壮大なる茜色

26


本棚の上に飾ってある、たくさんの小さなヒーロー達が暗い部屋で静かに勇樹を見下ろしていた。何体ぐらいあるのだろうか?

このコレクションは幼い時から自分で集めてきた。その割には改めて数えてみた事はない。


子供に人気の特撮モノからは、色とりどりの戦闘服を着た五人組の戦隊モノシリーズの歴代のキャラクター達。宇宙刑事に昆虫のような顔をした改造人間のシリーズ。

少年漫画がオリジナルのアニメからは、麦わら帽子の海賊とその仲間達。忍者のキャラクターとその仲間達。

ロボットアニメからはモビルスーツやスーパーロボットのプラモデル。

かたやタラコ唇をした覆面レスラーが主人公の超人モノのアニメキャラクターもいたり、さらにはアニメの美少女キャラクターのフィギュアまで、それらがズラリと並んで勇樹を見下ろしている。


一つの時代を築き、今も尚愛されているキャラクター達。

勇樹がこれまで数限りなく集めてきた、自慢のヒーローキャラクター達の総出演だ。


ジャンルからしてバラバラな上に規格も大きさも、そしてプラモデルだったりフィギュアだったり超合金だったり小さなゴム人形だったりと、素材となった材料も全く統一性がない。


唯一共通しているのは、彼らが沢山の人達に愛されているヒーローであるという事だけだ。


勇樹はベッドに寝転がって、部屋の天井を見つめた。


四角い蛍光灯の縁が切り取られたように、そこだけが妙に浮いて見えた。見慣れたはずの天井も、こうして見ようによっては見知らぬ天井に見えるから不思議だった。


もう何度目かの寝返りを勇樹は再び打った。

そして、もう何度めかの溜め息をついた。再び天井を眺め、そしてまた壁際のヒーロー達へと再び視線を向ける。


堂々巡りだった。全く落ち着かない。


後ろ向きになった澱みきった思考は、自然と過去へ過去へと、その触手を伸ばそうとする。カーテンを締め切った暗い部屋は、正にそうするのに都合がいいような舞台装置だった。

この部屋は勇樹という箱の中の失楽園だった。


自分の弱さは結局生まれつきのものだったのだ。いまさらになって、勇樹はそう思った。


あれは勇樹が小学校二年生ぐらいの、しとしとと鬱陶しい雨が降り続いていた日の出来事だった。


学校帰りの通学路。

公園の近くを通りかかった時だった。

四年生ぐらいの上級生三人に囲まれている同級生の男の子の姿を見かけた。その同級生は確かサトシという名前だったはずだ。


上級生の三人は太っちょと、マッシュルームのような髪型をした眼鏡の男の子と出っ歯で背の低い男の子の三人で、近所でも有名な悪ガキ連中だった。


サトシ君の黒いランドセルは傍らに投げ捨てられていて教科書やノートが雨に濡れ、泥だらけになった地面に散乱していた。サトシ君は口の端が切れていて、地面に突っ伏して雨の中でおいおいと泣いていた。


太っちょとメガネとチビの三人は信じられない事に笑っていた。嘲笑っていたのだ。


子供心に泣き叫んでいる人の前で大口を開けて高らかに笑うという、その行為が幼い勇樹の目にはとてつもなく邪悪で異常に映った。


無邪気な笑い声は雨の中でもよく響いた。

口の端を歪ませたり大口を開けて人を見下して笑う表情は、なんて醜い表情なんだろうとそう思った。


ボス格の太っちょが見下ろして何か言っている。メガネが泣いているサトシ君の頭に足を乗せ、出っ歯のチビが唾を吐きかけた。


自分の中で何かが切れる瞬間というのは、ああした瞬間の事を言うのだろう。

後にも先にも、今でも鮮明に思い出せるのは、その幼い日のあの瞬間だった。


気がつけば勇樹は背中を向けて立ち去ろうとしたボス格の太っちょに向け、後ろから助走をつけて思いっきりドロップキックを見舞っていた。恥ずかしげもなく、子供達の間で当事流行っていた特撮ヒーローの必殺技の名前まで口にしていたと思う。


太っちょのぺったんこのランドセルに勇樹の泥靴の跡がついて、ボスの太っちょは前のめりに顔面から地面に倒れた。

雨の中での大活劇。丁々発止の大立ち回り。

要は、ただの子供のケンカだった。


実家が極真空手の道場で、また祖父がその道場の師範だった事もあり、細い体に似合わず、小さな時から腕っぷしだけは異様に強かった勇樹は、弱い者苛めをする近所の悪童連中を、逆に泣かせてしまったのだった。


次の日の学校で、いつの間にかその出来事は噂になっていた。

同級生からは小さなヒーローへ向け、惜しみない羨望や賞賛の言葉の数々が贈られ、それが堪らなく心地良く、勇樹はまるで自分が部屋の棚にいっぱい飾ってあるヒーロー達の一人になれたように気分が良かった。子供心に、これが自分の存在意義なんだと確信さえした。


気がついた時には、勇樹はさも誇らしげに胸を張り、『みんなは僕が守る!』と舌っ足らずな口調で得意げに、何の臆面もなく喜んで口にしていた。


狭く小さな小学生の世界のこと。その日のうちに噂は母親の知るところとなり、勇樹はこっぴどく叱られた上に頭のてっぺんにたんこぶまで作って悪ガキ共の家を一軒一軒訪問する羽目になるのだが、父や祖父が晩酌をしながら小さな英雄の誕生を密かに喜んでくれた事は知っていた。


それ以来、自分を鍛える事で前向きに努力し、勝ち続ける事で周囲の人間を驚嘆させる事は自分の喜びであり、また同時に誇りでもあると感じるようになった。


心と体はいつだって一つ。

そう思うようにしてきた。


相手がいかに強くとも勝負が決する最後の一瞬まで諦めずに抗う。思いきり気合いを入れて拳を突き出す。


勝ち負けには、どこまでも拘りたかった。

正しき強さと力の使い方の探求こそが武道の本質であるなら、目に見える悪い奴らや不正だといった、もやもやした不可視の力は勇樹にとって悪だった。


不正と名の付くものは絶対に自分のこの手で、この拳で打ち砕いてやる。いつしか勇樹はそう思うようになった。


勉強でも自己啓発でも研究でも何でもそうだ。不明の闇から本当の真実を手に入れるのは、いつだって己の力であり、目の前の相手に真剣に立ち向かう事でしか得られない。


誰が何と言おうと正義の中には真実という名の黄金の輝きがある。昔、何かで読んだその言葉は、いつしか勇樹の見えないバイブルになって勇樹を支えた。それはもう言霊と呼んでもいいほどの、勇樹の真実になった。


己を磨き、鍛える事は自分の意識や肉体の中だけに留まらず、この退屈で怠惰な世界を変えるだけの力がきっとあるはずだ。


一対一の真剣勝負。ガチンコ勝負には抗い難い魅力がある。

百の言い訳より千の鍛錬を。

幾千の呪言より幾万の真言を。

言葉より行動を。


英雄やヒーローという言葉には夢がある。

力ある正義の前には悪は屈し、不明の闇は払われ、勇樹が求める真実の世界はいつか必ず訪れる。力のある人間にはそれができて、そうすることが正しいのだ。

勇樹はなぜかそう信じていた。

信じて疑わなかった。


だが、それは違っていた。


結局の所、それはやはり子供じみた情けなくなるほど一辺倒で幼稚な論理にしか過ぎず、ひたすら安易で単純化した善悪の二元論に基づく錯誤にしか過ぎなかった。


形のない闇に爪を立てては空回り、ひたすら足掻いては無闇に叫んでいただけに過ぎなかったのだ。思い込みで作り上げた檻の中で、いかに自分の正当性を声高に叫べど、聞いているのは檻の中の自分しかいない。


そんな狭い檻のごとく閉ざされた境界の中で、ひたすら自分はこうありたいだとか自分はこう思うだとか、自分が自分がと殊更に個を主張した所で、予め引かれた世界と人の境界は様々で、それ自体は何一つ変わるものではなかったからだ。


言葉が現実を凌駕するというのは所詮、たんなる思い込みでしかない。

矛盾は矛盾のままに棚上げにし、逃げる手段を講じて後ろ向きになる思考。

こんないちいち躓く脆弱なものが、果たして人として成長するという事なのだろうか。


いつしか勇樹は正義というものの存在や自分自身のそんな在り方に矛盾を感じるようになっていた。空っぽの入れ物に何が入っていたのかも忘れ、それを厳重に封をして大切に包んでいるような。そんな宙ぶらりんの矛盾を抱えながら、成瀬勇樹は生きていたのだ。


真相は。現実はまるで違っていた。


勇樹は勘違いの果てに己を見ずに現実を見ずに、何も判らずに、結果どんな真実にも至れなかった。

残酷な現実という名の暴力は、勇樹のアイデンティティをズタズタに引き裂いて余りあるだけの力を持っていた。


いつか失われる事も気付かず、砂の城を築く。

勇樹のしてきた事は、子供の遊戯のごとく無意味で無駄な繰り返しにしか過ぎなかった。


いや、正義や自分の在り方に矛盾を感じていたからには、いつかこうなる事は判っていたはずだ。


箱の蓋を閉じて長い間、名誉や栄光だのといった外側ばかりを飾り立て、少しばかり外側を頑丈にしたところで、箱は結局、落ちた瞬間に自らの重みで壊れてしまったのだ。箱の中身も結局の所、ちっぽけでとるに足らないモノでしかなかったのだ。


なぜ、こんなちっぽけで壊れやすいものを、後生大事に守ってきたというのだろう。馬鹿馬鹿しい。


では、最後の瞬間まで何もせず、抗わないでいれば本当にそれでよかったのだろうか?


真実なんて実はどこにもない。

何もしない事が一番正しい。

厄介な事や、ヤバい奴らには関わらないのが一番いい。

物事に従わない奴らの事なんて、誰かに任せて放っておけばいい。

やりたい奴らには、好き勝手にやらせておけばいい。

言いたい奴らには、好きなだけ、好き勝手に言わせておけばいい。

どうせそんな奴らの事なんて、いずれすぐに忘れる。


自分には関係ない。


そうなふうに訳知り顔をして通り過ぎ、自分の前に百の理由を並べ立てれば、それで勇樹は納得できたのだろうか?


奈美はこんな勇樹の、どこを好きになってくれたというのだろう。

由紀子はこんな弱い勇樹の何がよかったというのだろうか。


わからない。


何もかもが、もはやどうでもよくなっていた。


心と体は一つだと平気で嘯いておきながら、心と体がバラバラに引き裂かれたような気持ちを勇樹は多分、生まれて初めて味わっていた。


底無しの虚無感に支配された体の隅々は、どこまでも無気力で怠く、何をする気にもなれなかった。


諾々と警察の事情聴取に従い、気がつけば自分の部屋のベッドで何をするでもなく、ただ無為に天井を眺めている。


今の勇樹は、無気力で無責任で無関心で無感動で、ひたすら無意味で無駄な存在だと、そう思った。これぞ世に言う“四無主義”というヤツだ。一番馬鹿にしていた人間に自分がなるなど、一体誰が予想できただろう。


生きていてほしい人は呆気なく死んで、生きていても意味のない奴がダラダラと生きている。ジョークもいいところだ。この世は全て、笑えないジョークで出来ているんだ。


それが可笑しくて勇樹は笑った。乾いた自分の卑屈な笑い声は、物音一つしない暗い部屋によく馴染んだ。

壁際の小さなヒーロー達は、そんな勇樹をただずっと見下ろしている。


眠れない…。

今は何時だろう?


机の上の携帯電話を取ろうとして、勇樹はやめた。液晶画面を見るのが苦痛だった。そこに表示されている待ち受け画面を見るのが辛かった。


体はぐったりしてるのに。

全然眠れない。


目を閉じるのが怖い。

目をつむると。


『ありがとう…』


コレだ。

勇樹は思わず起き上がって頭を抱えていた。


取り返せない過去の時間と一瞬で繋がるフラッシュバックの雷鳴。

悲鳴のように吹きすさぶ風と土砂降りの雨の音。

切り取られた暗闇の森の景色。


そして、血の匂い。


ぬらりと生温かい血と、急速に失われていく奈美の冷たい手のひらの感触。


目を閉じれば、このイメージばかりが無限に膨らんだ暗闇の中から浮かんでくる。


『ありがとう』か…。


感謝の言葉。

辞世の言葉。


「解らないよ、奈美…」


昨日から何も口にしていない。

酷い喉の渇きと飢えを覚え、勇樹は自分の部屋を出る事にした。


出るついでに本棚の上のコレクションを片手で思いきり払ってやった。在りし日の英雄達はバラバラと派手な音を立てて、本棚の後ろや横の隙間や足下に転がった。


呆気ない。

物言わぬ死体のような人形達を見下ろして勇樹は一人呟いていた。


「役立たず…」



※※※


あてどもなく勇樹は街をさまよった。

行きたいところなど最早どこにもないというのに。何も考えずに表に出たせいか、自分がいつもと同じ制服姿だった事に勇樹はその時になって初めて気付いた。

警察からの呼び出しや事情聴取を見越しての事だが失敗だった。


校章付きのブレザーを着ていないからいいものの、もし着ていたとしたら余計なトラブルに巻き込まれる事だってあり得た。衣替えの半端な時期でよかった。


目立つかとも思ったが街の反応は存外、普通だった。

ちらほらと勇樹に目を向けてくる人がいるのは確かだが、考えてみれば関係のない生徒達の方が大半なのだし、世間の無責任な耳目は派手な赤いマントを着て、派手に学校の一番高所から飛び降りた狂気の芸能人に向けられていたに違いない。


この服装で街を歩くのは憚られたが、今の飢えにはとても勝てるものではない。

家の冷蔵庫にアルコール類はあったが、食料の類はほぼ空だった。几帳面な母親の性格が、こんな時ばかりは恨めしい。


唾液を嚥下する度に腹の虫がグウグウと鳴る。授業中でもないのに恥ずかしかった。往来の人とすれ違う度に、その音が聞こえやしないかと妙な心配までしていた。


とても胃が受け付けるとは思えなかったが、何も口にしないよりマシだ。水で渇きは癒えても腹は膨れない。しかし、馴染みの店に入るのは憚られた。嫌でも誰と行って、何を食べて、どんな話をしたかまで思い出してしまう。


学生の身分とはいえ、食事がいかに自分の生活に密着していたのかと今さらになって気付かされる。


意を決し、総菜店のコロッケや串揚げにしようと勇樹が商店街の方に歩き出すと、聖真学園の制服を着た生徒達は意外にもちらほらいた。気にするほどでもなかったようだ。


おそらく彼らも勇樹と同じ気持ちなのかもしれない。

普段は退屈で変わり映えしない景色や習慣が鬱陶しい癖に、いざ失われてみると途端に不安になるのが日常なのだ。壊れてしまった日常でも同じように繰り返せば、何かしら錯覚は出来るのかもしれない。


あんな事件の後だ。やはり制服を着た聖真学園の女生徒達は、殆ど見かけなかった。

余計なトラブルは誰だって嫌なのだ。幾ら有名デザイナーの手掛けた人気の制服でも、視線でレイプされるような思いまでして、誰が好き好んで街中に着てくるだろうか。


私服を着た学生という仮面を被れば、女という性別が浮き出るだけだ。女子校生という属性は綺麗に排除されてしまう。


また仮面か…。

自分の陳腐な思考にうんざりした。想像力が枯渇している。

堂々巡りの無駄な思考。意味のないものに意味まで与えてしまっている。まさに呪いだ。


また、腹が鳴った。


駄目だ…。


自分の現金な情けなさが、勇樹はとことん嫌になってきた。壊れた日常を心配するより先に、切実な飢えは既に極限状態にきていた。


スーパーの前に、目的の総菜屋さんの屋台を見つけた。

ここは鉄板焼きがメインで、お好み焼きが旨い。暖簾には鉄板焼きと書いてあるのだがコロッケや串揚げも人気で、学校帰りの生徒達や買い物客にはそちらの方がよく売れる。


食欲をそそる揚げ物の、いい匂いが漂ってくる。生唾がこみ上げてくる。揚げたてのコロッケを二つと、ビフテキ串を二本買った。

お金を払ってお釣りを貰う動作ももどかしく、意を決して食べてみると揚げたてのコロッケはやはり旨かった。


本当に大袈裟だが、こんな旨い食べ物がこの世にあったのかとさえ思った。


空腹はどんな欲望にも最優先されるらしい。勇樹は無我夢中でかぶりついた。二口目からは、どこにでもある普通の味だったが、揚げたてで衣がサクサクしていた。中身がホクホクのジャガイモコロッケは、懐かしいと感じてしまうから不思議だ。


欠食児童のように、勇樹はひたすらコロッケやビフテキ串にかぶりついた。知り合いがいたら多分もっと落ち着いて食え、と注意した事だろう。


周囲を見渡すと、そろそろ日が暮れかけてきている。夕闇が街に迫っていた。


これからどうしよう…。


相変わらず行きたい場所など、どこにもなかった。だが、体は疲れきっていたが、休む訳にはいかなかった。

意を決し、勇樹は携帯電話を見てみたが、警察からの連絡は相変わらずないようだった。

お友達の事で何か解ったら電話します、と担当の柏崎刑事は言っていたが、そもそも捜査上の秘密事項が勇樹に伝わるとは思えない。


貴子の家を訪ねてみるべきかとも思ったが、やめにした。両親に余計な心配をさせるだけだ。こうなるともう打つ手がない。


そうこうしているうちに、よく母親と買い物に来るスーパーの近くまで来てしまった。腹は既に満たされている。


やる必要もないのに近くにガチャガチャがあったので退屈しのぎに勇樹は百円を入れてやってみた。悲しいかな、これも習慣だ。


タラコ唇の超人レスラーが主人公のキン肉マンという漫画のキャラクター達が出てくる、一昔前に流行ったキン消しというゴム人形が入っているタイプだ。


ゴトンと音がして、透明で丸いカプセルが出てくる。


開けてみるとマントを着た凛々しいキン肉マンの人形があたった。

買い物でもしていこうかと店内に足を向けた時に、いきなり足元から声が聞こえてきた。


「屁のツッパリはいらんですよ」


勇樹はそれが自分に向けて言っているのだと気付いた。


ふと振り向いて視線を下げると、勇樹の膝の辺りにオーバーオールに赤白のボーダーシャツを着た、おさげ髪の女の子が立っていた。


小さくて可愛らしい。

勇樹は思わず微笑んでいた。

四歳ぐらいだろうか。警戒心のない無邪気な微笑みを浮かべ、勇樹の顔を見上げている。この子の声だったのだ。


「むーねの、炎が~、マントをこがっす~」


歌詞を間違えている。

勇樹は苦笑した。


「マット」


「え?」


女の子はきょとんとした顔で歌をやめ、小首を傾げた。首を傾けるその仕草が、猫のようで何だか凄く可愛らしい。


「マントじゃなくてマットだよ、その歌。それってキン肉マンでしょ?」


「うん」


キン肉マンという言葉に女の子は喜んだ。勇樹はふと思いついて、しゃがんで女の子の視線と同じ高さになると、少女の目の前で、先ほどあてた人形を持ってぶらぶらとさせながら、正しい歌詞を歌ってみせてあげた。


「胸の炎が、マットを焦がす~。

…ほらね、ここはマントじゃなくてマット。

キン肉マンがいくら強くてもマントが焦げたら火傷しちゃうよ。歌って、ややこしいね」


「あはは、そっかぁ」


今度は二人で歌った。高校生と子供が二人、向かい合わせでアニメの主題歌を歌っている。微笑ましい光景と言えばそうなのだが、通り過ぎる買い物客には、かなり奇異な光景に映った事だろう。


「これあげる」


「ありがとー」


女の子は小さな両手で小さなゴム人形を受け取ると、大喜びでぴょんぴょん跳ねながら、それをひっくり返したり逆さまにしたり、伸ばしたり叩いたりしながら、いろんな角度で夢中で眺め始めた。


こんなに喜んでくれる小さな女の子がいたら、きっとドジでダメな超人レスラーも、原作者も、あるいは作った製造メーカー側も本望だろう。


「ねぇねぇ、キン肉マンが好きなの?」


「うん、かっこいい!」


なるほど。覆面レスラーが好きとは、人の好みはそれぞれだ。イケメンの芸能人にキャアキャア言っては騒いでいる同級生の女共に、彼の生き様を聞かせてやりたい。もっとも、こうした趣味は、大概がオタクと馬鹿にされる宿命にあるのだが。


ドジでダメでブサイクな超人と呼ばれ続けても、仲間の為に何度でも立ち上がり、敵と戦う漫画キン肉マンの魅力をこの年で理解しているとは、この子はかなり侮れない。


あのね、とその女の子は今度は少しだけ小首を傾げ、考えるような素振りを見せると、急に精悍な目つきになった。


「あのね、せーぎはぜったい負けないの!」


「え…?」


一瞬、何と言ったのか判らなかった。今度は勇樹の方がきょとんとする番だった。

子供の言動は唐突過ぎて論理的ではない上に、あくまで自分本位で予想もつかない反応をするから面白い。

たぶん『せーぎ』は正義と言ったのだろうが、イントネーションが違う上に舌っ足らずなので、いまいち聞き取りづらかった。

けれど握り拳で一生懸命に勇樹に主張しているのは伝わってくる。


黒目がちなつぶらな瞳が真っ直ぐに勇樹を見つめている。小さいけれど一点の翳りも曇りもなく、夕日の中でキラキラと輝いているその瞳が勇樹には凄く眩しく、綺麗に見えた。


「せーぎはね、かならず勝つんだよ!」


勝ち気な女の子は強い口調でもう一度、はっきりとそう言った。目をキラキラさせて微笑んでいた。


勇樹は何だか目頭が急に熱くなった。いたいけで真っ直ぐなその瞳に、いたたまれなくなって勇樹は思わず目を逸らしていた。


「うん…。そう…だよね。

正義は絶対に勝つよね…。

負けないよね…」


「うん、負けないの!

せーぎとゆーじょーは強いから勝つの!」


まぁユキ、と突然入口の自動ドアが開き、エプロン姿の若い女性が買い物カゴを持って子供に駆け寄ってきた。この子のお母さんだろう。


「ユキったら、こんな所にいたの!? 探したのよぉ。

…ごめんなさいね。びっくりさせちゃったでしょ?」


「あ…いえ…」


びっくりしたのは確かだが、母親をびっくりさせたのはこっちの方だろう。学園の制服を着ていなければ、誘拐犯と間違われていたかもしれない。


「もう、このコったら…。

ちょっと目を離すとすぐいなくなっちゃうんだから…。またここにいたのね…。勝手にいなくなっちゃ駄目じゃないの、ユキ」


「ママ、これ貰った」


ユキというのがこの子の名前らしい。勇樹とは一字違いだ。どういう字を書くのだろう。


まあ、と再び言って若い母親は困ったように苦笑した。


「本当にごめんなさいね…。

このコ、このキャラクターが大好きなの。昔のアニメの再放送か何かを見て、すっかり影響されちゃって…。困っちゃうわ」


「いいんですよ。こんなに喜んでくれたら、キン肉マンもきっと満足です」


タラコ唇に精悍な眼差しをした、見た目には決してカッコ良くは見えないキン肉マンの人形を手に、ユキちゃんはまた主題歌の、今度はサビの部分を歌っていた。


「ルールやぶりの~、あくのちょ~じん~」


「さ、行くわよユキ。ちゃんとバイバイしなさい」


ユキちゃんは名残惜しいのか、最後に勇樹に振り返ってバイバイしながら、


「屁のツッパリはいらんですよ」


とまた言った。これはキン肉マンの決めゼリフなのだ。

コラ、とお母さんはユキちゃんを窘めると再び勇樹に頭を下げた。勇樹もつられて頭を下げながら、小さな女の子に向けて握り拳でガッツポーズをしてみせた。

それを見ると、女の子はまたコロコロと笑った。


微笑んだ子供の表情は、やはり眩しくてかわいくて綺麗だった。きっと子供は、こんな風に健気に生きているだけで誰かを救っているのかもしれない。


小さな英雄は、母親に手を引かれて夕陽の向こうに消えた。


一人残された勇樹の心には、澱のように沈んだ思いだけが残っていた。


「正義は必ず勝つ、か…」


その言葉に勇樹は打ちのめされていた。

勇樹の正義は多分もう、二度と立ち上がってくる事はない。正義は悪でも何でもないものに敗れ、死んだからだ。


※※※


勇樹はあてどもなく再び街をさまよった。

夕暮れ時の街はごった返していた。

この制服で、これ以上人混みに行くのは憚られた。そんな気分になれなかった。


いつの間にか勇樹は普段、自分が早朝のロードワークに走っているコースを目的もなく、ただぶらぶらと巡っていた。


商店街から少し離れた、河川敷の土手。真っ直ぐに進むと小高い丘がある。空気は決して綺麗ではないけれど、ジョギングのコースには最適なコースだ。


川向こうの陸橋を電車が走るのが見える。西日に照らされた川が、きらきらと輝いていた。


茜色が眩しくて勇樹は自然と俯いて歩いた。夏も間近な六月の風が、ゆっくりと勇樹の脇を吹きすぎていく。

頬に触れる風は不思議なほどに温かかった。

雲一つない真っ赤な空。

暮れなずむ土手の景色は、呆れるほど長閑で穏やかな光景だった。


犬の散歩ついでにジョギングをしているジャージ姿の人や、腰を曲げて杖をつきながら歩く老婆とすれ違った。あの男と出会った潰れた廃工場は土手の向こうにある。


人通りのないうらぶれた景色。

あまりにも変わり映えしない世界の当たり前過ぎる、その日常の姿に、勇樹は何だか泣き出してしまいそうになった。


気がつけば勇樹は訳もなく走っていた。

行きたい場所など最早どこにもなくなったというのに。


泣き出しそうな思いを堪えるように、勇樹は駆け出した。


バカヤロウと大声で叫んで全て終わりになる映画のようになれたら、どんなに素敵な事だろう。ただ意味なく駆けた。駆けて駆けて駆け続けた。


駆け出したら、もう止まらなかった。自分でも止めたいと思わなかった。


土手の上を意味なく駆け続けていると、ひどく呼吸が苦しかった。その苦しさは本当に意外だった。


息苦しいのは生きているからだ。ちっぽけなこの体は、おめおめとまだ生きたがっているのだ。


誰も守れない癖に…。

大事な人を死なせた癖に…。

何もない空っぽの、どうしようもないポンコツの、役立たずの癖に…。


早々に胸が痛くなり、足がもつれた。

吹き付けてくる風に、視界はぐじゃぐじゃに歪んでいた。


もう痛みも苦しみも、何もかも感じたくなかった。何も考えず、何も残さずに、このまま肺がパンクして死んでしまえばいいんだ。

ちっぽけなこの体なんか何も残さずに、自分が存在しているという記憶ごと、どこかに消えてなくなってしまえばいい。


たった今、この世からいなくなったって構わない。明日生きていたいとも思わない。


そう思った途端、案の定、道端の草に足をとられ、もんどりうって土手の斜面を転がり落ちた。不安定な態勢で堅い地面の石か何かで、したたかに胸を打った。


うつ伏せの姿勢でしばらくの間、勇樹は喘いだ。

ひどい頭痛がキリキリとやってくる。痛みは内側からだった。両手で頭を抱えて痛みを堪えた。

すると今度は下腹の辺りがジクジクとして、次にひどい胃のむかつきがきた。


このむかつきは、すぐにでも吐き気に変わるのが解った。四つん這いになり、吐き気の収縮感がやって来るのを待つ。


目を閉じていると、いろんな顔が再び闇の中に浮かんできた。


死んでいった人間達の。

顔、顔、顔…。


血塗れの顔が、女達の顔が、マネキン人形のような顔が、虚ろな目で虚ろな勇樹を見つめている。


僕の周りは死骸だらけだ!


眩暈がした。

ひどく気持ちが悪い。最低で最悪な気分になった。


夕日に照らされた赤い世界がグルグルとめまぐるしく回っている。


由紀子が。貴子が。見知らぬ女達が。一条明日香が。

そして奈美の姿が重なる。


女達は勇樹を憐れみに満ちた目で見ては、闇の中に次々と消えていった。


自分が好きになった人は…。

関わった人は、みんなみんな死んでしまう!


そう思った瞬間、案の定吐いた。


身を折り曲げた。

眠っていない上に、空っぽの胃に急激にものを詰め込んだせいだろう。身体が拒絶反応を起こしている。


吐瀉物が地面に次々と落ちる厭らしい音。胃の中のものを残らず吐き出しても、吐き気は消えなかった。

喉が熱い。

胃液が喉を焼いている。

臭いにむせないようにして呼吸を止めた。


目の前の景色が滲む。苛立ちの拳を、勇樹は地面に思いっきり叩きつけた。


情けない…!


この世で一番自分が哀れで矮小に思えてきた。そんな弱い自分を、どこかで冷ややかに眺めている自分がいる。


『悲劇のヒーローにでもなったつもりか?』


もう一度、勇樹は地面に拳を叩きつけた。痛む事で敗北感はさらに募り、悔しがる事で残酷な現実は植え付けられた。


…もう、駄目だ。


勇樹はそう思った。


何がどう駄目なのかは判らなくとも、生きている限り、そう思うことは誰だって、幾度もあるのだろう。


自分の内側や外側の何かが駄目なのか。学校や職場や家庭が駄目なのか。社会で生きていく事が駄目なのか。身体がもう保たないと思うのか。痛くて辛くて我慢出来ないのか。

淋しいのか苦しいのか死にたいのか生きたいのか。


そうした何もかもがない交ぜになって、限界を迎えた時にきっと思うのだ。


もう駄目だ、と。


限界を迎える刹那。世界を拒絶したくなる瞬間。それでも全く変わり映えのしない世界の景色。


泣いてしまいたいくらい勇樹は小さかった。

勇樹は弱かった。

壊れた勇樹の存在は、まるで不毛な砂漠に浮かぶ砂粒のようだ。

小さく、弱く、吹けば飛びそうなほどちっぽけで、なくなってしまっても何も意味はないし、誰も困らないものだ。


勇樹が信じた世界は海に沈んだ砂粒の一つに過ぎなかったのだ。

どうしようもない負け犬だ。

野良犬だ。そう思った。


その時だった。


夕闇の風に乗って、どこかで、誰かが自分の名を呼んだ気がした。

微かな。低い声。

ひどく。懐かしい声。


どうせ幻聴だ。そうに決まっている。壊れた勇樹の世界は、物音は全て幻聴にしか聞こえないんだ。木偶人形の勇樹が見ている世界は全部まやかしだ。勇樹は構わずにそのままでいた。


そうすると、また呼ばれた。

上体を起こし、ゆっくりと重い頭を巡らせて勇樹は周囲を見渡してみた。


何もない。


誰もいない。


いる訳がない。


勇樹は一人だ。

きらきらと水が光っている。


「呼ばれたら答えろよな、バカヤロウ」


ぶっきらぼうで聞き覚えのある粗野な声が、いきなり背後から勇樹の耳朶を打った。


勇樹は振り返った。


逆光の夕日に浮かぶ黒いシルエットが、長身のその男の影を際立たせた。


この男はいつも、勇樹が最悪の気分の時に現れる。


「来栖さん…」


夕日を背にしたその影は、静かに言った。


「毎度お馴染み伝言だぜ。

『誰かの為に強くなろう。いつだってその姿勢を忘れるな。辛くても苦しくても、今は歯を食いしばれ。転んでもいい。

何度でも立ち上がればいいんだ。

いつも教えてきたことを忘れるな。頑張るんだ勇樹。大事なことは諦めないことなんだ』

…メッセージは以上です。ご利用ありがとうございました、と」


「来栖さん…。まさか、僕の父さんに…会ってきたんですか?」


この男はいつもこうだ。とんでもない所からいきなり不意打ちを食らわす。


黒いシルエットは懐から白いタバコの箱と、シャボン玉のような不思議な色合いをしたライターを取り出した。箱の中から一本抜き出して、彼は口にくわえた。


ピンという軽い金属音。

ボッと炎の灯る微かな音。

不確かな紫煙の流体が漂い、風に巻かれて消えていく。


ふうっ、と探偵は盛大に煙を上空に吐いた。


「お前の周りには本当に不器用な男が多いようだな。人を伝言ダイヤルの代わりにするなと伝えとけ。随分と心配してたぜ。あまり親父に迷惑を掛けるなよ。

まぁ別に、お前の親父はいつだってお前の親父なんだし、迷惑だなんてこれっぽっちも感じちゃいないんだろうがな」


よく解るような判らないような言い回しで、来栖はそう続けた。勇樹はそっぽを向いた。


「来栖さんには関係ないでしょう…。疲れてるんです。今は一人にしておいて下さい…」


邪険な勇樹の言葉に、背中越しの探偵は、今度は盛大に鼻を鳴らした。


「ハッ…。最近の高校生ってヤツは、自分本位で随分と不幸自慢が好きなようだな。

悲劇の主人公なんて実際、こうして目の前で見てみると、ひたすら滑稽で哀れなだけで笑える事はあっても少しも泣けやしねぇな。

並みのお涙頂戴劇じゃ、ひねくれた連中は誰一人泣かねぇぞ」


「…!」


歯に衣着せぬ、癇に障る言い方をする男だ。絶対にわざとだ。絶対に振り向いてなどやるものか。そう思った矢先、口の悪い粗野な男は再び続けた。


「そうやって悲劇の主人公が暴力や恋愛やヤクや売春だのの話を、クソ甘い菓子のように混ぜて、挙げ句、大事な人が目の前で死んでいくような不幸自慢をひたすら競い合い、傷ついた振りを決め込んでりゃ、後の展開は何でもアリか?

オナニー小説の主人公が好きなら勝手に一人で読んで浸ってりゃいいんだろうが、生憎とお前はそうはいかないんだよ。

お前がそうやって立ち止まっている事で、また人が死ぬからだ。

関係ないなんて言わせないぜ」


その言い方に、勇樹は思わず振り返った。


「いきなり出てきて勝手な事ばかり言うなよ!アンタに僕の何が解るっていうんだ!」


「ああ、わからないね! 他人の不幸なんざ、本当の意味で解って堪るかよ。だがな、お前が今まで大きな迷いを抱えながら生きてきた事くらい、俺にだって解る。

強くなろうと誰よりも前向きに生きてきたつもりで、お前が実は自分の中にある迷いをずっと押し殺して生きてきた甘ったれた弱い奴なんだって事ぐらいな!」


「何だって…!言わせておけば…!」


勇樹はもう我慢出来ずに立ち上がった。夕日の下で再び見る男の顔は、意外な事に真剣そのものだった。幾分か窶れている。


「初めて会った時からお前の迷いに俺が気づかなかったとでも思ってるのか?

…だから、お前は誰一人守れないんだよ」


腹が立ってきた。

勇樹はとうとう叫んだ。


「僕の見込み違いだった!

アンタはまるで死神だ!

アンタがいきなり学園に現れてから、みんなが不幸になってるじゃないか!

思わせぶりな事ばかり言って散々人を焚き付けておきながら、肝心な時にはいない!

何もしない! 何も出来ない!

正義を貫く為なら、たった一人で暴力を振るう事だって厭わない。自分一人が傷つけばそれで済む。

そんな風に考える大人を、僕は生まれて初めて見たんだ!

僕に兄貴がいたら、きっとこんな人なんだろうなって思ってた…。尊敬だってしていたさ…。なのに…!」


勇樹は最大の軽蔑を込めて、男を指差した。


「アンタも結局は他の大人達と同じだ!

口先だけで何も出来ない、卑怯で汚い裏切り者だ!」


来栖は怒気を孕んだ、危険な勇樹の言葉にも少しも動じずに、溜め息混じりに肩を竦めた。


「何とでも言えよ。力と正義と大人の在り方の関係について、今時の高校生と熱く議論する気なんかないぜ」


勇樹は拳を握りしめ、ひたすら挑発的な目の前の男を睨みつけた。

男は片方の眉を釣り上げた。


「…さぁ、どうした? その握り締めた拳で俺とやるのか? やらないのか?」


勇樹は俯いた。

再び拳を握りしめ、幾度か開いてその感触を確かめる。


臆した訳じゃない。

この男の腕がどれほどのものか、勇樹はよく知っている。だが、ここまで言われて最早、黙ってなどいられなかった。勇樹は探偵をゆっくりと睨みつけた。


「そうだ。腹が立つならかかって来い。自分の方が正しいと思うなら、時には力で相手をねじ伏せる事も必要なんだ。

悲しい事に、どんなに立派な言葉を並べ立てても一発の銃弾や一振りの凶刃の前には、黙るしかないのが世の中だ。後でピーチクパーチク祭りのように騒いだところで、死んだ奴はもう二度と帰ってこねぇんだよ。

だから、俺達は腕を磨く。

自分の身は自分で守る。

お前の在り方は、基本的には正しいぜ。

自分の身を守る上では、きわめて真っ当なやり方さ。

…だがな、その力で誰かを救えると思っているとしたら、それは大きな勘違いだ」


「結構な御託、どうもありがとう!

有り難くて涙が出そうだよ。

…でも、もうお腹いっぱいだ!

僕はアンタの、その取り澄ましたイケメン顔が前から気に入らなかったんだ。ボコボコにして、この夕日の下に野晒しにしてやったら、さぞかし気持ちがいいだろうな!」


「クク…痺れるぜ、そのセリフ。暴力は頭を使わなくていいから物凄く楽だ。ある芸術家はいい事を言ったぜ。芸術は爆発だ。

我慢の次は爆発すればいい。武術は体を使った芸術。正義や暴力と切り離して考える事は出来ないんだからな。

…さあ、どうした?

遠慮なんかいらねぇぞ。気に食わない俺を殺すつもりで、かかって来いよ。

一本でも俺に入れられたら、その時は唆されてやってもいいぜ。目の前から消えるし、どんな真実だろうと真相だろうと、好きなだけお前に語って聞かせてやるさ。だが…!」


探偵は一際強い視線になって続けた。


「出来ない時は、鈴木貴子の死体が学園のどことも知れない場所から転がり出るだけだがな!」


その挑発が、まるで合図だったかのように、再び勇樹の中で何かが切れた。気がついた時には勇樹はもう来栖に飛びかかっていた。


勇樹の拳を顔面スレスレのところでかわし、男はひょいと罠でも張るように勇樹の足を引っ掛けた。


べしゃりと無様に勇樹は草の地面に倒れた。


「空手の長所は、その驚異的な突進力と打撃力だが、逆に直線的な動きが弱点でもある。

…覚えておくんだな」


勇樹は再び男を睨み付けた。


「その口ぶり…。アンタ、何か知ってるな!?貴子はどこにいる!

もし、アンタが貴子に何かをするっていうなら…僕はアンタを許さない!」


再び怒気を孕んだ勇樹の言葉にも反応せず、男はギュッと左手の黒いレザーグローブを締め直し、ジロリと赤い瞳で勇樹を睨んだ。


「立て。手袋は既に投げられているんだぜ。お前も俺と同じはずだ。自分と戦う事で腕を磨き、身体を鍛えてきた人間達の間に余計な言葉なんかいらねぇ。もう一度言うぜ…。

真実を知りたきゃ戦え。戦う人間の世界は、オール・オア・ナッシング。

勝者に全てが与えられる。

…これも一つの真実だ。

新たに増えた依頼人には気の毒だがな。気が変わったぜ。その思い込みと勘違いに満ちた腐った性根…。この場で叩き直してやる」


「何を! ふざけるな!」


勇樹は再び探偵に飛びかかった。探偵は軽く勇樹の前蹴りをかわすと、不安定な態勢になった勇樹をドンと押した。


再び勇樹は地面に転がされた。それにしても今し方、この男…何と言った?


新たに増えた依頼人…? まさか。

それは父さんの事ではないのだろうか?


「戦いの最中に目を逸らすな!

相手はいつだって目の前だ。地べたなんかにゃ転がっちゃいねぇぞ」


黒服の男はそう言うと、今度は一転して攻撃に転じ始めた。


素早くスタンスをかなり大きめに広げ、右のパンチ。勇樹は後方に上体を引いて、かわした。危なかった。ギリギリだった! 


来栖はさらにそれを左で繰り返してきた。打つ度に、背中が見えるほど派手な技だ。踏み出した足に全体重が乗っているのがわかる。


払い打ちだが、ここまでスタンスは大きく広げない。ここまでモーションは大きくない。プロレスのラリアートを低空で振り回されている感じだ。殴るというより、なぎ払う攻撃に近い。


右。左。腕を振り回しながら、そのたびに踏み出しながら足を変え、勇樹の真っ正面からジリジリと詰め寄ってくる。


無茶苦茶だ!ガードも何もない。

長いリーチから繰り出されるハンマーのような重い拳が、左右から勇樹めがけ、ただただ振り回されてくる。早い。

ブンブンと振り回される空振りの拳が目の前で空を切り裂く度に怖気が走る。野球でいうならバッターのフルスウィングだ。一発でも貰えば、後方に弾き飛ばされてしまうかもしれない。


見えているのに手が出せない。

もう後がない。


こうなったらガードだ!

ガードして後ろに引くんだ!


バシッと派手な音がして、勇樹は後方に吹っ飛んだ。防御した態勢が中途半端過ぎた。

再び勇樹は背中から地面に倒れた。ほとんどダメージはない。だが…。


重い。ガードした腕が痺れている。腕に電気が走ったような感覚だった。


「何だ、その腰の引けたガードはよ! 後ろに受け流してダメージを抑えるのも時と場合だ。受け止めると決めたら腰を据えて踏ん張って、体全体を使って止めろ。

止めていれば俺はがら空きだ! 怖れずに合わせれば、それだけで勝負はもう決まっているぜ。崩せる技のはずだ。

…お前には、守りたいものがあるんじゃねェのか!」


来栖は駄目押しのように勇樹を一喝した。


今度は左右の突きと回し蹴り。コンビネーションまで絡めてきた。勇樹は必死に避けた。

速い上に重い。

打撃の嵐が勇樹を襲う。

勇樹は防戦一方だった。普段ならかわしながらカウンターのチャンスを狙う所だが、いかんせん来栖の手足のリーチは長い。かわしたり防ぐだけで精一杯だ。防ぐだけで体力が削られる。今は相手のミスを窺うしかない。


勇樹の甘い考えを読み取ったかのように、来栖がまた一喝した。


「受けに回るな! 何の為のその構えだ。攻めて攻めて攻めまくれ! 真っ正面から相手を捕らえて離すな。体のデカさはお前の技と手数、そしてスピードで押し返せ。

デカい相手にビビってんじゃねェ!

体が大きいって事は、スタミナの消耗も激しい。カウンターを受けた反動も、体の一部にかかっている負担も大きいんだ。リーチが長いのだって、決していい所ばかりじゃない。

潜り込まれれば、長いリーチは逆に邪魔だ。

自分の長所をいかに生かすかが大事なんだ。

…いいか、後の先…カウンターのチャンスってのは、いつだって自分の身をギリギリの危険に晒す事で生まれるんだ。思い知れ!」


小さい時から、勇樹が何度も聞かされてきた言葉を、なぜか来栖は口にした。


先程からの、この男の言動が気になっていた。殺気は相変わらず勇樹の身が竦むほどビリビリと伝わってくるが、不思議と邪悪な感じはしない。


実戦稽古に近いがそうでない。少なくとも、来栖は勇樹を相手に、全く手加減などしていない。それだけは伝わる。


受けては攻め、守ってはかわす。いつ果てるともない互いの攻防が続く。誰もいない夕暮れの河川敷に、来栖の檄だけが飛ぶ。


「正面体だけで相手を捌こうとするな! 時には一歩引くなり、打撃に打撃を重ねて体を入れ替えるなりして、相手の体の動きに合わせて反応するんだ。

相手を自分の境界に引きずり込むんだ!

相手のペースを乱し、舞台をひっくり返してみせろ。

勝負を支配するってのは、そういう事だ!」


来栖の檄が飛ぶ度に、バシッと竹刀で畳を叩いたような音が河原に響いた。


ガードしていても来栖の拳や蹴りは身体の芯に響く。わざとガードした部分に思いっきり当ててくる。外側を壊すというより、内側にドシンと響くような、一撃で気持ちよくされそうな、寒気のする拳だ。


勇樹とて負けてはいない。

気合いを込めて、これまで習ってきた技の数々を愚直に繰り返す。

来栖も負けじと勇樹の技を真似てくる。

だが、来栖は不意をついて、今度は足払い…水面蹴りを見舞ってきた。

しまった、と気付いた時にはもう遅かった。勇樹は軸足を刈られ、したたかに地面に尻餅を打った。


「くそっ!」


起き上がる。素早く距離を取る。させるか!


再び来栖が言った。


「繰り返される攻撃が、相手の癖やモノマネとは限らないぜ。伏線はいくらでもある。五感をフルに使い、相手の一瞬の動きから目を逸らすな。考えるんじゃねェ。感じるんだ」


どこかで聞いたセリフを、探偵は口にした。勇樹は同じ攻撃を、今度は自分から繰り出していった。


左右の突きから前に出ての正拳突き。そして左の回し蹴り。そして左右の突きへとまた繋げる。モーションは小さく早く。相手が体をひねるよりも早く。同じ箇所を、小さく細かく。技の繋ぎ目は少なく手数は多い。大抵の人間はこれで一本取ってきた。

勇樹の得意な連続技だった。


来栖は上体を逸らし、大きく体を屈ませて身をかわす。勇樹は驚愕した。

当たらない。かすりもしない。

長身の割に、ボクシングのスウェーバックやダッキングが早い。速い勇樹の突きや蹴りにヘッドスリップまで使い、最小限の動きでかわす上に隙がない。


だが、そこが狙い所だ。

後ろは土手。側には川。

勇樹はついにどん詰まりの壁に追い詰めた。

必ず来栖は左を打って、体勢を入れ替えようとするはず。リーチは長く、打撃は怖ろしく重いが、スピードなら勇樹の方が断然早い。



魔弾の貴公子という名は、カウンターが得意な勇樹の戦い方に由来している。

祖父から父へ、そして勇樹へと受け継がれてきた伝家の宝刀。相手の左突きに右突きを合わせる。ボクシングでいうクロスカウンターなら成功報酬は大きい。


この一撃で決めてやる!


来栖は蹴りの終わり際に案の定、左の突きを見舞ってきた。


そらきた!


勇樹は来栖の左のパンチに右を合わせた。芸術的とも言える十字型に交差する腕が互いの間に描かれる。


はずだった。だが。

ピタリと勇樹の拳が止まった。

来栖は何と、打った方の左手で左肘を曲げ、勇樹の右腕をかち上げていた!


来栖は距離を取るように右の掌打で勇樹の胸をドンと押し返した。二人の距離は、再び大きく離された。来栖が空いた距離をすぐさま詰め寄ってくる。


後方に跳ね飛ばされた勇樹は、驚きの表情をするしかなかった。

クリスクロス。カウンター返しだった。この男はこんな高度なボクシング技術まで持っていたのだ。

勇樹は心底驚いた。ゼロコンマ数秒のうちで、これほどの技が出来る者など、そうそういない。プロのリングのタイトルマッチでもなければそうそう目にできない。今の掌打も胸ではなく、がら空きの急所に決まっていたら、倒れていたのは勇樹の方だったに違いない。


ゆっくりと歩み寄りながら、来栖は言った。


「甘いぜ。そんなチンケなフェイクじゃ、俺は騙せねぇぞ。

無抵抗の人間を殺すのは狂気。

狂気に立ち向かうのは勇気。相手に気圧されたなら、それは弱気で、戦うお前の姿はあくまで強気な成瀬勇樹だろう?

だが、殺気を込めなきゃフェイントなんて何の意味もないんだぜ」


来栖はしてやったりとばかりに、ニヤリと微笑んだ。

勇樹もなぜか、知らずに微笑んでいた。


憎しみの感情などいつの間にかとうに消え失せていた。目の前の相手が、とにかくもう凄い男なのだと今ほど感じた時はない。ただのケンカが、意味のない争いだったはずが、なぜか勇樹の中で大きな意味を持っていた。


この男。本当に強い。今まで勇樹が戦ってきた中で、紛れもなくトップクラスの実力の持ち主だ。祖父や父や勇樹が目指す、武道に根差した強さとは根本からして違う。


勇樹は確信した。

来栖のこの無類の型は、明らかに生死を意識した実戦の中から培われてきた技だ。自衛隊の徒手格闘や軍隊のコマンドーサンボに近い。時には相手を殺す事も視野に入れた、そんな戦い方をしている。

研ぎ澄まされた殺気や、格闘技の種類を問わないその技の数々、急所を的確に打ち抜いてくるその戦い方は、間違いなく誰かを素手で殺す事を前提に身に付けたものだ。


相対している勇樹には解る。技だけで伝わってくる。相手を殺傷することに躊躇や迷いがない拳は脅威だ。


間違いなく最強。いや、最凶の部類に入る相手だ。

皮肉にも、こんな物騒な事件がなければ出会う事さえなかったかもしれない相手だ。


勇樹は自然と笑いが込み上げてくる自分を抑えられなかった。

今日という一日は、何という日だろう!


「ふふふ…」


勇樹は笑った。


「ククク…」


来栖も笑った。


戦う人間達の間に余計な言葉などいらない。

恐らく、もう何も言ってはこないはずだ。心地良い殺気。凛とした気迫が伝わってくる。勇樹の覚悟はもう決まっていた。

…この人に、勝ちたい!

人生最悪の日々に人生最良の対戦相手に巡り合うなど、本当に皮肉な話だ。これこそ究極のジョークだった。

これが笑わないでいられるか!


嬉しい…!凄く凄く嬉しい!


身体の内からこみ上げてくる感動に、勇樹はうち震えた。これが武者震いなのだ。


ずっともやもやしていた。ずっと退屈だった。その思いは壊れた。一対一の真剣勝負。

極限の技と技のぶつかり合い…。勇樹の求めていたのは、この瞬間だったのだ。


いつの間にか勇樹は忘れていた。強い相手と死に物狂いで戦える喜びを。馬鹿にされても構わない。何と呼ばれても構わない。

一つの事に一心不乱に打ち込むというのは、こんなにも楽しい事だったんだ!


『ありがとう…』


もし、戦いの神様がこの世にいるのなら、心の底からそう感謝して祈りたい気分だった。そして目の前の、この人にも!


勇樹は運命というのを、ほんの少し信じてみたい気持ちになった。

運命という名の見えない赤い糸が生まれた時から男女を結んでいるように、勇樹もこの男と見えない黒い鎖で繋がれていたのだ。

出会うべくして、戦うべくして僕達は出会ったに違いない。


勇樹は不敵に微笑んで構えた。

勇樹のスタイル…正眼の構え。正しき目と正しき心で、目の前の敵を倒す。祖父が教えてくれたこの構えには、そういう意味がある。


赤いコンタクトに彩られた真剣な瞳が勇樹を見つめている。来栖は来いとでもいうように、ゆらりと独特の構えをしながら、いつかのようにグローブを嵌めた左腕を振って勇樹を挑発してきた。

この構えの緩さ。一見すると隙だらけのようにも見える。だが、緩くはあるが決して軽くはない。

硬く、地に足をしっかりと踏んで相手を見据える磐石とした岩のような構えの勇樹とは違う。包み込むような、どんな衝撃にもびくともしない柔らかい構えだ。余計な肩の力を抜き、ゆらりとした姿勢もまた様になる、いい優男だ。


拳はまるでハンマーのようだった。攻撃は濡れた綿のように重く、長いリーチから繰り出されるフックや蹴りは、ゴムのようにしなる速くて鋭い鞭だ。

人間の肉体こそ神が与えた芸術品。そして、格闘技は究極的には正当化された暴力。

その理屈がよく解る。相手と戦い、倒すという点は同じでもそこに至る考え方や戦い方、型に鍛練の仕方に格闘哲学は、それぞれまったく方法論が違うから面白いのだ。

成瀬勇樹は違いが解る大人なんです、と。


そんな冗談を心のうちで口にしながら首を左右に傾けて、勇樹も肩の力を抜いた。

真剣勝負の時こそ、無駄な力は必要ない。


来栖も警戒を強めたようだ。

油断なく微笑みながらも、二人はジリジリと互いが円を描くように動いていた。

互いの間合いが描き出す、危険な境界線。

一歩足を踏み出せば、そこは修羅場のデンジャラスサークル。


勇樹の戦闘思考は既に最終段階に入っていた。狙いは一点だ。そこに狙い通りに決まれば、この戦いは終わる。


その刹那。勇樹は吠えた。


相手の斜め前から入る。

初動から蹴りをしならせるようにして、飛びかかりながら技を繰り出した。


…自分の持ち味を。身体のバネとスピードを最大限に生かすんだ!


来栖は勇樹のあびせ蹴りをかわした。

がら空きの勇樹の胴に向けて来栖の右の正拳突きがくる。


…身体全体を使って受け止めるんだ!


勇樹は腕を十字型にクロスさせ、強烈な来栖の正拳を防いだ。ボクシングのクロスアームブロックだ。弾かれる事もなく、完全に勇樹は来栖の拳を止めていた。来栖は即座に間合いを詰めてきた。


…臆するな。カウンターのチャンスはギリギリの敵火に身を置く事で、初めて生まれるんだ!


来栖は勇樹よりリーチが長い。いかに無類の型を持つ来栖とはいえ、小さな相手に潜り込まれれば自然に出せる打撃技の数は限られてくる。密着すれば、拳や蹴りは出せない。肘や膝さえ威力が相殺される。


逆に小さな勇樹からは、全ての打撃が上向きに当たる事になる。下からの縦のパンチは、見えにくい上に避け辛い。顎への突きは、それだけで必殺のアッパーカットにもなる。


最大の来栖封じは、接近戦の中にあったのだ。


…ここだ!


勇樹はほぼゼロ距離から左右の掌打を、そこへと。その部分へと見舞った。胴を防いだ来栖は、まさかその防いだ腕こそが…グローブの部分こそが勇樹の狙いだとは気付かなかったようだった。


勇樹はガードした来栖の左手に向けて掌打を見舞い、それを挟み込んで捻った。

来栖の黒いレザーグローブが宙に舞った。


そこに勇樹はとんでもないものを見た。


ぎょっと固まった勇樹は来栖の掌打に、いつの間にか再び後方へと跳ね飛ばされていた。ペタリと地面に勇樹は両膝をついた。


「チッ…。見られちまったらしょうがねぇな…」


来栖はゆっくりと構えを解いて、落ちたグローブをその左手で拾い上げた。


「見事な一撃だ。この勝負…お前の勝ちだ」


忘れていた。

そんなルールなど、もうどうでもいい。


「その左手…来栖さん…。それって一体…」


探偵の。

来栖要の剥き出しになったその左手を、勇樹は初めて見た。薄々はそうではないかと思っていた。だが、目の前で見るそれは、あまりにも衝撃的だった。

来栖要の左手は怖ろしくひどい火傷の跡で爛れていたのだ。

半ば紫色に染まって膨れた手に縦横に走った、蔦のような太い血管…。網の目のように細かく走った毛細血管の隅々まで。血管の全てが見えてしまうほど、凄惨に爛れた跡だったのだ。


「自家移植や再生手術でも治せない傷らしい。感覚はあるが、皮膚の表面の組織は殆ど死んでる。俺が化け物みたいで驚いたか?」


「それって一体…」


「ま、俺も訳ありって事だよ。命があるだけマシさ。…とある一家の御家騒動に巻き込まれた時の、ただの掠り傷だ」


座れよ、と土手にごろりと寝転んだ探偵はどこに隠していたのか、スポーツ用のドリンクホルダーを勇樹に放り投げて寄越した。

黒いアルミのボトル容器は冷たかった。飲んでみると凄く酸っぱかった。微かに甘い味がする。蜂蜜を混ぜた黄色い飲み物だった。

この味には覚えがある。スポーツ飲料のメーカーが売り出している濃いクエン酸を水で希釈したものだった。疲れた体と胃に染み渡るようだった。


勇樹は言った。


「僕の…完敗です。あなたはその気になれば、いつでも僕から一本取れた。

…いいえ、真剣勝負に、そもそも一本も三本もない。これが命のやり取りだったら僕はもうこの世にはいませんよ。首の骨が折れているか、とっくに撲殺されて死んでいたことでしょうね…」


「お前は強いよ。いい師匠に恵まれているな。天性のバネも気迫も言うことなしだ。若いのはこうじゃないとな。まだまだこの世の中、そう捨てたもんでもないようだ」


探偵は微かに微笑んだ。

まるで息が乱れていない。

気持ちいいぐらいの、勇樹の完敗だった。

勇樹は言った。


「僕はもう…。こんなに真剣に戦う事は、もうないかもしれません…。

僕は生きている意味が解らなくなった。

…戦うのは好きです。思いきりぶつかると、何もかも忘れられるから…。けれど、今の僕はただの抜け殻です。惨めな思いを晒して、生きているだけです…」


「死ぬつもりなのか…?」


「わかりません…」


不思議と、そんな会話が成立していた。言葉は意味や意志を伝えるものだが、言葉だけでは伝わらない物の何と多い事だろう。

万能ゆえに言葉は器用貧乏だ。不便なものだ。始めに言葉ありき、か。

来栖はそんな勇樹に、やはり言葉で語り始めた。


「取り戻せないのが過去。避けられないのが未来…。そして、その未来とどう向かい合うのか、決めるのは誰でもない。お前だ」


疲れきった体に染み渡ってくるような、静かで穏やかな声だった。


「お前が今そうして生きている時間は、彼女達が生きたくても生きられなかった時間…。残酷なようだが、それがお前の現実だ」


勇樹は目を閉じた。


「当たり前だと思っていた現実に、いきなり訳のわからない穴が開いた…。

そこから流れ出した人間の底深い闇が持つ悪意や厭らしさ。耐えがたい人間の一面ばかりを、お前は嫌というほど見せつけられた事だろうな…。

あの時計塔を設計した奴はな、成瀬。下らない仕掛けを施しては人を眩惑し、人の持つ暗闇をひたすら刺激し続ける為だけに、あんな馬鹿げた建物を幾つも造って死んだ男だ。

気に食わない話だが、俺はそいつとは、とことん因縁があるようでな。そんな馬鹿が仕出かした不始末にけじめをつける為にも、俺はお前に関わろうと思ったんだ」


すまねぇな、と探偵はぼそりと呟いた。

別にあなたのせいじゃないのに、と思ったが来栖の表情に何かを感じた勇樹は黙っていた。


「俺が関わろうと関わるまいと、結局はなるようにしかならなかった…。お前や、お前の大事な友達を肝心な時に俺は助けてやれなかった。何が探偵だ…。

お前もそう思うだろう?

つくづく俺は無力な男だな」


「違う! あなたは僕を守って捕まったんじゃないですか!」


探偵は何も言わずにタバコをくわえた。

勇樹は言った。言わなくては一生後悔する。そう思った。


「名探偵が万能じゃない事くらい僕だって知ってます。人間として尊敬できない人が主人公なら、きっと推理小説なんて誰からも愛されてませんよ。僕はそれでも…不器用な探偵の方がいいです…」


ありがとよ、と黒服の探偵はぶっきらぼうに微笑みながらそう呟いた。


「…そうかもしれないな。

探偵はいつだって不器用で手遅れで、結局は敗者でしかないのかもしれない。

既に終わっている事件にのこのこ現れて、真実だの真相だのと吐き気がするお題目を平気なツラして語り出すんだからな。

お前の言う通りさ。大人は大概が狡賢い。俺も立派な負け犬だな」


違う…! そんな弱音は聞きたくない!

あなたはいつだって僕の…。

僕がいつも心に思い描いてきた理想の…!

込み上げてきたその思いは言葉にならなかった。喉に何かが詰まったように、勇樹は声が出せなかった。


「そんな顔するな。目の前の真実から目を逸らして生きていたいとは、俺だって思っちゃいねぇよ。この事件は人の悲しみや痛みとは全く違う理由で引き起こされている。それが言いたかったんだ」


「え…? だって事件は終わったんでしょう?

一条先輩が犯人で、校長と奈美を殺して薬物で自殺した事件なんじゃ…」


違う、と探偵はいつになく険しい表情で、はっきりとそう言った。


「違うんだ。死因は墜落死で錯乱した原因は確かに薬物だが、一条明日香は殺されたようなものなんだ。

いや、一条明日香だけじゃない。校長の村岡義郎も、沢木奈美も、川島由紀子も…。

そして昔、あの学園で死んだ山内洋子も武内誠も。そして失踪した高橋聡美という生徒も、恐らくもう死んでいる…。

この事件の犯人は、普通なら考えられないような方法で七人もの人間を殺めた大量殺人犯なんだ」


声が出せなかった。


「この事件は普通の事件とは違うんだよ。

隠された過去をきっかけにして、次々と事件が起こるような巧緻な罠を企て、遠くから事件を眺めては嘲笑っている奴がいる。

自分が楽しいから事件を起こす。そんな奴はどこかで勝者になりたがっている人間なんだ。乗ったからには、俺はそんな暴走機関車を止めなきゃいけない。コイツだけは絶対に気に入らないからな」


「僕に何をしろというんですか。僕は本当の敗者なんです。あなたはきっと勝者になれる人です。どんな事実があろうと、僕の世界はもう壊れてしまったんです。生きていても、きっと無意味です…」


「勝者もなく敗者もなく、心には大きな傷跡だけが残る…。残りの人生を何年、何十年とかけて、時が止まったその瞬間をただ忘れる為に後ろ向きに生きていく。お前は本当に、それでいいのか?」


「僕は本当に負けてばかり…ただの負け犬でしかありません…」


「そんな事、誰が決めた?

…いいか成瀬、勝者だ敗者だは所詮、絶対的な価値観にはなりえないんだよ。何度でも言うが、自分の気持ちに決着をつけるのはいつだって自分自身なんだ。違うか?」


俯いた勇樹を見やり、落ちていく夕日を眺めながら来栖は続けた


「沢木奈美が死んでいた場所…。噴水がある、あの花園は今も警察が捜査している」


勇樹は膝を抱えた。


「傷ついた奈美の死体を弄くる為に司法解剖に回してるんでしょう?遺留品だの証拠だのって、それこそ警察がずっと嗅ぎ回っているんでしょう…」


「そうじゃない!」


探偵は激昂した。あまりの剣幕に勇樹はビクリと顔を上げてたじろいだ。この男が、これほど怒りの感情を露わにするとは思っていなかったのだ。


「わからないのか?

…なぜ、彼女があの場所で死んでいたのか? 死ななければならなかったのか…」


「え…?」


意味が…判らない。


「沢木奈美は…。彼女はな、矢で身体を貫かれても、あの場所へ行った。あの場所で死んだ…。彼女の血の跡は、時計塔へ続く階段の踊場から、あの噴水のある花園まで点々と続いていたそうだ」


勇樹は顔を上げた。

何が…言いたい?


「お前も見たはずだ。

急所は逸れていたんだ。撃たれた場所から動かなければ、出血はあそこまで酷くはならなかった…。動かなければ、あるいは彼女は助かっていたかもしれないんだよ。

それなのに彼女は足を引きずりながら…それこそ血を吐きながら、土砂降りの雨で消えていきそうな意識と寒さの中で耐え、必死の思いで噴水のある場所へ行った。あの場所で死んだ。そうしなければならない理由があったからだ!」


な、奈美…?


「彼女があの場所で死んだ事で一体どんな状況が生まれた? 彼女の死がたった今、あの学園とお前の周囲に何を齎している?

…その意味を、お前は考えなかったのか!」


「ま、まさか…。あの場所には…まさか!

な、奈美は…。僕にそれを伝える為に…それだけの為に僕を…待っていたっていうんですか!?」


勇樹の為に…。では…。

貴子はもしかして…。


「そうだよ…。沢木奈美は死を賭して…彼女はたった今も、お前やその友達を犯人から必死で守り続けているんだ。

彼女は最期にお前に何と言っていたんだ?

お前は彼女から、何か託されたものがあったんじゃないのか?」


勇樹は懐にしまっていた、小さなそれを取り出した。

握り締めた奈美の手のひらの冷たさが蘇る。

そらは血だらけの手で奈美が勇樹に託した、由紀子の赤い髪留めだった。夕日の中で、赤い偏光グラスがキラリと輝いた。


『ありがとう』


「それが、この事件の最大の切り札になる事を彼女は知っていたんだ。

それをあの場所で大切なお前に託す事…それこそが、彼女の最後の願いだったんだよ。

誰よりもお前を大切に思っていたから…。自分の犯した罪を誰よりも悔やんでいたからこそ、お前を…。トモダチを守りたい。

お前ならきっと何とかしてくれるから…。

彼女はきっと、そう思ったんじゃないのか?」


「うぅっ…!奈美…。奈美ぃっ…!」


声にならない声で勇樹は奈美が生きた証と呼んだそれを…。その由紀子の髪留めを自分ごと抱きしめた。


「人は死ぬ」


ぼそりと探偵はそう呟いた。

探偵の声は、いつになく低い。

ついに残酷な真実を死神は語り始めるのだ。

探偵は勇樹という閉ざされた箱の蓋を今、完全にこじ開けようとしている。


「いつか…必ず死ぬ。

それは今日かもしれない。

明日かもしれない…。

身体の形が変わっていけば心もいつしか変わっているように、人は仮面なしには生きられないんだ。

昼と夜。昨日と今日。今日と明日…。自分の人格は、いつだって同じじゃない。

今日の喜びは明日悲しむ為にあるようなもの…。悲しみがさらに大きな悲劇になり、時には潰されてしまう事だってあるだろう。

…だが、変わらないものが二つだけある」


勇樹は顔を上げた。


「たとえ自分がいなくなったって、自分にとって誰よりも大切な人がこの世からいなくなってしまったって…。

この世界そのものがなくなってしまう訳じゃないって事だ。そして、自分が自分自身であることをやめること…。それだって、それこそ死ぬまで出来ないことだ」


探偵は細くなったタバコの先を左手で。醜く焼け爛れた手を隠す、そのレザーグローブを嵌めた手で握り潰した。


「憎しみを抱いて、暗闇に爪を立てるようにして生きていたって。あるいは陽のあたる場所で刺激に飢えながら退屈に生きていたって腹は空くし、眠けりゃ寝る。

寂しい淋しいと言いながら飯を食ったり寝る姿なんて滑稽で悲しいもんだが、それが人だ。人が生きているからだ。

笑いたい時は腹を抱えて笑えばいいし、泣きたい時には涙が枯れるまで思いきり泣きゃいいんだよ。

大人になって振り返る事が多くなるとな、それすら出来なくなる人間だっているんだ…。

生きるだの死ぬだのの意味を考えるのは、精一杯生きてからにしようぜ。

その赤く綺麗な髪留めのように、輝く為に存在するものもある。お前が懐から取り出した事で、それは光を取り戻した。

そこに意味なんかない。

意味は作るものさ。意味なんか解らないからこそ、俺達は生きてるんだろう?」


そう言って探偵は静かに勇樹に向けて微笑んだ。今までで一番優しげな表情だと、勇樹はそう思った。


勇樹は探偵に問いかけた。


「僕にも…いつか解る時が来るんでしょうか…?」


「さぁな…。だが、こう見えても俺は人を見る目はあるつもりだぜ?」


そう言って探偵は自分の偽物の赤い瞳を指差した。赤い夕焼けに霞んだ勇樹の瞳には、それは自分と同じとしか思えなかった。

それが可笑しかった。

勇樹はいつの間にか、また自分が微笑んでいる事にも気づかなかった。


「どうだ? ゆっくりと目を閉じてみろ。まだ何か見えるか?」


勇樹は言われるままに、ゆっくりと瞳を閉じた。無限の暗闇は、ただ微かに暖かい茜色だけを瞼の裏に映して広がっていた。

ほんのりと温かい夕暮れの風を頬に感じる。

顔だらけの幻覚。死への誘惑と幻想は、いつの間にか消えていた。

そこに勇樹は由紀子の朝日のような眩しい笑顔と、奈美の照れくさそうに微笑む姿を見た気がした。探偵は言った。


「お前は最初から知っていたはずだ。目を閉じても開いていても、俺達の世界は必ず、変わらず、今ここにあるものだ。

お前が今、見て、聞いて、触れて、嗅いで、感じているこの世界がたとえどんなものであれ、今この時、この世界を認識してるのは誰でもない。お前自身の身体なんだ。

…お前は誰よりもそれを知っていたはずだぜ?簡単な事さ。

自分の身体こそ世界そのものであり、意識そのものなんだ。お前の存在はちっぽけで世界の一部分にしか過ぎないが、同時にこの世界そのものでもあるという事さ」


その言葉に勇樹は闇の呪縛から解放された。

探偵は言った。


「この世界がある限り、お前はある。お前がいて、たった今生きてるからこそ、この世界がある。いいか、成瀬…」



「真実はいつだってお前と共にあるんだ」



その言葉に何かが一滴…。

勇樹の頬を伝い、流れ落ちた。

勇樹は慌てて顔を逸らした。

この人にだけは…。

見られたくない…。

温かい夕日の中で黒い影が手を差し伸べた。


「…さあ、立てるか?」


その言葉に勇樹はようやく。

ゆっくりとだが、立ち上がる事ができた。


「いつかと同じセリフですよね。ふふっ…。

本当にあなたには、格好悪いトコを見られてばかりです…」


微笑む勇樹に向け、探偵はニヤリと微笑んだ。


「立ち止まるのもいい加減に飽きただろう?

なら、俺と最後にもうひと暴れしに行くぞ。

お前の友達を助けにな…。今度こそ、お前の事件を終わらせるんだ」


「はい…!」


雲一つない晴れ渡った空の向こう側。

地平の彼方に、温かく巨大な塊がゆるゆると落ちていく。

想望なる茜色の大地は今、燃え立つような真っ赤な色に染まり、二つの長く黒い影がゆっくりと一つに重なっていた。

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