2章 新世界あけましておめでとう
第11話
2048年12月31日 午後11時50分 若草テレビ A1スタジオ
『新年まであと十分だりゅう~!』
呻き声と喚き声に重なり、兎と竜を混ぜ合わせたキメラのような番組イメージキャラクターが、スタジオに設置された巨大モニターの中で告げた。
凄惨なこの状況ではきもかわいいキャラクターの愛らしい笑顔も狂気的にしか感じられない。
パニックを起こさないように必死に思考を集中させようとするが、冷静になろうとすればするほど余計なものまで意識をしてしまう。
だが騒ぎ立てるよりマシだ。
智成は非常事態の中、冷や汗で額を濡らしながらそう考えた。
スタジオの高い天井には照明機材がいくつも吊られ、その下には二階ほどの位置にある調整室まで繋がるキャットウォークがある。
――智成は今、そのキャットウォークの片隅で姫と共にじっと身を潜めていた。
人ひとり通るのがやっとの狭さの通路で、姫は両足を抱えて体育座りのように蹲っている。そして彼女に覆いかぶさるように、智成は向かい合ってしゃがんでいるのだ。
彼の右手は姫の口元を塞いでいる。
今にも声を上げそうな乱れた呼吸は、それでも次第に落ちつきを見せ始めていた。
それでも顔から血の気を引かせ、小刻みに震えているのは変わらない。
彼女のビー玉に似た青い瞳は、まさにビスクドールのようにどこを見ているか分からない。彼女が意識を現実とは違うところに置いているのが分かる。
気持ちは分かる。
自分だってできるならこの現実から目を逸らしたい。
智成は網状の柵から下の様子が確認した。
倒れている人間、奇妙な動きをする人間、逃げ惑う人間。
悲鳴は最初よりかなり減った。
その多くがここから逃げられたからであるが、一部には声を出せるような状態ではなくなってしまった者もいるのだろう。
出演者や番組スタッフ、観客も含め三百人近くがこの大きなA1スタジオにひしめき合い、ほんの十数分前まで楽しく番組撮影をしていたはずなのに。
――どうしてこんなことに? "アイツ"のせいか? いや、きっと違う。これはアイツにもどうしようもなかったことなのだ。それでも何とかしようとして、アイツはここに来たに違いない。
床に転がる一人の男。
観客に紛れていたヤツを見下ろし、どうしてこんなことに、と智成は奥歯を噛みしめた。
◆◆◆
賑やかな収録現場だった。
生放送のため多少なり緊張感があるとはいえ、やはりリアルタイムでのお祭り騒ぎは観客や出演者の気分を高揚させた。
バイオドクターチームもなんとか上位三組に食い込み、姫は満面の笑顔で仲間たちとハイタッチをする。
「今年もあと三十分をきっております! CMの後はいよいよ決勝戦です! 次のゲームの各チームから出場する代表者二名は、視聴者の皆さまの投票によって決まります! 締切はCM開けですので、どんどん投票お願いします!!」
ADの「三分CM入りまーす!」の掛け声をきっかけに、番組スタッフたちは次のコーナーのために大道具を設置しはじめた。
出演者は見えないところに置かれていたペットボトルを手に取り水分補給をしたり、僅かなその時間に化粧直しに戻る者もいる。
そんな中、姫はセブンニュースチームの元まで駆け寄った。
「まどかちゃん、顔色悪くない? 大丈夫?」
「プレッシャーのせいか、少し気分が」
番組開始時よりも顔が青白いまどかに姫は眉を下げた。
まどかはメンバーの姫の顔を見ると強張った身体から些か力を抜いたものの、うっすらと涙を浮かべて口元を手で覆っている。
周囲のニュースキャスターたちに心配そうに声をかけられても「すみません」と肩を落とすだけだ。
「お手洗い行く? 手を洗うだけでも気分がスッキリするかもしれないし。まだ時間大丈夫ですよね?」
姫は近くにいたスタッフにそう声をかける。
「決勝戦がないから、最悪結果発表までに戻ってきてくれれば問題ないです」
「じゃあ姫、化粧室まで送ってきます」
「え、でも立川さんは多分次も」
「すぐ戻りますから!」
そう言って姫は半ば無理矢理まどかの手を引っ張ってスタジオを出た。
廊下を早足で行き交う人の邪魔にならぬよう壁沿いを歩き、姫はちらりと振り返る。まどかは薄暗い顔で、腕を引かれるがままトボトボ歩いていた。
「……上手くいかなかった」
「何が?」
「決勝戦、残れなくて……」
「ああ、でもまどかちゃん頑張ってたじゃん! それにチーム連帯責任だから、まどかちゃんだけのせいじゃないでしょ~」
まどかの所属するセブンニュースチームは五位で敗退だった。
しかしまどかは十二分によくやっていたと姫は思う。他のキャスターよりよほど点数を稼いでいたはずだ。
「でも上野さんが……今は大事な時期だって」
だが姫のあっけらかんとした能天気な笑顔と声は、まどかの励ましにはならないようだった。
「ほら、着いたよ! 手洗う? あ、お腹くだす? 吐く? どんな風に気持ち悪いのかな?」
「……もうちょっとオブラートに包んだ言い方をしてください」
潔癖症のまどかは言葉だけでも不快なのか、青白い顔を歪めた。
「今ので吐き気までしてきました、もう」
「えええ、ごめん」
「収録があるでしょう。早く戻ってください」
ふらつきながらもまどかは一人で個室に入った。
そのまま踵を返そうとした姫だが、先程のまどかの呟きを思い出して閉じられた扉へ大きく声をかけた。
「そんなに心配なら、決勝戦は姫がまどかちゃんの分まで頑張るからさ!! 焦ることないよ!」
「――……」
個室の扉に背を預けたまどかは、化粧室の扉が閉まる音を黙って聞き届けた。
「いやよ」
それ以上頑張らないで、目立たないで。
口にするのも憚れる本音が零れそうになり、まどかは両手で口を塞ぐ。
ともすればそれは吐瀉物よりも嫌悪すべきものだ。
まどかはもう随分と不安を抱えていた。姫が人気を盛り返した二ヶ月前から。
姫はHeroineSのためを思ってまどかへ「頑張る」と言ったかもしれない。
けれどメンバーの誰もが、解散を予感しているはずだ。
それぞれの魅力を持った他メンバー。
第一印象のインパクトで勝負しているようなイロモノキャラだった姫も、隠されていた一面が露わになったことで人気が増した。
同じ端のポジションだったのに。
解散したら、自分は一人でやっていけるだろうか。
どうして私ばかりこんな目に。
相談しようにも、メンバーは所詮は仕事仲間。
プライベートな相談なんて互いが誰ともしたことがない。
しょせんそれだけの関係。
「CM開けまーす! 出演者の皆さんは急いでスタジオに戻ってくださーい!」
廊下を駆けまわるスタッフの声が聞こえてくる。
ああ、また新しい一年がやってくる。
HeroineSはまた一つ時代遅れになる。
「気持ち悪い」
不安と苛立ちが頭の先から足の先まで這い回るようで、まどかは呻いてしゃがみ込む。
スタジオにはすぐに戻れそうになかった。
・
・
・
一方、恋に仕事に忙しい姫は、チームメンバーの抱える不安など知る由もない。
「彼女大丈夫そうだった?」
「どうですかね、エンディングまでに戻ってこれると良いんですけど」
席に戻る際、隣の智成に声をかけられ、彼の気の回りの良さを尊敬するように目を輝かせた。
「CM開け10秒前ですー!」
慌てて指定の位置に戻ってゆく出演者たち。
姫はなんとなしにスタジオを見回した。まどか以外に空いた席はないか、その程度の好奇心だった。
だが、客席の一番前の席に見知った顔を見つけてしまえば、事態は変わる。
「え」
「姫ちゃん?」
声をあげた姫に気づき、智成は唖然とした彼女の視線を辿った。
そしてその先、客席に帽子を深く被った見覚えのある男に気づき、息を呑む。
「3、2、1」
『新年まであと二十分だりゅう~!』
「いよいよ決勝戦です! ではここで決勝戦出場者を決める視聴者投票の結果発表から参りましょう。現在一位のドラマ、現代版桃太郎物語チームからは――」
アイツだ。
あの男だ。
謎のストーカー男。
どうやって局に侵入したのか、彼は最初からあそこに座っていただろうか、それとも誰かから席を奪ったのだろうか。
男はやはり胡乱な目つきで姫をじっと見つめていた。
目が合ったが、彼が騒ぎ立てる様子はない。
それどころか姫から目を逸らし、腕時計をじっと見下ろしている。
智成はカメラが自分に向いていないのを確認し、そして素早く周囲を見渡した。
残念ながら移動せずに声をかけられる範囲にスタッフはいない。
「姫ちゃん」
「あ、はい」
姫ははっとしたように智成を見た。
「近くにスタッフが来たら言うから、それまでは普通に」
「……はい」
姫は真顔でこっくり頷く。瞳孔はまだ開いたままだが、取り乱した様子はなかった。
しかし彼女の顔は何も考えていないようで、何か考えている顔にも見える。
骨董品のビスクドールかのような雰囲気だ。
「二人ともどうかしたの?」
「観客席に姫ちゃんのストーカーが」
「え、マジ?」
「警備員を……」
「バイオドクターチームから選ばれたのは王子智成さん、立川姫さんです! お二人は前までお越しくださーい!」
司会者の声と共にカメラがバイオドクターチームへと向く。
彼らはすぐにテレビ用の顔を作った。
ひな壇上のセットから降りる際、智成は姫へと手を差し出す。
彼のエスコートに観客が沸いた。
今頃テレビの向こうでも、二人のファンや話題に敏感な人々が色んな意味で盛りあがっているだろう。
笑顔を浮かべる智成と姫だが、握られた互いの手から緊張が伝わっていた。
大丈夫だと言うように智成が手を強く握ると、姫も分かっていると言わんばかりに握り返す。
「やはり今話題の二人が選ばれましたね~。意気込みのほうはどうですか立川さん?」
「え? あ、あー、優勝して最高の年明けを王子様と迎えたいです!」
「王子さんのほうは?」
「ドラマを成功させるためにも幸先良いスタートを切りたいですね」
言いながら智成は自チームを見た。
どうやらあの僅かな状況で事態を察してくれた堂島が、こっそりとスタッフを呼んで事情を説明してくれているようだ。
すぐにスタジオ端でスタッフと警備員が数名、短く言葉を交わし、帽子を被った男のもとへと寄ってゆく。
腕時計を見つめていた男が腰をあげ動いたのを合図に、彼らは不審者に声をかけた。
速やかに退出してもらおうと小さく声をかけているようだが、それでも異様な雰囲気を察した他の観客が眉を顰めはじめる。
「――!」
「――!」
拒否を見せる男を警備員が強制退出させようとしている。
「立川 姫さん!」
男が叫んだ。
名を呼ばれ、姫はぎょっとする。
「立川 姫さん、僕と逃げましょう!!」
不審な男は二メートルほど高さのある観客席から転がるように落ちて、スタジオ中央へと躍り出た。
「立川 姫さん!!」
「お、おおっと、これはトラブルのようですね」
「捕まえろ!」
「カメラ止めろ!」
スタッフの騒ぎ声の中、どうやら今の転落で足をくじいたらしい男が片足を引きずって自分へ近づいてくるのを姫は唖然と眺めていた。
「逃げてください!」
そう言ったのは、奇しくも姫に近づくその不審な男であった。
警備員に取り押さえられた男は、それでも必死な形相で「一人でいい、逃げてください! 僕のことはおいて!」と騒いだ。
いや、逃げるとも。
あなたから逃げたいから、あなたはおいておくに決まっている。
そんな冗談めかした言葉を考えながらも、姫は決死の形相をした男から目が逸らせない。
あまりにも切迫した男。
その様は恋慕に狂っているというより、地球の運命すら背負っているようにすら思えたのだ。
「逃げてください!! 早く!」
「逃げるって」
なにから。
そう聞くより先に、観客席から悲鳴があがった。
観客たちが一点から身を遠ざけ逃げてゆく。
悲鳴の中から「異常行動」の単語が聞こえ、スタジオ中にさらに緊張が走った。雪崩のように観客が観客席からどうと数人落ちた。
それとはまた別の場所から悲鳴。
出演者席のひな壇奥で、喚きたてる人物がいる。
また悲鳴。
カメラマンの一人が倒れた。ガクガクと首を揺らしている。
するとカメラマンは、近くにいたADへと獣のように飛びかかった。
ギャアと悲鳴があがる。
たぶん、噛まれた。
「逃げてください!!」
不審な男の叫び声を合図に、姫だけでなくその場で愕然としていた人々が弾かれたように逃げ出した。
しかし広いスタジオでも入口まで広いわけじゃない。
大道具を運び入れるためのいくつかの通用口は舞台セットで塞がれており、実質機能しているのは幅が二メートルもない両開きの扉だけだった。
人波がそこへ一挙に押し寄せ、転倒者が続出する。
異常行動者は周囲の人間を襲っているようだった。
噛みついたり、力の限り掴みかかったり、一貫性はない。
ただ狂ったように暴れているように見える。
中にはカメラや椅子に攻撃している者もいた。
三人、四人、五人、異常行動者を数えようとする度、その数が増えていく。
カメラマンに噛まれて動かなくなっていたADの手足がぶるぶると震えはじめるのを姫は確認した。
「感染…………ゾンビ?」
正確には違う。
ゾンビは死者が動くことを言うが、彼らは恐らくまだ生きていて――……。
「姫ちゃん!」
手首を掴まれ姫は顔を上げた。
智成が焦った顔でこちらを凝視している。
姫はようやく、自分が突っ立ったままだったことに気づいた。
「逃げないと、……とりあえず調整室にッ」
智成は入口の人だかりを見て、キャットウォークの先にある調整室を見た。
調整室はこのスタジオ以外に繋がっていないが、逃げ込めば籠城できるだろう。
手を引かれ、姫はもつれそうな足を動かした。
ビー玉に似た瞳はスタジオの光景を綺麗にその青に写し出す。
「逃げきれ!! 今は逃げきれ!! まだそうもたない!!」
不審な男を取り押さえていた警備員はとうに逃げ出していたが、それでも男はその場で大股を開いて立ち、腹の底から叫んだ。
最早それは姫へだけの忠告ではないようだった。
「僕はもう、駄目だけど……」
そう言って男は帽子を脱ぐ。
彼の額から上の肌はどす黒く変色していた。
男は懐からハンドガンを取り出した。
恐らくエアガンだが、その中に入っているであろう弾が殺傷力のある例のモノで
あるとは姫には簡単に察せられる。
鈍く光る銃口をゆっくりと持ち上げてゆく。
男と、目が合った。
姫は食い入るように彼を凝視する。
「みなさんは、最後まで頑張ってください」
こめかみに当てるかと思われたその銃口は、姫のすぐ後ろに現れた異常行動を起こした観客の背へと向けられた。
赤が飛ぶ。
姫の青の瞳に、赤が写る。
「アギ、アグアグアグ」
発砲したばかりのハンドガンが、ゴトンと黒ずんだ手から落ちた。
男が泡を吹いて苦しみ始める。
身体が痙攣している。
そのまますぐに倒れて動かなくなった。
姫はそれでも凝視する。
男が動き出す気配はない。
「姫ちゃん、こっち!」
智成に手を引かれ、キャットウォークを駆けあがる。
調整室の扉に手をかけようとした彼は、内側から聞こえた扉に何か叩きつけるような音でその手を止めた。
調整室とスタジオを繋ぐ扉の横にある横に長いガラス窓に血がついているのが見える。耳を澄ませば、防音のそこからくぐもった悲鳴が聞こえていた。
「ここも……!」
引き返そうにも下のスタジオは阿鼻叫喚で溢れかえっている。
一際大きい悲鳴が聞こえ、騒音が続いた。
どうやらスタジオのセットの一部が崩れ、倒れたらしい。
運悪くそれらはスタジオ唯一の入口をほとんど塞いでしまった。人ひとり、その崩れた山を登ってゆけば僅かに滑り込める程度の出口だ。
智成は姫の手をひき、キャットウォークをさらに上った。
垂れ幕と照明機材の傍で姫を座らせる。
「大丈夫か?」
尋ねられ、姫は顔をあげる。
顔から血の気を引かせた彼女は黒い瞳と目を合わせると、次第に呼吸を荒くしだした。肩を上下させ、頬を引き攣らせて目の前の服を握り込む。
「王子様……、これ、何事ですかね、ア、アハハ……これもドッキリ? だって、そうじゃなきゃ、そうじゃなきゃ」
騒ぐ様子のない姫だったが、彼女の精神はピアノ線のように張りつめているのだと気づき、智成は咄嗟に彼女の口を塞いだ。
智成の声かけが逆効果を生みかけたからだ。
「……とにかく、今は静かに」
そして話は、冒頭に戻る。
◆◆◆
よくよく考えれば、こんな事態じゃなきゃ夢のようなシチュエーションだ。
姫はぼんやりと智成を見あげた。
ああこんな状況でなきゃ、憧れの人との密着に喜べたのに。
自分を守ろうとしてくれている彼だが、ゲームとは違ってその状況に喜んでばかりはいられなかった。
現実は恐怖のほうが俄然勝るようだ。
気分は幾分か落ち着き、事態を冷静に受け入れることもできそうだった。
サバゲーの影響で暴力と血はそこいらの女性より耐性があるのだ。
ただ、あまりにも異常な事態に愕然とした。
楽しかった撮影がこんな地獄絵図のようになるなんて、誰も思いやしないだろう。いや、違う、あの男は知っていた。
こんな時ばかり思考は意味のあることないこと関係なく流れてゆく。
『新年まであと五分だりゅう~!』
今年はクリスマスも大晦日もろくなものじゃなかったなぁ。
「姫ちゃん」
両肩に手を置かれ、姫は智成の顔を見あげた。
「ずっとここに隠れているわけにはいかない。分かるね」
理性の残った人々は智成と姫以外はスタジオから逃げきれたらしく、もう足元には呻いて暴れたり蠢いたりしている異常行動を起こした人間たちしかいない。
彼らは知性を失った状態なのか、うろうろと歩き回っている。
「……はい」
「逃げないといけない。君を守ってあげたいけど、この状況じゃ僕も君を守りきれるか分からない」
「うっ」
青い瞳が涙で潤んだ。
緊張感で張りつめていた彼女の心は、智成の容赦のない正直な言葉でついに限界を迎えたらしい。ずび、と鼻を啜って姫は情けなく顔を歪める。
「な、なんでそんなこと言うのぉ……」
「姫ちゃん」
「そ、そこはぁ、王子様らしくぅ……」
「残念だけど、僕は本物の王子様じゃないんだ。言っただろう?」
「ううう」
「君だってただのか弱いお姫様じゃないはずだ」
「こんなのやだぁ」
「姫ちゃん、聞くんだ」
大きな手のひらが姫の両頬を覆った。
かくんと顔を上へ向かせられ、濡れた瞳がぱちんと瞬く。
智成の黒い瞳は真っ直ぐに姫を見つめ、真剣さを訴えかけた。
「僕と君、二人で力を合わせれば上手くいくかもしれない」
「…………」
「君を助けるために、僕を助けてほしい」
――酷なことを言っていると分かっている。
例え彼女が戦闘的な強さを持っていても、心は夢見る少女そのものだ。
目の前の残酷な現実は受け入れ難いだろう。
だが夢の世界に逃げていられる状況ではないのだ。
彼の懇願は、子供のように駄々をこねていた姫の心にすとんと落ちた。
この非常事態でこれが彼の考えてくれた最善なのだと理解した途端、先ほどまでの動揺もすっかり消えてゆく。
俯いて数秒間じっと黙り込み、再び智成に向けられた瞳には先ほどまでと違い確固たる意志が宿っていた。
「はい!」
「良し、いいこだ。ありがとう」
安堵したように微笑み、智成は目の前のハニーブロンドを優しく撫でる。
こんな状況だというのに、姫はその顔にすっかり見惚れて頬を朱色に染めた。
バァンッ。
「!」
調整室の扉が叩かれたような音を立て、反射的に二人は立ち上がる。扉向こうから喚き声が聞こえてきた。
あちらに行くのはどう考えても得策とはいえまい。
調整室とは反対へ続く通路を見るが、そこにはなんと階段を這いずるように上がってきている観客らしき男がいるではないか。
「まずいな」
段差の感覚もつかめないのか、男は脛を段差の角にぶち当てよろけながら、それでも躊躇なく近づいてくる。
その異様な光景に、肌が粟立つ。
「王子様、こっち!」
「え?」
振り返り、智成は手すりに足をかけた姫に瞠目した。
彼女は下に人影ないことを確認し、カーディガンを脱いで手のひらに巻きつける。
『新年まであと三分!』
下まではゆうに五メートル近くある。
だが彼女はなんの躊躇もなく跳んだ。
そして傍に垂れ下がっていた紅白幕にしがみつくと落下の勢いを殺しつつ、まるで子猿のごとく器用に滑り降りたのである。
ヒールブーツのせいで着地こそ失敗し前のめりに転がったものの、それでも彼女はすぐに立ち上がった。
「アチチ」
布越しでも摩擦熱を感じた手のひらを払い、姫は智成に手を振る。
「全く、頼もしいな」
少女の奇行に唖然とした智成だったが、彼はすぐに我に返ると引き攣った笑みを浮かべジャケットを脱いだ。
姫と同じように垂れ幕を使って下りてくる。
見事な着地に、姫は「キャア」と場違いに黄色い歓声をあげた。
「出口まで走るよ」
「はい! うわっ!」
闘牛のように頭を前にこちらに向かってくる異常行動者に気づき、姫は咄嗟に避ける。スタジオをうろついていた異常行動者たちは二人の存在に気づいたのか、ふらつきながらもこちらへと向かってきた。
(やっぱり生きてる人間を狙ってる? ただの錯乱状態じゃない……!)
彼らは突進するまま互いにぶつかりあって床に転がったり、壁に衝突して倒れたりしている。
躊躇のない異常なその姿に目を奪われていた姫は、高いヒールがずるりと滑った途端、バランスを崩した。
「うぎゃっ」
「姫ちゃん!」
焦りの色が滲んだ智成の声が聞こえる。
咄嗟に腕で受け身を取り衝撃を緩和させたが、転倒事態は免れられなかった。
びちゃりと濡れた感触。
鼻腔をつく生臭さに気づき、姫は自身の身体を見下ろす。
「……うわ」
彼女の白いブラウスは鮮血に染まっていた。
どうやら血だまりに足をとられたようだ。
――これ、可愛いから買い取らせてもらおうと思ってたのに。サイアク。
現実逃避にも似た考えが過った時、目の前を黒が横切った。
――あ、デジャビュ。
正確には本当に似たことが二度あっただけだ。
どうやら智成が、姫に近づいていた異常行動者を蹴り飛ばしたらしかった。
手加減の余裕などないのか勢いよく床を転がった男が大型カメラにぶつかる。
勢いよく横に倒れた大型カメラを見て、姫はふと思った。
(あれ、ひょっとしてまだ撮影続いてる?)
だって調整室もあんな状態だ。誰が撮影を中止するのだろう。
『新年まであと60秒!』
「立つんだ」
「はい」
ぐいと腕を引きあげられ、よろけながら立ち上がる。
視界の端で影が動いた。
反射的に、本能的に、姫は智成の腕を振り払う。
二人の間に男が滑り込んできた。
我武者羅に頭から突っ込んでくる男の懐に入り込み、姫は手のひらを天へと突きあげた。顎下に直撃し、男はひっくり返る。
それでも男は四肢をうごめかせてすぐさま身を反転させ、膝と手をついて立ち上がろうとする。その足元を今度は智成が強く足で払った。
男は再び転倒する。
「アアア」
女の呻き声を背に聞き、姫は振り返りざま再び身を屈める。
自分へと伸びてきた腕を掴み、女が襲い掛かってきた勢いを利用して見事な背負い投げをしてのけた。
「!」
「アグアグアグッ」
「ううっ」
充血した白目を剥いている女がかつて共演経験のあるタレントと気づき、姫は顔を引き攣らせる。
怯んだその瞬間、女の目がぐるんと動いた。
白目の中に黒目が戻る。
それは女だけではなく、まだ智成の足元に転がっている男も同じであった。
「!?」
未知のものと視線がかち合う感覚が、二人の背を冷たく走る。
溺れて縋る藁を探すかのようだった手つきが代わり、獲物を狙う獣のように彼らの手は姫と智成へ向かった。
(何かが変わった……!?)
智成はうまくかわした。
だがすぐに男はまた明確に智成を狙い腕を伸ばす。
明らかに先程までとは違う事態に、焦燥が加速してゆく。
『40秒前!』
「ちょ、やだやだやだ、うわっ」
這いずりながら次々と手を伸ばすタレントから後ずさりで逃げる姫だったが、床を這うコードに足を取られて尻もちをついた。
体勢を立て直す前に女の手がまた伸び、尻を引きずるように姫も後ずさってゆく。
右手が、ぐにり、と何かを踏んだ。
反射的に手元を確認する。
あの男、あの不審者だった。
泡で汚れた男の口元から僅かに空気が零れる音が聞こえる。虫の息だが、それでもまだ生きているようだった。
姫は彼が所持していたハンドガンの存在を思い出すと周囲に視線を向け、落ちていたそれを掴んでタレントへと銃口を向けた。
姫にとって標的に瞬時に標準を合わせることは容易なことだ。
しかし、かつての共演者に向けて実弾を発砲することは容易ではなかった。
「……ッ」
同情心。
道徳心。
社会的保身、そして精神的保身。
根源的な恐怖。
その全てに瞬時に拘束され引鉄にかかった指が動かない。
躊躇いに顔を歪め、姫は銃口を下へとおろした。
まるでその隙をつくかのように、銃を握る手に横から指が食い込む。
「あ!?」
銃の持ち主が姫の腕を捕らえる。
男の焦点は合っておらず、猫じゃらしを追う猫の瞳孔のようにぐるぐる回った。
「姫ちゃん!」
『30秒前!』
今にも姫に襲い掛からんとした女へと、智成は自分へと向かってきた観客の男を投げ飛ばす。そのまま駆けてきた智成が、不審な男の腕を踏みつけた。
いとも簡単に拘束は外れ、姫は智成に手を引かれるがまま立ち上がり、出口へと走った。
二人を追う足音がする。
「先へ」
崩れた撮影セットへ促され、姫はハンドガンの引鉄から指を離し、慎重に上る。
見た目だけ派手だが薄いベニヤ。それを踏み抜けば、下で絶妙なバランスで支えているであろう角材で傷つく可能性もある。
(動けるのと、動けないのがいる)
先を上る姫の様子も確認しつつ、智成はそう早くない速度でよたつきながら近寄ってくる異常行動者を観察した。
今までは理性も知性も失ったかのようにただ暴れていただけの異常行動者たち。
しかし今はそのうちの何人かが、明確に視界を持ち、意図をもって手を伸ばしている。最もそこに微弱な知性があったとしても、理性はなかろう。
倒れて蠢いているだけの者もいる。
その差が何なのかは分からない。
『20秒前!』
大道具を上ってひと一人通れる隙間の前へきた姫は、そっと外を窺い、近くに誰もいないことを確認する。
「クリア!」
「クリアって」
こんな状況でありながら、アイドルらしからぬ勇ましい声音。
智成は慎重に姫の通った後に続く。
『10秒前!』
「アグアグ」
異常行動者たちが大道具の山を登りはじめた。
想定されていない形で重さを支えることになった角材がミシリと音を立てる。
「まずい、気をつけて出るんだ」
「はい。きゃっ!?」
「クッ」
智成の想定は既に回避できるものではなかった。
足場が崩れる。
ベニヤの一枚が滑り落ち、姫は素早くその上から退く。だが足場には角材しか残されていない。ダンッ、とヒールブーツが角材を踏む。ぐらりと傾いた身体を智成が受け止めた。
覚悟した衝撃が来ないことに目を開けた姫は、智成の肩越しに異常行動者が勢いよく這い上がってくるのを見る。
『5!』
「行くんだ! 早く!」
「でも」
智成の片足に異常行動者がしがみつく。
彼は姫に先へ行くように促した。
『4!』
「――……ッ」
青い瞳が、怪物と必死の形相の王子を凝視している。
頬を汗で濡らしていなければ、固まった表情が彼女を人形のように見せていたろう。
声が聞こえない。
違う、聞きたくない。
ああ耳鳴りがする。
『3!』
「行け!!」
喉が裂けんばかりの怒声に、ビクンと姫は身体を強張らせる。
恐怖というより、スイッチを入れられた人形のような反応だ。
青い瞳に確固たる意志と殺意が宿り、奥歯を噛みしめ姫は智成の肩から身を乗り出しすと、両手でハンドガンを素早く構え、自分を抱える男にしがみつく男の頭部へと銃口を押し当てる。
『2!』
「っ、ひめ」
カチン。
決めた覚悟にはあまりにつり合わない軽い感触が手のひらに伝わった。
(弾切れ――……!!)
『1!』
信じ難い現実に思考が一瞬停止する。
『新 年 あ け ま し て』
可愛い潰れた番組イメージキャラクターの声がやけに遠く、遅く聞こえる。
視界に影ができた。
手のひらの形だ。
異常行動者が姫の顔へと傷だらけの手を伸ばす。
『お め で と う ご ざ い ま あ ー ――……
視界がぐらついた。
目の前がさらに深い影に侵される。
永遠にも思えたそれはしかし一瞬で、世界から音が消えたと思われたのも勘違いだろう。
耳鳴りすら遠のき、時間が止まったかのような錯覚。
自分を庇うように身体を反転させた智成の腕に、噛みつく男。
……――あ あ あああああああーす!!』
そういえば、十二時になると魔法は解けるんだっけ。
バァンという音と共にタイマーセットされていた花吹雪がスタジオを七色に染め上げる。物語に出てくる魔法のようにスタジオがきらめいている。
「うわああああああああっ!!」
咆哮をあげ、姫は智成に噛みつく男の顔めがけて足を突き出した。
ブーツのヒールが男の目を潰す。
そのままかかとに体重をかけ蹴落とした。
男が転がり落ちると、足場も雪崩の如く崩れはじめる。
二人は素早く身を翻し、スタジオ外の通路へと逃げのびた。
扉の隙間には大道具が挟まり、今すぐに扉を完全に閉めることはできない。
姫は智成の腕を引き、我武者羅に走った。
廊下を曲がり、最初に目に入った扉を開けて入り込む。
「大丈夫、大丈夫、手当てすれば、そんなに深くないですし」
縋りつくように智成の傷の具合を確かめる。
歯型がついているが、噛みちぎられてはいない。
幸い、姫の手に傷はない。それでも彼女の手ばかりが震えていた。
「感染とか、そんな、映画じゃあるまいし、ね、まさか、ねぇ、ハハ、もう結構、映画みたいだけど、でもそんな……」
そうだ、なんの確証もない。
たまたま噛みついたところを見ただけ。
たまたま噛みつかれた人がそうだっただけ。
噛まれなくてもいきなり暴れ出した人もいた。
この人はあんなふうにはならない。
あんなふうには。
「なんにもないですよね?」
笑顔を引き攣らせ、明るい声音でそう尋ねる少女に、智成はなんと言うべきか迷った。
彼自身、姫と同じようにあの状況下で異常行動者たちを観察していた。
パターンなど見出す暇もなく、あらゆる事象を目にした。
何が正解で何が予測で何が偶然かも分からない。
彼女の不安を取り払うための答えは、自分にとっても同じ効果があるだろう。
だが先のことを考えると、嘘をつくことも確証のない推測を口にすることも憚られた。
「今のところは」
真っ青な顔でそれでもなんとか笑顔を浮かべた智成。
その答えが彼にとっての精一杯の誠実さなのだと知り、姫は残酷な現実に眩暈を覚える。
ポタポタと血を落とす傷口を凝視する。
「す、吸いだせば」
「っ、駄目だ」
とっくにグロスのとれた唇が傷口に近づき、智成は咄嗟に姫の口を手で覆った。
傷口を抑えていたせいで彼女の口が赤く染まる。
「……もし本当に感染するものなら、君も危ないかもしれない」
智成はそう言って服の袖で血のついた口周りを拭った。
口からの感染だってありうる。一つの可能性を潰すために別の過ちを犯してしまった。
「…………」
「…………」
重苦しい沈黙がその場を支配する時間はそう長くなかった。
廊下の外から悲鳴が聞こえ、二人の意識は現状へと戻される。
姫は周囲を見回し、ここが誰かの楽屋であることをやっと知った。
「そうだ、外は」
乱雑に置かれた荷物を踏みつけ、窓へと駆け寄る。
テレビ局から見える街は夜の闇に包まれながらも街明かりで輝いており、その中にパトカーや救急車のものと思われるパトライトの赤がチラホラと見えた。
窓を開けると、サイレンが冷えた空気に響き渡っているのも聞こえる。
「ここだけじゃないんだ」
遠くの道路を走る人間が見える。
外も同じだ。
姫が外の様子を確認する間、智成は他人の鞄から携帯端末を取り出して、緊急で警察に電話をかけた。何度か挑戦する。
「駄目だ、繋がらない」
誰もが同じようなことをしているのだろう。
外に助けを求めることはできない。そう諦めかけた時、姫は鞄に眠りっぱなしのプレゼントの存在を思い出したのだった。
「無線……!」
「むせん?」
「姫、無線持ってます! これでチームと連絡取れるかも!」
「どうしてそんなもの、いや、この際なんでもいいか。それで外の様子が知れるなら万々歳だな」
どこが安全かも分からない今、情報収集が要だろう。
「今までのことを考えれば、きっと今回もじきに収まるはずだ。無線を手に入れたあとは、安全に身を隠せる場所を探そう」
「はい!」
目的を決めれば少しは希望が見えたのか、姫も精一杯笑ってみせる。
彼女のその笑顔を見下ろしながら、智成は思った。
(できるなら二カ所がいい)
この先、彼女を一人で行動させるのは心配だ。
だが、自分の身になにが起こるか分からない。
何もなければそれで良い。何かあるようならすぐに離れなければ。
「あの王子様、まずは手当てを」
「あ、ああ」
「楽屋に救急セットありましたよね?」
動揺は消え去ったのか、上手く押し隠しているのか。
姫はいつも通りといった様子で救急セットを探す。
そんな彼女の毅然とした態度に、智成はドッキリ後の彼女を思い出していた。
楽屋に備えられていた洗面台で智成は傷を、姫は彼の血で汚れた顔を洗う。
「血も止まりかけてる。良かった」
「うん」
「…………あの、ありがとうございました。あの時、姫を」
庇って。
言葉が出てこず、傷口に消毒液を湿らせた脱脂綿を当てたまま唇を噛む。
「王子様みたいだった?」
「え?」
「我ながらなかなか勇敢だったと思うんだけど」
顔を上げると、智成は笑っている。
姫は眉間に寄り添うになる皺を耐え、頬を引き攣らせて笑い返す。
「はい、はい、素敵でした……!」
「こんな事態。本当に物語に入り込んだみたいだなぁ」
器用に巻かれてゆく包帯を眺めながら、智成は微笑みを携えたまま零した。
開けっ放しの窓から、相変わらずサイレンが聞こえてくる。
「……」
「手当て、上手だね」
「しょっちゅう怪我する奴らと一緒にいましたから」
「ああ、なるほど」
包帯を固定した後も、姫の手は智成の手を離れなかった。
向かい合うように座り、智成は己の手がか細い手に包まれるのを黙って眺める。
言葉を探す姫の心境を表すように、彼女の指先はゆらゆらと智成の指を掠めては離れ、また掠めた。
「きっと、上手くいきますよね?」
「そうだね、きっと」
分かりきっていた智成の回答。
姫はまた落ちそうになる肩に力を入れ、両手の中の大きな手を握った。
「……ううん、絶対上手くいきます!」
身を乗り出し、顔色の悪い智成の顔を覗き込む。
青い瞳がきらりと輝くのを見て、智成は目を丸めた。
「お姫様っていうのは十二時過ぎてからが勝負なんです!!」
今まで何万人へと勇気を与えてきただろう彼女の満面の笑顔。
身体にまとわりつく不安が、彼女の笑顔と明るい声で吹き飛ばされる。
「ここからが踏ん張りどころですよ~」とわざとらしいくらい張り切る少女を見て、智成は場違いと分かっていながら、やっぱり君はすごい子だった、と確信に満ち足りた気分になるのだった。
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