第五話 桜花の問題

危機-1

 流風と手を組むにあたって、ある条件があった。それは期限。十一ヶ月間が過ぎたら、逃げるのを止め、ある街に行くこと。

 雨が強い。駅の駐車場で盗んだ車は四人乗ったらすし詰めだった。動く度にがたがたいうワイパー、ごごう、かかりの悪いエアコンの唸り、微かなラジオの声、ノイズ。助手席の流風がたれる文句と、後部座席でびりびり、ぽりぽりしゃくしゃくと菓子を食べ続ける子ども達の立てる音。それらの中に時折混ざる、トランクを叩く音。信号待ちで止まるとがたがた揺れた。

 メイズはうんざりしている。煙草が何箱あっても足りない。灰皿には吸い殻をねじ込む隙間もなくなっていた。

「・・・・・・車を変えよう」

「賛成。寄せて」

 メイズには苦しい発言だった。速度違反でパトカーに止められ、登録証との違いを説明できず――誤魔化しきれずに、警官を二人殴って縛り上げトランクに入れて運ぶ羽目になった。流風の言うように、彼ならうまくやっただろう。彼の言うように、早く車を変えていればこんなことにはならなかったかもしれない。いや、その点に関してはまだ納得がいっていないのだが、これ以上言い合ってもなににもならないことは互いに分かった。今、再びパトカーに止められたらどうしようもない。早く車を変えなければならなかった。

 別に負けたわけではないのだが、敗北感がある。

 道の脇に寄せると、流風と環が勝手知ったる様子で車を降りた。父親がボンネットを開け、娘がその横で車道に両手を振る。何か言っているが雨音で聞こえない。トランクが揺れる。

 車が止まった。小走りで駆け寄ってきた男と流風は二言三言言葉を交わしてボンネットの陰に消え、数秒と経たないうちに流風が先ほどの男を引き摺って道の外に消えた。周りは平野で、道から外れると整備されずに背の高い草が茂っている。

 環が後部座席のドアを開けた。リュックを掴み、

「早く」

 運転席のドアが開いたままの車へ走っていく。口を挟む暇もない。

「桜花、先に行っていてくれ」

 聞くと、桜花は車を飛び出して環を追った。すぐに追いついたようだ。少女たちは持ち主を失った車の周りをぐるりと一周して、後部座席に乗り込む。メイズも後に続いた。警官の対処をするつもりだったが、それよりも少女たちの安全のほうが気がかりだ。

 キーは刺さったままだ。運転席まわりのものを確認して――煙草はない――いると、流風が窓を叩いた。

「この先の売店で落ち合おう。警官をどこかに置いてくる」

 雨は激しさを増して、声を張り上げなければ聞こえない。

「殺すな」

 流風は頷いていたが、聞こえていたとは思えなかった。



***

 実はずっとトイレに行きたかった。でも車はどんどん店のない方へ向かっていくから言い出せなくて困っていたところだったのだ。だから、売店に寄ることになったのはちょうどよかった。

「トイレに行ってきます」

 環は、助手席の座席を抱えてメイズの顔を覗き込んだ。地図を見て考え込んでいたみたいだったから。

「ああ、そうか。行ってくるといい。桜花も、いや私も行こう」

 きっと煙草を買うんだ。子どもだけで不安なのかもしれない。

 三人で車を降りて、売店に入った。店員はやる気がなくて、テレビに顔を向けたままこっちを見ない。メイズはトイレの近くまで付いてきたけど、桜花の手を引いてドアを開けたらもう付いてこなかった。父と違ってなんだか新鮮だ。

 トイレは全体的に黒い。臭かった。つま先立ちになって、なるべく黒いところを踏まないようにして個室に入る。桜花はきょとんとして見ていたけど、入ってすぐの所で立ち止まったままだった。

 便器もすごく汚くて、壁も落書きでびっしり埋まっている。トイレットペーパーを敷いて、直接触らなくていいように座った。

 個室のドアの、下の隙間に影がかかった。トイレは電灯が点いていたけどなんだか暗かった。だから影も薄くて、ぼんやりしている。細いのが二つ。足だ。あれ、トイレのドアは結構重かったけど、開けた音はしたっけ、トイレには他に人がいたようには見えなかったような。影は現れたり消えたりして――きっといったりきたりしている――止まった。このドアの向こうで。

 環は流さずにズボンをはいた。今日は少年風の格好だ。足が下から見えないように、便器の上で膝を抱える。桜花、桜花は。桜花はどうしたんだろう。なんの音もしない。

 コンコン。

 心臓がどきどき言っている。聞こえてしまう、向こう側に聞こえてしまう。息を飲み込んだ。口でしていた呼吸が、相手に聞こえないように。

「ね、いるんでしょう? 嵐ちゃん」

 この声。この声は。あの女だ。榊 麻耶。なんでこんなところに。なんで。桜花は?

「開けて。お母さんのところに連れて行ってあげる」

 そんなのは嘘だ。母さんだってこの女から逃げている。たぶん、まだ見つかっていないはずだ。

「嵐ちゃん。早くしないと、このドアを無理矢理開けることになるよ。それでもいい?」

 嵐は、環のもうひとつの名前だ。生まれる前から、母さんと父さんが決めていたほうの名前。

「嵐ちゃん」

「呼ばないで」

 呼ばないで。それは、あんたが呼んでいい名前じゃない。この、見境のない女が、べたべたと触っていいものじゃない。

「やっぱりそこにいたのね。じゃあ、環ちゃん。ここを開けて?」

 榊 麻耶の猫なで声がどす黒く、低くなる。あとどれくらい待ったら父さんが来てくれるだろう。あとどれぐらいならここでこうしていられるだろう。

 がん! ドアが震えた。ちゃちな鍵が、金具ががたがたいって、何度も震えてぽたり、落ちた。斜めに開いたドアから腕が伸びてくる。榊 麻耶の手だ。後ずさりするけど足を掴まれて、床に落とされる。頭を打って痛くて、ちかちか、くらくらする。

「やっと見つけた。大きくなったわね」

 じたばたする腕を掴まれて無理矢理立たされた。榊 麻耶の肩越しに、眼を見開いて記憶の中と同じ場所に立ちつくす桜花の顔が見えた。その間、桜花と榊 麻耶の間に、ポニーテールの女がいる。あおい髪をポニーテールにした女。

 環には分かった。逃げられない。

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