曼珠沙華
鯊太郎
第1話 手取川攻防
その夜、柴田勝家を総大将とする織田軍一万八千は、加賀国は
目指すは能登
一群をなす騎馬の群れ。馬上では鎧の擦れ合う微かな音以外、口を開く者もいない。
真上にまで上った月が、川の流れの中にいくつもその半円の姿をかたち作っている。時よりその弱々しい光が、馬の吐く息を白い霞のようにぼんやりと映し出していた。
なおも大きな黒いその固まりは、整然と手取川の流れに逆らうよう、ゆっくりと歩みを進めていた。
話はこれより少し前に
上杉謙信率いる二万余の越後勢は、
一方そのころ、能登国では七尾城主
続連はこの上杉勢の侵攻に対して
当時の七尾城は縄張りも広く
事実、
ところが、籠城戦が長引く中、城内では謎の
それだけではない。さらに追い打ちをかけるかのように、幼君春王丸も籠城中に
この
謙信の
これに組みした武将には、
しかし援軍はすぐに能登へと来ることはなかった。
七尾城の長続連も風前の
続連は来る日も来る日も、織田からの援兵を
城内において、続連とは犬猿の仲でもあった親上杉派の武将、
これにより続連をはじめとする長一族はことごとく討ち取られ、まもなく、能登七尾城も上杉謙信率いる越後勢の手に落ちることとなった。
そしてそれは、織田信長によって差し向けられた援軍が、加賀より到着するほんの少し前のことでもあった。
よってこの時も、柴田勝家率いる織田の軍勢は、能登七尾城はおろか、わずか一里半先の加賀松任城までもが、すでに謙信の手に落ちていたことを知る
「おい
「黙れ
十一月の手取川の水は、この若い兵達の脚に
それに明かりといっても、頭上高くにどんよりと張り付く半月だけである。もしそれが雲に隠れようものならば、いっそう兵達の心は沈黙をする。
「お、おい一平、わしを置いていかないでくれ・・・」
「まったく世話の焼ける奴だな、これに掴まれ。早くしろ三郎太」
相馬一平は、自分の槍の柄を差し出す。
望月三郎太はその柄を掴むと、転げるようにしながら川を渡った。
川岸に上がり、その流れの音から解放されると、どこからか遠くの方より
彼ら若い兵の誰もが、この声のする方を瞬きもせずに見ている。
それはこの暗闇の中、鳴き声の主を捜そうとでもいうのか、それとも得体の知れない恐怖に身動きすることを忘れてしまったのか、誰一人として
梟はそんな彼らのことを知ってか知らずか、またホーホーとのどを鳴らした。
それから半時ほどして、彼らは手取川の東、
陣と言っても簡素なものである。武将達の陣屋にこそ
その中にいくつか
兵達は皆、暖を取るためか、それとも濡れた
前田利家の家臣、
奥村永福は前田家
そんな永福は、黒塗りの
「そちの名は何と申す」
「は、はい、
三郎太は頭を垂れたまま答える。
「三郎太、草鞋が濡れていては風邪をひくぞ、すぐに新しい物と替えよ」
「は、はい、有り難うございます・・・」
三郎太は
永福は、三郎太の隣で槍を片手に片膝を立て、頭を下げるひとりの若い兵に目を下ろした。
「ほう、おぬしは震えておらんようだが、名は何と申す」
「
「一平か、良い名じゃ。戦は何度目じゃ」
「こたびが初めてでございます」
相馬一平は
「では一平、こたびは生きよ。最後まで生き残ることを考えて戦うのじゃ」
そう言って笑顔を見せる永福の顔には、幾つもの戦をかいくぐってきた
「よいか、殿のために死ぬるも戦、じゃが戦って生きることもこれまた戦じゃ」
永福は彼の肩をひとつ叩く。
一平は永福の後ろ姿に、もう一度深く頭を垂れた。
織田軍が水島の地で戦支度をしてから
もちろん知らせは、松任城にいる上杉謙信のことである。
織田軍による七尾城への
今、その上杉軍二万余が、まさに彼らの目と鼻の先に位置する織田軍に襲いかかろうとしているのだ。
知らせを受けた柴田勝家は
それでも彼はすぐさま諸将を集めると、水島からの撤退を口にした。
「今すぐここを立ち、北之庄に戻る」
勝家の
彼もまた戦に
勝家は
一方利家の判断も速かった。彼は奥村永福の槍隊に、虎の子の鉄砲隊を授けて最後尾にすると、自らも川の縁にと陣を構えた。
こうして、織田軍一万五千余は、数時前に渡った手取川を、また
「よいか皆の者、
地が震えるような声で、永福は
それから、松任城の方角に向け鉄砲隊を前面に押し出すと、一平達の槍隊はその後ろにと配置された。
戦が始まれば、まず敵の第一陣を前面の鉄砲隊が射撃するのである。しかしそれもおそらくは最初の一回だけであろう。その後押し寄せる敵に対しては、槍隊が突撃をかけることとなる。
そうして、彼らが少しでも時間を稼いでいる間に、一人でも多くの味方を手取川の対岸へと渡らせれば良いのである。
しかし、殿となった彼らを救うものはなく、まさに捨て駒となっての戦いというわけだ。
気が付くと、先程までの
馬だけではない。それは真っ黒な暗闇の中、無数の人間の息づかいと地面を踏みしめる音が反響しているのだ。
一平は極限にまで研ぎ澄まされていく自分の五感を感じていた。
隣では望月三郎太も両手で槍を握りしめては、眼前に広がる大きな闇のうごめきに目を凝らしている。
風向きが変わったのだろうか、鉄砲隊の方から伝わる硝煙の臭いを感じたときだった。得も知れぬうごめきの中から人の声が、そう無数の人の声が聞こえてきた。
それは、奇声や
一平はさらに耳を澄ます。
「
暗闇からは確かにそう聞こえて来る。そして、それは少しずつ数を増してははっきり聞こえるようになってきた。
「いっ、一平、念仏が聞こえるぞ。一向一揆が攻めて来たんじゃ」
三郎太が持つ槍の穂先ががくがくと音を立てて震え始める。
「静かにしろ三郎太。よいか、合図と供に切り込むぞ」
一平は槍の刃先を絞り込むようにと下げた。
その時、暗がりの中で一向衆徒らが持つ
いつの間にか、彼らはその顔が一平達にもはっきりと分かるところまで近付いて来ていたのである。
彼らが手にする無数の松明がそれらを赤々と映し出し、いっそう彼らの動きを異様なものへと感じさせる。
念仏に調子を付けるかのように
「ダッダッーン」
異様な
すると、目の前に迫った最初の一列が、まるで泥の人形のようにその場へと崩れ落ちる。その死体の上を、次の一列が何もなかったかのように再び渡り歩いてくるのだ。
なおも念仏の声は大きくなる。
一平達の前を、射撃を終えた兵達が足早に後退していく。次の射撃の準備をするためだ。
馬上の奥村永福は右手を大きく構えると、槍隊に突撃の合図を送った。
一平も三郎太も大声をあげながら、津波のように押し寄せる一向衆の人間の山へと向かって突進をする。
一方手取川の方でも、半分ほどの織田勢が川に入り始めたとき戦は始まった。
松任城から出撃した上杉軍の
それに
彼らは
たちまち川は、傷を負った織田方の兵で
彼らは城から出てきた一万余の上杉軍に加え、永福勢のそれと同様に、謙信に従った加賀の一向衆徒からも攻撃を受けることとなった。
すなわち手取川河岸は、鉄砲の音と
その中に、先程の相馬一平と望月三郎太の姿もあった。
一平達は目の前に広がっていた一向一揆の津波の中を駆け抜けると、別の一向衆徒が群がる川上へと歩を進めた。もちろん望月三郎太も一緒である。
「三郎太、このまま山に向かうぞ」
「一平、わしはもうダメじゃ。あやつらは人間ではないわ。斬っても斬っても後から湧いてくるのじゃ」
三郎太は槍を放ると、返り血で真っ赤に染まった自分の
「三郎太、生きるのじゃ。生きておっかあの元へと帰るのじゃ」
一平はその槍を拾うと、三郎太へと手渡す。
とその時、一向衆徒の一群が二人を囲んだ。彼らは手に手に竹槍や鎌を持っては、異様な程の眼光で迫ってくる。
「三郎太、右じゃ」
言うが早いか、一平は槍で最初の二人ほどを
三郎太も最後の力を振り絞っては、
正面の男を突き刺すと三郎太は大声をあげた。
「一平―っ、槍が、槍が抜けん」
男の腹に深く刺さった槍は、彼の意に反してその男と供に地面へと落ちた。
三郎太は代わりに小太刀に手をかける。しかし、彼はそのまま、ついに小太刀を抜くことはなかった。後ろからのしかかってきた一向衆徒に鎌で腕を切られたのである。
「一平―っ、助けてくれーっ」
三郎太はその場に転がるようにうずくまった。
「三郎太―っ、こっちじゃ、走れ、走るのじゃーっ」
近くで相馬一平の声が聞こえる。
三郎太は再び立ち上がって、一歩二歩と走り始めた。その三郎太めがけて、一向衆徒が群がり始める。
ついに三郎太は走ることをやめた。そして、へたへたとそこに座り込んでしまった。
「三郎太、走るのじゃ。走って生きるのじゃーっ」
一平は、一向衆徒達が繰り出す竹槍をなぎ払うと、三郎太の元へと戻ろうとする。しかし、彼の目の前からは、すでに三郎太の姿は掻き消されてしまっていた。
「三郎太―っ!」
後ろを振り返ると、殿の奥村隊もすでに上杉勢の旗の中に飲み込まれようとしている。
上杉軍によるものだろうか、手取川の対岸に向けて幾百もの
その火矢の光の下には、今はもう動くことをやめた無数の
一平は、なおも山に向かって走った。
一向衆徒の最後の一群の中を駆け抜けようとしたとき、彼は上杉方の弓隊に出くわした。
弓隊は
冷たい夜の空気を、見えない矢の音だけが切り裂いていく。
それはあたかも、細い若竹で空間を思い切り振るような音にも似ていた。その乾いた音の後、彼に襲いかかる一向衆徒達は理由も無くばたばたと倒れていく。
「馬鹿な、供に仲間ではないのか」
一平は声にして叫びたかったが、そうする時間も気力も、今の彼には残されていなかった。
たちまち一平の周りには、幾人もの一向衆徒が作った死体の山ができあがったのである。
そんな中、さらに一平は地面を這うように山へと向かって脚を動かした。途中、笠も捨て槍も捨てた。ただ暗闇の中を走り続けたのである。
「生きるのじゃ、生きるのじゃ・・・」
一平は、何度も口に出して呟いた。
振り向く彼の目には、腰に刺さった一本の矢が映る。
それでも一平は山を登った。
岩に寄りかかり木の根を掴む。手のひらで泥を握りしめては、それでもただひたすら彼は歩くことを続ける。
次第に鬨の声も
一平は、大きな杉の木の切り株が、朽ち果ててむき出しになっているところを見つけた。
崩れた切り株の横には、かつてその木がしっかりと地面に根付いていたのであろうか、根の抜けたところに大きな穴がぽっかりと空いているのが見える。
次第に薄れていく意識の中で、彼はその穴に身を
まるで先程までのことが嘘であったかのように、物音一つ聞こえない静寂が辺りを包み込んでいる。
穴から見上げる切り株越しに、無数の星が
ほどなく、一平は深い眠りについた・・・
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