白昼の影
8
その日の午後も聖真学園は六月の欝陶しい、じめじめした熱気を伴った昼下がりを迎えていた。
由紀子の実家での葬儀も終わり、午後は平常通りの授業の予定だった。
昼休み。
鈴木貴子はぼんやりと頬杖をつきながら、図書室の窓から望む中庭の景色を眺めていた。
気まぐれな梅雨時の空は皮肉なことに正午頃にはからりと晴れ、久しぶりに姿を表した陽光が、キラキラと眩しく木々の枝葉や草花を輝かせていた。
天を仰げば、抜けるような蒼穹が夏の訪れを早くも予感させる。
中庭では公認のカップル達が弁当を広げたりキャッチボールをする男子生徒達がいたり、軒下で本を読んでいる生徒もいた。
この図書室は校舎のニ階にあり、教室からも近いせいか貴子と同じニ年生の生徒達が多く利用する。
昼寝にはもってこいな環境であるせいか、昼休みのこの時間は体育会系の部活に所属している生徒達が午後の練習や授業に備えて仮眠していたりもするのだが、今日は誰もいなかった。
もしかしたら勇樹は午後に登校してくるかもしれない。いるとすればここかもしれないという僅かな期待を込めて貴子はここで昼食をとる事にしたのだが、どうやら無駄足になりそうだった。
母親が元気を出すようにと気を遣って、いつもよりボリュームのある弁当を用意してくれたのだが、例によって食欲のない貴子は母親に申し訳ないと思いつつ、結局かなりの量を残してしまった。
味のしない昼食を早々に切り上げ、貴子はつらつらと勇樹や由紀子の事件の事や、それに対する学園の冷たくも常識的な例の対応について考えを巡らせていた。
我ながらおかしなもので、勇樹に協力を頼まれてからというもの、貴子は以前よりもクラスメート達の同情に満ちた視線や気にかけてくれる言葉の一つ一つが気にならなくなっていた。
もちろん完全に安定した訳ではない。生きていく過程の中で人の死を悼むという忘却行為は、たとえ一時的であるにせよ自らの精神的安定の為に必要な防衛手段なのかもしれないと貴子はそう思った。
安定など実際はどこを探してもない。退屈で似たような日常を繰り返す行為を、平和や普通という言葉で錯覚できてしまう所が実は社会というものの一つの機能なのかもしれない。
いつまでも心の傷だ悲しみだと過剰に意識し続ける行為は停滞に過ぎないし、貴子もそんなふうには出来ていない。
だから今は由紀子の為にも何かしていたかった。勇樹が言っていたように、それが由紀子を忘れない為に貴子が出来る事なのかもしれない。
それにしても。
一人の人間が狂ったように笑い続けるという、この事件の最大のキーともいえる理由が貴子には未だにわからないでいた。
一体あの時、あるいは事件の前に時計塔で何があったというのだろう…?
由紀子が自分から飛び降りなければならぬ程の、その理由とは何だろう…?
貴子は事件のあった当日、由紀子と特別な事は何も話していない。授業中にも見ているし、それこそ淡々といつも通りに振る舞っていた。自殺するようなそぶりなど何一つなかったように思う。
その辺りも自殺説に対し、勇樹や貴子が違和感を感じている所以である。
だが、それは貴子や勇樹がたんに気付いていなかっただけなのかもしれない。
もしも貴子の知らない、由紀子のもう一つの顔があったとしたら?
本当は自殺したくなるほどの切迫した事情が由紀子になかったと本当に言えるのか?
そこまで考え貴子は愕然とした。
貴子は親友のプライベートな部分は、本当はまるで知らない事に。
登下校はといえば、貴子の住所は祐天寺だし、由紀子の実家のある青葉台は正反対の方角にある。
部活が終わり、二人が一緒に帰る時にはいつも貴子の方が先に別れるから、その後に由紀子がどのような事をするかまでは貴子も与り知らぬ事である。
もしも。
もしも貴子の死に不自然な点が、もっと極端に考えれば誰かに殺害されたのだとすれば、その動機となるのは由紀子の私生活の方にこそあるのではないか?
『死んだY・Kは誰にでもヤらせる女で超有名』
時計塔の魔術師と名乗る謎の人物による、あのブログの書き込み。考えたくはないが傍証ならある。
いや。駄目だ。
貴子は一人ゆるゆるとかぶりを振った。
百歩譲って仮に由紀子がそうだったとしても、殺されるほど誰かに憎まれていたにしても、殺害の理由にはなりえない。
男女関係の縺れイコール即殺人では短絡的過ぎるし、それほどの人物の存在が由紀子の周辺にいたならば、いくら貴子がそうした事に鈍感でも、由紀子が巧妙にその存在を隠そうとしたとしても、さすがに気付いただろう。
だからこの場合、わからない事はわからないと棚上げにしておくしかない。
では。
仮に殺害だとして、その方法とは何だろう?
貴子が目の前で目撃した以上、誰かに突き落とされた訳では当然ないし、遠目に見ても由紀子が人事不省に陥る程の怪我をしていたような感じもなかった。
貴子は思い出す。
未だに生々しいあの常軌を逸した記憶をなぞる。
吹きすさぶ強い風…。
辺りから聞こえる女生徒達のガラスの割れるような、引き裂くような絶叫と悲鳴…。
フェンス状の金網に腰掛け、ただただ痙攣したように笑い、おかしそうに手を叩き、ガシャガシャと踵で金網を蹴り続ける由紀子…。
赤いチェック柄のスカートが風になびき、長い髪を振り乱して…。
え…?
貴子は思わず凍りついた。
長い…髪…?
風に…なびいて…?
待て。
待て待て待て…!
由紀子はあの髪留めを、人前で滅多に外したりしないはずだ。
いつもユラユラと背中に垂らしたあの由紀子のトレードマークと言ってもいい長めのポニーテール。それを留めている中心が十字型に盛り上がり、偏光グラスが入ったムスカリという赤い髪飾り。
これは貴子しか知りえない情報のはずだ。貴子は普段からあまり付けないが、同じ種類の青い物なら持っている。学校帰りに由紀子と一緒に買ったお揃いのものだ。
お気に入りのファッションアイテムを見つけ、子供のようにはしゃいでいた由紀子との会話を貴子は思い出していた。
『ねぇ貴子、これ可愛くない? この髪留め。あ、そうだ。これ好きな人が出来るまで絶対に人前じゃ外さないことにしようかな。アタシの勝負アイテムにする!』
『え~?おまじないなんて効果ないかもしれないよ』
『いいじゃん!今はないけどチャンスが来たら倍嬉しいじゃない。貴子も買いなよ。お揃いのにしよ!こっちの青いのはどう?』
ざわりと寒気にも似た震えが貴子の背中を襲った。何か決定的に不自然な違和感を掴んだ気がした。
あの髪留めは授業中には間違いなく付けていた。
あの髪留めがもしあの日の放課後、あの時計塔かどこかで由紀子の手によって自発的に外されたのだとすれば…。
今の所は飛躍にしか過ぎないが、これは由紀子が自殺したのではない事を裏付ける一つの証拠となりえるものではないのか?
あくまで可能性の域は出ないが、由紀子は誰かと待ち合わせをしていたかもしれない。そして、その人物は…。
そこまで考えた。
その時だった。
「しかし困ったわね…。由紀子がもしアレを持ち出したんだとしたら、私達だってどうなるか…」
「しっ!声が大きいって!とりあえず図書室に行こ。昼休みも終わるし、今なら多分誰もいないわ」
「あ…ゴメン」
…え?
…由紀…子?
足音は徐々にこの部屋へと近付いてきた。
…隠れなきゃ!
ただならぬ気配を感じ、貴子は反射的にたくさんの蔵書が詰まった書架の並ぶ部屋の奥の死角へと身を隠した。ガチャリとドアの開く音と貴子が書架の間に滑り込むタイミングはほとんど同時だった。
息を殺し、物音を立てないように膝を折り曲げ、身を屈める。スカートがひどく邪魔だった。
お願い!見つかりませんように!
普段は毛程も信じてはいないクセに、この時の貴子はちょうど神に懺悔の祈りをする時のような姿勢で固まっていた。
足音は二人組のようだった。
貴子はヒヤヒヤしながらも、そっと聞き耳を立てた。
「誰もいないわ」
「そりゃそうでしょ。司書の人も昼休みだし、どこの部活も今日はないみたいだから、こんな所に来て寝てる奴もいないわよ」
ガタンと音がした。
貴子は思わずビクッと縮み上がった。
椅子を微かに引きずるような音がする。どちらかが、ただ座っただけのようだ。
…ビックリさせないで!
貴子は内心見つかったのではないかと思ってビクビクしていた。心臓がバクバクと今にも張り裂けそうだった。
まさかこんな所にこんな奴がうずくまっているとは誰も思わないだろう。
「静かね」
「うん…。今はね…」
居心地の悪い沈黙が僅かの間、部屋を支配した。
来訪者はやはり二人組だった。ニメートルはある書架越しであるから当然顔は見えない。
かなり深刻な空気を感じ、貴子は律義に呼吸まで止めて、さらに息を潜めた。
「けど、これから先はどうなる事やら…。ウチらどうなんのかな?
やっぱ警察がいきなりウチらを捕まえに来たりとかすんのかな…」
「何よガーベラ、アンタまさかビビってんの?
まだわかんないじゃん。
このまま誰にも見つからないかもしんないじゃん」
「ダチュラは何て言ってたの?」
「今は何もするなってさ。
由紀子…ローズの事は放っておけって。メンバーの誰かと学校の中で会ったら、さりげなくそう伝えとけってさ」
「だからアタシは反対だったのよ!あの女、新参者で客もとらないクセに口だけは出してきてさぁ。
新聞部と掛け持ちしてたし、最初からアタシ達をタレコむつもりで入ってきたに決まってるよ!」
「リリー!少しは落ち着きなよ。ローズの横の繋がりがなきゃ、アタシらだってヤバかったんだよ」
「そりゃわかってるわよ!
けど…」
再び沈黙が訪れた。
窓の外の中庭から男子生徒達の声がする。
貴子は自分の身体が足元からひんやりと冷たくなっていくのを意識していた。
ダチュラ…。
ローズ…。
ガーベラ…。
リリー…?
花…だろうか?
お互いの名前をどうやら花の名前で呼び合っている。おそらくはコードネームやニックネームの類なのだろう。
一体なんの為に…?
何者かはわからないが、はっきりしているのは名前をおいそれとは明かせない、警察沙汰の後ろ暗い活動をグループ単位でしているような連中だという事だけだ。
そして、おそらく由紀子も…。
「ねぇリリー、これからどうするの?」
幾分か幼い感じの声が、リリーと呼ばれた少女に呼び掛けた。
ガーベラといったか。感情の起伏をあまり相手に悟らせまいとするような、慎重な話し方をする少女だ。
「どうって…普通よ。アタシはダチュラの指示通りに普段通りに過ごす事にする。サバトもギフトもしばらくはないだろうし、久しぶりに普通のJKライフを満喫するわよ。…ガーベラは?」
リリーが鼻白んだように事もなげに答え、今度はガーベラと呼ばれた少女に問い返した。このリリーという少女は幾分か、声のトーンが高い。ガーベラとは対照的に感情的で内緒話がおよそ向くような感じではない。
「私も。あまり派手に動かない事にする。まぁ警察だって証拠がなきゃ捕まえには来れない訳だし。探偵だの警察だのもいるし、陰でコソコソ書き込んでるようなタチの悪いのもいるから…」
「まあね。時計塔の魔術師とか言ったっけ?誰か知らないけど、超ムカつく!本当に余計な真似してくれたわ!」
バン、と机を叩く音がした。
貴子は再びビクッと身を竦めた。このリリーという少女、本当にこちらの心臓に悪い。言葉や態度の一つ一つに刺がある。おしとやかそうな名前にはおよそ似つかわしくない。
「ねぇ、こんなコトすんの誰だと思う?まさか、ウチらのメンバーの中にいないよね?」
「まさか!ビビって味方を売るような奴がアタシらの中にいる訳ないじゃん。
一人が捕まったら芋蔓式に顔が割れてくんだよ?
そんなヘマしないって」
「そうだよね…。掟を破る奴なんかいる訳ないか…」
「でもアレをローズが持ってたとしたら、実際ヤバイ事になるんじゃない?」
「それなんだけど…警察はやっぱりまだ何も見つけてないんじゃないかな」
「何よ、それ?」
「だってそうでしょ?アレが見つかったら真っ先に疑われるのはアタシ達の方じゃない?
おそらくまだ警察も見つけてないよ。ローズの死体からも実家の方からもまだ何も出てないからこそ、アタシ達に捜査の手が伸びてこないのよ」
まだ幼い感じの残る声だがこのガーベラという少女…ひどく理知的な感じを与える。それが貴子には逆に怖かった。
考えてみれば貴子はとんでもない会話を耳にしている事になる。そして今、急速に己の身に危険が迫っていることに初めて気付いた。
もしこの人達に見つかったとしたら…。
ぶるりと背中に悪寒が走る。考えたくもなかった。
「どなたかそこにいらっしゃるのですか?」
貴子は三度ビクリとした。
今度こそ見つかった!
貴子は頭を抱えてうずくまった。
しかし、すぐさまそうではない事に気が付いた。
今の声はガーベラでもリリーでもなく、もっと柔らかな気品に満ちていた。
この声…。
ドアが開く音がした。
「あっ!い、一条先輩…」
リリーの怯えたような声が聞こえる。
やはりそうだ。貴子はそっと胸を撫で下ろした。
一条明日香。
この学園でおそらく、その名前を知らない者などいないだろう。
成績優秀、容姿端麗。有名な代議士の娘でもあり、学園の生きた伝説。生徒会役員で教師達のウケも特にいい。
放課後になると近隣の高校からも彼女見たさに、大勢の人が校門に詰め掛ける程で、男子生徒達にとっては目にする事さえ光栄とされる高嶺の花。国民的美少女コンテストにも選ばれた事もある、将来は有名芸能人とも一流モデルとも噂される、絶世の美少女だった。
「もうすぐチャイムの鳴る時間ですよ。ここももうすぐ司書の方が閉めますから、そろそろ教室に戻られた方がよろしいですわ」
判で押したような、お嬢様言葉だが不思議と嫌みな感じはしない。上質で滑らかな絹のように繊細で柔らかく、温かみのある声だ。
「あ、あの…ゴメンなさい!
すっ…すぐに戻りますから!」
リリーの慌てふためいた声がする。よほど動転しているのか、同時にガタガタと軋んだ音を立てて木製の椅子を引く音がした。
「ふふっ…そんなに慌てなくても大丈夫。まだ授業には間に合いますわ」
「す、すみません一条先輩!
し、失礼します…」
今度はガーベラの声だ。
冷静で慎重な感じのする子だと思っていたが、さすがに一条明日香が相手では女王と召使いほどに格が違う。
「ふふっ…そんなに畏まる必要ありませんわ。
私にもわかります。女同士友達同士のお喋りはつい時間を忘れてしまいますものね」
「し、失礼します!」
そう同時にハモったかと思うと、二人の足音が徐々に遠ざかっていった。
貴子は身体中の力が一気に抜けていくのを感じた。
まったく。今日は最低最悪の日だった。できる事なら何も考えず、もうどこかに倒れ込んで泥のように眠ってしまいたい。貴子は自分の部屋のベッドが今ほど恋しいと思った事はなかった。
「さて…鈴木貴子さん。
そこにいらっしゃるのでしょう?ドアは開けておきます。貴女も早く教室に戻られる事ですわ」
柔らかさの中に有無を言わさぬ迫力で、一条明日香は声高らかにそう告げた。
蜘蛛の巣にかかった獲物の気分は恐らくこんな感じではないのだろうか。
何かしら取り返しのつかない過ちを侵してしまった気分になった。貴子は氷のベッドに無理矢理押しつけられたように急速に、己の体温が冷えていくのを感じていた。
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