赤い羊

17


時は僅か遡る。

その数時間前の出来事だった。


…………

ギイッっという尾を引くような薄気味悪い音と共に、鋼鉄製の扉の片側が開け放たれた。

花屋敷達の目の前にはうっすらとした暗闇が広がっており、部屋の両側の壁面には宗教画とおぼしきステンドグラスがあった。


僅かに西に傾き始めた午後の光が仄暗い薄闇を切り裂くようにしてステンドグラスから幾筋も漏れ、空中に舞った埃の粒子を際立たせている。まるで西洋のゴシック教会のごとき風景だった。


その後光のような光がもたらす光景はどこか荘厳で、無信心を自認する花屋敷のような男にもどこか清浄な光景に思えた。黒々とした周囲の闇も、この神々しい演出に一役買っているように思う。宙を舞う埃の一つ一つさえ視認できてしまう。薄暗く、それでいて硬く、乾いた場所だった。


わぁ、と微かに溜め息を洩らすように呟くと、石原は周囲をキョロキョロと眺め渡した。


「凄い…。時計塔がこんな場所だったなんて。来てみなきゃ本当にわかんないものですね。こんな事なら大型の懐中電灯を用意してくればよかったですね、先輩」


「ああ。これほどとはな…。

川島由紀子の事件の時にも、ここには捜査員は何人も入ってるはずなんだがな…。指紋や何かが出たって話もそういや聞かないな」


「いえ、最初の捜査会議で一応、話には出ましたよ。柏崎さん達が確認してくれたようですけど、川島由紀子に関するものは何も出なかったようです。

…まぁ、遺留品が発見されたのが教室の方ですし事件の現場は飛び降りた屋上なんですから、それほど重要視されなかったんだと思います。この時計塔に彼女は入らなかった、と所轄の方は最初はそう判断したんじゃないでしょうか。…って先輩、最初の目黒署の捜査会議の時に柏崎さんのすぐ隣にいたじゃないですか?」


覚えていない。おそらく捜査会議で配られた報告書や捜査資料を斜め読みでもしていた時だろう。柏崎というのは40そこそこの厳つい顔立ちをした目黒署の刑事である。鬼瓦のような強面の顔だが非常に気さくで慎重な物腰をする、信頼の置ける刑事だった。


石原が言うように、確かに所轄の目黒署は最初からこの事件を自殺と考えていたような節がある。この時計塔は事件当初、完全にノーマークだった訳だ。


墜落死などは特に遺書や目撃者などがあった場合、早々に自殺と判断されてしまいかねない。状況が状況だし今さら捜査員達を責められないとはいえ、これは僅かだが初動捜査の手落ちといえる。


「クソっ…あの遺留品の手帳と結びつけて考えれば、彼女の死亡前後の行動の不自然さには気が付きそうなものなんだがな…。大方、年頃の少女が風変わりな遺書を残して飛び降りたんだとでも判断したんだろうけどな」


「仕方ありませんよ。

『魔術師に会う』なんて文面だけじゃ、まったく意味が通じませんから。

七不思議とか生徒達の口さがない都市伝説とか、ごちゃ混ぜになっていて証言かどうかもわからないような曖昧な供述を、警察はまともに取り上げたりはしません。

普通なら与太話にしか聞こえませんから、問題にされなかったんだと思います。現場周辺の指紋にした所で誰のか判別できないのが新旧、数限りないほど出たようですし…」


それに本店の刑事はただでさえ所轄には嫌われてますからね、と言って石原は肩を竦めた。


「ああ、まぁな。今さらだが本庁から捜査協力に出向するってのも楽じゃないよな。派遣会社の社員の気持ちが少しだけわかるような気がするぜ」


花屋敷はこの縄張り意識というヤツも苦手だ。現場の刑事はどこまでも刑事だと簡単に割り切れるほど、警察組織というヤツは単純にはいかないのだ。


石原も落胆したように溜め息をついた。


「いくら本庁の捜査一課だからって私達だって普通の刑事ですよ。

サツ庁から幹部級の人が出張る時には大抵ザワつきますし、上から普段と違う方針や命令で引っ掻き回されるのは所轄もいい加減、嫌気がさしてるんでしょうね。

雲の上の方は所轄の末端はいつも見ないふり知らんぷりですよ。その癖、上層部が所轄に齎した皺寄せは全部私達に向くんです。

出向中の私達も、靴の裏をすり減らして動いてる駒なんだって事、どうして所轄には分かってもらえないんでしょうね」


ひとしきり愚痴りながら、石原はハンドバッグの中のペンライトを探っていた。

同感だ、とそう言って花屋敷も肩を竦めた。溜め息を漏らしたくもなる。


警察の身内同士の縄張り争いや階級意識の違いというヤツほどややこしい話はない。縦社会とて決して一枚岩ではない事を思い知らされる。


川島由紀子の不審死から始まった今回の事件。本庁の捜査一課の協力の下、事故と自殺の両面から捜査を始めて今日で一週間ほどが経過している。


他殺の線がないかどうかの目撃者探しは本庁の花屋敷達が担当している訳だが、今回の事件には思わぬ所でこの時計塔という大きな見落としがあった事になる。


花屋敷は暗闇の中で複雑な思いに駆られた。


あらゆる事件は顔の見えない抽象画のようなものだ。物証、証言などの証拠を積み上げて事件の原因を探っていく刑事達の捜査は、最小化されたキャンバスに描かれた絵を、徐々に拡大していく行為に等しいのだろう。


全体像を掴もうとする過程で躓く事もある。最初に道を誤るのを初動捜査のミスとも呼ぶ。逆に被疑者が自白したり自首したりして、あっさり解決してしまうような事件もある。


捜査が難航して長期に渡ってしまえば必然的に責任が問われる事もある。現場の責任者は往々にして、そうしたジレンマを抱えて事件に臨んでいるともいえる。


さらに喩えるなら、ある意味で警察は企業と同じだ。事件があり、犯人を逮捕送検するまでを刑事の仕事とするなら、検挙率という数字は結果であり統計的なノルマだ。

捜査が難航した場合に警察は無能だの職務怠慢だのと民間人やマスコミに叩かれるのは、不義理な企業に対するクレームのようなものではないだろうか。


日本の警察は優秀だと持ち上げられたり、昔の推理小説の中では無能だと貶されたりもするが、現実の警察は本当に多忙なのだ。事件は次々に起こる。宮仕えの公務員だとて決して楽などしていない。


上司の磯貝警部など何日も仮眠室で眠り、自宅には殆ど帰っていないはずだ。現場の刑事や巡査は日本のプロボクサーと同じくらい報われない。悪意に満ちた猟奇事件や凶悪な犯罪に限らず、人間がいる限り決してこの世界から犯罪がなくなる事はない。


そして罪と罰が必ず両立するとは限らない。事件の認知件数にも上らない事件は至る所にある。警察のデータベースにある特殊失踪人がいい例だ。何らかの理由で行方不明になっている人間も圧倒的に多いのだ。死体すら見つからないのなら、その数だけ完全犯罪の殺人事件が成立している事になる。


花屋敷のようなヒラの刑事が刑事部屋で慣れない書類仕事ばかりする、安穏と平和な日々は未来永劫に訪れない気がした。


花屋敷は薄暗い時計塔の内部を改めて見渡した。


この一階の室内は異様なほど暗く、そしてひどく肌寒い。薄暗い暗闇が質量を伴い、まるで霧のように石畳の床を漂ってでもいるかのようだった。


学園という環境には不釣り合いなほど高い構造物の上の方を仰ぎ、花屋敷は改めて、その絶なる奇景に思わず溜め息を漏らしそうになった。


中空に穴でも穿たれたような吹き抜けの先は、色彩の全てを呑み込んだかのごとき漆黒の闇が広がっている。


奥の彼方から、何やらギリギリガタガタとくぐもった、軋むような機械音が聞こえてきた。歯車の一つ一つ、ロープや鎖、鋼鉄の梁や時計の部品が闇の中で今も息づき、確実に時を刻み続けているのだろう。


精密な時計機械を建物自体に組み込む過程で、明暗の度合いや広さという内的な機能性はまるで無視されている。機能美よりも構造美を重視しているような造りだ。限られた空間は高さでカバーするという構造になっているのだろう。面積は狭いが、その分だけ容積が多いのだ。


人間が五感に感じ得る、当たり前なスケール感というものを徹底的に無視した造りともいえる。さらに花屋敷はその非常識さが、単に高さや大きさだけの問題ではないのだという事もすぐに悟った。


室内の空気が張り詰めている。緊迫しているのとは違う。やたらと密度が濃いという感じである。清浄なロケーションなのに息を吸うのが辛くなる程に濃密なのだ。空間が膨張しているといっても大袈裟ではない。閉所恐怖症の気持ちがわかるような気がして、花屋敷は思わず立ち竦んだ。


屋上資料館。本来はそう呼ばれている場所のはずだ。しかし、この圧迫感は一体何だというのだろう?


来歴は知らないが、敬虔なキリスト教の学園が持つ雰囲気ゆえなのか、それとも過去に忌まわしい殺人事件があった場所という先入観が、そう思わせるのだろうか。


塔の頂上、天蓋の先には今、六月の湿った風が吹く灰色の空が広がっているはずだ。


この奇妙な建物に長くいると、常に闇の中にいるが如き錯覚に陥ってしまいそうだ。


暗闇に少しずつ目が慣れてきた。二人は扉から部屋の両側に分かれた。花屋敷は薄暗い周囲を手探りするように見渡していく。石原も自前のペンライトで周囲の暗い部分を照らして確かめている。


花屋敷のいる西側に明かり採りの四角い窓が一つだけあった。吹き抜けの室内の為、照明器具は天井にはなく、四方の壁際に点々と灯ったランタン型の四角い照明があるのみだった。


ほんのり鈍く、黄色い光を放つそれらランタンの灯りとステンドグラスから後光のように漏れ出す淡い自然光だけがこの部屋の光源のようだ。


黄色い照明というのも常人の感じ得る色彩感覚の常識を執拗に無視した設計に思えた。夜には真っ暗闇になる事を想像すると、遠くからは黄色い光だけがぼんやりと高い塔の足元に浮かんでいるような不気味な風景になるのだろう。


決して夜中に入りたい場所ではなかった。資料館なら照明にはもう少し気を配ればいいのに、と花屋敷は場違いにもそう思った。


上背のある花屋敷の、ちょうど肩の高さにその明かり採りの窓がある。

花屋敷はそこから表の景色を覗いてみた。


四角く切り取られた景色の向こう側は、真ん中に噴水と白木のベンチがある綺麗な中庭とその周囲にある鬱蒼とした木々が望めた。


今度は真下を覗いてみて、花屋敷は思わずぎょっとした。断崖絶壁のように真っ平らな校舎の白い壁が垂直に見えるだけなのだ。


石造りの監獄を思わせるような堅牢な構造物はやはり半端に高く、そして非常に不安定な位置に建てられているようだ。この一号棟の校舎に半ば引っ付くようにして建っているのだろう。


通常であれば雨水を貯めておく給水塔などがある普通の校舎とは、やはり根本的にこの学園は違う。屋上の奥にひっそりと聳え立ちながら尚、黒々とした威容を放つ建物など、やや異常に思えた。


「しっかし何ていうかのかな…教会っぽい神聖な感じはするのに、どことなく薄気味悪い陰気な場所だぜ。コイツを作ったヤツも相当変わってるな。何を考えてこんな大袈裟な建物を建てたものやら…」


うわんうわんと花屋敷の野太い声が僅かに反響する。暗闇に直接語りかけているようだ。


「虚実の塔っていう名前らしいですよ。昭和の時代を生きた風変わりな建築士が手掛けた作品なんだとか…」


闇の向こうから石原が答えた。


「ああ、来栖征司だったっけか? この建物をみる限り相当な変わり者だったんだろうな」


「ええ、そうですね…。そういえば今回、逮捕された容疑者と同じ名字…ですよね」


幾分か声のトーンを落としながら、どこか気遣うように話す彼女の方を花屋敷はちらりと横目に見た。


「偶然とは思えませんよね。何か関係があると思いますか?」


「ああ、あまり自分の事は話したがらない奴だったがアイツが来栖征司って建築士の息子だって話は知ってるよ。

親子揃って変わり者だな。どうせ今も留置場の中でケロッとしてるんだろうし」


「心配じゃないんですか?先輩の大学時代の友達なんでしょう?」


「ああ、アイツの事はよく知ってるよ。この程度でへこむような奴じゃない。

アイツは学生時代に、死ぬまでに一度でいいから豚箱みたいな暗い所で落ち着いて本が読みたいと言ってたような変人なんだぞ?

頭がいい割に、やる事為す事どこかイカレてるような奴なんだ。

…まぁ逮捕はしたものの送検はされないみたいだし、いずれ詫びにアイツが好きなテキーラでも差し入れてやるさ。早瀬が何を考えてアイツを拘留してるのか、そりゃあ俺は知らないけどな…」


花屋敷はなるべく無感情を装ってぶっきらぼうにそう言った。クスッと暗がりの中で石原が忍び笑いを漏らすのが聞こえた。


「私も個人的に会ってみたいですね。その来栖さんに。この時計塔を作った建築士の息子さんな訳だし、話を聞く限りだと無茶苦茶だけど色々と面白そうな人みたいですからね」


「変な奴だけどな。あんな奴でよけりゃ、いずれ紹介してやるよ」


気を取り直し、改めて花屋敷は周囲を見渡していた。


部屋の奥の中央には大きな十字架に掲げられたブロンズの偶像が静かに眼下に佇む者達を、慈愛に満ちた眼差しで見下ろしていた。


信仰心に篤き者の中には、あるいはこうした依り代に偉大なる神の姿を幻視するのかもしれない。


ふと、花屋敷はある事に気が付いた。


ステンドグラスの一つから漏れ出した光が十字架へと降り注ぎ、巨大な十字型の影を描いて赤い絨毯の敷かれた床に逆さまに映し出されるようになっていたのだ。


逆さ十字だ。これは聖堂には不向きな意匠ではないのだろうか。よくよく見ると床の一角が工場の床のように網目状になっている部分がある。およそ聖堂の近くにあるものと思えない。


この配置は設計ミスか?

それとも意図的なものなのだろうか?

やや冒涜的とも思える意匠に花屋敷は少しだけ違和感を覚えた。


「…あっ!」


頭上の闇に目を凝らすように見上げた時、花屋敷は思わずそう声を上げていた。


吹き抜けの天井の向こうには不思議なデザインをした色とりどりの巨大なステンドグラスがあった。


赤、青、黄、紫、黒。

原色の派手な色彩もどぎつい色鮮やかなガラスを使ってデザインされたその巨大なステンドグラスは、まるで万華鏡を透かして別の世界を覗き見た時のような独特の異彩を放っていた。


一見して教会の聖堂にある普通のステンドグラスのようだが、そこには宗教画とはまるで無縁の奇怪な模様が描かれていた。


奇妙な絵だった。

真ん中にいるのは牛のような角を頭に頂き、額に六芒星の痣がある黒い山羊だ。

男性と思われる獣面人身の裸の黒山羊が動物か何かの巨大な頭蓋骨の上に腰掛け、右手で膝に頬杖をつきながら左の人差し指で地面を指差している。


悪魔のようなその赤黒い山羊は半裸で、白い腰布一枚を巻いているという粗末な姿で、あろう事か頭蓋骨に腰掛けているのである。


背景は赤と黒の二色のガラスで描かれている。

地獄の風景か何かを描いたものだろうか?


異様なのはそれら周囲を彩るデザインだった。

黒山羊の傍らには裸の女達が苦痛に満ちた顔で泣き叫んだり、俯せや仰向けに倒れていたり、はたまた頭を抱えて笑ったりしている。


不気味な絵だった。

花屋敷の印象はその一言に尽きた。場違いだが、彼岸の時に寺などに掛けられる阿鼻叫喚の地獄絵図を花屋敷は連想した。


女達の数を数えてみると、ちょうど七人いる。キリスト教でいう所の七つの大罪というヤツをモチーフにして作られた物だろうか?

いずれにせよ、この世の風景とは思えない。


「あれが…来栖コレクション…」


石原の声がした。


「来栖コレクション? あれが? ただのステンドグラスにしか見え…」


花屋敷が言いかけた、その時。


ゴトッと音がした。


「誰だっ!」


花屋敷は思わず俊敏に音のした方へと身構えた。石原も花屋敷の声にビクッと反応して、そちらの方を振り返る。


「お嬢さん、それは来栖コレクションなどではありませんぞ。まぁ一部ではあるのだろうが、それはただの悪趣味な絵です」


甲高い、それでいて嗄れた声。

この声は…。

老人か?


「こんにちは」


好好爺の挨拶のようだった。いつの間にそこにいたのだろうか。暗がりの奥に人影が見えた。ひどく小さな影だ。何かに座っている。

…車椅子だろうか?

まるで最初からそこにいたかのように、その小さな人影は妙に周囲の暗闇に馴染んでいた。気配がまるでしなかった。


「ほぅ…これはこれは。

…あなた方は刑事さんですな? 公務ご苦労様でございます。驚かせてしまいましたかな?」


闇の向こう。老成した張りのある高い声で、その小さな影はどうやら屈託のない笑顔を浮かべているようだった。車椅子の車輪を両手で回しながら、その影は滑るように花屋敷達の前にやってきた。


スーッと車輪が石の床を滑る音と共に、キィキィと細かく金属同士が擦れ合うような音がした。


やはり二人の目の前にやって来たのは、背中を丸めた白髪の老人だった。


洒落た真っ赤なスーツを着こなし、黒いネクタイをした派手な格好で車椅子に座っている。


黄色い薄明かりの闇に老人の全貌が浮かんだ。蝋人形のような白い肌。そして長髪の白髪頭が実年齢と性別を見事なほどにぼやけさせている。実に特徴的な老紳士だった。


鷲のような鉤鼻。細く鋭角的な顎のライン。

かなり高齢のようだが、禿げていない頭髪は真っ白だ。真横に一直線に幾本か皺の寄った額は狭く、襟足の長い真っ直ぐな白髪を無造作に後ろへ撫でつけ、項の方へと流している。顎髭はないが、白くて大きく垂れ下がった眉毛は、まるでサンタクロースの姿を彷彿とさせた。


皺に埋もれた厚い瞼の奥の瞳が花屋敷達を興味深そうにしげしげと見つめ、子供のように人懐こく微笑んでいる。


海外の絵本や童話に出てくるような、どこか不思議な温かみと愛嬌を漂わせた上品な老人だった。


禍々しい伏魔殿のごとき得体の知れない建物の中をあれこれ探っていた花屋敷達は、いきなり肩透かしを食った。


老人は小さく頭を下げた。


「はじめまして。間宮孝陽といいます」


「えっ! 間宮というと…。

…えぇっ!? まさか、理事長先生なんですか!?」


石原が素っ頓狂な声を出した。理事長だと、と同じような反応をして花屋敷は慌てて居住まいを正した。


「は、はじめまして!

間宮理事長ですね? 警視庁捜査一課、強行犯一係の花屋敷優介といいます」


おずおずと花屋敷は見開きの警察手帳を出して身分を明かした。隣にいる石原も慌てて、


「い、石原智美です」


とカラクリ人形のようにぴょこんと一礼した。


「ははは、なんのなんの。そう畏まる必要はありませんよ。私はほれ、見ての通りの老い耄れだ。まぁ長くこの学園に携わっておったから理事長などと呼ばれておりますが、要するに、ただの飾り。今はご覧の通りの悠々自適で自由気儘な爺ですよ。

…まあ、こうして時計塔で用務員の真似事なんかしておりますが、今は学園の運営に直接携わっている訳ではない。そう畏まってもらっては却ってやりにくい」


やたらと陽気な好好爺の理事長はそう言うと、からからと嗄れた声で哄笑した。


いきなりスーッと車輪を回転させて、間宮老人は花屋敷達に背中を向けた。


「まぁ、暗い場所で立ち話も何ですから、こちらの方へどうぞ。紅茶の支度でもするとしましょう」


老人は再び滑るように暗がりの奥へと消えた。向こう側にも部屋があるのだろうか。


花屋敷と石原は呆気に取られたように怪訝な顔つきで互いにひとしきり目配せしあうと、老人の後を追った。


老人に通された部屋は驚くほど簡素な部屋だった。


傘のついた黄色いランタンという照明は同じだが、先ほどの場所よりも広さがないぶん、幾分か明るく感じる部屋である。


六畳ほどの室内。コンクリートの床に細かい網目状の鉄板が張り渡してある。片側の壁には計記類のあるコンソール。部屋の隅には白い梯子が天井から下がっているのが見える。


機械室だろうか?

老人のいる一角には書棚があり、かなりの数の蔵書が収められていた。書棚に入りきれない何冊かは書棚の上にまで積んである。

書棚の前には小さな丸テーブルがあり、少し距離を置いてパイプ椅子が二脚あった。

予め二人が来るのがわかっていたような配置である。


テーブルの上にはティーセットがあり、老人は車椅子で器用に三人分のカップとソーサーを用意している所だった。


先ほど頭上から微かに聞こえていたギィギィガタガタという音が真上から聞こえてくる。


「あの…ずっとこの時計塔にいらっしゃるんですか? 理事長ほどの方なら、学園の方に私室がありそうなものですが?」


花屋敷はふと気付いた疑問を口にした。


「は? 何ですかな?」


銀色のティーポットから紅茶を注いでいた間宮老人は聞き返した。周囲の音で聞き取れなかったらしい。花屋敷は少し大きめな声で同じ質問をした。


「ああ、はいはい。足を悪くしてからはリハビリの一環に定期的にここに来ているのです。多少、中を改装して書棚なんかを運び入れてもらいましてな。理事長室なんぞにいても退屈なだけですから、終日ここにいる事もございます」


という事は事件当日もここにいたのだろうか? しかし、花屋敷の疑問は石原の声に遮られた。


「ここまで歩いて登ってくるんですか?

あの…失礼ですけど、今だって車椅子のようですし、足だって痛むんじゃ…」


「なんの。杖がある。歩いて登ってくる分にはたいした距離でもない。慣れてしまえばどうという事もないです。そちらのお嬢さんは生徒達と同じ事を聞かれるのですな」


孫を見るような目で老人は嬉しそうに微笑んだ。老人は温かい湯気の立ち昇るカップを二人に向けて差し出した。


「…さぁ、熱いうちにどうぞ召し上がって下さい。これは娘が焼いてくれたアップルパイです。なかなかイケますぞ」


老人はそう言って顔をくしゃくしゃにして微笑みながら、傍らに立てかけていた銀色の杖を手元に引き寄せた。普段でも来客が少ない場所なのか、老人はやたらと愛想がいい。


終始ニコニコと笑みを絶やさない柔和な顔つき。初対面の相手、それも刑事である自分達に対してもまるで警戒心を示さない。その独特のペースと物腰に花屋敷は大いに好感を持った。田舎の爺さんみたいだと花屋敷はそう思った。


老人は言った。


「まぁ、ここまで上がって来るのも今の季節ならいいが、冬の朝ともなると、それなりに堪えますな。乾燥した冬は関節が特に痛む。

今日もやけに湿気が多くて腰が痛みます。こりゃあ、一雨来るのかもしれませんなぁ」


老人は杖で二、三度コツコツと床を突いてから今度は頭上の方を差した。


「妙な建物でしょう?お化け屋敷のような感覚でやって来る生徒達もおります。真っ暗で危ないから行くのはよせと、娘もそれはしつこく止めるんですが、こうして時計が動いている以上、そうもいきませんからの…」


老人はそう言って暗がりの向こうに広がる天井の闇を細い目で見上げた。今は時計塔の管理はこの理事長一人が行っているという事なのだろう。


石原が尋ねた。


「娘というと保健校医の愛子先生のことですね?」


「ええ。ここに車椅子や書棚を置くよう手配してくれました。生徒会の生徒達にも手伝ってもらいましてな。慣れてみると、これがなかなか快適でして。まあ年寄りの道楽と思って、笑ってやって下さい」


老人は顔をくしゃくしゃにして微笑んだ。笑うと皺が彫りの深い顔中に縦横無尽に走って目元をすっかり覆い隠してしまう。


花屋敷はこの機会に老人にこの時計塔の事を聞いてみたい衝動に駆られた。


「それにしても、本当に学校の一部と思えないような不思議な場所ですね。

…先ほど理事長は、あのステンドグラスは来栖コレクションではないと仰っておられましたが?」


「左様。あれは宗教画ではない。珍しいデザインではあるが、ただのステンドグラスです。来栖コレクションとは言ってみれば、資産家の好事家達が、来栖征司の死後に彼が建てた建物に付けた渾名のようでしてな。

この時計塔が有名になったのも、彼の死後の事のようです。今はほぼ忘れ去られた。

人に何がしかの感慨を与えうる建築物というのは、それそのものが芸術作品とも言える。そうした意味では彼は遅咲きの芸術家だったのでしょうな。

生前の彼を知っているのは、今やこの学園では私だけでしょう」


「理事長は会った事があるのですか? その…来栖征司氏に…」


来栖の父親に。

花屋敷の心中にある複雑な思いとは裏腹に、理事長は皺だらけの顔をどこか懐かしそうにほころばせた。


「彼の事はよッく知っておりますよ。実に変わった男でしてなぁ。

何かに取り憑かれたかのような精力的な仕事ぶりには見ているこちらが驚かされたほどです。彼の子供だったのでしょうかな。傍らには時々、幼い少年を連れてきたりしておりました。まぁ、とにかく学園の改築にあたっては、えらく熱心な男でした。

この風変わりな時計塔と中庭にあるあの噴水は、彼が設計したものなのです」


元々あった建物を現代風に改築したという事だろう。彼が連れていた幼い少年というのが、おそらくアイツだ。


黙ってしまった花屋敷をよそに、今度は石原が尋ねた。


「あの噴水もなんですか? てっきり天然のものだと思っていました。あれは学園に元々あった訳ではないんですね?」


そう、と言って老人は白くて大きな己の眉毛を指先で撫でつけた。


「この学園は元々、戦後間もなくGHQの占領下で国家神道が廃止された折りに、日本にやって来た海外のキリスト教宣教師達が国内で戦後の布教活動を始め出した当時、日本人向けの神学校として建てられたものの一つなんですな。

幾度か増改築を繰り返して、概ね今の形の校舎になるまで実に34年近く経ったことになりますか」


隣の資料館にあったプレートにも確かそうあった。老人の言葉にどうやら間違いはなさそうである。


「私立の進学校としての体裁は、その間に徐々に出来上がっていきました。

今でこそ普通の学園ではあるけれど、カトリック系の神学校といえば昔は戒律も大変に厳しかった。今ほど過保護ではない当時では親御さん達にしてみれば、自分の子供を預けるにはちょうどいいと考える向きさえあった。

有り難い事に生徒も年々増え、それに合わせた形で周辺住民や地域との一体化を進める形の計画が持ち上がり、建築家の来栖征司が時計塔や噴水など、より現代アートに近い建物の改築を請け負ったという訳です」


老人は言葉を切って紅茶のカップに口をつけた。自然と花屋敷と石原もカップを手に取った。花屋敷は飲んでみて初めてそれがアップルティーであった事に気付いた。リンゴ尽くしである。


再び老人は続けた。


「お二人はあの噴水はご覧になりましたかな?あの噴水はスイッチ一つでライトアップできる仕様の洒落たものなのですよ。

学園祭などでも大活躍してくれるし、学園の者達の憩いの場にもなっておる。

他にも生徒達の着ている制服ですな。あれは有名デザイナーに従来あったセーラー服をアレンジしてもらったブレザーなのです。この学園も思えば風変わりな歴史を持ったものですよ」


老人は居住まいを正し、にこやかに続けた。


「時計塔は昭和56年の6月…ちょうど今頃の次期に完成した。国内でもあまり類を見ない、校舎屋上を利用した塔時計としてね。

私が来栖征司と出会ったのは正にその頃の事でしてな。

私は兼ねてから宗教建築や機能性のある建築物には非常に興味がありまして、彼の作品にはすっかり魅せられてしまった。

私は自分より一回りも年下の彼の類い希な才能には圧倒されるばかりでしたよ」


老人は英雄を称えるように、喜々として続けた。


「ほれ、そこにデジタル時計のついた計機が見えるでしょう?

この時計塔はこの機械室から針を合わせる、いわゆる巻き上げ式になっておりましてな…頂上には大きな鐘があって、そこの鎖とも繋がっておる。

規模は大きいが、ゼンマイ仕掛けのグランドファザーズ・クロック…要するにノッポの古時計と同じ原理なのですよ」


これ以上は際限なく膨らみそうな話題と感じ、花屋敷は中途で質問した。


「なるほど…学園の背景については理解しました。理事長は随分この場所へ拘りがあるんですね」


「ほぉ…と言われますと?」


「いえ、まるでこの時計塔に取り憑かれているように思えたものですから。

…失礼しました。決して無礼な意味ではないのですが…」


わざとらしい言い方だな、と思いつつ花屋敷は尋ねた。もちろん、かの事件についてこの老人に語らせるための前振りである。


「贖罪…でしょうな」


幾分小さな声になって老人はそう応じた。


「贖罪?」


「生徒達が学園に来るように私がここに毎日通ってくるのも…。そう…言ってみれば罰のようなものですからな…。刑事さんが言うように確かに拘りはある」


「罰…ですか?」


「そう。私は罪深い人間なのですよ…。本来ならこの学園にいるのはふさわしくない、教育者として失格の人間なのです」


「理事長先生…。まさか12年前の事件の事を仰っておられるんですか?

それとも今回の事件で何か知っている事でもあるんですか?」


石原が慎重に聞いた。


老人は何も答えず、暫しぼんやりとした眼差しで虚空を見つめていた。


「教えて下さい。私達、川島由紀子さんの事件について調べているんです。彼女の死について関係がありそうなのは今の所、この時計塔だけなんです。

この場所について何か知っている事があるのでしたら聞かせて下さい」


老人は僅かに眉をひそめ、頭上を見上げた。


「川島由紀子君か…。

あれから12年も経つのに悲しい事件がまた起こってしまった…。

神を巡る教義の歴史や知識はあれど、私は誰一人救えない…。

もう長く生きられない体だというのに、私に残されているのは後悔だけです。ほとほと自分の無力さを思い知らされますよ…」


「理事長先生…」


石原が心配げな眼差しで理事長を気遣った。


「こうして警察の方に出会えたのも何かの縁かもしれませんな。…よろしい。何なりとお尋ねになって下さい」


「心中お察しします。あまりお時間は頂きません。気分を害されるような質問をするかもしれませんが、幾つか確認させて下さい。

どうもお疲れの所、大変恐縮なのですが…」


構いませんよ、と言って老人は花屋敷を見据えた。ようやく事件について尋ねられる。


「まず事件のあったあの日の午後4時半過ぎ頃ですが、理事長はどちらにおられたのですか?」


「アリバイ調査ですな。

あの日は昼過ぎから体調が思わしくなくて、娘の愛子と共に病院に行ってきました。

私や娘がここにおれば、あるいは飛び降りようとする彼女を止める事もできたかもしれませんな…。そう思うと返す返すもやりきれません…。

薬を外来で受け取る頃、夕方の5時頃でしたかな…。校長から携帯へ連絡が入りましてな…。生徒が屋上から飛び降りた、と…」


「では、事件が起こった日はこの場所に来ていないのですね?」


「いえ、毎朝8時には時計のゼンマイを合わせますから、ここには来ていましたよ。

ついでに読みたい本もありまして、午前中はここにおりました。気分が悪くなったのは午後の2時頃の事です…」


「病院に行く日はいつも決まっているのですか?」


「いいえ、特に決まってはおりませんな。体調が良くない時はあの日のように、その場で西門を通って娘に送ってもらう事もございます。すぐ傍の総合医院です」


そう言って老人は近くのその病院の名前を告げた。几帳面な石原がメモを取ってくれている。後で確認しなければならないだろう。


それにしても、川島由紀子は本当に夕方の4時頃、この場所を訪れたのだろうか?


あのノートに書かれていた魔術師というキーワードは、では何を指すものだというのか?


理事長が不在の中、特定の人物に会ったのだと仮定すれば、この場所はその時間は誰かと密談するにはうってつけの場所だった事になる。


しかし、理事長がいつ時計塔を不在にするかはわからないのだ。病院に行く日なども決まっていないというし、そうした状況下の中で誰かと密約など交わすだろうか?


日中に授業をさぼってくればさすがに目立つ。理事長が学園を出たという午後2時という時間帯は授業中だ。しかも理事長は校舎の窓から見えない西門を通っていったのだ。


生徒達が理事長不在である事は知りようがないのではないか?


秘密の計画を移すにはリスクが勝ちすぎている。理事長という生きた目撃者がいる可能性がある以上、携帯で話す方がまだマシだ。


理事長が不在するという予期せぬ偶然を川島由紀子が予め知り得たはずがない。


この場所に理事長がいる事は学園の生徒なら大抵知っているはずだし、誰かと自分が屋上でかち合ってしまう危険性を考えれば、やはり時計塔は不向きだ。隠密な内容を話す場所とは思えない。


こちらの思惑は空振りなのは残念だが老人の後悔はどれほどだろうか。飛び降りを止められる立場にいながらニアミスしたというのなら、花屋敷でも悔しくて仕方ないだろう。


老人は俯いて、節くれだった皺だらけの指を組み合わせていた。


「今は体調の方はよろしいのですか? 先ほども自分はもう長く生きられないと仰いましたが…」


今度は石原が尋ねた。


「私はいつ死んでもおかしくない体なのです…。胃に先天性の潰瘍を患っておるし、運動なんかも心臓の負担になる為、本来は止められておる。

しかし生徒達と話ができれば、大抵の事は我慢できます。まだまだ読みたい本もたくさんある。私は生き意地が汚い方でして」


老人は再び微笑んだ。


「ご立派だと思います。

私、キリスト教系の学園って最初に聞いた時は戒律や校風がさぞ厳しい学校なんだろうなって思ったんです。けど、思ってたより普通で凄くのびのびしていて自由だし、校舎も綺麗で驚きました。不謹慎ですけど七不思議や時計塔もあるし、学園に来るのが楽しみになるかもしれません」


「ほう…どうしてそう思われるのかな?」


「生徒達を常に見守って、友達みたいに声をかけてくれる理事長先生がおられるからですよ。最近のコ達って自分一人で何でも抱え込んじゃう強がりな所があると思うんです。

孤独に潰されそうになったり、一人で悩んでたりすると自分を悪い方向へどんどん追い込んでいってしまうじゃないですか?

悪い考えが際限なく膨らんで…不安で悩んでいるそんな時こそ、目の前で思いきり泣いたり、何でも打ち明けられる仲間や先生が周囲にいてくれさえすれば…。

たったそれだけで学校って楽しく感じるんじゃないでしょうか? この学園はそうした環境にはぴったりな気がしたんです。

…ごめんなさい、生意気言って。少し答え方が優等生過ぎましたかね?」


少し荒み始めた場をすこしでも明るくしようと思ったものか、はにかみながら微笑んだ石原の言葉に間宮老人はありがとう、お嬢さんと優しく穏やかに答え、静かに微笑んだ。


しかし、老人は終止にこやかで穏やかでこそあったが、ほんの少し寂しげな表情にも見えるのは花屋敷の気のせいだろうか?


勾留中の来栖の事も含め、彼の依頼人である間宮老人に川島由紀子の件をこれ以上質す事に対し、花屋敷は少し罪悪感を覚え始めている。


老人は少し顔を歪め、幾度か湿った咳をした。石原が背中に手を添えようとしたが、理事長はやんわりとそれを片手で制し、自嘲気味な表情で弱々しく笑った。


「そう、お嬢さんが言うように、この学園は昔に比べれば随分と明るくなった…。けれどそれは、私一人の力で成し得たものでは決してない。

私が今でもこうして隠居のように学園に関わっているのも、言ってみれば12年前の罪滅ぼしのようなモノですからな…」


「…罪滅ぼし?」


花屋敷は聞き返す。先ほどから気になる台詞だった。


「先程も理事長は仰いましたね。贖罪と…。

12年前の殺人事件の事を仰っておられるんですか?えっと…その、武内先生の…」


僅かに言い淀みながら石原は尋ねた。老人の表情は、その名前に反応して俄かに曇った。


老人は暫く黙って瞳を閉じていたが、やがて意を決したように目を見開くと、物語を始めるように静かに語り始めた。


「お二人は覚えておりますかな?

十二年前の1994年といえば、愛知県の中学生が何人もの生徒達から、陰湿な酷いいじめを受けて自殺してしまった有名な事件がありましたな…。

学校教育法や少年法が改定されていくきっかけとなるような、俗に少年犯罪と呼ばれる悲しい事件も全国で相継いだ年でした。

時期的にも、ちょうどその頃の事だった…。

この学園の校庭で当時、野良猫達の首無し死体が幾つもばらまかれるという事件があったのです…」


一昔前にニュースか何かで見た覚えがある。アレはこの学園の事だったのか。

花屋敷は複雑な思いで、老いさらばえた理事長の、白い窶れた顔を見つめた。


「誰も口にはしなかったが全校生徒の目が武内先生を犯人扱いにした。

確かに彼は少し変わった所はあった。いつも目を伏し目がちにして、誰とも視線を合わせようともしない。けして社交的な性格ではなかった。

酒もやらず煙草も吸わない、きわめて真面目でおとなしい性格の教師だったのだが…」


老人の声が少し控えめになる。


「生物の教師が何かの実験台に猫を解剖したんだろうとか、野良着のような汚れた作業服姿で校内を徘徊するような男なら悪質な事もするだろうとか、根も葉もない中傷や悪罵の類はそれはひどいものだった…。

教師がそんな事をするはずもないのだが、人の悪い噂は一度膨れると止まる事を知らない。そうした意味で当時の学園で彼は、正に異端者扱いだったのです」


老人は苦渋に満ちた表情を見せると再び静かに目を閉じた。老人にとって、かの教師の件はあまり思い出したくない出来事の一つなのだろう。


「悪質な事件は恰好のニュースソースであったのでしょう。ワイドショーなどの取材が学園に押し寄せる騒ぎもあって教師や生徒達は皆、この事件に口を閉ざすようになった。

私自身、校長であった当時は積極的にそうした噂は摘むように心がけました。

マスコミなどが現れた段階で生徒達が悪戯に不安がったり不快な思いをするだろう事は目に見えていたし、考えたくなかったが、面白がって根も葉もない噂をリークしたりする不信得な者がいないとも限らなかった。

事件が事件だけにマスコミは火のない所から煙を出すような誇張された記事や報道をするだろう事は、それこそ火を見るより明らかでしたからな…」


また…噂だ。


「けれど彼が、武内先生がやったという証拠は何もなかったんでしょう?結局はただの濡れ衣だったという事なのでは?」


石原が尋ねた。


「左様。その時は、一部の心ない生徒達の悪質な悪戯だろうという事で一応は落ち着いたのです。猫を殺す為の犯行に使われた凶器というのも、大型の量販店で手に入るようなタイプのナイフだったようで特定するのは難しく、犯人探しはそもそも困難だった。

もっとも、警察のようにきちんとした組織が調べた訳ではないから、今となっては有耶無耶ではあるのだが…」


老人は続けた。


「ゆとり教育と呼ばれている、生徒達をのびのびと育てる環境というのは最近でこそ市民権を得ているが、それとて現代の教育現場の歪みが齎したものといえなくもない。

今にして思えば、ああいった時代をくぐり抜けてきたからこそ今の生徒達が自然と守られる環境があるのでしょう。

学校教育を巡る不安定な世相も影響していたせいか、当時は学園全体の雰囲気もどこかギスギスしておった…。

皆、不安な思いを抱えている中にあっては、武内先生のような一風変わった教師が攻撃対象となるのは、あるいは仕方のない事だったのかもしれません…」


「本当に彼がやった事かもしれませんしね」


腕組みをしながら花屋敷はなるべく抑揚のない不遜な声で応じた。


「ちょっ…先輩! 何を言い出すんですか? 理事長は武内先生のことを…」


「もちろん、私は彼の無実を信じている」


理事長は石原の弁護を中途で遮った。弱々しく寂しげではあったが、どこか毅然とした眼光に花屋敷は言葉を失った。

穏やかな中にも、有無を言わせない威厳がある辺りはさすが理事長という所だろう。優しさと厳しさを併せ持った老いた視線に重力がある。


ここで引いては聞ける事も聞けない。花屋敷は刑事のふてぶてしさで敢えて不審感たっぷりを装って尋ねた。


「…失礼ですが、なぜそう思うのです? 火のない所になんとやらとも言いますよ。やってない証拠もやったという証拠もないなら、可能性としては五分なのではありませんか?」


「先輩!」


石原がやや憮然とした表情を向けるのがわかった。

しかしカマをかけたり相手を怒らせるのも、聞き込みには必要な手法なのだ。あっさり手に入るようなネタは、存外アテにならない。

証言者が恣意的に、予め用意した回答である可能性はゼロではないからだ。


最初から人を疑ったり憎まれたりする商売と割り切るなら、こうした相手の感情的な反応を見るやり方は有効だ。


しかし間宮老人は懐かしげに目を細めた。このパターンは花屋敷には経験がなかった。


「彼が動物を殺したとは私にはとても思えません。一緒にエサをあげた事があるんですよ…。あの校庭で、あの噴水の近くで武内先生とね…」


「猫に…ですか?」


「そう。可愛らしい生まれたての子猫だった…。ニィニィと鳴いて武内先生に擦り寄っていく姿が、それはまぁ小さくて愛らしくてな…。昼休みにミルクまで買いに行ったりして武内先生も大層可愛がっておった。

無論、彼がやっていないという証拠にはなりませんがね…」


「そんな所へ、そんな残酷な事件があった訳ですか…」


花屋敷は暗澹とした思いでそう呟いた。誤解されがちな人間というのは確かにいる。

外見や物腰や態度で相手を判断するなと人はよくそう言う。だが、それはやはり建て前だ。印象や物腰だけで人を判断してしまう事というのは、世間では呆れるほど多いものなのだ。


「芯の強い男だったのでしょうな…。武内先生は、あの事件の時は誰よりも悲しく、やるせない思いを抱いていたに違いないのです。

それなのに彼は、一部の教師達からの反発や生徒達が陰で囁く謂われのない糾弾に対しても一切弁解じみた事を口にしたり無実を叫ぶような事をしたりはしなかった。

学園の敷地内で起こった以上、いくら悪質な悪戯だとはいえ生徒達を疑うような事を武内先生はしたくなかったのでしょう…。

思えば誰よりも優しく、潔い彼のそうした態度が無用な誤解を生んでしまったのかもしれません…。

鬱屈とした思いに凝り固まってアイツは周囲を憎む、いずれ何か事件を起こすだろうと、そんな心無い噂もたった…」


老人はそう言って再び傍らに杖を立て掛けると、自ら淹れた紅茶に口をつけ、喉を潤した。


「そう…そんな事件があって数ヶ月後の夏休みに…。あの事件が起こってしまった…」


「山内洋子さんが亡くなった事件…ですね」


「…左様。本当に痛ましい事件だった…。

連日に渡る狂ったようなマスコミの取材や、新聞、雑誌、テレビなどのマスメディアの媒体は挙って事件の報道をしては学園を話題の渦中に追い込んでいったのです。

生徒達の保護者には何をどう糾弾されても仕方ない。全ては私の不徳の致す所でした…。

何人もの生徒達が黙って転校していくのを止める手立ても、もはや私にはありませんでした…」


「辛い…出来事だったのでしょうね…」


石原が悲しげに眉をひそめた。


「ええ…辛いというならお嬢さん、あの頃が一番辛かったですよ。

私は様々なものを一度に失った。けれど、それ以上に悔しくて悔しくて仕方がなかった。三年生の生徒の何人かが編入や転校手続きをしていくのが一番堪えました…。本来なら、学園で過ごした思い出の証として卒業証書を渡さねばならないのに、代わりに転校手続きの書類を渡さなければならない虚しさといったらなかった…。

保護者達には軽蔑の目で見られ、いきなりの転校に戸惑う生徒達からは困惑の視線を向けられる…。今でも悪夢にうなされますよ…。

なぜなんだ、と無言で訴えているような生徒達の眼差しは忘れたくても忘れられん…。

書類に無感動に捺印するだけで何も言える立場になく、生徒達を笑顔で見送ってやる事もできなかったのですからな…。

私や、当時あの学園におった教師達にとってあれほど辛かった事はないですよ…」


「理事長…」


「だから、贖罪のようなものなのです…。

私にとって彼が愛したこの学園の、この風景を見守り続ける事は彼への、そして学園にいた者達への罪滅ぼしでもあるのです。

学園の汚名を漱ぐ事しか考えなかった私にできる事といえば、せめて忌まわしい記憶の爪痕が、これから学校生活を送る生徒達の心に影を落とさないようにと、必死に努めてやる事しかできませんからな。

その為には心を鬼にして偽りの噂を騙りさえもしました…。私は辛い過去を忘れる為に学園に新たな暗闇を作り出したのです。

噂は膨れ上がれば、もはや真贋の区別すらなくなる…経験で学んだ事です」


「それが七不思議の噂だったんですね?」


何という逆説的な発想だろうか。始めは胡散臭い噂だと思っていたが、よもや生徒達を守る為の方法とは考えもしなかった。


「ええ噂には噂を…。

思えば迂遠な方法をとったものですよ。

当時は学園や世間に蔓延した不穏な噂そのものを、なんとか沈静化させなければ学園の経営自体が成り立たず、存続が危ぶまれるという危機的な状況でしてな、こちらもあらゆる手段を尽くそうと必死だった。

学校教育の荒廃が叫ばれ、連日のようにニュースや新聞などで荒れていく教育の実態やいじめなどが生々しく伝えられ、世間を賑わすような少年犯罪が後を絶たないようなこの社会にあっては、薄暗い無根拠な噂など苦肉の策でしかなかったのですがね…」


理事長はそう言って白く長い眉毛を摘んだ。


「しかし不思議なもので、忌まわしい、誰もが忘れたい記憶だったからなのでしょうな…。

元々が厳しい戒律を奉じるキリスト教徒の建てた特殊な学園でもあるし、どこの学校にもある七不思議というありふれた噂は我が校ではいつしか、関わると不幸になるという怪しげな形となって生徒達に認識されていくようになっていった。

時計塔や噴水周辺の中庭、古くて荘厳な校舎という環境は、そうした噂には正に最適ともいえる土台だったからです…」


理事長は暫くの間、再び目を閉じて言葉を切った。


「…人の記憶や精神はいつだって都合のよいものなのでしょう。

不安定な人の精神は記憶の圧縮と変換、誇張と改竄を幾度も繰り返す事で歪み、思い込みを多分に含みながら、いつしか安定するように出来ている。最初とは違った形でね」


老人は真剣な表情で二人に向き直った。


「刑事さん、私からも何とかお願いします…。何とかこの呪われた学園に巣食う不穏な霧を晴らして下さい。私もこのまま死んでいくのは忍びない…。何とか…何とかお願い致します…」


打ち拉がれた、ぼんやりと虚ろな瞳でこちらを見つめてくる理事長の目は、弱々しさの中にも炎のような強さがあった。


しかし、花屋敷は思わずギョッとなった。


理事長の皺に埋もれた瞼の奥。

白眼の部分に。


どうして今まで気付かなかったのだろうか?

黄色い照明に照らされた理事長の白目は、結膜の部分が鈍い黄色い色をしていた。

なぜだろう?

花屋敷は急激に不安になった。


***


理事長に話を聞いた二人は、それから程なくして夕闇迫る時計塔を後にした。所轄の目黒署に向かう車中に花屋敷達はいた。


「思わぬ所で思わぬ人に出会えましたね、先輩。これは思わぬ収穫だったんじゃないですか?」


愛車のシトロエンのハンドルを颯爽と握って運転しているのは石原である。外国生まれのスタイリッシュな赤い外車は小柄な彼女によく似合っている。


じっとりとした表の蒸し暑さとは対照的に、エアコンの効いた車内はカラリとして涼しかった。


「ああ…なかなか面白い人物の登場だったな。だが本線と関係があったかといえば、やはり微妙かもしれないな。とりあえず早瀬…おっと、ウチのボスに報告だけはしとくか」


コンパクトな右側の助手席に閉口しながら花屋敷は、寝転がるようにしてグッと体ごとシートを深く倒した。我知らず花屋敷はホッと溜め息をついていた。


「その昔は厳格な戒律まであったっていうキリスト教徒の学園…。不気味な時計塔と、そこに伝わる七不思議…。

そして12年前の殺人事件…。

あの学園に長くいて過去の話なんか仕入れてくると、まるでお伽話か夢の世界でも見てきたような感じになるな。なんかこう、現実感が伴わない。

噂話といい七不思議といい、まったく…何から何まで出来過ぎだよな、あの学園は…」


ええ、とポツリと複雑そうに石原が呟いた。花屋敷はサイドウィンドウに頬杖をつきながら窓外を眺めた。


雲間から時折、僅かに陽が差す程度の午後の空は、少しずつ、次第に曇り始めていた。


石原は囁くように呟いた。


「私達警察はあの学園にとって異分子でしかないんでしょうか?

ああ…いえ、もちろん、警察はこの一連の事件に必要ないとか関係ないとか、そういう意味じゃなくて…。

…何ていうか、先輩が言うように、私もまるで昔話か物語を聞いた後のような感じなんです。どこか薄ぼんやりとしていて不鮮明で、私達が普段扱うような事件とはどこか違う…。私達が普段扱う事件とは、まるでかけ離れた世界で起こってるような掴み所のない事件というか…」


石原は一人言を囁くように静かに続けた。


「噂って何なんでしょう?

人って何なんでしょう?

…短い一生を忙しく右往左往していく中で、退屈を言い訳にして自分と関わりがない他人の事を…ううん、他人じゃなく身近にいたとしても、その人がいない所では言いたい放題の傷つけたい放題…。

よく『人の不幸は蜜の味』なんて言いますよね?

自分と関係ないと思うから好き勝手に悪い話を無責任に言えて、その悪い噂は増えていく上に段々いびつな形に膨らんでいくんです。

噂って話題になってる人の人格も、築き上げてきた過去も知らない所で、いつの間にか好き勝手に改竄されていくみたいですよね…。

思い込みで弄くられた歪んだ形で、その人の記憶が勝手に出来上がっていって、いつしかそれが真実になってしまう…。

その癖、噂をしていた自分は関係ないって突っぱねたり、嘘をついたり、それに対して後ろめたく感じてみたり、時には魔が差して取り返しのつかない事をしてしまう…。人は邪悪なものには簡単に魅入られてしまう…。

もちろん、あの学園だけの話じゃなく、人は本来そういうふうに出来てるのかもしれませんけど…」


いつになく真剣な顔ぶりの相棒に向け、わかる気がする、と花屋敷は静かに同調した。


「あの学園は何ていうんだろう…そう、一言で表すとまるで俺達を拒んでいる場所っていうのかな。

…そんな気がするんだ。

川島由紀子っていう少女が時計塔のある屋上から飛び降りた…。警察の言葉で言えば、いわゆる不審死さ。そんな中で身勝手な噂や何やらがやたらと先行し、証言や何かは今現在も豊富に採れている。

その一方で少女達による売春の噂があり、傷害事件が起こったり、事件性のあるものが次から次へと出てくる。噂がまた噂を呼ぶ。

重要な事は探る度にいくらでも出てくるし、薬物もどこかに確実に存在してはいるんだろう。けれど、武内誠の事や12年前の殺人事件とは直接、何も関係してなどいない。

当時からあの学園にいる関係者が今でも一部、重複しているというだけさ。

傷害事件は学園の外側で起こったものだし、売春組織めいたものも今の所は学園や不良達の噂で存在しているだけで、それぞれは切り離されている」


「そうなんですよね…」


「事件の一つ一つは呆れるくらいバラバラで単純に見えて、そしてそれぞれに完結しているんだ。調査を進めれば、それぞれの輪郭も大分はっきりしてくると思う。

なのに全体を繋いでみると今一つスッキリしないんだよ…。

何かそれらを繋ぐ別の、全く違う形がある気がしてならない。訳のわからないモヤモヤした予感めいたモノだけがあるんだ」


「そうなんです。これらは多分、同じ根を持っているに違いないんです。

私達が予感やら予断やらで捜査しちゃいけないってのは、そりゃあ誰よりも分かってるんです。けれど、どこかでそうしなければいけないような…。

決定的に何かが欠け落ちてる感じがして凄く気持ち悪いです…。曖昧で不安定な場所っていうんでしょうか?あの学園には、やっぱりまだ何かありますよ…」


そう、何かがある。しかしそれが何に起因しているのかがわからない。そして花屋敷はその同根の何がしかに、ある男の影が密かに見え隠れしている事も感じていた。


来栖要。花屋敷の友人であり探偵のはずだ。


偶然ではないとすれば、奴の関わり方もまた異質だ。どこでどう繋がってくるものか。


複雑な二人の想いを裏付けるような灰色の空に包まれた街を車は走っていく。


目黒区役所を左手に過ぎ、中目黒の立体交差点へと差し掛かった。

ここから右折して国道316号線を真っ直ぐに進めば、捜査本部のある所轄の目黒署は間もなく見えてくるはずだった。


ゆっくりと車が止まる。

正面の信号は赤だった。


石原はホッと溜め息をついてハンドルに両肘を載せた。

前方の車列や行き交う交差点の人の流れをしばらくぼんやりと見つめながら、石原は再びぽつりと呟くように言った。


「あの学園になぜ、あんな七不思議なんてものがあるのか…。私、それこそずっと不思議に思ってたんですけど、今ならなんとなくわかる気がします」


花屋敷も頷いた。


「ああ、俺もだ。きっとあの理事長がいたからだ。強烈に印象に残るあの姿。

きっとあの理事長が時計塔の魔術師って怪談話の原因なんだろう。蓋を開けてみれば何の事はない。実際にモデルがいた訳だ」


ええ、と感慨深く石原も頷いた。


平日の立体交差点は、いつもと変わらずの雑踏が行き交っていた。東京は夥しいほどの人の流れが交錯するアスファルトと摩天楼のビルに包まれた灰色の街だ。


花屋敷は昔、件の友人が語っていた言葉をその時、なぜかふっと思い出した。


あれは凶悪な連続殺人事件を起こした少年が逮捕されたニュースか何かを、当時あいつと一緒に見ていた時の事だったか。


さっきの話だけどな、と前置きして花屋敷は雑踏を眺めながら、ぼんやりとアイツの言葉をなぞってみる事にした。なぜかそんな気分だった。


「こうして呆れるくらい毎日たくさんの人間が街を歩いてさ…それぞれにそれぞれの人生を生きて、それぞれがすれ違っている。

善良な羊の群れに見えるだろ? 現実に起こる事件なんかとは、まるで関わりのない顔をして平然と暮らしてる羊達の群れにさ…。

けどよく目を凝らして見れば、その中には赤い羊が紛れ込んでいるのさ。

血に飢えた獣が化けの皮を被って紛れてる、そんな真っ赤な羊が。

コイツは自分が愉しければ何だってやるんだ。そこには法も正義も秩序もない。

羊の群れは自分がいつ獲物になるかもしれないのに、そいつらが仲間を噛み殺すのを愉しげに遠くから眺めてヒソヒソ喋ってる。仲間が死んだ時だけ、沈黙するのが羊なんだ」


ぼんやりと呟く花屋敷。

ハンドルに肘を載せて雑踏を眺める石原。


「赤い羊…ですか。

じゃあ先輩、私達はそいつらを捕まえるハンターみたいなものですね。大義名分を背負って、法と正義の名の下に何匹もいる氷山の一角にしか過ぎないそいつらを、どこか遠くの屠殺場に送る為に…」


幾らか自嘲気味に石原はそう呟くと、少し寂しそうに笑った。


花屋敷は大人の女性の艶めかしさと、少女のあどけなさが同居したような後輩の童顔を眺めた。配属したての頃には伸ばしていた長い髪もばっさり切って、今はスッキリとした感がある。


所轄時代の後輩ではあるけれど、今やすっかり刑事の顔だ。池袋の所轄から本庁に配属替えになって彼女はまだ半年ほどになる。


ズボラでどこか抜けている花屋敷の弱点は彼女で完全にカバーできるし、どこか感情的になりやすい石原をフォローできるのは花屋敷しかいないように思う。


いわゆる男女の依存しあう関係だとか、気を許し合える仲というのとは少し違うように思う。同僚達からも青臭い事を言うな、とよく冷やかされる。


そうした恋愛感情がないとは言わないが、どちらかといえば女というより、妹のような感覚の石原が相手では、それらの感情は花屋敷にとって誠に健康的な形で発露されるようなのだ。やはり相棒。戦友や学友に近い感覚である。


花屋敷はその相棒に向けて、先ほどの疑問に自分なりに答える事にした。


「石原、今さらだけど俺達警察はな、結局の所、法律に従う事こそ正義であり善なんだと割り切るしかないんだろうさ。遵法者の味方って立場でいいんだ。法に背く事のみが悪で、それが即ち敵なんだよ。

敵と味方、善と悪といった二元論的な単純構造に身を委ねろとは言わないが、俺達の視野には常に遵法者と違法者の区別さえあればいいんだ。組織の縄張り意識の強さと連帯感のなさにはそりゃ時々嫌にもなるが、俺達が迷ってちゃ基準そのものが揺らいでしまうって事を忘れるなよ」


「ええ…そうですね」


信号が青に変わった。前方の車のテールランプが消え、車列が再び動き始める。石原はグイッとアクセルを踏み込んだ。


再び軽快に走り出した車の中、高速で過ぎ去っていく都会の灰色の街を眺めながら花屋敷は一人、妖しい夢の中で縦横無尽に踊り回り、そして狂ったように人を虐げて笑う。そんな山羊の頭を持った赤い悪魔の姿を夢想した。


そう。

ちょうどその後。

事件が起きて。

事件は…。

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