暁の魔術師

33


太陰の淡い光が昏黒の闇を静かに照らす中、空には幾つもの星霜が瞬いていた。

鬱蒼とした木々を揺らす夜の風は冴え冴えと冷たく、啜り泣くような音を立てて辺りを吹きすぎてゆく。


その闇の中に一際黒々とした威容の塔がある。


この塔を巡り、事件が起きた。

人の命が、幾つも失われた。

本来無生物である堅牢にして強固なその構造の前には、限りある人の肉体や精神はあまりに卑小で脆弱な存在でしかなかったとでもいうのだろうか。


否。かのバベルの寓話のように、天へと目指す構造物には必然的に天へ近付こうとする人の意志が内在する。しかして天へ近付いた構造物は、人の意志からは既にして離れてしまった存在である。


崩壊の予感を内包する構造物は、何者も抗し難いその硬質にして冷酷な境界でもって硬く冷たく、何もかもを否定するがごとく、関わる人間の全てを拒絶するに違いない。


人の叫びも憎しみも。悦びも痛みも。悲しみを。狂気を。


人の記憶や時間というものが、物質に秘められた時間的経過そのものであると仮定するならば、跳ね返された人の記憶が痛々しいものであればあるほど、悲しみに満ちたものであればあるほど、遡って構造物そのものも堅牢で強固で忌まわしい場所だと見做されてしまうのだろう。


意味なきものに意味を与えるその行為。記憶の抽象化こそ、呪いや祝福の正体なのだから。


虚実を裏返す事こそが人の本質であるならば、現実は悉くが夜の夢から乖離した空虚で重い依り代でもあるだろう。


時には何千年も残るような構造物のように、異形の構造物はまた、いつしか本来の存在意義を失い、人の思いや意志とは全く無関係に人の歴史を刻み、あらゆる記憶をその身に宿していくのかもしれない。


記憶を持った者がたとえ死に絶えても。秘められし記憶が、たとえ後世に残る事はなくとも。


ならば悠久の時を巡る構造物そのものが人の歴史の生き証人であり、人の感情が残滓のように染み付いた呪物こそ過去から現在へ、来し方から未来へと連綿と続く、人の歩む人の歴史そのものの石碑となるのかもしれない。


冷たい風が静謐な夜の時間を破る中。そこに。

漆黒の人影が淡々と続く石の螺旋を登っていた。


剥き出しの石の螺旋を、一段また一段と黒い影は踏みしめていく。その度に乾いた音が周囲の闇に反響した。


螺旋階段の遥か向こう。

最上部の頂きには一際黒き巨大な鐘の姿があった。影は躊躇う事なくそこへと向かっていた。


周囲の闇よりもさらに黒きその人影は、艶々とした鴉の濡れ羽のごとき漆黒の服をその身に纏い、闇の中に乾いた残響音を残し、ついに螺旋の頂上部へと至った。


「待っていたよ」


嗄れて尚、朗々とした声が、いきなり闇に響いた。


「漸く全て終わったようだな」


キィキィと。

細い音が鳴り響いてきた。

奥の暗闇から朗々とした声が迫ってきた。


「この時間…。この場所に最初に訪れるのはやはり君だったか…」


キィキィと。

その影は近づいてきた。


「あの幼かった少年が、よもや人形使いとなって私の前に現れようとはな…」


キィキィと。金属質の掠れた車輪音だった。


「さすがはあの眩惑の天才と呼ばれた来栖征司の忘れ形見だ。侮れないな」


キィキィと。

月光に曝された魔術師が現れた。

魔術師は滑るように黒い影の前にやってきた。


「軽々しくその名を口にするな」


相対する漆黒の影から、ぞっとするほどの冷たい声が発せられた。


「こちらが黙って聞いていれば、ベラベラと…。老い先短い残りの人生はせいぜい大事にした方がいい」


白髪の老紳士は車椅子の車輪を滑らせ、男の周囲を嘲るかのようにゆっくりと巡り始めた。そして立ち尽くす男を挑発するように、細かく肩を揺らせて笑った。


「ふふふっ…憤っているのかね?実の父親を誰よりも憎み、過去を切り捨てるようにして生きてきた君が…。

誰かが殺されるのは悲しいかね?他人の死はそんなにショックなことかね?」


黒い影は俯いている。夜風が男の黒髪を不安げに靡かせた。


「どうしたね? そんな怖い顔をして…。いい男ぶりが台無しではないか。まさか君は、この期に及んでこの学園の者達が死んで悲しいなどと言うつもりではないだろうな?」


「…だったらどうする?」


「笑うだけだよ」


「笑うがいいさ。人殺しのアンタの下らない余興に付き合っているほど俺は暇じゃないんでね」


「ほぉ…この私を人殺し呼ばわりとはな…。ぜひ理由を聞いておきたいな」


「ハッ…狸ジジィが。まだ猿芝居を続ける気かい? 俺は確かにアンタの依頼は受けたさ。だが、それは馬鹿親父がこの事件にどう関わったのかを確かめる為で、それ以上の理由なんかどこにもない。不可解な事件や謎に興味はあるがアンタのような奴の顔なんざ正直もう見たくもないし興味もない。

できればこのまま放っておいてほしいもんだな…。こっちはいい迷惑なんでね」


「ふふふっ…。事件の幕引きに立ち合った一番の役者が、これは異な事を言うではないか。

…では、そんな君に改めて訊くとしよう。仮に私が君の言う罪深き殺人者だったとして、君は私をどうするつもりでいるのかね?

…告発か? あるいは君の相棒である警察組織と連携しての徹底的な糾弾かな?

それとも…」


と言って老人は車椅子の車輪を止め、ひと際大きく顎を反らせた。


「かつて、名探偵と呼ばれた君の先人達の一部がそうであったように、君もこの私を殺すかね?」


鷲鼻の老紳士は子供のように大きく目を輝かせ、顔をくしゃくしゃに歪ませながら黒衣の男へと興味深げに問いかけた。


老紳士の言葉に、黒衣の男は心底うんざりした表情で溜め息をついた。


「あの男の作品とやらに感化された奴らは、どうしてこう揃いも揃ってふざけた奴ばかりなんだろうな…。

くたばりぞこないのジジィ一人を殺した所で俺の心はさして痛まないが、いずれの道を辿ろうとアンタを喜ばせる結果にしかならないのなら、俺は正直もう何もしたくはないね」


「ふっふっふっ…それを聞いて安心したよ。

謎の探求者は常に君のように論理的で理性的で、かつ人道的であってほしいものだ」


笑う老人の言葉に黒衣の男はニヤリと笑った。


「謎の探求者は、謎を出題する側には常に敬意を払うべきなんだろうが、アンタのような奴にだけは死んでもゴメンだな。

こうして目の前に立っているだけで実際、吐き気がするほど気分が悪い」


「愛子の事は本当に残念だった。私にとっても大きな痛手だよ」


「ハッ…アンタにしてみりゃ、実験用のモルモットが一匹死んだぐらいにしか思っていないはずだがな」


「何を言うのかね。たとえ血は繋がっていなくとも、彼女は私の娘だ」


「そいつはどうだかな。

『どうか生徒達を助けてやって下さい…』か。

今にして思えば、アンタは自らのデッキに俺というカードを一枚咬ませる事で、自らの最終的な目的を遂げようとしていた訳だ」


「はて…。私は何も嘘は言っていないようだが…」


「嘘ではないが本心でもない言葉なんだろう?

アンタは俺も含め、無秩序に行動する因子に意図的に刺激を与え続けることで事件が次々と再産出されるようなネットワークを、この聖真学園という閉鎖された舞台を中心に作り上げた。

個々の因子達はまるでウィルスのように、それぞれの因果関係の作用に反応し、交差し、縺れ込むようにして次々と新しい事件を生み出していった。

この事件はまるで、主題はあるがメロディーはない壮大なオーケストラのようなものさ。

登場人物達は全て関わった瞬間にパートになり、ひたすら不協和音のアンサンブルを奏でていく…。関係者達は自らの目的の為に動いているようで、実は誰かさんの思い通りに動かされている事にはまったく気付けない仕組みだ。

…事実、俺が関わったばかりに死ななくてもいい人間まで死んだ。俺は直接間接を問わず、自分が関わった事で誰かが死ぬのなんざ、死んでもゴメンだ。

アンタは俺のそんな性質を知ってか知らずか、平気で俺を利用した。仕事の流儀を、どこの馬の骨ともわからんペテン師に邪魔をされた俺としては、そこが少し頭にきてる…」


黒衣の男は赤いスーツの老人を睨みつけた。老人は微笑みながら答えた。


「ならばどうする? 君に言わせれば、私はどうやら諸悪の根源…。呪いのタクトを振るコンダクターらしいが、君はやはりそんな私を殺すというのかね?

往年の先達のごとく、慇懃無礼で理性的な探偵として事件を解き放つよりも、その方がより君らしくも見えるようだがね?ふふふふっ…」


老紳士は笑った。


「ククク…」


意外な事に、黒い男も背中を揺らせて笑った。


「まるで俺を魂を刈り取る大鎌を持った死神か何かと勘違いしてるようだな。

アンタはよほどこの俺の手であの世に送ってもらいたいと、内心そう願ってもいるらしい。

…だが生憎だったな。

アンタの皺だらけの首なんざ、地獄の獄卒だって欲しがりはしないだろうさ。

放っておいてもアンタはすぐに死ぬだろう。病魔に全身を蝕まれてな」


黒衣の男は老人を嘲るように肩を震わせて笑った。


「俺はこんな格好をしちゃいるが、世間でいう所の死刑には反対派でな。

…もっとも、人道やら人権やらを盾や刃にして語る世間の奴らの考え方とは少し違うぜ。

良心の呵責であれ虚無であれ、苦痛がなければ刑事罰なんざ何の意味もない。そうした意味じゃ、罪人は一つの場所でより苦しませた方がいいとさえ思ってる。

拷問や人体実験が許される世の中なら尚の事いいな。アンタのような貴重な人殺しは司法に委ねて、あっさりと死なせてしまうのは些かもったいない。研究用のモルモットにでもした方がいい気がする。国民の貴重な税金を食い潰して、檻の中でクズを飼って養ってやるからには、それなりの方法ってもんがなきゃ被害者に対してアンフェアだろ?

法的に殺してやってまでアンタのような人殺しを楽にしてやる必要はないと思うのさ」


男は不敵に微笑みながら続けた。


「死の床にある病人の最後の願いは俺も聞き届けてやりたい所だが、残念な事にアンタは罪深き罪人だ。見れば罪の意識など毛ほどもないようだし、せいぜい薬臭いベッドの上で苦痛にのたうち回って死ぬがいいさ。

くたばったら、脆い骨の一つぐらい、記念に形見にするのもいいかもな」


男の言葉に老人は愉快で堪らないとでもいうように、大きく身を震わせて笑った。


「ふふふふっ…そんな愉快な言葉をかけてくれたのは君が始めてだ。老人や健常者でない者に優し過ぎる世の中など実際、死ぬほど退屈なものだよ。

死ねばいい邪魔だと合理的に結論づけたのならそうすればいいのに、誰もかれもがそうしないように出来ている。

所詮、法律だの制度だの良心だのに縛られている人間など、たかが知れているな。迷信迷妄を信じている輩となんら変わりがない。

自由でありたいと願うなら、まずは自分の気持ちに正直にあらねばな。

君はやはり面白い。安心したよ」


赤いスーツの老人は車椅子に乗せた頬杖をやめ、ゆっくりと居住まいを正した。

老人は顎を引き、重力のある鈍色の黄色い眼光を、改めて男へと向けた。

漆黒の男は、怪しげに輝く赤い瞳を真っ直ぐに老紳士へと向け、対峙した。


老人は言った。


「論理と真実の鎖に繋がれた怜悧な名探偵と…少女を守る為に法を破り、時には警察を欺く事も厭わぬ黒衣の死神…。

果たしてどちらが君の本当の貌なのだろうな?

私がずっと知りたかったのは結局そこなんだよ」


「さぁな…アンタなら分かるんじゃないのか?

生徒達を実の孫のように愛する心優しき理事長と…娘を人形の如く操り、自らの愉悦の為に人殺しをさせる時計塔の魔術師という、もう一つの貌を持つアンタになら…」


「ふっふふ…」


「ククク…」


「ふふふふっ…」


「ククククっ…」


「ふっふっ…はっはっはっ…」


「クックッ…はっはっはっ…」



「ハァーッハッハッハッハッハッハッハッハッハッハッハッハッハッハッハッ!」



「実に愉快だな」


「実に不愉快だ」



老人は変わらずに微笑んでいた。

男の顔からは表情が消えていた。


老人は高らかに言った。


「ここに至り、君は最高の娯楽をくれたようだな。礼を言おう。この瞬間をこそ、私は何より待ちわびていたのかもしれんよ」


黒衣の男は目を細めた。


「あの事件に関する俺の推理は、ただの結果論でしかない。結果的にそうなったという事実を示しただけ…」


「ほぉ…」


「警察は未だに川島由紀子の事件は薬の副作用による事故死か、間宮愛子による意図的な殺人行為のどちらか、あるいはその両方が起こったんだと信じて疑っていない…」


「…違うのかね? 物的証拠が物語る科学捜査は万能ではないか。相棒の捜査を疑うとは、君の方がどうかしている」


「アンタの仕掛けは本当に見事だった。このまま胡乱な歴史の闇に葬り去ってしまうには、あまりに惜しいほどな」


「ありがとう…。君に誉めてもらえるとは本当に光栄の極みだよ」


「警察は未だにアンタが裏で見知らぬ絵を描いていた事に気付いていない。これからも気付くことはないだろう…」


「そうだろうな」


「全ての事件にアンタの影がちらついていながら、アンタの存在をまるで気にもとめていない…」


「人知れず人は何かに操られているのだよ。

通りすがりの人間の悪戯心にさえ人は無防備ではないか。それが彼らの限界なのだから仕方がない」


「事故か自殺か殺人か…検証し、論理を組み立て、推理していく限りアンタの影は絶対に浮かび上がらない。なぜなら、アンタは全てにおいて無関係だから…。

だが、関係性を追えば無関係でさえ浮かび上がってくる。アンタを抜いてしまえば全ての事件は揺らいでしまう。

それに気付けるのは多分、俺だけだという事もアンタは予測していたんだ。

アンタというフィルターを通す事で曖昧だった事件はより鮮明になり、全く違う絵が見えてくる…。俺はもっと早く、そのことに気付くべきだった」


「名探偵とは辛いものだ。常に後手に回らなければ立ち行かないのだからな」


「邪魔者は邪魔者をもって消す。それがアンタの立てた計画の一部だった。思い込みによる盲点を突く…。単純だが見事というしかない」


「聡明な君ならば、彼らを責められないのも分かるだろう? 実際、私は何もしてはいないのだからな」


「ハッ…」


黒衣の男は吐き捨てるように老紳士を睨みつけた。


「確かにアンタは法に触れるような事は何一つしちゃいない…。だが俺に言わせればアンタはやはり、ただの人殺しだ。他人の記憶を弄び、他人の褌で相撲をとるような薄汚いゲス野郎だ。アンタがこうした形で世間と関わる限り、被害者はまた現れることだろう。

…アンタは一体、自分の後ろに幾つ無関係な人間の死骸を転がせば気が済むんだ?」


「ふっふっふっ…。

まるで君が蔑む、君の父親と同じだとでも言いたげではないか」


「口の利き方には気をつけることだな。積極的に消してやろうとは思わないが、どのセリフがアンタの断末魔の叫びになるかわからないぜ?」


「心配はしていない」


「…ほぉ。なぜだ?」


「人間的で心優しい探偵の君は、自分の言葉や力をそんな風には絶対に使わないからだ。君を観察してきて得た私の直感だよ。これは断言してもいい」


男はさも意外だとばかりにニヤリと笑った。


「心優しい…ねぇ」


黒衣の探偵は再び大きく肩を揺らせて笑った。


「クク…さっきから聞いてりゃ、アンタはどうも俺を買い被り過ぎてるようだ。がっかりさせてすまないが俺はただの人間さ。アンタが思ってるような人間とは違う」


老人は己の白く長い眉毛を摘んで微笑んだ。


「違わないさ。君も私と同じ種類の人間ではないか。闇に潜み、闇に生き、闇の言葉を語り、その気になれば人さえ操れる。

今回にしても君の推理という名の詭弁は、結果として実に有効に多くの人間達の心の内に空洞を与えた。私の古い言葉が未だにこの学園を縛っているようにな…。世界を騙り世界を作り、壊せる者…君と私は同じだよ」


「残念ながらその読み方は間違っている。その程度の読みじゃアンタに俺の本意など解る訳もない。

俺はただ事件の謎を解体しているだけ。言説によって関係者達の精神を揺さぶり、不可知なるモノを意識のレベルにまで引きずり下ろして謎を謎でなくする環境を意図的に作り上げているだけの事だ。

その結果、関わった者達が泣こうが喚こうが苦しもうが…それはもはや俺の知った事じゃない」


「賢明にしてなかなか狡猾な男のようだな、君は。私の人形風情では足止め程度にしかならぬ訳だ。

しかし愛子も不思議がっていたが何故君ほどの力を持った男が、あのように教師達には人間的であれ、生徒達にはより優しくあれ正しくあれと、かくも生温い台詞を織り込むのだね?

闇に潜み、闇に生きる住人がこの救い難い世界に最もふさわしくない言葉を吐く…。私はそこが納得できないのだ。

警察と組んだり若い生徒達を導いたり…。

君は結局そうやって今の世の中と折り合いをつけているのか?

ならば、それはただの自己欺瞞ではないのか?

事実、君は私を断罪しようとしながらも結局は何もしないだろう。矛盾だらけの探偵の言葉は、人を殺める事でしか終結しない。

…ならば君とて、冥府に送られた人形達となんら変わらない。君とて人を殺している」


「アンタはよほど俺を自分と同じ人殺しだと思いたいようだな。今回に限った事じゃないが、警察など俺にとっちゃ利害の方向性がたまたま似通った組織というだけだ。互いに利用し、利用されているに過ぎない。

警察も含め生徒達や教師など、際限なく親父が仕掛けた下らない悪戯に嵌り、アンタの思惑通りになっていくのが癪だから仕方なく出張ってやっただけの事。

矛盾する言葉は時として大きな誤謬や思わぬモアレを生むが、人の滞った精神を破壊するのに有効な場合もある。意図的に綻ばせた言葉が結果として殺人さえ招くものに聞こえるというのなら、それは聞いた者が殺しを弄ぶ毒に蝕まれている証拠だ」


「その手には乗らないよ来栖君。人の心のような曖昧で胡乱なものに訴えかけたところで無駄だ。そもそも心なきケダモノに、愛などない。

…人とはただのヒト。生物としてのモノであって、それ以上でもそれ以下でもないモノだ。

なぁに…君の敗因は結局は最後まで非情には徹しきれなかった所だよ。君は私を殺さないのではなく殺せないのだろう?」


「どうかな。アンタの好きな死神は時に気まぐれだぜ。たとえば…俺はアンタが女達にしたのと全く同じやり方で、アンタを死なせる事だってできる」


「ふふふっ…。聡明な君ならば、同時にそれがいかに難しい事かもよくわかっているはずだ。君のその赤い瞳や爛れた左手も、私の眼と同じく人を惑わすにはかなり優秀なようだが、私には通じないだろう」


「それはお互い様だ」


「いいだろう…。

君は私をどうしても犯罪者にしたいようだな。ならば私が何をしたのか、そしてその根拠ぐらいは示してもらおうではないか。

それが今また探偵として私の前に現れた君の役目なのだろう?」


老人は男を挑発するかのようにニタリと微笑んだ。それを見た男も不敵にニヤリと微笑んだ。


魔術師と死神。


月光の微かな明かりの中で蠢く、ふしだらな色をした赤と黒の影。この世のものとは思えぬ、妖しくも黄色い結膜と赤い双眸の視線が交錯した。


冷たい夜風が僅か吹き抜ける昏黒の闇の中、象徴としての世界を全く異にする怪人達は絶対に相容れぬ境界で、互いに互いを牽制しあっていた。


「いいぜ…ジイさん。夜明けはまだ早い。

今はアンタの化けの皮を一枚一枚、剥がしていくことにしよう」


真の秘密の開示が始まった。


「川島由紀子の不可解な死…。

あれこそ今回の事件の全ての始まりだった。

12年前に封印されたはずの閉ざされた禁断の箱…。その箱の蓋に手をかけたばかりに彼女は死ぬ羽目になってしまった。本来なら誕生するはずのなかった悲劇の女神の器が時を隔てて現れた。どうやら、それが狂気のアーティファクターの琴線に触れた」


「君はなかなかの詩人だ。そう…かつて私の娘がそうであったように、彼女こそ美しき原初の混沌…罪なる女、パンドラだよ」


「川島由紀子は学園の七不思議と過去の事件、そして学園の暗部ともいうべき薬物の噂を取材する過程で校長と接し、おそらく噂の発生元であるアンタの下にも辿り着いた。

もっとも、娘にまで催眠暗示をかけ、周到に周囲を欺いていたアンタの事だ。取材と称して近づいてきた彼女に、ただ昔の事件を教えただけのはずがない。

川島由紀子は終始アンタに張り付いていた間宮愛子の目を掠め、アンタに幾度も接触していた。アンタが川島由紀子に時限爆弾を仕掛けるチャンスはいくらでもあったのさ。

例の日記の文章…。

『魔術師に会う』という文面は、幾度もアンタに接触していなければ、まずひねり出せない一文だ。これは自ら時計塔の魔術師だとでも名乗ったのかな?

罪に怯える間宮愛子が、川島由紀子の死に関して解熱剤を渡したと言った以外に何も知らなかった事から見ても、それは明らかだ」


「警察はそう思ってはいないのだろう?」


「もちろん警察は念入りに調べて解答を出し、事件を収束するはずさ。

被疑者死亡。自殺は事故か意図的なもの…。それが彼らにとっての公式な真実になるだろうとアンタは踏んだんだ。

実際にこれは事故死としてしか扱えない。多忙な警察が得意の、雑でお粗末な結末になると踏んだ上でのシナリオを、初期の段階で組み込んでいたのさ」


「ならばそれこそが真実だ。それでよいのではないのかね?」


「フン…あいにく公式な警察記録や、殺人者として死んだ犯人のもっともらしい動機を社会を納得させる為に捻り出すのは、果たして真相と呼べるのかな?この事件は至ってシンプルなものだったんだ。川島由紀子というイレギュラーな生徒が、一番核心に迫っていた故に起こった事件だともいえる。

そして、今回の事件は十二年前の事件を下敷きにして起きている。

時計塔に魔術師…。

七不思議に狂気…。

サバトと魔女…。

覚醒剤やドラッグ…。

過去にいわくがある教師達…。

ジェンダー意識が希薄な生徒達…。

そこで起こる事件…。

そして、不可解な事件を前にして現れる警察の連中と影で動く私立探偵…。

…ジイさん、俺はな。アンタが俺を誘った舞台は、いかにも作為的に過ぎると思うのさ。

推理小説マニアが泣いて喜びそうな怪しげな道具立てをこれでもかと揃える中、アンタは世にもおぞましい実験を実行に移した。

…いや、実験とは名ばかりだな。やはりこれはタチの悪い、悪趣味なゲームだ」


「随分と人聞きが悪い事を言うのだな。半端な人生を送るより、スリリングで楽しめただろう?

むしろ感謝してほしいものだよ。それに君が言うほど私は狂ってはいない。

君ならば理解してくれると思ったのだがね。あいにくと神の寓話は、君のお気に召さなかったか?」


「ふん…あのふざけた一連の見立てを神の寓話と呼ぶなら、アンタはただの冒涜者でしかない。しょせん、己のエゴでしか物を語れていない。ただ尊大な勘違いをしている道化なのは間違いないな」


「ふっふっふ…。この一連の事件が見立てだと、よく気付いたものだな」


「他の教師達と違い、アンタは神父でもあると聞いてピンときたのさ。キリスト教系の学校法人は、背景がきっちりとしていなければならない。

この一連の事件の動機が十二年前から続いているモノで真犯人までいるのだとすれば、学校が即時廃校にも繋がりかねないアクシデントをそいつは敢えて冒している事になる。

そんな事をして得をする人間は頭の枯れた戯作者か、これから間もなく死んでいく人間以外ありえない。

ここはミッション系を標榜する私立学園だ。

最初に起こった事件は飛び降り。今回も飛び降り。そして過去に遡れば、かつて監禁とおぼしき事件まで起きた学園でもある。少し頭を捻れば容易に予測できる事さ。

…実にアンタらしい悪趣味で下らない悪ふざけだ。

アンタが採用したのは新約聖書の『荒野の誘惑』だな?」


「ふっふっふっ…その通りだよ、名探偵。

…もっとも神の座を信じぬ無味乾燥な現代に生きる者達になど、私のメッセージは何一つ伝わってはいまいがな。

…君以外は誰も予測しえないことだったろう」


老人は男の威圧に満ちた視線にも揺るがなかった。


影のような探偵は語るような口調で言った。


「洗礼者ヨハネから洗礼を受けた後、霊によって荒野に送られた神の子イエスが四十日の断食を終えて飢えていた時、悪魔が荒野に現れて言った。

“神の子ならば、石をパンに変えるよう命じてみたらどうだ?"

これに対しイエスはこう仰った。“人はパンにのみ生きるのではない"」


時計塔に監禁された山内洋子と地下に隠された高橋聡美の死体。彼女達の死を隠蔽する為に自ら命を絶った武内誠。


黒衣の探偵は続けた。


「次に悪魔は、イエスをエルサレム神殿の屋根に立たせて言った。

“神の子ならば飛び降りてみろ。きっと天使が受け止めてくれるだろう"

これに対しイエスはこう仰った。“主を試すようなことをしてはならない"」


金網から飛び降りた川島由紀子。


「最後に悪魔は、イエスを世界中が見渡せる高見に上がらせて言った」


老人はすかさず、男を遮るようにして言った。


「“もし私にひれ伏すなら、これを全て与えよう"」


男は嫌悪の表情を浮かべながら、老人に応じた。


「イエスはこう仰った。

“あなたの神である主を讃え、ただあるがまま主に仕えなさい"」


覚醒剤を使い、笑いながら飛び降りた一条明日香。


探偵は静かに言った。


「いずれもマルコ、マタイ、ルカの福音書にもある有名な記述だ。美術でもドゥッチェの祭壇画やボッティチェリのシスティーナ礼拝堂の壁画の題材にもなっている。

アンタはこの一連の事件を全て、この古き聖書に見立てたんだ。世にもおぞましい方法でな…」


探偵は一際鋭い眼光で老人を睨み付けた。


「アンタは自分の娘とはいえ、血の繋がりのない間宮愛子をどこか他人のように思っていた所があったはずだ。この一連の事件は他人でなくては絶対に考えつかない。

そこで俺は考えた。

アンタはなぜこんな非道な計画を企てたのか、とな。

娘は実は人殺し。過去の罪に怯え続ける罪人…。

一方、学園や巷には背徳的なものに魅力を感じるような連中ばかり。

罪人や、人の噂に集る有象無象ならば、とことん怯えさせ、利用してやれとでも思ったのだろうか?

あるいは救い難い連中や娘のおかげで晩年のアンタの人生が狂わされたことへの、これは復讐だろうか?

多分…いずれも違う。

アンタはおそらく…」


黒衣の探偵はこの上のない嫌悪の表情で言葉を切った。

老人は笑った。



「退屈だったからだよ」



老人の表情が俄かに愉悦に満ちて歪んだ。


「生きた目をした人間は本当に少なくなったものだ。家畜のように生き、ただ社会の歯車の一つとして狭い箱の中で死ぬまで飼われ、生かされ続けているだけ。現代に生きる人間が本当の意味で生きているなどと君自身は思っているのかね? 私はとてもそうは思わない」


男は老人を睨んでいた。老人は続けた。


「生まれたての赤ん坊はよく天使に喩えられるが、人の命が尊いと感じるのは、おそらくその誕生の瞬間だけだよ。

人は永劫に神の仔たりえない救い難い存在なのだからな。生きていくという事は、ただそれだけで邪悪を抱え込むのと同義なのだ」


地の底から響くがごとき低い声で老人は続けた。


「人の意識や肉体は淀み、衰え、死んでいく為に生まれてくるようなものだ。

変節に変節を重ね、前言を翻し、衰えて退化する事を人は平気で成長したなどと嘯く。死の反対は生だと勘違いさえする。

科学技術がいかに進歩しようと、人の意識は時代と共に退化しているのは火を見るより明らかだ。

人は生を尊ばない。

肉体こそが精神だとも気付かない愚かな者達が世界を騙る。これから壊れるだけの存在が、百の言い訳を武器に崩壊の時を待ちながら、ひたすらに壊す。

…私はね来栖君、人でいる事が堪らなく嫌いなのだ。憎悪さえしているのだよ。

…だって、こんな醜い生物は他にいないだろう?」


赤い魔術師は車椅子に座したまま前傾し、いっそう低い声で黒衣の男へと問いかけた。


「誰かを殺したいと思った事はないかね? あるいは殺してやりたい、死ねばいいのに、と口にした事はないかね?

人は悉く醜く、そして邪悪だよ。欲望は果てしなく、己を持ち上げ、他者を平気で見下す。

平気で邪な嘘を数限りなくつき、金や保身の為なら肉親だって平気で殺し、何でも食い何でも壊す。挙げ句、自らの体を壊して病院でただの肉の塊になる」


滑稽なモノなのだ、と老人は再度笑った。


「心臓は脈打っている。呼吸もしている。血液は身体を隈なく巡り、筋肉も思いのままに動く。目も見えるし耳も聞こえている。その状態は確かに生物としては生きている。

…だが、獣のように無我無心には生きられない。過剰な死を無限に夢想しながら生きているのがヒトというモノだ」


だが現実はどうだ、と魔術師は反り返った。


「見えてはいるが視てはいない。聞こえているが聴いてはいない。呼吸をしている事も、血が流れていることも、知っていながら認識しない。自らの痛みによって血を流し、人が死ぬという現実を目の当たりにしなければ、自分が生きているという事にさえ気付けないでいる。そんな連中ばかりだというのに」


赤い魔術師は死神のごとき黒衣の男を見据えた。


「…さあ、人は果たして君の言う予め真実を抱えて生きている存在かね?

人は生きながらにして死んでいる、木偶人形にしか過ぎないのではないのかね?

だから私がばらまいた拙い嘘すら見抜けないでいるのだ。

私が今、ここに生きているという事実こそ、人の邪悪と木偶人形の証明だ。違うかね?」


「だからヘラヘラ笑って、ただ罪を重ねて生きるだけの豚共が許せなかったとでもいうのかい? 女達を笑わせて結果として自殺させる催眠実験ごときで、この救われない世界が変わるとまさか本気で考えていた訳じゃないだろう?

退屈しのぎの悪趣味な悪戯にしちゃ、手が込んでるってだけだ。

…ジジィに老婆心ながら一つ忠告してやるぜ。被験者の改竄された意識から始まるイカレた実験など、出発点からして見誤っている。

くたばり損ないが、どう足掻いた所でこの世界に残せるものなど狂気しかない。

悪夢で遊ぶのは、お話の中や思考実験だけにしておくんだったな」


「ふふっ…死にあたっての壮大な臨床実験と呼んでほしいものだ。

舞台に乗った君達は本当に素晴らしかったよ。些細な事を敏感に察知して、それこそ世界が変わってしまったような思いを誰しもが抱いた事だろう。悲劇を期待してもいたはずだ。

…だが考えてもみたまえ。

胸が躍るようなその思いは、結局は誰かの死によって齎されたものだ。

泣いたり笑ったり怒ったり、くだらないまやかしに満ちた演出だけで彼らの世界は一変するのだよ。

これが人の本質でなくて何だというのかね?

滅びこそが人の喜び。死にゆく者こそ美しい。悲劇こそが究極のエンターテイメントなのだ。

君は私を死を弄ぶ指揮者と言ったが、残念ながらそれは人の本音であり、隠された本質でもあるのだよ」


「人の世界は小さい…。

簡単に行ける一番遠く。

陸地の端が目に見える場所。

生と死の境界にある場所。

活動限界にして他界。

アンタはこの場所に来る生徒達をただ待っていた。この学園で、死を夢想する多感な時期の生徒達の意識に、時限爆弾を仕掛ける。

起爆装置は時計塔の鐘。

導火線は意識の底から。

着火のタイミングは、アンタの仕込んだ導入キーワードからもたらされた物だ。

時計塔の鐘の音が“笑って”という反復入力された言葉に反応するようにしておけば全ての準備は既に完了していることになる。辛抱強く爆弾に火薬を仕込む作業に似ているな。

全ての事件は、たったこれだけでよかった。

それが12年前の山内洋子と高橋聡美であり、時を越えてそっくりな状況になり得る器であるところの川島由紀子であり一条明日香という美しき悲劇のヒロイン達だった。

そして罪に怯えるアンタの娘は、彼女達のフォローキャラクターとして存在した。アンタに言わせれば過去の罪に怯える人形という設定だ」


「その通り。計画などそもそも存在しないのだよ。脚本はあるが役者達はただの駒。

主演女優が交替し、アドリブによって、ただ物語は進展していくだけ。私はただそれを観察すればよい。現実はなるほど、あらゆるドラマに満ちていた」


「俺がアンタを評価するのはそこまでだ。

無理に揺さぶり、水をかけて頬を叩いて、目を醒まさせたって何もいいことなどないさ。

本物の真実を見れば、人は辛くて生きていけない。

…今さらだが人はな、ジイさん。弱いんだよ。嘘を嘘と承知で生きてるんだ。

もちろん俺やアンタもそうだ。アンタにそれはなかったのか?」


「私がしているのは役者達の能力の話だよ。

人間の才能の話だ。類い希な血統書までついた素晴らしい能力や才能を持ちながら、それを活かさないというのは重罪だ。そうした意味で、最も罪深い罪人は君かもしれないな」


「はっ…犯罪者にスカウトされるとは、探偵もつくづくヤキが回ったな。人を人扱いしないアンタじゃなきゃ吐けない台詞だぜ。

あいにくだが俺はスカした批評家でもイカレた芸術家でもない。アンタと同じように、ただのヒトだ。ただ生きて、ただ死ぬ。

人の死を弄ぶアンタなんかとは違う。モノ化された死を眺めても俺は面白くもなんともない。死者は様々なものを負っている。アンタにそれはなかったのかと聞いているんだ」


「死人に何が伝わる? そんな行為を有り難がることにどんな意味がある?

例えば親が子を慈しむのは生物学的、遺伝的な形質だ。形而下の下劣な幻想なのだ。それは有り難がる者、死者に祈る者の意識の中だけの問題ではないか。自問自答しているだけの、ただの自己満足だよ」


「満足とはいかなる時も自己満足だ。それ以外に満たされることなどあるものか」


黒衣の影は厳しい声で言った。


「満足や幸福が主観以外の外的な基準で量れるとでも思っているのか? そんなの幻想に過ぎない。

アンタこそ、そうした唯物的な姿勢で自分の本当の気持ちを誤魔化している。

それはただの欺瞞でありエゴだ。

闇に染まるものにとって死は身近なもの。不可侵なもの。人は生を尊ばないと口にするアンタは死を尊ばない。それは生と死への最大の侮辱だ。何度でも言うが、俺は無礼な流儀を嫌う。アンタのした事はただのイカレた人体実験だ」


「何を言う。君自身も顛末を見たかったのではないのかね?

だからこそ警察に捕まったのだろう? わざわざ友人に捕まり、混乱を回避する道を辿らずとも、君ならばもっと早い段階で愛子を過去の犯罪者として告発するか、それこそ人知れず闇に葬るぐらいの事は造作もなかったはずだ」


「何度も言わせるな。俺は人殺しじゃない。俺が彼女を告発しなかったのは、アンタの意図が最後までまったく汲めなかったからだ。

…だが、アンタと話してみて漸くわかったぜ。

ジイさん…アンタが女達を実験台にして証明したかった事ってのは、まさか…」


「ふふふっ…君がたった今、予測した事はおそらくあたっている。もっとも…君は決して立ち入ろうとはしない領域の事だろうがね。

ふふふ…ふっふっふ…」


「この化け物が…。死に瀕して本当に人間を捨てるつもりだったか」


黒衣の男はこの上もない嫌悪の表情を浮かべ、老人を睨みつけた。老人の黄色い眼光が俄かに力を帯びた。


「経験的過去を積み重ねる過程において、人は何を以て人たりえるのだろうか?

これが長年の課題だった。

暗示によって引き出されるのは、その人間の経験的記憶だ。人は情報の詰まった筒のようなものに過ぎない。その中の雑多な情報の一部を恣意的に歪めたり、増幅させて意のままに行動させるだけでは、一条明日香が用いた既存の代用薬物や世間にはびこる低俗な宗教による洗脳と変わりない。

それでは実験としては何ら面白くも何ともないのだ。催眠暗示によって起こされるのは、生きたいとする生への渇望。

誰かを愛し愛されたいと願う遺伝子の命令。これは即ち、生きたいとする人の意志。

その意志を増幅し、解催眠する。やり方は単純だ。私の前で瞳を閉じるだけでいい。

淫らな夢に酔いしれるも、愛しい人を思う恍惚感も、他者を操る欲望も全て思いのままに手に入る。薬も何もいらない。ただ目を閉じるだけでいい」


「なるほどな…。今度はその逆…死から逃れたい、忌避したいとする死への恐怖を高め、解催眠した訳か。眠るように消えたい。誰かの記憶に残らないまま消えたい。全てを忘れてこの世から消えてしまいたい。

多感な生徒達はそれぞれに悩みを抱えていた。アンタの前で死を暗示するような一言を洩らしてしまった。

誰もが一度は考えるような一言を…」


「そう…普段は意識下に眠っている、ごく当たり前な感情の振幅。私はただそれを増幅させただけなのだよ。

殺人を教唆したり、自殺させる催眠は有り得ないが人を躁や鬱にする事はたやすい。

人の内側に広がる傾いた世界観を傾いた方向へ、ほんの少し押してやるだけでいいのだ。

いわば究極の精神の振幅。

エロスとタナトスの境界。

生と性。生と死。眠りと死…その責めぎ合いが齎す究極的ジレンマの顛末を、個人レベルで観察する実験だよ。

生きたいとする正常な肉体的反応とは裏腹に、無意識下に抑圧された死にたいとする願望…。果たして人の本意はどちらにあるのか?

死にたいのか生きたいのか?

人はギリギリの立脚点に立った時に、人としてどちらを最終的に選ぶのか?

…素晴らしい実験だとは思わないかね?」


「信者が一人もいない宗教と同じだな。あいにく世間がアンタを評するのは狂人の烙印だ。

ギリギリの世界で彼女達の精神はズタズタにされた。

川島由紀子、一条明日香、高橋聡美に山内洋子。

彼女達はアンタにしてみれば若く、美しいヒロイン達だった。彼女達を主軸に物語は動き出す。

この学園は実験施設であり、劇場でもあった訳だ。

俺が最初に結果論でしかないといったのは正にこの事だ。

そして操る者が実は操られているという本末転倒…。

これは間宮愛子への実験であり、アンタなりの復讐でもあったという訳か…」


「それは物のついで。壊れた美しい人形が動きを止めるまで眺めていただけのこと。

しかし、操りという点では君とて同じことだろう。

私は私の物語を紡ぐ為に娘を操ったように、君は私の物語を壊すべく、一人の優秀な女生徒を隠し玉に持ってきた」


「……」


「ふふふっ…そう睨まないでくれたまえ。かつて欧米の推理小説の大家が示した事を、私や君はただ実践したまでの事。そう気に病む必要はないさ。

劇場型の究極の犯罪とは操りだ。

…君は始めから勝とうなどとは思っていなかったろうが、今回に限っていうなら君の人形の方が私の人形よりも数段、性能は上だったようだ。そうした意味では、君の勝ちとも言えるだろう」


老人のその言葉に、探偵は一転してニヤリと微笑んだ。


「ほぉ…ついに馬脚を現したな。

それがアンタの本心であり、同時にアンタの限界でもあるようだ。やはりアンタも多少、小賢しいだけでレベルの低い犯罪者だったようだ」


「……」


「言っておくがアイツは人形じゃない。

自らの力で、言葉によって、行動によってあらゆる境界を乗り越え始めた。人間的といえばあまりに人間的だ。俺はアンタと違ってアイツを何ら操ってなどいない。何を唆してもいない。

そして、アイツは生きている。

アンタの哀れな娘はアンタの下で人形として操られる事で苦悩や罪悪感の一切を放棄して死んだようだが、アイツは違う。

悼みも悲しみも。憎しみも死への境界も。全て一人で受け入れ、これからは自分の意志で戦い、自分の体で歩み始めていくんだ。

アイツが人形であろうとなかろうと、結局アンタの負けなんだよ。一流の人形使いは人形に魂を込められるんだ。三流風情のペテン師は殺すことしか出来なかったようだがな」


「またも詭弁だな。私が娘にした事と、君が彼女にした事に大した差違などないではないか。

死んだ彼女達は操られていると、最後の最後まで認識できなかったのだ。全ては彼女達の自発的意志による行動だ。違うかね?」


「ジイさんよ…。さっきも言ったが、それこそがアンタの限界だという事にアンタ自身は気付いているかな?

アンタが使うのが催眠なら俺が使うのは言葉だ。催眠など所詮、意識下にしか語りかけられないものだ。

だがな…言葉は意識の上にも下にも届く。それは時には生と死の境界さえ凌駕するんだ。

自由意志さえも被験者に与えず、軽はずみに催眠など使う魔術師は結局はただのペテン師野郎でしかないんだ。

やはりアンタは魔術師でも何でもない。ただの人だ。アンタに言わせれば、ただのモノだ。

そして、アンタが人形と呼んだ娘も意志を持たない人形なんかじゃなかったぜ。

その証拠にアンタの娘は最後にアンタに何と言った?

娘の最期の言葉ぐらい、アンタにも届いていたはずだがな?」


その時だった。


その通りです、と突然辺りに女の声が響いた。

あらゆる静寂を突き破る、凛とした声だった。


探偵と老人は揃って声のした方を振り返った。


そこには制服を着た二人の少女がいた。


「成瀬…。鈴木君…」


微かに驚いた様子の探偵に向け、成瀬勇樹はにっこりと微笑んだ。


「人形にも心がある…。

それが分かってほしくて、ここに来ました」


「ご、ごめんなさい…。私達、さっきからの二人のやり取りを聞いていました」


二人の女生徒はゆっくりと探偵の隣にやって来ると、老人に向けて一礼した。

成瀬勇樹は言った。


「あなたの存在に気付いていたのは由紀子だけじゃなかった。もう一人、その存在に気付いていた人間がいたんです」


「…誰かな? 成瀬勇樹君」


老人は穏やかな口調で質した。


「奈美です。奈美の最期の言葉です。奈美は事切れる寸前、僕に『ありがとう』と言ったように思えた。青白い唇で震えながら…。

血だらけの手で僕に由紀子の髪留めを託して…。けど、実は違う。

僕には分かるんです…。僕だから判るんです。

奈美はあなたの名前を告げていたんです。

“間宮孝陽"と…。

愛子先生だってそうです。

保身の為でなく、あなたの為に役立つのなら、たとえ死ぬことだって厭わなかったかもしれません。愛子先生は一連の事件でひたすら理事長が表に登場しないようにしていた。だからこそ誰よりも愛する山内先生を最後に拒絶さえした。真からあなたの体のことだけを考えていたに違いないんです。だからこそ言ったんです。“ごめんなさい”と…。

死者に言葉は届かなくとも、生きて縁のあった人は必ず死んだ人に想いを馳せる。時には“復活”さえ望む。死者は生者の記憶に残る限り、決して死にはしません。死者もきっとそうです。死んだ人が何も残さないままこの世から消えていくことなどない。絆と縁は誰の精神にも拠り所として存在している。死者から生者へ、生者から死者へと巡りめぐって循環する決して消えないその約束事は、同時に命の循環でもある。その流れを止めることなど神様だって不可能でしょう」


老人の顔から表情が消えていた。


鈴木貴子がゆっくりと理事長の前に立った。


「ひょっとして理事長は、誰かに罰を求めていたのではありませんか?

誰かを殺す意志はなくとも事件が際限なく膨らんでいく過程で死ななくてもいい人間まで死なせてしまうかもしれない…。理事長にはきっと、それが最初から解っていたから…」


勇樹が再び決然と言った。


「僕達は誰も殺しません。

あなたを罰する呪いは多分、このまま僕達が何もしないことだと思うから…」


勇樹やめて、と隣にいた貴子が友人を咎めるようにして、おずおずと切り出した。


「理事長…あの…ありがとうございました。

あのブーケ…とても嬉しかった。私はたとえどんな理由があっても、理事長を憎むことも罰することもないと思います。

きっと理事長は、祝福と呪詛は常に紙一重なのだと、そう仰りたかったのだと思います。少なくとも私はそう受け止めました。

だから私には『荒野の誘惑』を遠回しに伝えたのでしょう?

私や勇樹に自分を殺してほしい、罰してほしいと心の底ではそう思っていたから…」


老人はゆっくりと瞳を閉じてため息をつくと、ゆるゆるとかぶりを振った。もうよい眩し過ぎる、と老人は顔を伏せ、静かに微笑んだ。


その表情は不思議と狂気に満ちた人間のそれではなく、もっと静かな寂しさを滲ませた孤独な老人が見せる諦観。寂寥感のように勇樹には見えた。


その時だった。


遠く地平線の彼方に一条の眩い光が閃光のように伸び始めた。その光はみるみるうちに辺りに広がり、くすんだ灰色のビルの陰から巨大な日輪が姿を表し始めていた。


四つの人影は暫し絶句したかのように、壮大なその光景を見つめていた。


老人は目を細めた。


「君達の言う通りだ。

罰を与えたかったのかもしれないな…。

私は罪深き者達に…。いや、私自身に。

思えば私も長く生き過ぎてしまったようだ…」


朝日を見つめながら静かに。

物語を始めるように老人は静かに語り始めた。


「生きる為に必死だったよ…。

あの奪いあい、虐げあい、殺しあう地獄のような戦争が終わって後も…。玉音放送は、私には福音のラッパに思えたものだ。

あの瞬間、死の上に死を築き上げてきたこの国の闇の歴史は終わり、人は簡単には死なぬようになった。人の住む街は日々形を変え、当たり前のように生を享受できる世界が訪れた…」


登りゆく陽光が徐々に三つの人影と周囲の闇を朱に染めていく。黒衣の男と二人の女生徒は魅入られたように、じっとその壮大な光景を見つめながら、老人の声に耳を傾けていた。


「戦争と平和。破壊からの再生。混沌からの秩序。新たな世界の再生は創世の始まりにも似ている。それは新生の喜びだ。この闇から生まれた光輝く陽光のようにな。

無垢なる生命がこの瞬間にも生まれ、育ち、生きる…。その幾多の命が創り上げていく、この世界のあるべき姿…。

私はずっとそれをこの場所で見続けてきた…」


朝日が魔術師の魔性を解体していく。霧の如く闇に漂っていた禍々しい気配が薄れてゆく。


魔術師は今、赤い輝きと闇の黒の境界にいた。


「それがどうだ…。

人の世は変わらずの悪意に満ち、相も変わらずに人は人を殺し、他者を傷つけ、あらゆるものを食い、あらゆるものを奪い、際限なく壊し続けていく…。

平和と人権は嘘で歪み、人は生を尊ばずに物に群がり、為政者はただひたすらに金の為の亡者に成り下がり、人としての在り方も法も魂も腐る。己の内側に無限に広がる世界でさえ、人は自分ごと簡単に壊す。他者とは本来、己を映す鏡。それぞれに何か違っている訳ではない。

人の世界は今や救いようがないほど醜く爛れ、無限に肥大化している。

頼るもの信じるものなくして人は生きてはいけない、絶対的な孤独を抱える存在だ。

命の理に根差したこの世界は狂い、ひたすら壊されてゆくのだよ。人によって徐々に歪み、ある日突然に壊れゆく…。

人が作り出す営みという些細な悪意は、やがて取り返しのつかない滅びへと向かうのだ…」


老人は気がつかない程の一瞬、慈愛に満ちた柔和な表情を浮かべた。

それが老人の本来の貌なのか、真に人を欺く事に快楽を覚える人間の姿なのか、勇樹にはわからなかった。


「見たまえ、この雄大な景色を。世界が光に包まれていくその瞬間を…。

永劫に変わる事なく繰り返されるこの光と闇の交代劇に較べれば、人の人生などあまりに儚く小さな、一瞬の光だ…。

人の肉体や意識は、まるで砂漠の砂粒のように脆く小さな物だ。世界とは命の繋がりによって紡ぎ出される。人が壊してよいものではない」


「理事長…」


勇樹は何かを訴えかけるように呟いたが老人は静かに首を振り、探偵に向けて微笑んだ。


「この虚実の塔と地下のモルグに掲げられたステンドグラス。あれらは二つで一つ。

それに名付けられた題名…。

来栖君ならば知っていよう。

それこそ私が信じた私の真の名前だ。私は…」




「暁の魔術師」




探偵はその言葉に、酷く悲しげに目を伏せた。

暁とは本来、夜明けを意味する言葉だ。それは象徴としての金星。明けの明星を意味する。


貴子は思う。


明けの明星は魔王ルシファーにも通じるのだ。

かつて天上界において何よりも神々しく美しい天使は、神の敵対者として闇に堕ち、いつしか堕天使や真の悪魔と呼ばれる存在になったのではなかったか。


正しき秩序を求める存在。

混沌を求める自由な存在。

人はどちらなのだろう…。

貴子には分からなかった。


夜明けの魔術師はゆっくりと両手で杖をつき、車椅子から立ち上がった。


「さて…私の肉体はもう間もなく役目を終えるだろう。

来栖君が言うように、歴史の闇に狂気を埋没する前に…私は逝こうと思う」


間宮孝陽は来栖要へ向け、静かに対面した。


「来栖君…。君はこれからもその爛れた左手と真実を見通す偽の瞳で、滅びゆくモノを守るのか?」


「俺はそんな大それた大袈裟な存在じゃない」


男は静かに煙草を銜えた。

ピンという軽い金属音。

ボッと炎の灯る微かな音がした。


「俺はアンタが待ち望んでいた死神でもなけりゃ、人を越えた越境者でもない。

俺は自ら境界に立つ者だ。

人の中の真実という、あるのかないのかすら解らない曖昧な幻想と不可解な謎をただ追い求め、呪われた血の呪縛に捕らわれ怯えているだけの、ただの道化…探偵だ。

もし人が許されざる存在であるなら、アンタの言うように自ら滅びの道を歩むだろうさ。

親父やアンタのように、それをわざわざ面白おかしく早めようとは思わねぇよ。

…俺はな、間宮さん。人が滅ぶというなら共に滅びるのさ。

ただの人でただの探偵に出来るのは、ただ天の采配を待ち、せいぜい悔いることのないように生きるだけなんだろうからな…」


「ふふふっ…ここに来てようやく君の素顔を見れたようだ。私は満足だよ…」


「ジイさん…」


「そんな顔をするな、少年よ。

私も人として生き、最期は人として死ぬ。

ただそれだけの事だったのだよ。

天は自ら命を断つ者の魂の救済など認めまい。

それこそが私の罰だ。これは最初から決めていた事。君達は君達の真実に立てばいい。

そんな顔をされては、最期の決心さえ鈍りそうになるからな…」


老人の言葉に、男は静かに朝日に彩られた深紅の瞳を閉じた。


待って下さい、と勇樹が二人の間に立った。


「理事長が死ぬ事に意味はありません。

いいえ、人の生にそもそも意味なんてないかもしれない…。けど、僕は思うんです!

意味がある事にもきっと意味なんてない。

人の命は価値のあるなしや、まして勝ち負けなんかじゃない!

救われない事や無根拠な事は、そうでない事より勝っている訳じゃないでしょう?

どんな悪夢でも幻想でも、この世に起きている限り、それは日常の出来事です。

どんなに悲しい事も辛い事も、人の記憶の中に眠れば夢のようにいつか形も変わる。

この命がある限り、それはきっと変わらない!

絶望や悲劇を経ても人は生きてさえいれば、きっといつか笑える時が来ます!

人はその時その瞬間に起きる感情を、ただあるがままに受け入れるしかない。そんな存在なんじゃないですか?

人は神でも悪魔でもない。

ただ、その狭間に漂うだけです。

そして、そこから人は人として始まる。

…僕は人として、ただ生きていければ、それでいい。ただそれだけでいい!

生きて誰かと笑顔を交わせていければ…たったそれだけでいい!

それこそがあなたが憎み、あなたが愛した人の真実の姿じゃないんですか?

間違っててもいい。僕はもう自分自身に迷わない。誰に何と呼ばれたって構わない!

真実は…」



「真実はいつだって僕と共にあります!」



少女の叫びが世界を震わせた。


老人は静かに笑った。


「ふふっ…死にゆく私に探偵からの最後の手向けという訳か。今のは効いたよ…。最大級の祝福と天罰の言葉…。正に言霊だ。来栖君…。

こんな事だから、君は私に誤解されるのだ…」


老人は笑った。

男も微笑んだ。


老人は言った。


「私の敗けだ…。君こそが幻視者の芸術家と呼ばれた来栖征司の待ちわびた、本当の暁の魔術師…。私はただの道化者だったようだ。

…私の造り上げた犯罪は、私の命によって終わる。もう痛み、苦しむだけの人生はやめたい。私を思うのならこのまま死なせてくれ…」


「理事長…!」


老人は片手で少女を制した。


「成瀬君、鈴木君。悲しむ必要はない。私にとって死は始まりに過ぎない。君達にとって、この事件がきっと道半ばであるのと同様にな…」


暁の陽光を背に、老人の姿は燃え立つような真っ赤な色に染まった。その赤い輝きの中で僅か振り返り、老人は静かに男に向けて微笑んだ。


「楽しかったよ…。最期に君のような男に出逢えて本当によかった。

どうあれ、来し方からの血塗られた道を行く、君の旅の終着点と君達自身の息災を遠い地の底から祈るとしよう…」



「さらばだ。名探偵」



そこまでだった。


一際強い一陣の風と共に、老人はバルコニーの手摺りから音もなく、何もない虚空へとその身を投げ出した。


吹き飛ばすような突風が、僅かの間、三人の正面を吹き抜けていった。


誰も何も言わないまま、静かな朝の静寂が訪れた。


夜明けの来ない夜はなく、世界は再びあるがまま時を刻み始めた。


歪んだ夢の溶け出した世界。

魔性の夜は跡形もなく霧散した。真円の夜の月は、夜明けの淡い紫紺の空に溶け出したかのようにうっすらと割れ、西の方に僅か滲んで見えるだけだった。


勇樹は来栖の表情を伺った。

朝焼けに彩られた男の表情は見えなかった。


探偵は静かに、最初からそこに立つ事が決まっていたかのように時計塔の鐘の下に立つと、黒い手袋を嵌めた手で力いっぱい鎖を引き、繋がれた鉄槌を巨大な鐘へと目掛け、振り下ろした。


ニ対の荘厳な鐘の音が澄み切った音を立てて、始まりの歌を四方八方に響かせていく。


それは、かつて世界を眺めていた男への鎮魂の手向けだったのか。それとも主を失い、時を止めた時計塔が最後に上げた断末魔の叫びだったのか。


勇樹には分からなかった。

余韻を残し、鎖だけがユラユラと揺れている。


貴子がポツリと呟いた。


「こんな終わり方しか…。

出来なかったなんて…」


貴子、と勇樹が言った。


「あれはきっと理事長からの遺言なんだよ。貴子が気に病んだり悩んだりしたら、せっかくの祝福がまた呪いに変わってしまう。悲しいし辛いけど、きっとこれでよかったんだよ…」


「うん…」


「成瀬…じゃじゃ馬娘が随分いい顔をするようになったな」


「来栖さん…」


探偵は静かに勇樹の頭にぽんと手を載せた。


「これでお前の事件は終わりだ」


探偵は背を向けた。


「来栖さん、待って! 僕は…。僕は…!」


「楽しかったぜ。じゃあな…」


あばよ、と言って探偵は振り返らずに勇樹に手を振った。風に混じった何かを翻すような音と共に、黒い影は僅かに闇を残した灰色の螺旋へと消えていった。


夜明けの時計塔。

そして、二人だけになった。


勇樹は笑った。


「はは…ねぇ、貴子。

死神に魔法をかけられちゃったみたいだよ。

これは祝福なのかな…? それとも呪いかな…。もう訳がわかんないや…」


「勇樹…。来栖さんの事…」


「最後まで、僕は馬鹿だよね…。

誰かを悲しませたまま…。

笑って消えるなんてさ…。

狡いよね…。探偵って本当に狡いよ…」


もう泣かない。夕日の下で始めて抱きしめられた時、そう決めたのに。


勇樹の瞳から一滴。

輝く泪が零れ落ちた。


涙の向こうに。

輝く朝日が滲んで見えた。



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