懺悔

 小さい綾女を岸に引きずりあげると、隼人はその場にへたりこんだ。もう動く力はどこにも残っていなかったが、彼女が動く気配を感じてとっさに抱きしめた。


「死んじゃ……だめだ」


 そうつぶやくと、綾女の肩が震え始めた。


「なんでよう、うちはお母さんに会いたいのに」


 そう言って、ぼろぼろと大粒の涙を落とし始める。こんなに泣いている綾女を見るのはいつぶりだろう、と脳が勝手に記憶を探り始める。

 最後に綾女が泣いているのを見たのは、東京に発った春だった。隼人の母と一緒になってためらいなく涙を流していた。その後、中絶をし、繰り返し泣いたはずの顔を俺は知らない――


「綾女……ごめんなぁ」


 腕に力をこめながらそうつぶやくと、小さい綾女は目を丸くした。


「俺……いっぱい助けてもらったのに、傷つけてばっかでごめんなぁ。俺のことずっと恨んでていいから、死ぬなんて考えるなよ……」


 胸の中に抱えているのが小さい綾女だとわかっていながらも、言葉は止まらなかった。それはこの十六年間ずっと言いたかったこと――


「お兄ちゃん……何言うてんの?」


 娘の真夕と同じ声でそうつぶやく。この小さな体に秘められた苦しみに、いったいどれだけ気づいてやれたのだろう。ずっとそばにいて、いったい何をしてやれたのだろう――


 胸の内側からあふれ出しそうになる涙をこらえていると、土手の下にいる人物と視線がかち合った。小さい隼人たちの安否を気遣って誰か探しに来たのだろうか、と考えていると、その人物が闇の中から姿をあらわにした。


「うちのこと助けたん……やっぱり隼人やったんやね」


 そう言ったのは、大人の綾女だった。彼女のアパートでノートを奪い合ってもみ合った、あの綾女が目の前に立っていた。


「おまえの中に……俺の記憶があるのか」


 目を見開いたままそう言うと、腕の中にいた小さな綾女が顔を上げた。呆然としている隼人と大人の綾女を何度も見比べて不思議そうにしている。


「隼人の、というよりは、死のうとして誰かに助けられたのを覚えてる、ってこと。うちは『隼人の親戚のお兄ちゃんに助けられた』って記憶してたけど、まさか隼人やったとはね」


 そう言って綾女は肩を落とす。この時代に飛ぶ前の緊迫した様子はすっかりなくなって、闇の中に立ち尽くしている。


「おまえも……死のうとしたのか」


 一瞬、小さい綾女に視線を落として言った。すると彼女もつられたように、幼い自分の姿に視線を向ける。


「せや……生きてても何もええことないんやもん。うちのせいで隼人が死にかけるし、どうしようもないやん? もう死んでええかなって思ったのに、結局隼人が助けてもうたんや」

「俺のこと……恨んでるか?」


 ずっと聞きたくて聞けなかったことを、隼人は口にした。心臓が握りつぶされたように苦しくなるが、綾女は大きく息をついて首をふった。


「……もう恨んではないよ。ただ……あの子が生きてたら、また違う人生やったかなって、思うことはある……」


 最後は涙声になって綾女はうつむいた。隼人はたまらくなって小さな綾女から体を離し、大人の綾女に歩みよる。


「綾女……本当にごめんな。苦しめてばっかりで、本当にごめん。俺もう逃げないから……俺にできること……全部償いたいから……」


 そう言って腕をつかんだ。抱きしめていいものか、まだためらいがあった。彼女が自分を拒絶しているなら、そんな権利はないと、強く言い聞かせた。


「……じゃあ水子供養、一緒に行ってくれる? ずっとおばさんと行ってたけど、今年はうちひとりやから……」

「……必ず行くよ」

「でも東京には戻るやろ……?」

「命日の日は帰ってくるよ」

「ほんまに? 約束?」

「うん、約束」


 そう言って差し出された小指を、自分の小指でからめとった。それは子供の頃から何度も交わした約束の合図だった。すると綾女の指が震え始めた。震えは全身を侵し始め、綾女は額を隼人の胸によせた。泣いてしゃくりあげる彼女の肩をさすった。泥まみれで汚れているのにもかかわらず、彼女は顔を押しつけた。


 胸がじわりと温かくなって、隼人はそっと腕を回した。すると綾女がしがみついてきた。大粒の涙をこぼす彼女の顔は、幼い頃と同じだった。子供のように泣き声を上げ、十六年分のしがらみを洗い流すように、彼女は泣き続けた。


 あの子が生きてたら――その言葉が耳の奥で響き続ける。もし父が病にならなければ、もし叔父が死ななければ、もし母が生きていたら――考えても仕方のないことだとわかっていても、心が弱ったとき、埒もない空想が夜空を流れる雲のように去来する。隼人は黙ってその雲が過ぎ去るのを見つめる。


 小さい綾女に見守られながら、隼人はただ綾女のやわらかな背中をさすり続けた。




 土手の上から、小さい隼人と綾女を探す声が聞こえてきた。町内の隣人たち総出で探しているのか、男たちの野太い声が徐々に近づいてくる。


「……うちがおったらややこしなるし、先に戻るわ」


 そう言って綾女が体を離した。真っ赤に泣きはらした目をしていたが、澄んだ夜空の色が瞳に映りこんで見えた。


「……もう消えたり、しないよな?」

「せえへんて。心配症やなあ。隼人は残って、事情を説明したりや」


 さっぱりとそう言うと、橋にむかって歩き出した。一抹の不安が残るものの、泥まみれになった小さい隼人と綾女だけを残しておくわけにもいかない。


「さあ、最後に一仕事だ」


 そう言って小さい綾女を見下ろすと、彼女はこくりとうなずいた。今の彼女が何をどこまで理解しているのかわからなかったが、もう過去に戻ってくることもないだろう、と隼人は思った。


 土手の上にむかって、隼人は声を上げる。それに続いて小さい綾女も叫ぶ。すると数人の男たちが隼人の存在に気づいて、土手を駆け下りてきた。


 全身びしょ濡れになって眠ったままの隼人と、泥だらけで裸足の綾女と、さらに全身傷だらけの成人の男を見て、彼らはすぐに状況を察したらしい。綾女は怒られるのではないかと身を縮めていたが、近所に住む女性の一人が泣きながら彼女にしがみついた。別の男が小さい隼人を背負い、土手の階段を登り始める。


 彼らのあとに続きながら、もう元の時代に戻ってもいいだろうと胸をなでおろしていると、隼人の母親が走ってきた。顔面蒼白で小さい隼人の顔をのぞきこみ、瞳から涙をあふれさせる。


「ほんまにもう、どうお礼を言うてええか……」


 ぐしゃぐしゃに泣き崩れた彼女の対応に困っていると、うしろから車いすに乗った父が姿をみせた。

 にこりと笑った彼は、死の際にいるにもかかわらず、父親の威厳に満ち溢れていた。けれどそれはずっと恐れていたものではなく、息子への慈愛にあふれた笑顔をしていた。


「君が助けてくれたんやな。ありがとう」


 父が手を伸ばしたので、車いすに乗っている彼に合わせるように隼人は身をかがめた。

 彼の手をぐっと握った途端、全身に張りつめていたものがふっと消えた気がして、隼人は糸の切れた人形のように彼にもたれかかった。


「無事助けられて……ホッとしました」


 何があって誰を助けたのか、隼人は何も言わなかったが、父は全てをくみ取るように肩をさすってくれた。痩せて薄くなった手のひらには、まだ父の命の温かさがあった。


「隼人……ほんまにええ男になったなあ……」


 そっと耳打ちするように、父は言った。目の前には、尊敬していた父の笑顔があった。ずっと彼のようになりたかった、彼の期待に応えたかった――


 父が死んだあの日から凍結していた感情が、見る間に溶けだしていく。どんなにつらいことがあっても絶対に泣いてはいけないと何度も言い聞かせたあの日々が、霧のように夜空に散っていく。


 隼人は父のやせ細った足に顔を伏せた。一度溶けだした涙は、どうやっても止まってくれそうになかった。

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