいいかと思いまして……」
教会の話が出たせいで、オーランドはデリックがまた何か言いたそうな気配を感じたが、いつものごとく無視した。
「一体、どんな鳥だったんだ」
そうオーランドが聞くと、男たちは次々に口を開いた。
「ものすごく大きな鳥だったんですよ!」
「羽ばたかないのに、ずっと飛んでるんです」
「変な鳴き声をずっとあげてるんですよ、ゴォォォォって」
「驚くくらい高く高くを飛んでいたんです、たまたまいた名手の猟師に矢を射かけさせても、まるで届かないくらい」
……妙な鳥だということはわかるが、いまいち映像が浮かばない。オーランドは言った。
「絵を描いたそうだな。それはないか?」
男たちのうちの一人が手を挙げた。
「教会に取り上げられてしまいましたが、同じものが描けます」
「描いてくれ」
「はい、ただいま」
男はチョークを取り出して、石版に絵を書き始めた。
それは確かに妙な鳥だった。細い翼をまっすぐに広げていて、嘴がない。その時、よほどのことがない限り、日中は黙っていろと言ったはずの女の声が聞こえた。
『ウソ、飛行機!?』
「ひこうき?」
突然よくわからない単語を呟いたオーランドを、皆が不思議そうな顔で見た。オーランドは頭を掻いた。
「ああ、いや、何でもない」
オーランドは指先で胸元の蛾を弾いた。
しかし、ひこうきとは、旧世界時代に空を飛んでいたとかいう代物ではなかったか。何故、そんなものが今この時代に見られたのだ? 教会が口止めしたのは、そのせいか?
「……教会の方に、事情を聞いてみよう。お前たちが話したということは黙っておく」
「ありがとうございます」
街は祭りの熱気で賑わっている。復活祭に欠かせない焼き菓子の香りが漂ってくる。女たちはオーランドを見て遠のいていくが、子どもたちは意に介せず元気に走り回っている。手工業ギルトから、内陸の街の教会までは、すぐそこだった。
教会特有の黒光りする屋根は、<神の眼>と同じように子どもたちが磨く対象だ。今年は屋根磨きで落ちた神学校の生徒はいないだろうなとオーランドが思っていると、さっき指で弾いたはずの女の声がまた響いた。
『え、なんで、太陽光パネル……』
「パネル?」
『太陽の光から電気を取り出す機械よ、なんでこんな所にあるの!?』
その時、オーランドとデリックの上に影がさっと落ちた。見上げると、空には大きな鳥のような黒い影があった。
さっき絵で見た鳥、その物だった。
「……ひこうき?」
その鳥から、何かが離れて落ちてきた。糞か何かかと思ったが、違った。
筒のような何か。それは正確に教会の屋根にまで落ちてきて、次の瞬間、轟音が響き、教会の半分が粉々に吹き飛んだ。
第四章 教会の秘密
半壊した教会は、あっと言う間に燃え上がった。教会の近くにいた領民たちは、大騒ぎになった。
「何だ、今のは!?」
「一体何があったんだ!?」
「俺は見たぞ! あの大きな鳥から何か落ちてきた!」
オーランドは声を張り上げた。
「落ち着け! 火を消せ! 燃え広がるのだけは防げ!」
消火団たちが駆けつけ、火を叩き、水をかける。類焼だけは防げそうだ。
オーランドは口の中で小さく胸元の蛾に語りかけた。
「おい、あの、ひこうき、とやらは何だ」
すぐに返事があった。
『あれ、飛行機の一種……たぶん爆撃機よ、どういうこと、文明って忘れ去られてるんじゃないの!?』
「旧世界の技術なのか?」
『うん……あんなのにやられたら町中火の海よ、空襲する飛行機だもの、街を焼くためだけの飛行機』
「街を焼く!?」
『普通はこんな一撃じゃすまないわ、なんであんなのが来たのかわからないけど……何機も来てあちこちを爆撃していくのが普通よ』
「何故そんな……いや」
あれが何個も来るのだとしたら、街への被害は甚大なものになるだろう。
だとしたら、次期領主として、考えることは一つだ
「おい、あの飛行機がもしまた来たら、追い払うにはどうすればいい?」
驚いた声がした。
『この国の技術水準じゃ無理よ! ただ焼かれるしか……』
「さっき、電気とやらを取り出す機械が教会にあると言っただろう、それを使って何かできないのか?」
『教会の屋根って、みんなあの太陽光パネルなの?』
「大体がそうだ」
『じゃあ、光る石もあったし、太陽光パネルがある教会の地下に何かあっても、おかしくないと思うけど……』
「わかった」
オーランドは、胸元を見つめて何事か呟いている自分を、戸惑ったように見つめているデリックに声をかけた。
「デリック! 俺はそこの教会に用が出来た、鎮火したら教会の地下室に行くぞ」
老人は仰天した顔をした。
「何をおっしゃるのですか!? 危のうございます、それに地下は教会の神父以外出入り禁止です、中央教会の者がなんと言うか……」
「地下に、さっきの鳥がまた来たら追い払う方法があるかもしれないんだ。理由は言えないが」
「しかし……」
胸元からも驚いた声がした。
『大丈夫なの? 教会と仲悪いんじゃ……』
オーランドは、二人に同時に答えるつもりで言った。
「俺には領地を、領民を守る義務がある」
教会の火事は程なく消し止められたが、類焼を防ぐために消火団にばらばらに壊され、建物の姿は跡形もなかった。
オーランドが教会の地下に入ろうという時に、真っ先に文句を言いそうなのはこの教会の神父だったが、火事で火傷をして担ぎ出されていた。
地下室への階段は瓦礫の下からすぐに見つかった。オーランドは領民たちからランプを借り、地下室への階段を降りることにした。
「オーランド様、一体地下に何があるというのですか、どうしてもと言うなら私もついて行きます」
デリックはどうしてもついて行きたがったが、オーランドは、
「あとで教会といざこざがあった時、責められるのは俺だけでいい、ここにいろ」
と老人を無理に階段の見張りに立たせた。
地下室への階段は思ったより狭く、段数があった。
『意外と深いのね……何かあるといいんだけど』
「何か無いと困る。あのひこうきを追い払う方法があるかもしれないと言ったのはお前だろう」
『そうだけど……。少なくとも、電気が通ってたことはあると思うんだけどなあ』
階段はどこまでも続いたが、地下によくある湿気や水分はまったくなかった。よほど作りがしっかりしているのだろうか。
やがて、階段が終わり、入り口らしい扉が姿を現した。オーランドは扉を開けようとしたが、取っ手らしきものがなかった。何か開ける手がかりを探して、ランプで扉をあちこち照らしたが、扉はどこものっぺりとしていた。扉の横に数字の書いた板があるだけで、あとは何もなかった。
『あのう……』
「何だ」
『そこに数字が書いてあるボタンがあるよね』
「これに何かあるのか?」
『もしかしたらと思うけど、暗証番号……これを決まった番号順に押すと扉が開く仕組みなのかもしれないわ。もし電気が通ってるんだったら』
「決まった番号?」
『何か思いつかない? 何桁かの番号。教会ならではの番号とか。ひょっとしたらこの教会の人しか知らない番号なのかもしれないけど』
「……百五十三でどうだ」
オーランドは、神の子が弟子に命じて獲らせた魚の数を挙げた。
『じゃあ、一、五、三って押してみて』
胸元の声に従って、オーランドは数字を押そうと板に触れた。触れた瞬間、数字が光った。
「何だ!?」
『わ、すごい、電気通ってる!』
「これが電気なのか? これが電気の明かり?」
『うん、怖いものじゃないから。続き押して』
オーランドが言われた通りにすると、どこかきしむような音がして、目の前の扉が動き出した。
「……開いた」
『電気通ってるってことは、中になにかあるわよきっと! 入ってみてよ』
「言われなくてもそうする」
中に入ってすぐ、オーランドはランプが要らないことに気づいた。部屋の側面に巨大なガラスが埋め込まれており、それが薄ぼんやりと光っていたのだ。
『モニタだ! こんな大きなの初めて見たわ、何かの作戦室みたい』
「これが、あのひこうきを追い払うものなのか?」
『えっと、操作してみなくちゃわからない……このモニタね、基本的には、よその映像を映し出すものなのよ、その映像によると思うんだけど……タッチ式かなあ、ちょっと触ってみてくれない?』
オーランドがモニタとやらに触れると、モニタは一瞬白く光り、次に青と緑の絵を映し出した。緑色の歪な円が、深い青の背景に浮かんでいる。その円は、この国の地図にとても良く似ていた。
「な、何だこれは」
『オーストラリア? でも近くにインドネシアもパプアニューギニアもない……海面上昇? でも完全に無くなるほど低い諸島だっけ……』
絵には、右隅に[Satellite Image, present location]とあった。
「サテライト? 現在地?」
『衛星画像!? え、ここオーストラリア!?』
「オーストラリア?」
『えっと、私たちの時代の、この国の……この大陸の呼名』
「大陸? 何だそれは」
オーランドが初めて聞く言葉だった。
この国は海に浮かぶ大きな島国だ。他にはもう、どこにも人の住む国はないと言われている。氷河期にここ以外の全ての土地は凍りつき、この土地に移住した人間だけが生き残り、この国を作ったのだそうだ。
「この国の名前は、新グレートブリテン王国だ」
『今はそうなのね……とにかく、私たちの時代はオーストラリアって呼んだのよ』
「そう、なのか」
『この、ピンの立ってる所が現在地よね、これがここの地図だとすると、あの爆撃機が来たのってどっちの方からかしら』
「海の方だから……多分、こっちだ」
歪な円の上の縁は、オーランドの領地、ノーザンの沿岸線に似ていた。オーランドはそこを指差した。
絵の一番下に、[For Commons][For CLERK]という言葉がそれぞれ点滅していた。
「この文字を触ると、また何か出るのか?」
『そうじゃないかと思う……私達、一般人でいいのかしら』
少なくとも、聖職者ではないだろう。オーランドは少し考えたが、あえて[For CLERK]を押した。教会がこんなものを隠していたのだとしたら、聖職者向けにも何かあるのではないかと考えたのだ。
モニタはまた一瞬光り、青と緑の絵に重ねて大きな文字と、赤い点いくつかを映し出した。
[INVENTED by other countries]
[make an ATTCK]
[YES][NO]
赤い点は地図の上、海の方角から、少しずつ沿岸に近づいてきていた。
「攻撃するか、しないか? この画面が聞いているのか?」
『そう、だと思う……この赤い点が多分、この国を攻撃しようとして近づいてる何か、だと思う。でも……』
「何だ」
この画面を触れば、あのひこうきとやらを追い払える。オーランドはそう軽く考えていた。ひこうきの中のことなど、まるで考えていなかった。
オーランドの指が[YES]に触れる直前、また声が響いた。
『いいの? あの飛行機の中、多分誰か人が乗ってるのよ……もしかしたらだけど、追い払うんじゃなくて撃ち落とすかもしれないのよ、そしたら飛行機のほうが爆発するし、中に乗ってる人は死んじゃうかもしれない、それでもいいの?』
「人、だと?」
この国以外に人がいる? そんなはずはない。……そんなはずはないのが、これまでのオーランドの常識だった。しかし、どうやらその常識は、多少疑ったほうがいいようだった。
オーランドはさっきの火事を思い浮かべた。教会に一発。復活祭で人が出払っている時だったから、神父が一人火傷をしただけで済んだが、あれが何発も町中に、領民が集まっている所に落とされたら、どうなるだろうか。
オーランドは、胸元の白い蛾に聞いた。
「あのひこうきには、何人人間がいるんだ」
『一機に、せいぜい一人か二人だと思う……どうして?』
「……簡単な引き算の問題だ。あの筒をいくつも落とされたら、人間が何人も、下手したら何百人も死ぬ。それと引き換えなら、数人死んだところで、その罪くらい被ってやる」
オーランドは、[YES]の文字に触れた。
終章 一時の平和
内陸の街の復活祭は、教会の火事があったものの無事終わり、人々は後片付けに明け暮れていた。
それと同時に、港町ではちょっとした騒ぎがあった。遠く水平線の向こうで、何かが爆発するような音が、何度もしたそうだ。人々がその方向を見ると、白い煙がいくつも上がり、何かが落ちていくのが見えたのだとか。
その話を、オーランドは翌日、城でデリックから聞いた。
「最近、妙な事が立て続けに起きますな、オーランド様、お気をつけ下さい」
「……俺が気を付けても、どうしようもないな」
「は?」
「いや、何でもない」
その煙の一筋一筋が、おそらくひこうき……爆撃機であり、人間の命であり、オーランドが[YES]を選んだ結果なのだろう。
だが、オーランドは後悔していなかった。領民を守るのは領主の務めだ。それがために殺人の罪を被るのだとしても、それは普段、領民たちより格段に良い生活をしていることの、当然の代償だろう。
内陸の街の教会の地下に立ち入ったことを、神父たちはまだ知らないようだ。けれど、神父たちが教会の地下の秘密を知っている人間だとしたら、おそらくオーランドが地下をいじったことに気づくだろうというのが、その夜、オーランドの胸元の白い蛾に宿る声が語るところだった。
『あのモニタの作りね、誰かが操作することが前提で作ってあったと思うの。教会の下にあって、教会の人がそこに入るなって言ってたなら、多分教会の人が操作する前提で。でもあの教会の神父さんは怪我してて動けなかったんでしょう、だから……』
「教会の人間が、うるさくなるだろうな。一体、教会は何を隠してるんだ」
『さあ……。教会の屋根が全部太陽光パネルなら、発電してるのは間違いないと思うんだけど。しかも爆撃機を狙って撃ち落としたなら、もっと高度なシステムが働いてると思うし……旧世界の中でも指折りの技術が残っててもおかしくないと思うわ。なんで旧世界時代が嫌いなのかしら』
「…………」
……本当に、教会は何を隠しているのだろうか。
『でも、この国ができてから何百年か経つんでしょう、何百年も持つモニタに太陽光パネルなんて聞いたこともないわ、私が知ってるより、もっと高度な技術が使われてるかも』
「俺はそれより、あの爆撃機とやらがまた来ないかのほうが心配だ」
この国の海の外に、人間が住む他所の国が存在するとして、この国に攻め込むのだとしたら、あれで終わりにするだろうか?
『……他所の国の事情はわからない。でも、爆撃機に一方的にやられた国は本当に悲惨なことになるわよ』
その声には、妙に実感がこもっていた。
「お前は何で、そんなことを知っているんだ」
『私の住んでた国ね、ああいう爆撃機で空襲されたことあるのよ。私が生まれるずっとずっと前のことだけど。もっと燃えやすい爆弾を何発も落とされて、あちこちが火の海になって、何万人も焼け死んで……火の雨が降ったみたいだったって聞くわ』
「何万人もか……」
自分の領地に火の雨が降る風景を想像して、オーランドはひどく暗い気持ちになった。
それだけは避けないといけないだろう、たとえ自分が何人殺すことになっても。
「おい、お前」
『なあに?』
「光る石ほど危険でなくてもかまわない、旧世界の技術で、何か役に立ちそうなものを見つけたら、すぐ俺に言え」
『お昼にしゃべってもいいの?』
「かまわん、お前の知識は役に立つ。お前は……」
お前はずいぶんものを知っているようだから、と言いかけて、オーランドは口をつぐんだ。そう言えば、こいつの名前はなんというのだろうか。いつまでもお前と呼びかけるのは、少し不便だ。
「お前、名前は何ていうんだ」
『あら、やっと聞いてくれた。河原せりかって言うの』
白い蛾に宿る声は、妙に母音過多で言いにくい名前を口にした。
「カワハラ……何?」
『言いにくい? じゃあカーラって呼んで。それでいいわ』
「カーラ、か」
旧世界時代の人間も、名前は今とそれほど変わらないようだ。彼女の名前を初めて聞いたその日、オーランドはそう思った。
その名前が、後に自分にとってどれほど大事になるかということを、想像もしないまま。
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