邂逅の夜

10


『腐れ縁の気の知れた野郎同士、これからはこうして夜の街で飲んだくれる事もなくなる訳か。ほんの少し寂しくなるな…』


『よせよ。結婚前の女じゃあるまいし…ケツが痒くなる』


『花屋敷、お前また何か悪い物でも食ったのか?柄にない事を言うと、また腹を壊すぞ』


『…へいへい。お前らに真面目な話を振った俺がアホでしたよ』


『ははっ冗談だ腐るな。

しかし、卒業を待たずにいきなり中退とはな…。お前なら、大学院にだって行けるだろうに。

学部も違うあの佐伯教授に推薦してもらえる学生など滅多にいないぞ。就職にも響くだろうに。卒業式まで待てない事情なのか?』


『御家の事情ってヤツさ。

…ま、訳ありでよ…』


『………』


『………』


『…おいおい。二人揃って辛気臭いツラやめろよな。

久しぶりの酒が不味くなる』


『ふっ…そうだったな』


『…よし!そうと決まれば今夜は来栖の新しい門出への前祝いだ。朝までとことん飲み明かそうぜ』


『そうこなくちゃよ』


『よーし!ほんじゃあ俺に続け!お前ら今日は帰さないからな!

…おーい、お姉さーん!俺ら、おあいそね!』


『やる気満々だな、花屋敷。後で泣きを見ても知らないぜ。

…よぉ早瀬、奴が何軒めで潰れるか賭けようぜ』


『乗った』


『お前ら何、こそこそしてんだ。行くぞ!』


…………

5年…いや、6年か。最後にアイツと言葉を交わしたのは。

今にして思えば、あの頃が一番楽しかった。気の知れた仲間同士で下らない事で笑い合い、似たような事で悩み、何よりも今ほど時間に拘束されない、緩やかな自由があった。


残り少ない悪友との時間を惜しむようにしてあの夜、終電車が行ってしまっても尚、花屋敷達三人は何軒ものバーやスナック、居酒屋をハシゴして、したたかに飲み、食い、笑い合い、そして酔い潰れたものだった。

別れ際もちょうどこんなゴミゴミした街の中だった。

アイツは最後になんと言ったのだったか…。


花屋敷は思い出せない。


色が白く、同性から見ても憎たらしいほどにハンサムな外見や細かい顔のディテールやぶっきらぼうな口調まで思い出せる癖に、肝心な部分はまるで覚えていない。


最後に花屋敷が見たのは、雑踏の中で少し寂しげに微笑み、背中を見せた黒い革ジャンの後ろ姿。

都会の人混みに紛れるように、アイツはひっそりといなくなった。


花屋敷は隣を歩く、あの頃とはすっかり様変わりした旧友を見やった。


季節外れの象牙色のコートを涼しげな顔をして颯爽と身に纏い、淡々と歩きながらも目だけは用心深く周囲を観察している早瀬一郎。

キャリアの警察官僚にはまるで見えない。眼鏡越しの鋭い眼差しは今や刑事の視線そのものだった。


もっとも、早瀬の場合は、デカの表情をしていても昔と変わらぬ、親友と書いてバカと読む方の一人だと分かった後だけに花屋敷は内心ホッとしていた。


ふと自分はどうなのだろうと考えてみる。

この6年で変わった事と言えば、実家の洋食屋を継がなくてもいい代わりに筋金入りの自由な独身になれた事くらいだろうか。


灰色のスーツを大柄な身体で窮屈そうに着込み、相も変わらず不機嫌な仏頂面をして、ノシノシと腹を空かせた熊のように歩いているのであろう自分を。


あれから時が経ち、二人は警察官という公僕の身となって都会の雑踏に紛れてしまっている。


今のアイツは俺達をどのように思うのだろう…。


花屋敷はネオン輝く街を眺めた。


夜の帳が訪れた時刻だというのに都会の街は、まるで真昼のように明るく、そして真昼よりもずっと騒がしかった。

昼は機械のように無表情をした大都会の街が、夜になるとより人間的な表情に変わってしまうように感じるから一日の時の移ろいとは不思議なものだと思う。


大都市には昼と夜の顔がある。

表と裏の顔がある。


街は様々な人格という仮面をつけ替えて、日常を送る人の姿にも似ている。


遥か上空には光学スモッグの靄が煙り、本来なら星の見えるはずの夜空をすっぽりと覆い隠し、人工的な文明の光は人々に真昼のごとき恩恵を齎している。


天空を貫くようにそびえ立つ高層ビル群。周囲の風景は常に白でも黒でもなく、灰色だ。


夥しいほどの数の人間がひしめき合い、それぞれが様々な箱に入って様々な人生を送っている。


名前を捨てた浮浪者達がカラスや野良猫同様にゴミを漁る一方、愛玩動物のペット達は裕福な人間に飼われ、上等な服を着て何不自由なく人間以上の生活を送っていたりもする。


そこそこに幸福に生きている人々のファッションや流行は日毎に変わる。


金のあるなし、職業の善し悪し、容姿の善し悪し。

上と下のランク付けを尊ぶ文化は当たり前。


今や誰しもがボタン一つで誰かと話せる小型の情報端末を持つ時代だ。

街を歩けば巨大な街頭スクリーンや自動販売機、ちょっとした看板にさえ活字の情報端末があるように、あらゆる情報はあらゆるメディアを通してリアルタイムで伝わり、無限に存在する言葉はこの世に現れた瞬間に選別され、管理され、その都度記録されている。


自然界には存在しない音や音楽に溢れ、自然界には存在しないものを見て、聞いて、そして原型すらわからなくなった食い物を来歴も気にせず食っていたりもする。


時間の経過とともにめまぐるしく変わる、そうした妄想とも異常ともいえる環境の中に、人は当たり前のようにして生きている。


自分が刑事になって始めてわかった事がある。


文明の進歩だの都市の進化だのといったものがいかに目覚ましくとも、そこに存在する人間という種そのものの根幹…根っ子の部分は昔から何一つ変わってはいないのだろうな、と。


相変わらず巷は犯罪や悪意に満ち、金と色と欲に溺れた亡者さながらに人は誰かを傷つけ、誰かに傷つけられている。


無表情に、無感動に、あるいは忙しそうに振る舞いつつも淡々と時を重ね、ほんの少し他人に哀れみと同情を繰り返して日々をやり過ごす。

愉しい事だけを連綿と数珠繋ぎにするような夢だけを夢想し、苦しい事は紛らわせ、抑圧し、忘れようと努力する。そうして忙しい日々をやり過ごしていかなければ、現代の社会は立ち行かないように出来ているのかもしれない。


人間の英知を象徴する高層ビル群を照らす、輝かしい夜の世界は、きらびやかな中にも、どこかしら歪で不自然で、不気味な有象無象の影が蠢く妖しげな闇をそこかしこに隠している異様な世界のように花屋敷には思えるのだった。


ギラギラと己の存在をこれでもかと主張して輝く、周囲のうざったい看板やネオンがやたらと目に眩しい。


車のクラクションや騒々しい夜の街が奏でる喧騒、夥しいほどの人間が行き交う交差点の人の流れが束の間、物思いに沈んだ花屋敷を現実に引き戻した。


6月16日。午後8時50分。


新宿区歌舞伎町二丁目。


『眠らない街』と称される日本有数の歓楽街は既に闇夜の仮面を被り、色とりどりのネオンのドレスを身にまとった舞踏会の淑女達のごとく、艶やかな姿でその日も賑わっていた。


JR新宿駅の東口を抜け、アルタビジョンのあるスクランブル交差点を越えればそこは正に別世界だ。

バーやスナックや居酒屋に混じって、ガイドブックにも載っている有名飲食店も数多く立ち並ぶ。


人種の坩堝と呼ばれる国際都市東京だが、ここ新宿区はそうした中でもさらに異質な存在だ。


街の片隅にちらほら見掛けるゴミ集積所の表示でさえ日本語の下は外国語が並んでいる。中華料理店やインド料理店の看板ですら、日本語に英語に中国語の店もある。


擦れ違うほろ酔い気分の酔っ払いや路上で声を掛けてくる者達や、街の片隅にたむろっている人々でさえ日本人が大部分ではあるものの、人種も国籍も肌や瞳の色も、男も女も、ましてや服装もバラバラだ。


在日中国人や韓国人、同じアジア園であっても日本人かどうか一見しただけではわからない。これが国際都市の歓楽街たる所以だ。

服装だの端々の言葉だのといったモノが判断基準となる訳だが、ここ歌舞伎町は都会のオアシスのようで、実はどこよりも一層に乾いている。


この街に限らず、大都会であらゆる欲望を満たす手っ取り早い手段は金である。そうした意味で、ここはシビアでドライで解りやすい街だ。


労働や人同士の関係を金銭という道具のみを媒介とするならば、人種や言葉の違いなど些細な事なのだろう。


だからこそ往々にして犯罪が後を絶たない。


若い不良達の溜まり場が多い渋谷のセンター街、池袋区の錦糸町、JR新宿線、新宿駅から新大久保、鴬谷などは実際に治安も悪く、警視庁の重要警戒区域にも指定されている。


早瀬が警戒感を抱くのも当然だろう。


花屋敷とて管轄の違う身内の縄張りを荒らしたくはないし、公安も目を光らせているようなこの街の妙なゴタゴタに巻き込まれたくはなかった。


色と欲と金が渦巻き、様々な人種が数多く住み、境界が曖昧であるがゆえの暴力団同士の暗黙のルールなども存在していたりする。それを隠れ蓑に付け込む輩もいる。


大陸系のマフィアが横行し、日本の暴力団はアンダーグラウンドな部分で資金を調達し、警察用語でいう所のアカ…いわゆる共産主義者達も平然と隠れ蓑にできる街でもあるのだ。


目を移せば、己の存在をきらびやかなネオンや看板で主張するキャバクラやピンサロ、ソープランドにファッションヘルス、パブにホストクラブといった夜の店も数多く立ち並ぶ。


酔客のサラリーマン達にしきりに声をかける居酒屋の呼び込み達をスイスイと避けながら、早瀬は人だらけの通りを進んでいった。


ハンサムでエリートサラリーマン然とした早瀬には、高級クラブの黒服の男達や夜の女達からの誘いや呼び込みが多かった。

隣を歩く花屋敷には馴れ馴れしい口調の中年や若い呼び込みやカタコトで話す中国系の女ばかりがやたらと声を掛けてくるように感じる。勿論それは早瀬へのやっかみなのだが、わかりやすくも現金な街だとは感じる。


こうした街での聞き込みや調査には慣れているとはいえ、ここまであからさまな扱いを受けたのは初めてな気がした。


「本当にこの街にアイツがいるのか!?」


花屋敷は雑踏の声にかき消されぬよう、半ばヤケクソ気味に早瀬に話しかけた。


「ああ、間違いない!」


人混みの中で声を張り上げる早瀬は相変わらず淡々としたものだったが、花屋敷はいまひとつしっくりとしないものを感じていた。


『渋谷界隈を荒らし回っていた不良チームを一掃したのは新宿歌舞伎町で探偵屋を営む男だ。そしてそいつは俺達のよく知る、あの男だ』


早瀬は花屋敷にそう告げたのだった。もちろん最初は嘘か冗談の類だと思った。

そうでなければ、自分をからかっているのだろうと。

だいたい柄の悪さで有名な渋谷の若い不良チームを、たった一人で大立ち回りの末に全員やっつけるなど、荒唐無稽を通り越して、むしろ非常識ではないか。

映画や漫画の世界ではないのだ。あまりにも馬鹿げている。


もっとも、最初からこの事件は死体が笑うだの黒魔術の絡む殺人だのと、ありえないような馬鹿げた事ばかり起こってはいるのだが。


来栖要。よりによってアイツが傷害事件の犯人であり、得体の知れぬ探偵の正体だとこの旧友は言ったのだ。


来栖要。

大学の同窓であり、花屋敷や早瀬の旧友である。


来栖とは大学時代、柔道のサークルを介した会合で知り合った。

不思議な男…というのが花屋敷の第一印象である。


武骨で粗野な言葉使いではあったが成績優秀、容姿端麗。実家の方が相当の金持ちだという噂もあった。


じっとしていれば女にモテる外見だし誰もが羨むような出自だというのに、来栖自身はそうした事にはまるでクールでドライで、余計な色が付くのを嫌った。


花屋敷の知る来栖要は、いつも真っ黒な服を着て図書館や自分の住む安アパートで黙々と本を読んでは、好んでやさぐれた生活をしているような変わり者だった。


スポーツも一通りこなす割には、常にナンバー1になりたがらず、自分の事はあまり語らない。


今にして思えば、よく花屋敷のような凡庸な男が早瀬のような法学部きっての秀才や、来栖のような理学部の天才とも呼べるような男と共にいたと思う。


もっとも、友人関係はそうした打算や何かで割り切れるものではないのだろう。気が付けば三人は大学では三人で固まっている事の方が多かった。


あれから六年…事件を通してとはいえあまりにも急な邂逅である。気の乗らない花屋敷をよそに、早瀬はずんずんと通りを先へと進んでいった。


細い路地をいくつか折れ、どこかひっそりと湿ったような場所に二人は出た。


花屋敷は妙な気後れを感じ、ずっと気になっていた事を早瀬に尋ねてみる事にした。


「なぁ…来栖はどこまで事件の事を知ってると思う?

学園側が雇った人間らしいが俺達からしてみたら、ただの捜査妨害者だ。傷害の件もある…。やはり奴を引っ張るのか?」


「アイツ次第だな。傷害事件については、むしろ正当防衛だろう。

今の所、少年達の親から被害届けも出ていない以上、書類上の手続きだけで済むかもしれん」


早瀬は目だけをちらりと花屋敷に向けただけで淡々と歩みを進めていく。


人通りの少ない場所に出た。

とはいえ、人の話し声や物音はちゃんと遠くに聞こえるぐらいの距離である。この辺りは在日外国人が多く住む、歌舞伎町のメインストリートからは外れた通りであるはずだった。


「ここだ」


韓国料理店と麻雀クラブの間には一際大きなビルがあった。ビルの表の看板を確認してみるとバーやスナック、占いの館といったテナントが中にあるようだ。


「このビルに奴が…?」


「違う。ここだ」


ビルと麻雀クラブの間の路地、というより地面の方を指差して彼は言った。花屋敷は目を凝らした。


うっかりすると見逃してしまいそうな、こぢんまりとした通路の奥に灰色のコンクリートの階段が地下へと続いているのが見えた。


地下のトンネルの入口の周囲はレンガ作りで、一見すると地下街へ抜ける階段と見間違えそうな場所である。

少なくとも、花屋敷の目にはそう映った。


魔窟、という時代錯誤な表現が頭を掠める。天井の照明灯が壊れているのか、時折チカチカと頼りなく途切れ途切れに階段を照らす以外は周囲は薄暗く、僅かにひんやりと湿っている。


通路が狭い為に花屋敷には早瀬の背中しか確認できなかったが、地下へ続く階段はそれなりに長い。


カツーンカツーンと反響する二人の足音がびっくりするほど大きく聞こえる。たっぷり一分程は殺風景な階段を下ってきただろうか。


やがて狭い通路の目の前には明らかに場違いな、真新しい黒いドアが見えた。狭い通路のどん詰まりである。

花屋敷は早瀬の背中越しにそのドアが見えた為に最初は行き止まりかと思ったのだが、どうも違う。


黒いドアは周囲の風景と完全に同化しているだけではない。文字通り真っ黒だったのだ。


というのも、本来銀色の金属製のドアノブまで黒いからだ。

何の意図があってこんな事をするのかは皆目わからないが、中にいる人物は相当な変わり者なのは間違いない。


探偵事務所には到底思えない。興信所らしき看板もどこにも見当たらず、見つけろという方が困難な場所である。


「徹底的に黒にこだわる。奴の変わらない趣味って所かな…?」


「さあな…。さて、六年ぶりの再会といこうか」


早瀬は最初に二回ノックして、しばらくしてからもう一度だけノックする。しばらくすると黒いドアは音もなく、いきなり外側に開かれた。


現れた人物の顔を花屋敷は驚愕の視線で見つめた。


「お前…」


隣にいる早瀬の無表情な顔が俄かに強張った。

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