広大

 目を覚ますと、実家の天井が視界にうつった。どうやら布団に横たわっているようだ。頭上にある真新しい蛍光灯を見ながら、綾女が掃除したのかなと考える。


 手のひらを目の前にかざしてみる。感覚は鈍いが何も変わりはない。どうも和室で寝て、おかしな夢を見ていたらしい。そう思って体を起こすと、周囲には何も物が置かれていなかった。あれほど積み上がっていたガラクタはひとつ残らず姿を消し、だだっ広い六畳の和室に隼人が寝る布団だけがひかれている。


 陽の光のせいか、黄ばんでいたふすまが白く見える。ささくれ立っていた畳もまだ青さを残している。物がなくなると全てが見違えるようだ。いつの間に綾女が来て片づけたのだろう、と考えていると、ふすまのむこうから例の少年がひょっこり顔をのぞかせた。


「あっ起きてる。お母ちゃーん、目ぇ覚ましたみたいー」


 隼人の顔を見るなり、そう叫んでどこかへ走って行った。まだ夢の続きか、と痛む頭を抱えていると、今度は隼人と同じ年頃の女性が姿を見せた。


「土手で親戚の人が倒れたて息子が言うもんやから、びっくりしましたよ」


 和室に入ってきたのは、隼人の母、結子だった。心臓は収縮したまま動きを止める。

 彼女は豊かな黒髪を首の付け根でまとめ、花柄のエプロンをしている。記憶にある若い頃の母は、いつもこのエプロンを身に着けていた。

 指にはめられた小さなルビーが入った指輪、忘れようのない手の甲の傷跡――


「どこか痛いところはありませんか? 頭打ってへんかったらええんやけど」


 そう言って濡れた手拭いをさしだしてくる。わずかに触れた母の皮膚の感触が、これは夢ではないと告げている。


 震える手で手拭いを受け取りながら、隼人はふすまの奥に続く部屋をのぞき見た。

 放り投げられた黒いランドセルと、壁に貼られた「あいうえお表」、壁にかけられた黄色い帽子――どうやら自分が小学校一年生の時代に迷い込んでしまったらしい。


 冷たい手拭いで顔を覆いながら、考える。だとすると、まだ彼が家にいるはずだ――


 そう思って顔を上げた瞬間、男性の姿が視界に飛びこんできた。


「具合はどうですか」


 太い声でそう言ったのは、隼人が十歳のときにこの世を去った父、丹羽広大だった。


 自分と同じくらいの中肉中背の男が見下ろしてくる。顎が少し骨ばっていて髭が薄い。年を重ねるごとに「あんたはほんまにお父さんによう似てる」と母が言っていたのがよくわかる。

 まるで鏡で自分を見ているような――けれど引きしまった頬や力強い眼差しから、病床にあってもまだ失われない命の輝きを感じる。


 陽光を浴びるその姿に思わず、親父、と言いかけて、隼人は口をつぐんだ。


「……お世話になってしまって、申し訳ないです」


 かろうじてそう言うと、若き父はカラカラと笑い声を上げた。


「いやいや、隼人が血相変えて戻ってきたから、何事かと思いましたよ。日射病でも起こしたんでしょう。うちでゆっくりしてって下さい」


 真昼間なのにパジャマのズボンをはいた父は、そう言うと踵を返した。歩き方に少しぎこちないところがある。脳腫瘍を抱える父は、この頃から度重なるめまいや吐き気を起こし、倦怠感に加えて平衡感覚がおかしくなっていたはずだ。

 頼りない足取りを見ていると、思わず支えたくなってしまう。


 突然の来訪者なのに、どこの何者なのか聞いてこなかった。素直な母は父に言いくるめられればなんだって信じてしまう。小さな隼人もまた同じだ。

 瓜二つの自分を見て、何か感じるものがあるのだろうか――


 そう考えていると、またしても小さな隼人が顔をのぞかせた。


「おっちゃん、親戚の人てほんまやったんやな。お父ちゃんがそう言うてた」

「こら隼人。まだお若いのにおっちゃんは失礼でしょ」


 そう言って母が小さな手をぴしゃりと叩く。彼は「いてっ」と言いながら手を引っこめて、舌の先を突き出す。そこへ母は口をすぼめてきゅっと睨む。

 そのやりとりに、何かにぎりぎりと縛られていた体がふっと緩んだ気がした。


 記憶の底にこびりついている母の手の甲の傷跡――あれは生涯消えることなく、母の人生と共に歩んできた人生の傷跡だ。あれはたしか――


 怪我をしたきっかけを思い出そうとしたが、ふっつりと記憶の糸が切れた。

 知らないのではなく、確かにその現場が目に焼きついているのに、そこに誰がいて何をしていたのか思い出せない。

 こめかみのあたりに鈍い痛みを感じて、隼人は頭を抱えた。顔に皺のない母が心配そうにのぞきこんでくる。


「やっぱりお医者を呼んだ方がええんやろうか」


 父が世話になっていた主治医の名前をつぶやきながら部屋から出ようとしたので、隼人はあわてて手を引いた。


「お気遣いなく。そろそろおいとまさせていただきますから」

「そうですか? 大事な体のことやし、遠慮せんといてくださいよ」


 母はゆっくり手を引くと、立ち上がろうとした隼人の肩を押して「まだいけません」と言った。それは母が隼人を諌めるときによく使う言葉だった。そう言われて素直に従う子供ではなかったが、今ならこの言葉にどれほどの愛情が注がれていたのかわかる気がする。


「隼人、スイカ運んでくれる?」


 母がそう言いながら立ち上がると、彼は「やったー」と飛び跳ねながら部屋から出て行った。ふすまのむこうには彼の部屋があり、右に曲がれば居間と小さな台所が続いている。

 何度となく行き来したこの道筋を懐かしく思い出しながら、ふとこの部屋は誰が使っているのだろうと考えた。


 ぐるりと見渡した限りでは私物は見当たらない。父は廊下のむこうにある日当たりのいい六畳間を使っている。母はそのすぐ隣の部屋で寝起きしているはずだ。

 ぽっかりと空いた客間などあっただろうか――と首をひねっていると、隼人が真っ赤なスイカを運んできた。


「おっちゃん……ええと、兄ちゃん、東京の人なん?」


 唐突にそう言われて目を丸くしていると、彼はスイカの大皿を畳に置いて言った。


「兄ちゃんのしゃべり方、テレビの人みたいやもん。タイガーイエローの人みたいや」

「タイガーイエロー?」


 何の話かと思って聞き返すと、彼は何やらポーズを取って虎の鳴き真似をした。


「知らんの? スケボーめっちゃうまいんやで。俺もスケボー練習したいのに、お父ちゃんが買うてくれへんねん」


 ああそうだ、熱血漢の彼に憧れてスケートボードが欲しかった。主役のイーグルレッドを選ばなかったのは、あいつが譲らなかったからだ――と、くだらない記憶は芋づる式に思い出される。


「兄ちゃんはスケボーできる?」


 スイカにかぶりつきながら隼人が聞いてくる。真っ赤な汁が顎の下に垂れて、畳の上に落ちる。あーあ、またお母ちゃんに怒られるよ、と思いながら、隼人は首をふった。


「俺も買ってもらえなくて、今でも乗れないんだ」

「大人なんやから、自分で買うたらええのに」


 彼の切り返しの早さに、隼人は苦笑した。はすむかいに住む斉藤という親父など「子供のくせに生意気や」と酒に酔ってはよくぼやいていた。


「はーやとくーん」


 玄関先から女児の声が聞こえる。小さい隼人は口のまわりにスイカの汁をつけたまま部屋を飛び出して行った。手をひかれて入ってきたのは、帽子をかぶった小さい綾女だった。


「お兄ちゃん、もう大丈夫なん?」


 帽子をとってそう聞いてくる。薄い眉を下げて心配そうに目を細めるしぐさは、今も昔も変わらない。トロピカル柄のワンピースは彼女の亡くなった母親が手作りしたもので、生地がすりきれるまで毎日のように着ていたことを思い出す。


「だいちゃんがはよ来いって怒ってるけど、どうすんの?」

「すっかり忘れてた。すぐ行くわ」


 そう言うなり、彼は自室にとびこんで黒い布きれと手製のお面を持ってきた。小さい綾女が何やらこそこそと耳打ちをしているが、不意に飛び出した呼び名に隼人の鼓動が早くなる。


「だいちゃんって……同じ小学校の、桐生大輔くん?」


 ざわつく胸を押さえながらそう言うと、彼はまた疑り深く隼人の目を見つめてきた。


「それもお父ちゃんに聞いたんか」

「ああ……うん、そう。君のお父さんが言ってたから」


 とっさにそう取りつくろうと、また綾女は小さい隼人に耳打ちをした。今度はしきりにうなずいている。その微笑ましいやり取りを眺めていると、彼は顔をよせて言った。


「兄ちゃん、オレらの手伝いしてくれたら、仲間に入れたるけど、どうする?」


 突然の提案に瞳を見開いていると、彼は額がつきそうなくらい顔を近づけてきた。


「世界を救う作戦を練るんや。兄ちゃん、頭よさそうな顔してるから、仲間に入れてもええ」


 幼い頃の自分に言われて思わず吹き出してしまったが、どうやら本気のようだ。


 何よりも今は大輔の存在が気にかかる。いったいどこからが夢なのか判別がつかないが、彼の存在をこの目で確認すれば、ばかばかしい白昼夢として納得できそうな気がした。


「わかった。協力させてもらうよ」

「よっしゃ。ほんなら今から秘密基地に連れてったる。お父ちゃんたちには内緒やで」


 彼は口の前に人差し指を立てると、わざとらしく「しいーっ」と言った。差し出された短い小指に隼人は自分の小指をからめた。小さい綾女とも小指をからめて、指切りの約束をする。彼女の可愛い眉毛にも力が入る。


 皿を持ってキッチンに行こうとすると、彼はポロシャツをぐいと引っぱって無声音を上げた。


「内緒やゆうてるやんか!」

「お礼も言わずに抜け出したら余計に怪しまれるよ。君のお父さんに挨拶をしてくるから、先に迷子の電柱に行ってて」


 腰をかがめてそう言うと、小さい隼人と綾女は目を丸くして顔を見合わせた。


「そんなことまで知ってるんか」


 「迷子の電柱」とは、長い間「この犬探しています」の張り紙が貼られた電柱のことで、学校の行き帰りに見かけるたびに隼人が気にかけていたものだ。

 張り紙が風化してからも「迷子の電柱」と呼ばれて、いつからか待ち合わせの暗号のように使われるようになった。


「もしかして、この辺に住んでたことあるん?」


 鋭い指摘に隼人は視線をそらした。これ以上口を滑らせてはまずいと思い、彼らの背中を押して「大輔くんが待ってるんだろ」とせかした。


 素性を怪しんで目を細めてくる彼らを玄関から追い出したあと、台所に入った。母の姿はなかった。派手な唐草模様のクッションフロアを見下ろしながら、皿を置く。この頃と比べると、母はずいぶん食器類を処分したのだなと気づく。物にあふれていると思っていた実家も、ある程度は母が片づけたあとだったのかもしれない。


 そう考えながら、隼人は南向きの和室に続くふすまをそっと開けた。


 パジャマ姿の父は縁側に座っていた。農作業で鍛えられた体はまだ生気を失っていない。けれど雲間から白金色の陽光がふりそそぐと、その姿は光の中に消え去ってしまう。


「……お世話になりました」


 そう言って頭を下げると、父はふりむいて言った。


「君は今、いくつなんや?」


 意表をつかれて、隼人は思わず自分を指さした。子供の頃は厳しい表情ばかり見せていた父が、にこりと笑ってうなずく。


「三十二になりましたけど……」

「子供はおるんか?」


 何を考えてそんな質問をするのか、憶測すらできない。生唾を飲みこみながら、当たりさわりのないことは正直に答えようと腹をくくった。


「いえ、結婚もまだなんで」

「そうか。こんなええ男をほっとくとは、おまえの時代の女は見る目がないんやなあ」


 朗らかに笑った父の顔を見ながら、隼人は頭の中で言われた言葉を反芻した。


 ――おまえの、時代?


 父が何を言おうとしているのか、考え始めると嫌な汗がこめかみをつたっていった。返す言葉を失っていると、彼は胡坐をかいたままのんびりと笑った。


「君は、俺の息子の隼人やろう?」


 子供時代に見せたことのない穏やかな笑顔で、父は隼人を見つめる。心臓が不規則な脈動を始める。感じたことのない目眩が、脳の奥から揺さぶりをかけてくる。

 握りしめたこぶしの中に汗がたまるのを感じながら、隼人は喉を震わせる。


「あの……俺……」


 用心深い父が家に上げてくれた時点で、正体には気づいていたのかもしれない。けれどそのことを明るみにすべきなのか、隼人の中にはまだ迷いがあった。この時代に存在するはずのない自分のことを暴露すれば、時代の流れがおかしくなってしまうのではないかという危惧が、思考の隅をかすめていく。


 すると父は明るく笑って、手元にあったうちわで顔を仰ぎ始めた。


「死に際におる人間には不思議なもんが見えるて言うやろ。でも君は結子らにも見えとるみたいやし、ご先祖様の類ではないと思たんや。どないしてこの時代に迷い込んだんかは知らんけど、俺の直観は外れてへんと思うで」


 そう言ってにっかりと歯を見せる。今の自分が父と同じ年齢だからか、父子の間にあった越えられない壁は感じられなかった。むしろ、あの堅物の父が同世代の人間にはこんな快活な振る舞いを見せるのだと、驚きを隠せない。


 縁側に手をついて立ち上がろうとした父がよろめいた。思わずかけよって肩を支える。

 近所でいたずらをしては、頬を叩かれた。父の背中が怖かった。しかしこうやって抱えて初めて、巨人だと思っていた父もごく普通の成人男性だとわかる。しかもこの体は病に侵されている――


「俺はもう長ない。憐れんでくれはった仏さんが、人生の際におまえに会わしてくれたんやったら、俺はそれを信じたい。俺の息子は立派な大人になるんやて、安心して死ねる」


 立派な――その言葉が隼人の胸に突き刺さる。俺は親父が望んだ立派な人間にも、自分が理想とした大人にもなれやしなかった――


 苦虫をかみつぶしたような心地でいると、父は隼人を見つめて言った。


「結子が戻ってくる前に、はよう帰りや。うっかり者やけど、けっこう勘は鋭い。おまえの時代に戻った時に、お母ちゃんに追及されたら困るやろ?」


 何気なく返ってきたその言葉に、また隼人は息苦しくなる。


「じつはこの前、亡くなったところで……今、遺品整理の最中なんだ」


 抱えている父の身体から力が抜けていく。


「そうか……あいつももうそんな年になったんやな……この家はどないするつもりなんや?」


 結婚して、相当な苦労をしてこの古い平屋を手に入れたことは、母から聞かされている。隼人は身を縮めて言った。


「まだ決めてないけど、もう住む人間がいないから……」

「……それが時代の流れ、ちゅうもんやな」


 父は遠い目をして布団の上に座った。母の遺品整理をしながら、もし父が亡霊になって現れでもすれば、家の処分について責められるだろうと勝手に考えていた。けれど人の心はわからない。ましてや親のことなど、子供は何もわかっていないのだと改めて気づかされる。


 頭が痛むのか、父は顔をしかめながら手早く薬を飲むと、床に入った。


「隼人がまたいらんこと企んでるみたいやし、ちょっとだけ相手したってくれるか。ほんまは父親の俺が相手したらなあかんのやけど、この体でうろついたら結子に迷惑かけてまうからな」


 彼らの企みにうっかり賛同してしまった、とは言えず、隼人はうなずいて父の体に布団をかけた。別れを告げて、和室を出る。

 父が何度も言った「結子」という優しい響きは、ずっと頭の中でこだまし続けた。

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