45 夜の空へ その1
戻って来たチリと共に、湖守が乃宇里亜を伴い早足で現れる。エプロンを外しただけのワイシャツ姿で、入室を禁じられている勝利の前を建物の主が素通りした。
全員が有事を想定しているだけあって、着替えた神は一人もいない。三人はチリを先頭にした一列となって、静かな混乱の渦中にある部屋の奥へと踏み入った。
「湖守さん」
虫の少年に兄弟がいる事をライムが伝え、緊急事態として指示を仰ぐ。
「その人間を保護しよう」リーダーの決断は早かった。しかし、想定外の状況下で彼なりに思うところがあるのか、声音が一段下がる。「失念していたよ。通常、泣き食い虫は二~三個の卵を一度に産む。兄弟がいる可能性は、もっと早くに僕が気づくべきだった」
「僕」を強調するリーダーに、「いえ」、「そんな…」など、ライム達はそれぞれに言葉を濁らせた。
「よし」仕切り直しをする湖守の声が、元々の高さと張りを取り戻す。「案内役は、その子だ。シフトは、先程決めたままでいいだろう。ミカギに、その子とバスケットを任せる。戦闘の要はスールゥー。ダブルワークは、勝利君の変化を回避すべく後方で。勝利君、不二で頼むよ」
「はい」
全員が、同時に声を上げた。
ミカギが鍛冶神製のバスケットを用意し、ツェルバの前に置く。
「行きたい所があるんだろ? だったら僕が連れて行ってあげる」
黒の縫修師の言葉に促され、虫の少年は意外な程素直に小判型の手提げに収まった。多少の冷静さを取り戻し、最早自力での飛行が叶わない事を思い出したのかもしれない。
頭と腕を出しただけの姿で、少年がツェルバを見上げる。
ミカギが黄金の長髪を束ね、鍔の大きな帽子を被った。それなりに軽そうにバスケットを持ち上げると、黒い虹彩を持つ少年が籠部分の高さに合わせ跪く。
「方向はわかる?」
虫の少年が頷くと、迷う事なく部屋右手奥の角、西南西の方向を指し示した。
「おいおい…」勝利の前で入り口を塞ぐダブルワークが、思わず顔をしかめる。「そっちは、新小岩方向だろ」
馴染みの地名を聞いた途端、勝利の唇がからからに乾いた。「まさか」と「やっぱり」が交錯し、暖房の効いた室内にいながらも手足の先端が冷えて固まるのを止められない。
「し…新小岩は、今日あの白スーツの男と遭遇した場所です。それに、石塚店長のコンビニもあるから……」
「君恵さんか!!」ライムと湖守が同じ名を唱え、事態の半分に納得する。
その可能性が最も高い、と勝利も考えはした。
しかし、疑問が残る。
君恵と虫の少年は、日が高いうちに一度対面を終えている。号泣する少年の様子は今の彼と比べれば別人に近く、自らの悲しみを解き放つその姿で君恵の憐憫さえ刺激していた。
もし、君恵が激しく暴れる少年を目撃していたら。彼女が和也似の彼を哀れみ頬を触ってやるなど、万に一つもあり得なかったろう。
ダブルワークが標的を勤め人と考えた理由は、そこにある。
「だけど、何で今なの?」
その点をミカギが指摘するも、まず新小岩へ、という切羽詰まった空気は支配的なままだった。
「何で、か…。その答えは、おそらくあの白スーツが握ってる」
窓を開け放ちダブルワークがバルコニーに出ると、スールゥー、チリと縫修機ばかりが続く。
「みんな、気をつけて。敵に勝つ事を目的にしなくていいんだ。それを忘れないように」
「わかってます」
見送る湖守に、ダブルワークだけが声で答えた。
緑、赤の縫修機が、一瞬にして姿を消す。
スールゥーの姿も冬の夜に紛れれば、次にいなくなるのは、緑と黒の縫修師二人だ。
自動転送によってライムとツェルバが相方の体内に収容された頃、「じゃ、私達もいくわよ」とミカギがバスケットを持ち直し、バルコニーの方へと歩き始めた。
途中、黒い靄の色を濃くした虫の少年が、ヒュッと強く息を吸う。
ミカギは、一度籠を床に置くと、ライム達が行ったように頬を何度も撫でてやった。
少年が目を閉じ、バスケットの縁に両手をかけた格好のまま満足そうに顔を上げる。ゆっくりと前後する翅は、少年の表情並に饒舌だ。
大きな窓外では、巨大な赤い右手が四指を曲げミカギの合流を待っている。
勝利が、両手で美女を窓へと促した。
「ミカギさんがご機嫌を取りながら案内させるしかないみたいですね」
「もう…」再び少年の頬を軽く押し、不自然に高い声で赤の縫修師が湖守を顧みる。「秘密を知られたとか、そういう事は関係なしに。私、この子を返してやるつもりなんて全然ないんですけど」
「大丈夫。その点については、僕も同意見だよ」
「だったら、やるだけやってきます」
決意と共に、赤眼の女性がチリの右手に乗った。
当然、次に現れるのは、緑に縁どられた白いヴァイエルの右手だ。
勝利は、建物の主に一礼する。
「では、俺も行ってきます。みんなで、ここに帰って来る為に!!」
-- 「46 夜の空へ その2」 に続く --
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