怠惰な死体・6


6


 私が一通り関係者達の証言やアリバイに関する資料を眺めながら唸っていると、西園寺はちょうど上品なバーテンダーに私達が最初に注文したバッファロートレースとメーカーズマークをロックで注文してくれている最中だった。


“締めの一杯は始めの一杯に返ってくるといい。祝い酒の心地よい陶酔は、回り続ける車輪のように我らの運命を走らせる”。


 西園寺と私が好きなハードボイルド小説の一節だった。要するにこの一杯で最後だぞ、という私達共通の合図のようなものだった。だが、今夜の酔いはなかなかに心地よいとは言えなかった。車輪に絡まった蔦のように、謎が私を唸らせ、轍わだちに溜まった泥土のように空回りし足止めしている。


 唸る私をよそに、西園寺は届いたロックグラスのスクエア型の模様を眺め、透明な満月のように丸い氷と薫り高い琥珀色の液体をグラスの中でカラリと弄びながら私に言った。


「よぉ、ずいぶんとお悩みのようだな。ここらでお前も一息つかねぇか?

…おいおい、スクープにはまっしぐらの東城記者ともあろう者が、この事件には唸りっぱなしだな。一週間くらいお通じがない女みたいに険しい顔してるぜ」


 私は資料をカウンターにパサリと投げてため息をつくと、毒舌家で皮肉屋の友人に応えた。


「あいにくとバランスのいい食生活は心掛けてるから、僕は悩まされてないよ。皮肉屋の肉好きの親友に心配されない程度にはね。

…いやなに、関係者のアリバイを一通り眺めていたんだけど、いまいち突破口が見いだせなくてね。推理小説じゃアリバイ崩しと密室は舞台の花形みたいなものだけど、現実の事件となるとどうもいけないな。

…ねぇ、この教団幹部の家族が特殊な宗教の管理団体であり、一つの迷信を信奉している集団ってところに制約や何らかの作為なんかは見出だせないものなのかな?」


「今のとこカードキーの件もあるし、テンキーにだって河西麻未の指紋が一つ二つついてた程度だからな。部屋は同時に開けられていてカードは全部屋共通だから、盗まれたカードを使った複数犯や、幹部同士なら誰でもあり得るとしか言えないぜ。

 やれやれ…我らが頼みの綱の東城記者もお手上げじゃ、記事にして名探偵の到来を待つってのも期待薄だな。下手したら、この事件も褒賞金が出るくらいまで長期化しちまうかもしれんなぁ…。


 東城には記事にしてもらうとして、明日は水野上人みずのしょうにんの件でもあたってみるか」


 私はいきなり聞き慣れない名前に顔を上げた。


「水野上人?」


「ん? ああ、木村憲仁に関する訳がわからん噂の類だよ。奴は信者達からかなり信頼されてたらしくてな、要するに教団の悪口だよ。主に年寄りの信者達が騒いでるらしいんだがな。

“あの尊たっといお方は教団に入信する前の名前は本当は水野憲仁といって今や憲仁上人けんじんしょうにんと呼ばれる人となってござる、いやいや水野上人と呼ぶべきだ、木村家はとんだ紛い物の団体だ偽物だインチキだ”と信者達から、そう叩かれ始めてるらしいんだよ。

 教祖の木村太輔もウチの若い奴の話じゃ、聴取にはとても応じられないほど精神的に参っちまってるらしい。噂じゃ発狂して入院するほど追い込まれてるって話だ。それもこれも、あの怠惰な死体のせいでな。あの腐らない死体の噂は凄まじいぜ。警視庁への問い合わせや抗議の電話が鳴りっぱなしだ。丸の内署のホームページへの書き込みもな」


「ネットの炎上の仕方はかなり凄まじいね。怪しい宗教儀式のようにも思えるとか他宗からも恨みを買ってるような団体だからその意趣返しだろうとか、もっとやれとか、教団を壊滅させろとか犯人を応援するような過激な書き込みがやたらと目立つな。腐らない死体だなんてさすがに教団以外はどこも取り上げてないのか、木村憲仁は殺されてキャリーバッグに遺棄されたと思われてるようだね」


 あ、と頬杖をついていた西園寺は、急に何かを思い出したように声を上げた。


「…どうしたんだい?」


「あ…いやな、他殺の証拠といえるかは解らないんだが司法解剖の結果、妙なものが体内から見つかったのを思い出してな…。ほら見てみろよ、コイツが今日あがってきた解剖所見の最新版だ」


 西園寺は写真の下にあった書類の該当ページを捲って私の方へ寄越した。私はそれを受け取りながら彼に訊ねた。


「妙なもの? 木村憲仁の体内から…というと胃の中ってことかい?」


「ああ、鉛と漆なんだ。こいつもまた妙な話だろ? 鉛に関しちゃ食い物にも含まれてるが漆器の材料になる漆となるとな…。重金属による中毒死と呼べるかは解らないほどの微妙な量なんだが胃の内壁と小腸から検出されてる。他殺されたにしても致死量には到底達する量じゃないときてる。

 だから訳がわからなくて困ってる訳さ。捜査本部じゃ飲まず食わずの状態で監禁された上に毒でも盛られてたんじゃないかって話も出てき…」


 その時だった。



「なぜ、それを早く言わないのですッ!」



 突然、凛とした叱責の声が店中、いやビル中に響き渡った。空気が一瞬で凍りつくほどの咎めるような、それでいてどこか上品な、厳しくも恐ろしい叱責の声だった。キーンという物凄い残響音とハウリング音を残して辺り一帯に響き渡った、そのとんでもない声に、私と西園寺はびっくりして思わず顔を見合わせて声のした方…つまり後ろの方を同時に振り返った。


 そこには車椅子に座り、鈍色に光る銀色の杖を王錫おうしゃくのように両手でしっかりと斜めに携え、人形のように整った顔をした女が一人、わなわなと唇を震わせ、今しも手にしたその杖を大上段に振りかぶって、私達に殴りかからんばかりの形相で睨み付けていた。


「あ、アンタは…」


「だ、誰…?」


 西園寺と私は切れ切れに問いかけた。私に至っては恐怖で声が裏返っていた。


 私の動物的な勘と本能が否応なしに告げている。“この女はとても危ない!”と。レッドアラートで訴えかけている。


「そンなことはァ…どうでもよイのですッ!」


 と裏返った甲高い声で叫ぶや否や、車椅子の女は手にした杖を傍らに盛大にぶん投げると突然、後ろへと倒れ込んだ。


 私はそこにとんでもないものを見た。


 車輪が…回転しているのだ!


 それはもう、物凄い速さで!


 それも…縦回りに!


 勢いよく! 凄まじく空回りしているッ!


「ちょ、ちょっと…」


「マ、マジかよ…」


 さながら西部劇のカウボーイのように、はたまた160キロで爆走するライダーのように車椅子・ ・ ・を盛大にウィリー回転させた女は突然、元の位置へと、今しも倒れ込もうとしている。


 ということは…。


「う、嘘でしょ…」


「お、おいおい…まさか…」


 文字通り殺人的な力で勢いよく回転する車輪の、その恐ろしい車椅子・ ・ ・は案の定、何とまっしぐらに私達の方へと突進してきた!


 私はこの時、心底恐怖した。


 車椅子に…!?


…牽き殺される!


「危ないっ!」


「避けろっ! 東城!」


 私と西園寺はマイケル・ベイ監督の映像作品のように、思わず爆発からダイブするように、揃って横に飛び退いていた!


 ギキイイイィッという交通事故直前のようなド派手なブレーキ音が辺り一帯に響き渡った!


 シューッという音と共に焦げ臭いようなタイヤの匂いと白い煙が辺りに立ち込めている。


 私の頭は既に恐慌状態だ。


 事故だ! 交通事故だ!


 丸の内のショットバーで人身事故だ!


 いや、火事だ! 火事になる!


 消防だ! 救急だ! 警察だ!


 いや、警察ならいる!


 刑事は西園寺の警察官で日本だ!


…あぁ、私の日本語までバグっている!


…とパニックに陥ったのは一瞬の気のせいで私が怖々と目を開けると、女は私が取り落とした書類を引ったくるようにして素早く取り上げただけだったようで、身を引いて唖然としている私と西園寺を尻目にひたすら捜査資料に目を走らせていた。


 私は慄然たる思いで突如として現れた、その台風のような女を凝視した。


 女はまさに“狂気じみた”と形容するのがふさわしいような鬼気迫る般若か鬼女のような、それは凄まじい表情で、視線がそれはもう病的なほど物凄い勢いで活字を追い、これまた恐ろしくも物凄い速度でパラパラと書類を捲っては貪るようにして読んでいる。その様は、得体の知れない怪獣が極限の飢えを満たそうと、獲物を食い漁っているような光景さえ連想させた。


 いきなり降って湧いた名状し難い悪夢のような女のもたらした影響は甚大だった。


 カウンターにいた上品なバーテンダーは、今やメデューサかゴルゴーンの眼光をまともに直視した憐れな被害者のようにかっと目を見開き、顎が外れるほど口をあんぐりと開けたまま、手にしたシャンパングラスごと石化したような格好で硬直していた。


 中国人のカップル達は幸いにも震度6の直下型地震が訪れた直後のように、いち早くテーブル席の下へと無事避難しており、二人は某ジャパニーズホラーの名作映画のワンシーンでも観るように、恐怖の眼差しで抱き合ったまま、突如として狂気の発作に蝕まれた、異国の若い女の動向を戦々恐々と固唾を飲んで見守っている。


 本ッ当に今さらだが私はようやくそこで、この得体の知れない女が先ほど入口で私の方を見てクスクスと笑い、隅の席で黙々とタブレットの画面を見つめていた女なのだと理解した。


 女はやおら呆気に取られている西園寺の方にグルンと首を向けた。まるで鎌首をもたげた蛇が今しも獲物に飛びかからんとしている挙動にさえ感じ、私は再びビクリとした。動作のいちいちが俊敏で、とにかく心臓に悪い女である。車椅子に乗っているという先入観がそうさせるものか、どうにも身障者にしては動きが痙攣的で思わず身構えてしまう。


「そこの貴方あなた…答えてくださらない?」


「俺か? な、なんだよ…?」


 あの西園寺が動揺している。


「この報告書にある生首を発見した犬ですが、名前は何というのですか?」


「あ、ああ…確かサヤだ。サヤって名前で呼ばれてたな」


「そのコが掘り出したビニール袋はどうでした? 例えば唾液がかなり付着しているというようなことはありませんでしたか?」


 おかしなことを聞く女である。都会の一人暮らしは寂しさからペットを飼う女性が多いと聞くが、愛犬家には気になるものなのだろうか。


「あん? ああ、小さい犬だが唾液は凄かったぞ。白いビニール袋がヨダレでべちゃべちゃだったらしい。俺の知り合いの刑事が聞き込みに行ったから間違いない。

…ってか、アンタ何なんだ? さっきから」


 という西園寺の問い掛けは、彼女には既に全く届いていなかった。というのも女は車椅子ごと背中を向け、店の中央付近のテーブル席とカウンター周辺の境界にある、やや狭い空間を突然クルクルとゆっくり反時計回りに旋回し始めていたからである。車椅子にいるのに猫のように動作が素早い。気づいた時にはそこにいない。テーブル席に隠れていた中国人達は、彼女の接近と同時に何事か叫びながら、彼女と逆の店の隅の方へと素早く避難していた。すこぶる賢明な判断である。


 女は天井を見上げて目を閉じながら、コーヒーカップのアトラクションに乗るようにひたすらクルクルと回り続けている。


 これは大丈夫なのか、と私もさすがに奇天烈な女とはいえ、心配になってくる。隅の席に彼女のタブレットとカクテルグラスがある。青い液体が入っているところを見るとブルームーンでも飲んでいたのだろうが、あれで酔わないものだろうか?


 車輪を回す腕だけが一定の動きでゆっくりと前後に動いていたかと思うと、突然彼女はピタリと止まってかっと目を見開き、突然クルリと人形のように反転した。


 女はやや引き気味にした顎の辺りに握り拳をあて、突然何かを企んでいるような上目使いになると、にっこりと微笑んで言った。



「解けましたわ」



「は?」


 私と西園寺の声がハモった。女はゆっくりと先ほど派手にぶん投げた己の銀色の杖を拾いあげると、私と西園寺の方へと近づいてきて言った。


「なかなか素敵な謎でしたわね。日々退屈で飽き飽きな都会暮らしにはちょうどよい刺激になりましたわ。お二人とも、御苦労様でした」


 まるで家来を労う王女のようなやや尊大で高飛車な口ぶりにカチンときたのか、西園寺が真っ先に反応した。


「…おい、アンタ本当にさっきから何なんだ? 悪いがここは病院じゃねぇぞ。黄色い救急車が必要ならすぐに手配してやってもいいがな。俺達は大事な話をしてたんだ。どこのお嬢様か知らないが何が解けたってんだ?」


「もちろん全てですわ」


 当たり前でしょう、とでも言いたげな口ぶりである。私と西園寺は思わず顔を見合わせていた。


「お二人とも混乱しているようですから問題を整理する上で改めて事件の謎を列挙して差し上げますわね?

 テンキーかカードキーでしか開けられないはずの密室となった部屋にいる河西祐介と彼の妻の川西麻未を殺害できて且つ、その死体をバラバラに解体し、一都三県あらゆる場所の教団信者達に送りつけたのは誰だったのか?

“怠惰な死体”と名付けられた木村憲仁の死体は、なぜキャリーバッグの中に詰め込まれた状態で遺棄されたのか? なぜ腐敗していないのか? その理由は?

 冷凍庫から発見された河西佑介の生首が声を上げた奇怪な謎の答えは?

…誰が、なぜ、どのようにして一連の犯行を成し得たのか? 至ってシンプルで王道的なテーマでしたわね」


「ほぉ…インパクト抜群な登場の仕方をしてくれた上に盗み聞きとは感心しないが、お嬢さんは一体何者だ?

 俺はきわめて現実主義なんでな。名探偵なんてふざけた人種は現実になんかいる訳がないと思ってるクチだ。お嬢様は俺やコイツが頭を抱えてる、その諸々の謎が全部解けたとでもいうのかい?」


 一連の場の騒動からようやく持ち直した西園寺が、嘲るような口調でグラスの中で解け始めたウィスキーの丸い氷をカラカラと鳴らして彼女をやんわりとねめつけた。上品で職務に忠実なバーテンダーは、その音でようやく石化の呪いから解き放たれた。


 だから解けましたわ、と突然割り込んできた女は小首を傾げながら悪びれる訳でもなく、さらりとした口調でそう言った。最初は度肝を抜かれた表情と言動だったが酩酊している様子もなく、至って自然な口調である。幸いにも強迫神経症の発作やヒステリーを発症するタイプの患者ではなかったようで、私と西園寺が訝しそうに再び顔を見合わせているのを見てとると女は続けた。


「これはもう簡単な消去法になるのですわ。ただし非常に特殊なケースだからこそ私も解り得たのですけどね」


「解らないな。消去法というのも解らないし、そもそもあなたは誰なんです? そこからして僕らには解らない」


「ふふっ…二人とも困惑しておりますわね。私がどこの誰かなど、この事件の謎の前では些末なことですわ。そちらの方…東城さん、と仰いましたわね。貴方…なかなか面白い方ですわね。貴方は先ほど、いいところを突いていましたのよ。

 その教団幹部の家族が特殊な宗教の管理団体であり、一つの迷信を信奉している集団というところに制約や何らかの作為は見出だせないのか、と先ほどそちらの西園寺さんに訊ねていらしたでしょう?」


「それがどうしたと?

…ってか、いつから僕らの話を聞いていたんです?」


「だからその通りだったというのですわ。

…え、いつから聞いていた…? それはもう、最初から聞いておりましたとも! 貴重な捜査資料とインパクトのある遺体の写真も、全てまるっと拝見させて頂きましたわ」


 彼女はそう言って呆気に取られる私と西園寺にタブレットの画面を見せた。そこには呆気に取られる私と西園寺の顔が今まさに、そのままの状態で鏡に映し込まれていた。鏡のアプリである。西園寺は心底しまった、という表情で額と目元を覆い隠すようにぴしゃりと手を当てて盛大に顔をしかめ、薄暗い天井を仰ぎ見た。私もやや呆れて壁際の鏡をねめつけて、ため息をついていた。


 合わせ鏡だ。隅の席にいた彼女の位置から壁の鏡の位置、そして私達のいる席はちょうど対角線状に等間隔の位置にある。彼女は手元のタブレットの角度を変え、壁の鏡を通して私達の様子を覗き見ていたのだ。


 アプリケーションであるから鏡の設定を予め裏写りの反転方式に変更してやれば、彼女の席からは完全に私達の手元の状態や捜査資料や写真などは完全に丸見えで、会話は筒抜けの状態だったことになる。


 動画の映像を観ているようにしか見えなかったが、彼女はただイヤフォンを耳にあてていただけなのだ。だが、これは彼女を責められないだろう。こちらが勝手に勘違いして隅の席にいた彼女など全く気にせずに事件の話をしていたのだから。


「ふふん…壁に耳あり障子にミャアリー…ですわよ?」


「目ありな。猫かよ」


「噛んだね。大事なとこで」


「うるさいでしゅわよ!ちょっと噛んだだけでしゅわ!」


 言った先から女はまた台詞を噛んだ。


 女は一向に構わずに続けた。


「ふふん…心配せずとも、誰にもお漏らししたりしませんわ」


「お漏らしって…」


「小便でも漏らすのか?」


「もう! 話が進みませんわ! 下げ足ばかりとらないで!」


「揚げ足ね」


「アンタの語彙が滅茶苦茶だからだろ」


「と・に・か・く! 私もメイクを直そうかと思ったところに、たまたま見えてしまっていただけですし、会話をつい盗み聞きしてしまったという負い目もありますしね。

 ここはおあいこ、ということにしといてあげますわ。

 西園寺さんも事件のディテール部分をもっと掘り下げて調査して、事件の顛末をきっちりと整理して推理すれば真相はもっと簡単に見抜けたはずですのよ?」


「刑事の癖に迂闊だったと取り敢えず反省はしてやるけどな、真相が見抜けたとは聞き捨てならねぇな。間抜けたついでに俺やコイツが簡単に見抜けない理由ってのも聞いておきてぇな」


「人は自分が見たいと思うものを見たいようにしか見ないからですわ」


「あぁん? 俺らが勘違いしてるって言いてぇのか?」


「まるで先入観に捕らわれてるとでも言いたげだね」


 名前を描写できない女は車椅子のステップから伸ばした両足をブラブラさせながら私と西園寺に向けて言った。


「そう。人は思い込みで出来ていて、自分が見た視覚情報はそのまま事実で真実だと思い込む。けれど、それは実は視覚だけの話ではありませんわね。獲得形質である味覚や嗅覚は元より、聴覚や触覚ですら人間の思い込みから全てが始まる限りはそうなってしまうのですわ。人はあくまで人を超えられないというのは、とても悲しい無知な思い込み。

 我ら血に依りて人となり、獣となりて、また人を失う。知らぬ者よ。かねて血を畏れたまえ…。人の血は緩やかに全てを溶かし、そこから全てが始まるのです…」


 何かからの引用であろうか。不思議と妙に腑に落ちるような奇妙な沈黙が場に生まれた。私と西園寺は再び顔を見合わせていた。女は訝しむ私達の様子など一向に顧みずに続けた。


「まだ解ってもらえませんか? 死体が発見された聖創学協会本部とそれを取り巻くバラバラ死体に腐らない死体と、これら聖創学協会を巡る謎全てに共通している、ある法則性。

 事件のアウトラインと木村憲仁の死体の状態。発見されたバラバラ死体とパーツまでバラバラになって、あちこちの家から発見されたその理由。

 家族の構成員とその立ち位置と事件当日の関係者のアリバイを考えれば、比較的優しい難易度の問題なのですが…。大ヒントまで転がっていましたわよ」


 そう言うと名無しの女は、やや夢見がちな少女のような表情で目をキラキラさせながら微笑むと、天井から釣り下がったアイアン製のランタンの照明を見上げた。


 猫のようだと最前私はこの女をそう思ったものだが、これは正に卓見ですこぶる的を射ていた表現であったろう。本当にクルクルと面白いほど表情が変わる女である。


 年の頃は23、4才くらいだろうか? 少女のようにも妙齢のようにも思えるこの女が実年齢をまったく解らなくさせているのは、どうやらこうした部分部分の表情と全体から受けとる印象の乖離が夥しく、実に多用なバリエーションを見せるからではないだろうか。


 健常者ではない、と考えると普通は能動的なアクションを相手に与えにくいものだが、この女に限っては逆である。その場その場で思いつく限りの動きを見せ、それでいて絵画や美術品のように美しく固定されている。


 端的に言えば動作の一つ一つが優雅で気品があり、無駄がないのだ。初見の様子を含めて言動自体は落ち着きがない子供のようにも思えるのだが、単純にそれは彼女の反応の仕方が恐ろしく早いせいだ。回転速度の異常に早いヘリのローターがあたかも静止した状態で固定されて見えるのに似ている。


 彼女のそれは静の持つ気品の美であり、動の持つ躍動の美はその場限りで世にも奇妙な形で発露し、常人からはやや度し難い形に見えてしまうようだ。彼女自身は動ではあるが、静の美意識の只中にいる。矛盾しているのだが、ここが味噌だ。


 まるで片時も目を離せない子供を眺めているように、退屈に感じさせない魅力があった。いい意味でも悪い意味でも色々と目が離せない。全くの初対面な上に奇天烈きわまりないファーストコンタクトだったのだが不思議なもので、私はこの妙に知的で饒舌じょうぜつな、それでいて身障者だと感じさせない彼女の言動に大いに興味を持った。


 女は左下につやボクロのある特徴的でインパクトのある唇に人差し指をあて、意味ありげにこちらへと微笑んでくる。と、こう書くとややエキゾックでいかにも艶めいたセクシーな女性特有の印象を読み手に与えそうなものだが、実際はおませな女子中学生がやや無理をして背伸びをしたような、悪戯いたずら好きな少女のような、ややコケティッシュな表情になるのである。本当に年齢不詳で不思議な女性だ。


「素敵ですわね。私がこの場に居合わせた偶然は神様の悪戯で、この状態はひょっとしたら世の中に呆れるほど溢れ返っているミステリーでいうところの、あの“読者への挑戦”とかいう厳おごそかなお遊びができそうなシチュエーションですわ。

…だってこのまま私が会計を済ませていなくなってもまったく誰も困らないのに、貴方方ときたら、こんな社会に何の役にも立たず盗み聞きまでしていた泥棒猫のような私の言葉を、今か今かとお腹をすかせた仔猫のように健気に待っているのですもの。可笑しいですわ」


 まぁ意地悪はこの辺にして、と女は突如、正にいきなり唐突に、それこそ何気なく、“ある名前”を告げた。


 すれ違い様に斬られた感覚。


 斬られたことすら気づかない。


 そう表現すればよいだろうか。


 その瞬間に私と西園寺は雷に打たれたようにビクリとなって痙攣けいれんし、それこそ一瞬の光と共に焼け焦げ、歪いびつにひしゃげた憐れな大木が厭いやな音を立ててゆっくりと地面にくず折れるがごとく、真相の脅威に打ちのめされることになるのである。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る