狂騒の序曲
13
その日の数時間前の出来事だったという。
「まったく…」
聖真学園教頭、羽賀亮一は己の禿げた頭頂部をガリガリとひとしきり掻きむしり、吐き捨てるようにそう言い放つと、大量の資料や報告書をバサリと乱雑に円卓に投げ置いた。
「ああ、まったく…!
こんな不祥事など前代未聞だ! 我が校始まって以来の恥だ!」
会議室の円卓についた教師達に向け、教頭は忌々しそうに容赦なく苛立ちの声をぶつけた。汗でずり落ちた丸眼鏡を無理やり押し上げ、彼は猜疑心の強そうなその上目使いの視線を教師達一人一人に飛ばしていく。
こうした高圧的な口調や高い声質から繰り出される愚痴っぽい態度が誰しもに不快感を与えている事を、本人はたぶん自覚してすらいまい。
教師達は居心地の悪い思いをしながら、てんでバラバラに冷めた茶を啜ったり、煙草を吹かしたり手元の資料に目を通したりと、神妙な表情をして黙って聞いていた。
…また始まった。
山内隆はもう何度目かわからぬ溜め息を心中で押し殺し、ひとまずは他の教師達と同様、ポーカーフェイスを装った。
また残業…だな。
山内は教頭の視線に気を配りながら、己の腕時計にチラリと目をやった。アナログの腕時計に刻まれた針は夕方の4時を回ろうとしていた。
うるさいマスコミ対策用に締め切られた窓。まだ日も落ちていない時刻だというのに下ろされたブラインド。殺風景で空々しい蛍光灯の光の下での会議。
ここ数日で、すっかりお馴染みとなった光景だった。
教頭のこの愚痴も、教師達にとって日常になりつつあった。
「そうでしょう、えぇ?
だいたい、なっとらんのですよ、最近の保護者達は。面倒な事は何でもかんでも学園に任せっきりではないですか!?
確かに本校は私立の学園で信頼の名の下に大事な生徒達を預かっている身ではあります。そうした意味で圧倒的に我々の立場は弱い!
何を言われても謝罪や弁明をするよりないのです。
…しかしですな!
17才やそこらで暴力事件だ自殺事件だなんだかんだと…まったく!
分別や常識を幼少の頃に自分の子供に叩き込んでおかぬような親達になど、何も言われたくないものですな!」
こうなるともう教師達には手に負えない。ただの愚痴だからだ。同意を求められても困る。高いトーンで機関銃のようにまくしたてる教頭の口調は勝手に熱を帯び、黒縁の丸眼鏡を小振りな鼻に乗せた顔は、まるで酒でも飲んだかのごとく赤みを増してくる。
実際に彼は酒癖も悪い。忘年会や新年会、歓送会など、宴会場で若い女性客に絡む姿を見かけることなどしょっちゅうだ。かつてセクハラ事件を起こした原因もアルコール絡みだったとの噂もある。
頭ともども、人望も人気も薄いこの教頭は口さがない生徒達の間では、露骨に『ハゲメガネ』だの『エロハゲ』だの、つるりとした陶磁器の質感になぞらえて『ボーンチャイナ』だのとも呼ばれているのを山内は思い出した。
「まあまあ教頭先生…。
今後の対応を協議するのにそんなに怒り心頭に達していては、またお身体を壊して胃を痛めてしまいますよ」
白衣を着た保険校医の間宮愛子はそう言って、やんわりとした笑顔で教頭を窘めた。
彼女はこの学園で、生徒達の精神的なケアを施すカウンセラーも兼任している。
荒んだ場の空気を和ませようとしている姿は大いにありがたいのだが、会議室に白衣姿はやはりどこか浮いて見えた。
今日はトレードマークの赤い縁取りの眼鏡はしておらず、白衣の下のグラマーな胸を強調するような胸元の開いたブラウスを着ている為に正直、目のやり場に困る。
「わかってますよ、間宮先生。私も立場上、冷静沈着にとは思っとるんですがな…責任ある立場というのは、なかなか難しいものなんですよ」
女性相手という事で幾分か口調は柔らかくなったが、代わりに教頭のねちっこい視線は、今度は白衣姿の保健校医をジロジロとまるで値踏みでもするかのように注がれた。
間宮は白衣の襟に手をやって困ったような表情をするとコーヒーを淹れてきますわ、と言って椅子から立ち上がった。教頭に背を向けて去り際、ドアの側に座った山内をチラリと見て彼女はわざと鼻の辺りに盛大に皺を寄せ、舌を出して不快感を顕にして見せた。
その妙な顔のジェスチャー一つで彼女の気持ちが山内には手に取るように伝わった。
管理職の苦しみなど、お前ら教師にはわからないだろうとでも言いたげな、教頭の尊大な口調と好色そうな視線には、彼女も常々不快に思っているようだった。
教頭はハンカチで額の汗を拭って居住まいを正した。
「とにかく…。
散々あれこれと協議してきましたが、暴力事件が新聞沙汰にまで発展した以上、問題を起こした生徒達の退学処分はこの際やむを得ないでしょうな。
2年B組の須藤直樹、1年C組の佐藤徹と渡辺亮太の三名には即刻退学処分…いや、放校の手続きをするよう、お願いしますよ。
これ以上、学園の品格を疑われていては今後の生徒達の学校生活への悪影響のみならず、PTAや教育委員会も黙ってはおりませんでしょうからな。
問題になっている生徒達の保護者への対応も含め、なにぶん慎重に…」
「とっくに承知しておりますよ、教頭」
教頭の愚痴にかなり前から閉口していたのか、赤いジャージ姿の体育教師、植田康弘はジロリと険のある視線も鋭く教頭の言葉を中途で遮り、彼を牽制した。
教頭は思わぬ所からの反撃に、わずかにたじろいだようだった。ガミガミとまくし立てる割に小心者だ。
誰からも疎まれる存在というのも、ある意味で貴重なモノだと山内は思った。
植田は太い眉毛に縦皺を刻み、腕組みをして教頭に首だけを向けて言った。
「元よりそんな生徒達を放っておくつもりなどありません。罪は罪…犯罪は犯罪。
聞けば理由も実に短絡的で下らない。街の不良と悪さをして喧嘩など…。始末に負えない野良犬のような連中にはふさわしい最後でしょうな」
植田は椅子にふんぞり返り、すっかり冷めた茶を苦々しく啜った。
横柄でいちいち人を見下したような態度が山内の癪に障った。生徒指導部顧問の台詞とは思えない。
「まぁ、警察の事情聴取が終わり次第、野良犬共の駆除開始という事でかまわんのでは…」
「待って下さい!」
山内は堪えきれずに植田に椅子ごと身体を向けて睨みつけた。
「植田先生。彼らの学園での普段の生活態度やプライベートにいくら問題があったにせよ、短絡的で下らない事件という事はないでしょう?
渡辺に至っては鼻骨の骨折。佐藤は肋骨三本を折る大怪我ですよ?
退学をさせる前に、せめて彼ら自身から理由を聞くなりして原因を…」
「探ってどうします?
山内先生は、例えば酔っ払い同士のケンカにいちいち理由を尋ねたりするんですか? 今も警察病院に厄介になっているような連中なんですよ?
我々教師を『ウザい』の一言で片付けるような生徒達から、まともに事情を聞けると本気で考えているのですか?」
「そ、それは…」
勢いで楯突いたものの言い返せなかった。
この男は苦手だ。
サッカー部の監督兼顧問として何度も部を全国大会にも出しているし、体育教師としての実績も確かだ。今時いないくらいの鬼教師でもある。
学校という閉鎖された社会で生徒達の指導の為には、たとえ生徒達に嫌われようとも暴力教師のレッテルを貼られようとも揺らがないタイプのこうした教師の存在は、システマチック過ぎると非難されがちな教育現場には古臭いやり方だが、必要なものだからだ。
そして腹は立つが、言っている事も至極まっとうで正論だった。
怪我をしたにせよ、誰にやられたにせよ、凶器という決定的な状況証拠が現場に残されていた以上、彼らの身柄を警察から受け出す手はない。須藤達を弁護できる余地など最初から残されてはいないのだ。
「そもそも連中のリーダーともいえる須藤直樹を担任しているのは山内先生、あなたですよ?
確かに成績も良く空手部の時期主将ともいえる、あいつが事件に関わっていたのは意外でしたがね。奴にはがっかりさせられました。
生徒達を弁護したい気持ちはわかりますが、保護者や生徒達にはどう映るのでしょうなぁ…。ただの保身か自己弁護としか受け取ってもらえないのではないですか?」
薄笑いのサディスティックな視線が突き刺さった。
山内は唇を噛み締め、胃の腑がモヤモヤしてくるような屈辱に耐えた。
植田はフンと微かに鼻白んだ息を漏らした。
「連中や彼らの保護者達に弁解の余地を与える必要はありません。
だいたい暴力事件の結果とて、結局は馬鹿な仲間達と徒党を組んで暴れまわっていた連中の自滅なんです。
奴らの渋谷界隈での噂は聞いていますか?
スリにカツアゲ、バイクでの騒音行為や気狂いじみた奇声を上げて夜のコンビニの前でたむろするなど、それはひどいモノだったようです。
警察も犯人には感謝していることでしょうな。
程度の低い生徒は程度の低い事件を起こし、今後は社会の底辺の人生を歩んでいくのです。
この教育社会は害虫と共存できないんですよ、山内先生。これほど明確で単純な解答に何か問題があるのですか?」
「それは…」
「我々教師が、いちいちこんな事件程度で揺らいでいて生徒達に一体何を学ばせようというのです?
生徒達にしても、今の社会で自分らしく自由に生きる為には、まずは有名大学の受験合格の為に必死で勉強して合格を勝ち取ろうとするでしょう? この程度の事件で彼らの未来まで一緒につみ取るつもりですか?
教育の現場は戦いの現場でなければならないと言ったフランスの哲学者をご存知ですか? 我々に立ち止まっている暇などない」
そんな事は最初から解っている!
俺はただ納得したいだけだ!
そんな台詞が喉まで出かかったが山内は結局、下を向いて黙るしかなかった。
まともな正論にただ感情論を振りかざした所で、この場では何を言っても無意味だ。
スポーツで慣らした太い声に座ったままでもびくともしない鋼のような植田の肉体が、今度は教頭へと向けられた。
馬鹿な年下教師に引導を渡す捨て台詞でも、ぶつつもりなのだ。
山内は諦めて目を閉じた。
「こう言っては何ですが私はね、教頭…。
腐ったミカンを選別する作業で一番楽なのは、箱ごと散らかしてしまう方法だと思うのですよ。腐ったモノは黙っていても潰れます。奴らは問題のある生徒で他の優秀な生徒達にも悪影響だ。
山内先生がなんと言おうが、私はホッとしていますよ」
ミカン? 俺の生徒達をミカンだと?
聞き捨てならなかった。もう我慢できない。
「生徒達はミカンじゃない!
人間です! 血の通った人間ですよ! 彼らの言い分を理解もしないで…。なんでも知った風なふりをして決めつけないで下さい!」
「決めつけた方が我々の為なんですよ。事実、こうした議論をしている間にも問題は山積みになっていく一方なんですよ? 全て問題なく一つ一つ処理していかなければなりません」
「生徒達の未来を事務的に処理しないで下さい!」
この上、俺は何を言うつもりだろう。しかも青臭い、子供の言い訳のような稚拙な論旨で。
座はしんと静まり返り、対立する二人を見ていた。
「植田先生、教育は戦いの現場…。先生の考え方はわかります。私だって実際にそう思う時は多い。
…しかし、教え、育てる事が戦いだからといって、人生はF1レースのように定められたコースをただ突っ走る過酷な耐久レースなんでしょうか?
あるいはスポーツや格闘技のように勝者と敗者しか残らないものなんでしょうか?
有名大学を受験する為に否応なしに偏差値でランクを付けられる社会は果たしてまともなんですか?
仮に志望大学に合格し、将来的には有名企業に就職する事だけが生徒達の人生ではないし、そもそも理想と現実は隔たっていて当たり前です。
そして、生徒達全てが明確な将来の目標をもって自分を見据えているという訳でもない。そこには炙れる生徒達だって必ずいる。僕のようなダメ教師が何を言っても言い訳にしかなりませんが、これだけは言わせて下さい。
夢や未来は彼らにとっての真実を探る、入口です。そこには迷いや挫折だってある。
私はせめて敗者にも慰めと敬意の言葉をかけてやりたい…。かけられる教師でありたい…そう思っているだけです」
座はしんとしていた。
…滑稽だな。ドラマや映画じゃあるまいし。
多くの視線に晒されながら、山内は話しながら、いつの間にか自分がひどく落ち着き始めている事に気付いた。
溶岩のように熱く、ドロドロした怒りの感情は臨界点に達した途端、どうやら急速に冷えて固まってしまったようだ。
信念は諦観に変わり、最後に残されたのはちっぽけな己の誇りだけだった。しかし、頭の中では冷静に何を言っても無駄だと理解しつつも、なぜか言わずにはいられなかった。
なぜここまで熱くなる必要があるのだろう? そう思った。他の教師達は心配げに場の情勢を見守っていた。
「まぁまぁ…山内先生。植田先生も。今は生徒達についての会議。そうした教育方針に関する議論はやめにしましょう」
花田という物理の老教師がありがたい助け舟を出してくれた。
「ふん…。警察の見解では不良同士の喧嘩や仲間割れではなかったようですがね」
教頭が混ぜっ返した。場の空気があからさまに白けたムードになった。
今までのやり取りを聞いていなかったのだろうか?もう、うんざりだった。立ちっぱなしだった上に今のやり取りで究極に疲れ、山内は黙って座った。
植田は再び眉に皺を刻み、場の空気を読めぬ愚かな教頭をねめつけた。
「教頭…この際、経過など関係ありません。学園側に最初から落ち度など何もありませんから安心して下さい。
花田先生の仰る通りだ。自分の未来を自分で壊してしまった生徒達についての議論は、もうこのぐらいでいいでしょう?」
植田がチラリとこちらを見るのがわかった。
…もう、どうにでもしてくれ。
山内は倦み疲れたように反応せず、投げ出された資料で雑然とした円卓の上をただ見つめていた。
「とにかく…」
植田は居住まいを正すと教師達の方に改めて向き直った。自然と全員の視線が彼の元に集まった。
「川島由紀子の自殺から始まって、一昨日の事件で二件目の不祥案件です。マスコミに対しても、ある程度こちらの誠意ある対応を示し、今は落ち着いている大事な時です。
先生方も須藤達の件は生徒達には伏せ、なるべく騒ぎ立てないようにして頂きたい。
まぁ身内の話ですし、耳聡い生徒達には既に知られていて当然かもしれませんが、マスコミに情報をリークする不信徳な生徒がいないとも限りません。
今まで以上にホームルームではマスコミには知らぬ存ぜぬで通せと、生徒達には厳重な箝口令を徹底させるようにして下さい。
…教頭、これで構いませんね? 今は現在進行形で問題になっている事案を重視して頂きたい」
「む…。むぅ…」
いつの間にかイニシアティブを取られた教頭は、すっかり黙ってしまった。体裁を取り繕うのに執心する、この手のタイプの人間にはマスコミという単語は思いの外、効果のあるものらしい。
確かに植田の話にも一理ある。
事実、事件の匂いを嗅ぎつけたゴシップ専門の写真週刊誌や、川島由紀子の自殺事件の真相を探る為に隠密に動いている探偵もいるらしい。
事件から一週間経って未だに世間では騒がれているにも関わらず、生徒達の間では相変わらず身内の噂でもちきりだった。
授業は自習ばかり。教師達は挙って職員会議ばかりしているこの現状を、生徒達はどう思っているのだろう。考えたくもなかった。
自殺、か…。
山内の心中にインクの染みのようにジワリとした不気味な不安が広がった。
表向きは確かに自殺となっているが、山内とて自分の担任する生徒が自殺したなどと本気で思っている訳ではない。
山内はできるだけ正確に、自分が見た事実だけに沿って頭の中で事件を正確にトレースしてみることにした。
16時37分。
時計搭の鐘が鳴ってほどなくして起こった、あの信じられないような事件。
生徒達の騒ぐ声を聞きつけ、慌てて植田と共に駆け付けて中庭から見た信じられないような光景。悪夢のようなあの光景。
うつ伏せに倒れ伏し、頭を真っ赤な血で染めた川島由紀子。アスファルトのキャンバスにジワリと広がった赤黒い血痕。
事件を見た者にとって、あの瞬間、あの場こそは世界の中心だったかもしれない。
問題の屋上はこの職員室も含めて各学年、各クラス毎に一階から三階まで教室がある、この一号棟と呼ばれる校舎の真上に位置している。
高い時計搭が屹立するように聳え立ち、グラウンドが正面にある一号棟を中心としてこの学園の各施設は機能している。
聖真学園の敷地は一号棟を中心として半径1kmほど。
目黒区は祐天寺の閑静な街並みの中にあり、全周を茶色の煉瓦と槍型の鉄柵に囲まれ、東側に校門を構えたこの学園は全国規模で見ても私立高校としてはかなり広く、施設も充実している方だろう。
北側に教会を模した全校集会や月例の朝礼などを行う講堂と大図書館があり、これは二号棟と呼ばれている。
西側に体育館と部活で課外活動をする生徒達の為のサークル棟があり、これが三号棟。
噴水を囲むように、広い庭園が張り巡らされた中庭があるのは一号棟の裏側だ。
川島由紀子が墜落したのは校舎のほぼ真正面のアスファルト。つまり事件は、この学園でもっとも目立つ場所で起こったのだ。
それも学園の外からも見える時計搭の付近。衆人環視の真っ只中。
下校の時間の真っ最中に。
ありえない異常な話だ。
死を恐れるのでも、誰かに止めてほしいとすがるのでもない。
川島は笑っていたのだ。
ひたすら笑っていたのだ。
これから飛び降り自殺をする人間の行動といえるだろうか?
これから正に飛び降りて死のうとする人間が、あのように笑ったりなど出来るものなのだろうか?
それこそ気が狂ってしまったかのように。
川島由紀子。
普段の溌剌とした川島とは思えないあの高笑い。気が狂れたように引きつって歪む笑顔。バサバサと強風になびく、黒く長い髪。
今、思い出すだけでも背筋がザワリとする。
制服姿で死んだ川島由紀子に洋子の姿が重なる。妹の死という十二年前の悪夢が山内の脳裏をよぎったのは言うまでもない。
川島由紀子は教師から見ても人当たりもよく、友達も多かった。新聞部員でもあるし、誰かとコミュニケーションを積極的に図る生徒だし、イジメなどとも縁がなさそうで、自殺するには一番不向きなタイプといえる。
事件以来、川島が無神経な人々の噂や何かで散々な言われ方をされている事を思うと胸が痛んだ。
人はつくづく残酷で無慈悲な生き物だと山内は常々そう思っている。
人が異常な状況下で死ぬという特別な出来事を誰かと話すという行為自体、一つの快楽として楽しめてしまうから人間はとことん排他的で残忍だと思う。
この場合、主体と客体、能動と受動という意識は既に曖昧となり、事件が誰の為に何の為に行われたのかという点や、事件の不可解な点だとか謎の部分だとかに興味の対象は自ずと集中する。
事件が人を。人が事件を変えてしまうのだ。
馬鹿馬鹿しい事だと思う。
全く無関係な人々によって事件は作り変えられ、時にねじ曲げられてしまう。過った情報が平気で罷り通ってしまうこともある。
推理小説の問題編を現実の世界とごちゃ混ぜにされているような、それは厭な気分になる。山内は人殺しをエンターテイメントにしたような悪趣味な小説など嫌いだ。読みたいとも思わない。
そして噂の影響力は大きい。
テレビや新聞など、マスの媒体が大きく騒げば騒ぐほど大きくなるように思う。
インターネット上のチャットツールや電子メール、携帯電話などのコミュニケーションツールが発達したこの現代では、事件の動機を探ったり、ネットを通して誰かと噂話をしたりするのは、さも自然な事であるかのように当たり前のように行われている。
実際は事件となんら関わりを持たない、無関係な人間が圧倒的な多数を占める中で公然とである。
見知った人間同士だけの噂話では飽き足らず、匿名性までも利用して他人の不幸を肴にする現代人の、そうした品性はそこまで悪趣味で下劣なモノに成り下がってしまったのだろうか?
そうは思いたくない。しかし…。
誰かと話す内容が、いちいち誰かを傷つけているかもしれないと考えながら噂話をしている人間などいないのも確かだ。
人の心を一番傷つけるのは、無関係な人間の何気ない一言だ。山内はそれをよく知っている。そうした意味でも、人は無神経で無頓着なものだと思う。
山内は由紀子への慚愧にも似た思いを感じながら、目を伏せた。しかし、瞼を閉じて束の間、無限の闇に浮かんできたものは由紀子でも妹の姿でもなかった。
今まで幾度となく彼の瞼に繰り返されてきた、おぞましくも忌まわしい記憶や妄想。数々の人の声と黒い顔だった。
漆黒の暗闇の中で次々と現れては消えていく、マジックで塗り潰したような真っ黒な顔、顔、顔。
いきなり聞こえてきてはフェイドアウトする声、声、声。
『かわいそうに…』
『妹さんですって…』
『ああ…あの双子?』
『殺したの担任の先生なんですって?』
『妹と違ってあいつ、暗いからなんかイヤ…』
『大人しい顔して…』
『みんな言ってるよ…。あいつの方がって…』
『別れよっか…』
『殺された方もどっか悪い所があったんじゃないの?きっと…』
『まだ若いのに…』
『あそこの両親、離婚するんですってよ…』
『こんな時によく愛人といられるわね!』
『もう高校生なんだから、お前が決めろ…』
『大学?馬鹿言うな。
ウチにそんな余裕がある訳ないだろう…』
『居候のクセに…』
『あのコがいると近所の人にも何かと…』
『悪いけど君の部屋は、ここにはないよ』
『早くウチから出て行ってくれないかしら…』
『お前の方が死ねばよかったんだ!』
『死ねばいいのに』
『死んでくれない?』
『死んだ方がいいよ』
『死んでよ』
『死んでしまえ』
ストロボが弾けたようにフラッシュバックする数々の記憶…。
歪んだ妄想ともつかぬ想念…。
容赦のない罵声…。
急に呼吸が苦しくなる。
一度として忘れた日などない。
洋子…。
山内はぎゅっと目を閉じた。
タチの悪い発作にも似た寒気と悪心が襲ってくる。山内は周囲から気取られぬように浅い呼吸をゆっくりと深呼吸に変え、それを幾度も繰り返した。
…大丈夫だ。
自分の顔の表情は今、能面のように凍りついているに違いない。
消したい記憶と辛い経験は痛みを伴わない一時的な発作のようなものだ。耐えて症状が過ぎるのを待てばいい。
こうやって今までやり過ごしてきたのだ。
山内自身も痛いほど身にしみて知っている。
無表情で無関心なクセに無神経。自分も含め、人は本来的に口さがなく、自分本意で残酷にできている生き物なのだ。
事件の被害者だろうと加害者だろうと、あるいは当事者であっても自分と直接に関わりがなければ、所詮すべては他人事。
普段は社会的な立場に立ち、口ではどれほど綺麗事や体裁を並べてみても、誰かの耐え難い苦痛の声も、声にならぬ叫びも人の心には届かないし、真に響く事などないように思える。
互いに分かり合おう、助け合おうと口にしながら平気ですれ違うのだ。
己の疾しい部分に目を背け、見て見ぬふりをして、他人の傷を見ては平気で嘲笑う。
あれから12年…。
この学園に再びやって来て、教師というこの仕事をするようになって、なおさらよく見えるようになった人間の耐え難い一面を山内は改めて意識していた。
この学園で死んでいった由紀子が、そして実妹の洋子があまりにも哀れな気がした。
あの頃と何も変わっていない。
この学園は。
山内の心中に深く刻まれた痛みの記憶は、なぜか事件に呼応するかのように彼の胸を疼かせた。
過去に捨ててきたはずの亡霊のような憎しみが徐々に歪な形になって山内の心の中に渦巻いていた。
それはまるで深く、暗い色をした青い炎が一枚の写真をメラメラと燃やしていく様にも似ていた。
「それにしても…」
先ほどの花田という教師がポツリと誰にともなく呟いた。
「なんとかならぬものでしょうかな…。連日のように学園に送られてくる、この怪文書の類は…」
花田は大袈裟ともとれる仕草でジェスチャーをして、ため息をついた。
円卓には山のように積まれた報告書がある。教師達を悩ませる元凶とも言える、紙類の山。
もはや、いちいち目を通す気にもなれない。
これこそが事件を巡って勘違いしている人々の、誤った現実認識の証のように山内には思えた。
事件とおよそ関わりのない人々から送られてくる怪文書やFAXにメール。投函された手紙。保護者達の苦情の電話の内容や件数などを記した数々の報告書や陳情書。
悪戯目的のものからカミソリが入った手紙。中には『学園に爆発物を仕掛けた』などとほのめかす嫌がらせの手紙もあった。
生徒を装って自殺をほのめかす迷惑な電話の報告から悪口雑言の類まで、ありとあらゆる人の思念が綴られたそれらは、事件が自殺と報道されてから、連日のように送られてきていた。
マスコミが報道する事件は世間が騒げば騒ぐほど、往々にしてこのような後付けのトラブルがつきまとう宿命にあるようだが、それにしても内容が酷すぎる。
人間が悪意と作為の塊にさえ思えてくるようだ。
外側からは見えない学校という閉鎖された環境がそうさせるのか、はたまた自殺が社会問題化している現代の、どこかしら歪んだ構造のせいなのか。それとも単純に人々の鬱屈としたストレスが起因しているものなのか。
いずれにせよ悪戯に不安ばかりを煽ぎ立てられ、人の悪感情が自分たちにまで感染したかのようで、気持ちまで、なんだかささくれ立ってくる。
もはや常軌を逸した騒ぎとしか思えない。
事件のショッキングな報道や映像は仮に一過性のものだとしても、人心に与える影響というのは計り知れない。
いずれはよくある事件として片付けられてしまうから、なおさら始末に負えない。
「放っておくしかないのでしょうかな…」
花田は一人ごちた。退職も近い、老成したマイペースなこの教師も実は不安なのかもしれない。
「こんな時に校長はどこへ行ったのですか?」
今度は別の若い教師が教頭に向けて問いかけた。
「今日の会議には参加するとは言っておりましたよ。大方、また教育委員会の会合が長引いてでもいるのでしょう」
教頭は興味なさげに手をヒラヒラと振った。
「確認したのですか?」
植田が呆れたように教頭へ問い質した。
「私は校長の秘書ではありませんよ、植田先生」
無関心ここに極まれりといった教頭のぞんざいな口調に植田はうんざりしたように顔をしかめた。
その時、入口のドアがカチャリと音を立て、部屋にいた全員の視線がそちらを振り向いた。
校長が現れたのかと思いきや、それは案に相違して温かい飲み物をトレイに載せて運んできた間宮愛子だった。
「皆さん、ココアを淹れてきましたよ。甘い物はお嫌いですか? 少し気分転換した方がいいですよ」
「すみません間宮先生、私の仕事なのに…」
経理を担当している若い女性の事務員が慌てて席を立とうとした。
「いいんですよ桂木さん。私も何かしてないと落ち着かないだけなんですから。
ココアってコーヒーと違ってリラックス効果があるんですよ。保健室に青い顔して入って来る生徒達には、真っ先にこれを飲んで落ち着いてもらう事にしてるんですよ。
…あらやだ、私ったら。
こんな教師にあるまじき事をバラしてるようじゃ、カウンセラー失格ですわね、うふふふ…」
「まぁ、間宮先生ったら。そんなコトして生徒達と保健室で盛り上がってたの?
『保健室からたまに誰かの楽しそうな笑い声が聞こえてくるんだ』なんて噂してる生徒がいたけど、そういう事だったのね。
ふふっ…間宮先生らしいわ」
「あら、リラックスこそ患者さんの治療には大切なコトよ?緊張感をほぐして、患者さんをまずは笑顔で安心させる。その上で元気になってもらわないとね。
ほら、よく『病は気から』って言うでしょ?『鰯の頭も信心から』ともね。
『プラシーボ効果』って知ってます? 日本語で『偽物の薬』っていう意味なんですけど、風邪の特効薬だと偽って小麦粉を飲ませても、それを頑なに信じ込んで飲んでいる人間にはちゃんと効果があるように、思い込みに勝る薬はありませんよ。
…だから、このココアは立派なお薬ですから安心して召し上がって下さいね」
「ふふっ…先生、それを言ったら偽薬にならないでしょうに…」
「あぁ。そういえばそうね…忘れてたわ」
あっけらかんとした間宮の口調に桂木と呼ばれた事務員は、彼女と顔を見合わせて笑い合った。
そんな彼女達のやりとりを円卓から見るとはなしに眺めていた教師達も、なんだか毒気を抜かれたようにどこか表情が緩んでいた。
普通の会話で笑いあう。
たったそれだけの事で殺伐とした部屋の空気が、いくらか和らいだように感じるから不思議なものである。
こうした笑顔や微笑みにはどこかしら人を和ませる効果があるものらしい。
そういえば以前、愛子は山内にも語った事がある。
それは『イジメにあいやすい生徒には何か特徴的な傾向はないものなのか?』と山内が話しかけた時の事だった。
別に深刻な理由があった訳ではない。何の気なしに昔の同級生である彼女に振った、いわゆる世間話の類だった。
真面目で優等生ぶった国語教師が適当に尋ねた質問に、彼女はその時も笑顔で真摯に答えてくれたのだった。
彼女は言った。
「イジメにあいやすい生徒っていうのは総じて、恥ずかしがり屋さんに多いの。
基本的に笑う事が下手で、笑顔の作り方が未熟で苦手なコ達に多いともいえるわ。
…周囲の人に対して笑顔をふりまくという行為は、一見するとなんでもない普通な事のように感じるけれど、考えてみれば凄い事なのよ。
人間という種以外にそうしたやり方で他者とコミュニケーションを取ろうとする動物はいないし、まず笑顔を作る動物というのも少ないわ。
言ってみれば人間だけに与えられた防衛本能の一つといえるのよ。
赤ちゃんの笑い顔なんかは、その典型ね。
私達は自然に行っている事だけど厳密に分ければこうなの。
まず顔の表情を崩す。
…笑顔の形って色々よね?
言葉は悪いけど、笑った顔が普通の顔よりブサイクな人もいるわ。
つまり笑顔をふりまく事で他者に自然と安心感を与えてるという訳ね。
『私はあなたに対する敵意や害意はありませんよ』って。
笑う事が苦手で、どこかしら笑顔に不自然さや弱々しさ、違和感を与えやすい人っていうのは、それだけ相手に警戒心や敵愾心を多く与えてるって事になる訳。
本人たちにその気はなくても無意識に与えているという事はある。
イジメる方の性格は確かに人それぞれだけど、笑顔が気に入らない、見てると苛々するって理由は意外に多いのよ。
生徒達の授業のカリキュラムにお笑いの授業なんてのがあれば、意外にイジメ問題にはケリがつくかもしれないわね』
…確か、そんな内容だったように思う。
言われてみれば確かにそう思わないでもない。今のこの会議室の状態が何より雄弁に物語っているように思う。
あちらこちらで教師達の雑談が普段どおりに普通になされている。先ほどの圧迫感のあるような空間とは大違いだ。こうしてみると間宮愛子流のストレス対処療法は、はからずも相当に効果的だったようである。
一笑。哄笑。微笑。嘲笑。冷笑。大笑。
すべて笑うという事に関する日本語だ。
英単語では『smile』や『laugh』といった数えるほどしかない、笑うという意味合いも、こうして日本語にすると一つ一つのニュアンスが全く違う事に今さらながら驚かされる。
『狂笑』という単語が突然、山内の頭に浮かんだ。事件を思い出し、山内は少しだけそんな自分が嫌になった。無論、日本語辞書のどこにもそんな単語はない。ないはずだ。
教師達はそれぞれにカップを受け取っていた。山内も手渡されたカップに口をつける。
ホットチョコレートの温かい甘さとほろ苦さが喉元を通ると、確かに幾分か気持ちが落ち着いてくるように感じた。甘い物を口にするのは久しぶりだった。
場が少し和んだ。
「さて、皆さん。今日のところは会議はこの辺で終わりにしましょう。校長には私や植田先生が伝えておきます。
…という事で植田先生は悪いが、私と残っておってください。今日は時間も遅い。
皆さんも後の事は我々に任せて、帰り支度を始めて下さい。生徒達にも伝えたように、明日からは平常通りの授業ですから、準備の方もお願いしますよ」
ぶっきらぼうで事務的な口調ではあったが、ここに至り、始めて管理職らしい素振りを見せた教頭の発言に教師達は意外だという顔をしながら三々五々に席を立った。
教頭は手を後ろに組んで窓辺に立った。
山内は自分も残る旨を教頭に告げた。
この前、抜き打ちで行った古文のテストの採点がまだだったのだ。なるべくなら自宅にまで仕事は持ち帰りたくない気分だった。
教頭は特に反対するでもなく、今日はなるべく早いうちに閉めますからね、とだけこちらを振り返らずに答えた。
職員室も含む、この一号棟全部の事だろう。
会議室には他に保健校医の間宮愛子と事務員の桂木涼子が何やら談笑しながら残ったカップを片付けていた。
傍らでは頬杖をついて不機嫌そうにタバコを吹かしている宿直の植田がいた。老教師の花田も残るようだった。
「だいぶ曇ってきましたな…」
ブラインドに指を引っ掛け、僅かに開いてから花田は誰にともなく呟いた。外はまだ夕暮れ時だというのにやたらと暗かった。
「それにしても…嫌な空です」
その言葉に山内は自然と自らの腕時計を見た。
アナログの腕時計が指し示す針は16時32分。
偶然にも最初の飛び降り事件が起こる五分前の時刻を指し示していた。
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